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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 人生幾春秋――若き日の鍛えと人…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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2  青年に必要な「鍛えの場」
 池田 何があろうと、すべてを人生のバネにしていける、金庸先生のような強い人格を青年は築くべきです。青年には、厳しい「鍛えの場」がどうしても必要ですね。
 古来、軍隊における訓練には、そうした青年教育の機能を果たす面もあったと指摘する人もいますが、結局は青年に死や殺人を強いるものです。いわんや近・現代の戦争は、人間がそこから人生の糧を引き出していけるような次元を、はるかに超えています。あまりにも悲惨です。絶対にあってはならない。
 かつて、アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズは提案しています。人間の闘争本能を、より良い方向へ導いていくためには、戦争ではなく何らかの「道徳的等価物」が必要である。たとえば、平和や建設のための部隊が創設される。「石炭や鉄の鉱山へ、貨物列車へ、十二月には漁船隊へ、皿洗い、洗濯、窓洗いに、道路開設と隧道開鑿へ、鋳物工場と汽関室へ、高層建築の骨組へと、金持の御曹司たちがその選択に応じて徴用されれば、子供らしさが彼らから払い落され、一層健全な同情と落着いた考えをもって社会に帰って来る」(『世界大思想全集哲学・文芸思想篇』〈第一五巻〉今田恵訳、河出書房新社)であろう、というのです。
 金庸 私は、池田先生が世界平和の実現に尽力されていること、精神の価値を創造し、向上させ、また人間の錬磨に力を尽くしておられることを、よく存じあげています。
 池田 恐縮です。私ども創価学会の各種の「文化祭」の意義も、一つには青年たちに、そうした「より良く生きるため」の「鍛えの場」を提供することにあります。また創価班、牙城会、白蓮グループといった青年の育成グループも、同じ意義をもつといってよいでしょう。
 日々、仕事や勉学に励む青年たちが、他者への貢献のなかで人格を鍛え、一段と大きな自分になって「社会に帰ってくる」のです。
 ところで戦時中のことで、一番、心に残っていることは何でしょうか。苦しい思い出かもしれませんが、お聞かせください。青年のために。戦争を知らない世代のために。
 金庸 二つあります。一つは、日本軍の飛行機が、私の立っているところから、さほど遠くないところに爆弾を投下したのです。私は、すぐさま地に伏せました。機関銃が地上でダダダッと音を立てたあと、飛行機は飛び去っていきました。
 そして立ち上がったとき、かたわらに、二つの死体が横たわっていました。顔色は干物のように黄色っぽく、口や鼻から血を流し、両目は見開いたままでした。近くで女子学生が一人、驚きのあまり大声をあげて泣いていました。私はただ、彼女の肩をポンポンとたたいて慰めるしかありませんでした。
 もう一つは、日本軍が細菌戦を展開したことです。浙江省衢州城の上空から、ペスト菌を投下したのです。当時、私は衢州の高校に入学し、農村で授業を受けていました。果たしてペストは衢州城に蔓延し、感染した者は絶対に治らないため、人々を恐怖に陥れました。
 ある家庭で感染者が出ると、兵隊が、その感染者を衢江に浮かぶ船に連れていき、感染者が死ぬのを待って、七日後に火を放って船を焼きました。家族は新しい衣服に着替えさせられ、家にあるものは何も持ち出せません。ただちに追い出されて、家をまるごと焼き払われるのです。ただし金銭については役所が補償しました。
 池田 あまりにも痛ましい話です。旧日本軍の細菌部隊(七三一部隊)のことは、いまだにその傷跡というか、余燼がくすぶり続けています。
 金庸 同じクラスで、スポーツ選手だった毛良楷君もペストにかかりました。全校の生徒はみな、あわてて彼から逃げてしまいました。
 毛君は、ベッドの上で泣いていました。クラス担任の姜子曠先生が、お金を出して二人の農民を雇い、毛君を町なかまで担いでいきました。先ほど述べた川の真ん中に浮かぶ船に運ぶためです。
 私はクラス代表だったので、闇夜のなか、担架のあとをついていきました。内心、とても怖かったのですが、立場上、辞退できなかったのです。川のほとりまで来たとき、毛君と涙を流して永遠のお別れをしました。
 学校に戻ったとき、姜先生と二人して、服に熱湯をかけあい、ペストを感染させるノミが体に残らないようにしました。あとになって考えてみると、勇気をもって毛君のために、せめてものことをしてあげてよかったと思います。
 池田 日本人が犯した蛮行の恥ずべきことはもちろんですが、それにもまして恥とすべきは、多くの日本人がそうした歴史を忘れていることです。
 中国での最大の罵りの言葉とは、「忘八」という言葉だと聞きました。「孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥」の八つのモラルを忘れた者こそ、一番の恥知らずである――中国の人々が、いかに「忘れること」を軽蔑するかが、よくわかります。
 それにひきかえ、日本人の何と忘れっぽいことか。忘れるどころか、日本の戦争責任について迷惑顔で開き直る政治家も後を絶ちません。アジア各国から厳しく批判されてもわからない。自分たちの「問題発言」が、どれほど無責任で、アジアの人々を愚弄しているかがわからない。人の痛みがわからない。自分たちの愚かさがわからない――多くの人がそう見ています。
 平和とは、ある意味で「忘却との戦い」です。ドイツのヴァイツゼッカー前大統領が、有名な敗戦四○周年の演説で「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(『荒れ野の40年』永井清彦訳注、岩波書店)と述べているように、過去を忘れるところに、真の反省も償いも、平和への誓いもありません。
 日本人は、こうした「歴史健忘症」を、徹底的に叩き直さなければなりません。でなければ、世界中から相手にされなくなってしまいます。
3  軍国主義教育の恐ろしさと日本人の性格
 金庸 戦時中の経験については、私からも少し、先生に質問させていただきたいと思います。
 池田先生のお父さま、子之吉氏は、責任感の強い、毅然とした人格者であり、海苔の製造に携わっておられたとうかがっています。
 池田 ええ。周りから「強情さま」と呼ばれるほどの一徹者でした。(笑い)
 金庸 戦時中の生活はたいへん苦しく、先生の四人のお兄さまはみな徴兵されて、戦地に赴かれたそうですね。長兄の喜一氏がビルマ(現・ミャンマー)で戦死され、残り三人のお兄さまは戦争が終わってようやく中国から帰還されたとか。
 お父さまも、お兄さまもみな、侵略戦争に強く反対された方々とうかがっています。日本は侵略側であり、中国は侵略を受けた側ですが、両国人民はそれぞれに、戦争の大きな被害を被ったのです。
 池田 兵士として中国に行った長兄が家に帰ってきたとき、やり場のない怒りをかみしめるように、「日本は、ひどいよ。あれでは中国の人が気の毒すぎる」と言っていたことが、今もって脳裏を離れません。
 金庸 戦時中、先生はまだ年齢がお若かったので、日本軍国主義教育の影響を受けられたのではないでしょうか。先生はかつて海軍航空兵を志願したいと思ったこともあるそうですが、お父さまに許してもらえなかったそうですね。志願の理由は家庭の困窮を助けるためだったのですか。それとも軍人こそ英雄なりといった感化を受けた結果なのでしょうか。
 池田 正直に言って後者です。おっしゃるように私も同世代の少年と同じく、軍国主義教育のなかで育ちました。当時の日本の教育が、子供たちの心にいかに歪んだ世界観、人間観を植えつけたことか。そして、どれだけ多くの少年たちを戦場に駆り立てたことか。誤った教育ほど恐ろしいものはありません。私は、骨身に染みて知っているつもりです。
 金庸 先生は戦時中、家の事情で、思いどおりに進学できず、のちに新潟鉄工所で工員として働いておられます。体が丈夫ではなかった先生にとって、鉄工所の工員として働くことは骨の折れる重労働だったとお察しします。
 しかしこの経験は、一方では益のある鍛練であり、先生のその後の人格形成に大いに役立ったのではないでしょうか。
 池田 戦時中は、体が頑健でなければいけない時代でした。体が弱いだけで非国民扱いされたものです。私も体が弱いことが恥ずかしかった。しかし、だからこそ、病弱な体を押しての労働は、私にとって、特に人間の温かさ、思いやりを知るという意味で、得難い経験だったと思います。
 たとえば寒い冬の日、上司の一人が、火のそばに来て少し話をしていかないかと呼んでくれました。胸が悪いということを知っていてくれたのでしょう。本当にうれしかった。そのときに交わした話の内容と、その人の顔は、今でもありありと思い浮かべることができます。「若くして出世するのは相撲の世界くらいだ。焦らず、じっくりいきなさい」と、息子のようにいたわってくださり、激励してくださった。
 また、工場長も、いい方でした。気分が悪くなるたびに励ましてくれ、医務室に運ばれたときには、家まで人力車を用意してくださった。当時は人力車に乗る人など、ほとんどいませんでしたから、近所の人はみな、驚いていました。(笑い)
 ところで金庸先生は、日本に多くのお知り合いがおられると思いますが、日本人にどんな印象をおもちですか。
 金庸 私には多くの日本人の友人がおります。彼らから共通して受ける印象は、みなとても根気強い。勉学にしても、仕事にしても、全力を傾け、いかなる事柄にも最善を尽くそうと努力します。ただ、私たち中国人、とりわけ香港人には、しばしば、そんな彼らがあまりにも頑なで、決まりを守ることに汲々として、少しの融通もきかない、あるいはきかそうとしないと映ります。
 私たち香港人が日本を旅行すると、日本人が既定の決まりにこだわる様子がきまって笑いの種になります。また、ときには不思議な感覚にとらわれることさえあります。
 池田 先生は、具体的な体験をおもちのようですが。
 金庸 あるとき、私たち七人の香港人が、大阪のとある小さな飲食店で食事をしました。お店のテーブルはどれも小さく、多くても四人しか座ることができません。店の人がかなり困って、「申しわけありませんが」と何度もあやまりながら、「七人が一緒に座る場所はないので二つに分かれて座ってほしい」と説明するのです。
 私たちは思わず笑ってしまいました。日本語が上手に話せませんので、口で説明するより早いと思って、自分たちで二つのテーブルをくっつけて一つにし、即席の長テーブルをつくったのです。七人は、いともたやすく、何の無理もなしに一カ所に座ることができたのです。店の人は、はたと悟ったかのように、たて続けにうなずいては、これは気に入ったといわんばかりに、満面に親しみのこもった笑みをたたえていました。自分に代わって難問を解決した私たちに感謝しているようでした。
 池田 そうですか(笑い)。「こうあらねばならない」と頭から決めてかかって、なかなか機転や融通がきかない、日本人の性格を象徴するようなお話です。海外からのお客を前に、多少、緊張していたのかもしれませんが。(笑い)
4  "一人の百歩前進"よりも"百人の一歩前進"
 金庸 もちろん、この例は決して日本人の愚かさを説明するものではありません。日本人は決まりと規律を厳格に順守することを表していると思います。
 大多数の人々が、決まりと規律を重視すれば、組織力が高まり、巨大な糾合の力を得て、社会全体と国家は一致団結した強大な力を発揮します。私たち中国人は、個々人においてはかなり優秀で、独創的な力を常にもち合わせているのですが、一方では団結と規律に欠け、和を重んじるという意識が弱い。そのために全体の力を発揮することが、なかなかできないのです。
 パックツアーを例に取りましょう。日本人ツアー客を引率して海外旅行することは、とても容易です。ガイドさんは小旗を掲げさえすれば、みんなおとなしく、そのあとをついていきます。
 池田 とかく「群れたがる」のが日本人の習性です。海外に行っても、日本人は日本人だけのグループになるというのが定評です。集団の規律という点では、良い側面があるかもしれませんが、国際社会ではデメリットのほうが大きいように思います。この点でも一歩、脱皮しなければいけないでしょう。
 金庸 それにひきかえ、中国人ツアー客を引率して出かけでもしたら、それこそたいへんです(笑い)。あちこちお店をのぞいたり、おみやげを買ったり、記念写真を撮ったりと、自分たちの好きなことをして、みなバラバラの行動をとるからです。添乗員は、よほどの苦労をしない限り、みなを集合させて予定どおりに出発することはできないでしょう。
 中国共産党の力の源は、「鉄の規律」の四文字にあります。一度号令をくだすや、全体はこれを決然と順守します。こういった態度は、中国人が伝統的にもつ自由で散漫な気風を改めていきました。そしてこれこそが、新中国建設の主な原動力になったのです。
 池田 新中国建国までの長い道のりで、中国共産党が民衆の信頼を勝ち得た一つの要因は、潔癖なまでの規律正しさにありました。「大衆のものは、たとえ針一本、糸ひとすじたりとも奪い取らない」等と掲げた、有名な「三大規律八項注意」(一九四七年)にしても、新時代を開く使命感と、民衆を思う心情にあふれたものでした。私も深く感動した一人です。
 私は昨年(一九九六年)、国父・孫文先生ゆかりの中山大学より名誉教授の称号を頂戴しましたが、孫文先生の主著『三民主義』には、「自由」に関しての次のような言葉があります。
 「こんにち、この自由という言葉はけっきょくどういうふうに使わねばならないのか。もし個人に使うならば、ひとにぎりのバラバラな砂となってしまう」(『三民主義』安藤彦太郎訳、岩波文庫)
 自由は決して「放縦」を意味するのではない、自律の鍛えが伴わなければならない、との深い戒めを含んだ言葉でしょう。中国の方々が、こうした精神的側面を重んじ、深めながら、新中国の建設に取り組まれてきたことは、よくわかります。
 金庸 ありがとうございます。
 私と池田先生は、これまで何度も往来を重ねてまいりましたが、先生の個性には、固い意志と気迫がみなぎっておられる。不撓不屈の精神で、自身の定めた目標に向かって、勇躍前進しておられるという印象を受けます。
 これは先生がもっておられる「桂冠詩人」の称号を思うとき、何か大きな矛盾を感じてしまいます。なぜなら、一般に詩人といえば、ロマンチックで、振る舞いは自由自在、何をやってもいいかげんで適当(笑い)、といったイメージがあるからです。
 具体的な例を挙げれば、イギリスのバイロン、シェリー、フランスのボードレール、中国の李白、李煜、蘇東坡などです。
 池田 私のほうこそ、金庸先生の穏やかなお人柄の、いったいどこから、あの熱血の武侠小説が生まれてくるのか――実は不思議でならないのです。(笑い)
 金庸 池田先生の詠まれる詩歌には、詩心があふれていますが、先生ご自身の個性は、どちらかといえば、志士型、事業家型です。たとえていえば、日本の徳川家康や、中国の陸游、辛棄疾に似ておられるのではないでしょうか。
 この矛盾は、先生の仏教に対する信仰、および戸田先生から受けられた感化と後継の使命、つまり、創価学会の発展のために重責を両肩に担われていることからくるのでしょうか。
 池田 私は若いころ、作家になりたいと思った時期があります。しかし運命は、違う方向へ行ってしまったようです。(笑い)
 そのころ、特に「革命」と「情熱」の詩人バイロンは好きでした。その生き方をたたえる一文を草したこともあります。彼が若くして才能を開花させた天才詩人であることにとどまらず、すすんでギリシャの独立戦争に身を投じていった、その革命児としての側面に共感を覚えたのです。
 しかし、金庸先生がお感じになる志士型、事業家型の性格が形づくられたとすれば、おっしゃるように、SGI(創価学会インタナショナル)のような大きな組織の責任ある立場にあり続けているということが、あずかって力あったと思います。
 大乗仏教の菩薩道は、必然的に民衆による平和運動を要請しますし、常に組織を活性化させ、着実に前進させていくためには、"一人の百歩前進"よりも"百人の一歩前進"を心がけていかなければなりません。
 その点、バイロンの生き方などは、"一人の百歩前進"にあたるでしょう。もちろんそれは、状況を切り裂いていく一つの力だとは思いますが、やはり、本当の意味での時代構築となると限界があると思います。私は"百人の一歩前進"という"平凡にして非凡"なる道のほうが、大乗仏教の精神にもかなった、健全なる歩みであると信じています。
 とはいっても、ときどきは今の立場を誰かに代わってもらって、もっと自由奔放に生きたいと思うこともあります(笑い)。私の恩師も一面、それは豪放磊落な方でした。闊達自在な方でした。
5  家族の肖像、祖父そして父
 池田 待望久しかった金庸先生の武侠小説集の日本語訳の刊行も、たいへんに好評です。日本でも金庸先生のことが、さらに知られ、こんなにうれしいことはありません。
 そこで日本の読者のために、私がインタビュアーになって(笑い)、先生の人生の記録について、もう少しうかがいたいと思います。
 金庸 それは光栄の限りです。(笑い)
 池田 まず幼いころ、一番影響を受けた人物は、おじいさまの査文清氏だったといわれていますね。
 ――清朝の末期、おじいさまは江蘇省で県知事を務められていた。その県で、民衆がキリスト教会を焼き打ちする事件が起こった。西欧列強による「侵略の手先」として憎んだ末の事件だった。そのとき、処刑されそうになった首謀者をかばって逃亡させたのが、おじいさまだった。そして、一切の責任をかぶって辞任された。
 「身を捨てて民を救う」気概。正義の心。まるで先生の小説に出てくる英雄のような振る舞いです。金庸先生という「ペンの闘士」の気骨の源を見る思いです。
 金庸 祖父は、自分の官位や俸禄のために、外国の帝国主義者の横暴な圧迫に屈し、民衆を殺すことに忍びなかったのです。
 残念ながら私が生まれてまもなく、祖父は世を去りました。しかし祖父の偉大な人格は、同郷人や私たち家族全員に誇りをもたらしました。
 また祖父は「義荘」といって、同族の貧しい者を救済するための田地を購入しました。数千畝の田地から得た借地代を使って、同族の孤児や寡婦の生活援助に充てたのです。これによって彼らは平穏に生活でき、中学や大学に進む者はみな、年に二回、かなりの金額の手当が配分されました。もし海外に留学する者がいれば、手当の額はもっと大きくなりました。
 池田 中国は広い。人も多い。それだけに同族の絆といっても、日本では想像できないほど深く、強いことは知っています。
 金庸 毎年、春の清明節と秋の重陽節(いずれも祖先の霊に詣でる中国の節句)には、父は必ず私たち兄弟を連れて、祖廟(祖先を祭る「やしろ」)に行きました。
 そして出会う人ごとに必ず、お互いに両手の拳を握り、胸元で上下させながら、あいさつするのです。父親に対してはもちろんですが、同族の白いヒゲを生やした老人が私たち四、五歳の子供にまで、同じ動作で、うやうやしくあいさつするのです。子供心にも、おかしさが込み上げてきましたが。(笑い)
 池田 お父さまは、どんな方でしたか。
 金庸 父は、かつて上海の復旦大学に学びましたが、勉学の成果は上がらなかったようです。のちに故郷に帰って、当時の銀行である銭荘や、繭の工場、絹工場を経営したものの、いずれも成功しませんでした。父は事業経営が苦手のようでした。私はいつも、父が事業のために悩んでいる姿ばかり見てきました。
 しかし人とのつき合いは、丁寧すぎるほど丁寧で、それに満足していることは、よくわかりました。まるで事業よりも友人との交際のほうが大事だといわんばかりでした。
 父は「義荘」を管理していたことから、身分は大地主でした。解放後の軍事統制の期間、山東から来た軍人が地主や富農を"粛清"した際、私の父も銃殺されました。
 池田 おじいさまは民衆を守って地位を失い、お母さまは戦争の混乱に倒れ、お父さまは権力に命を奪われた……。
 金庸 私はとても悲しく、つらい思いをしましたが、心に恨みをいだくことはしませんでした。なぜなら私にはわかっていたのです。「これが世代の変革期というものだ。時代は激しく揺れ動いている。これは免れることのできない普遍的な悲劇なのだ」と。全中国で数百万もの人々が、戦場で生命を失っていました。さらに数百万の人々が、その後の、さまざまな闘争で生命を失いました。
 一九八五年、私の故郷である浙江省海寧県の裁判所と検察院が、詳しい調査の結果、私の父が処刑されたのは冤罪によるものであることを証明しました。
 池田 昨年(一九九六年)、これも私の尊敬する趙樸初先生(中国仏教協会会長)の筆になる『妙法蓮華経(法華経)』を、金庸先生からいただきました。
 ご存じのように『法華経』には、「父子一体の成仏」が説かれます。親と子は、それほど深い次元で結ばれている。生命と生命が通じ合っている。その意味からも、お父さまは、先生のなかに今も生きておられることと信じます。常に先生の人生を見守り、心から喜んでおられることと確信します。
 金庸 ありがとうございます。
 祖父と父母の死は、侵略に遭わず、平和に生活できる尊さを、私に深く深く実感させてくれました。
 国家間であろうと、国内であろうと、最も重要なことは、戦争を回避し、人民が平和な環境のもとで進歩を勝ち取り、生活を改善することです。常に暴力が、あまたの不幸の根源なのです。
 池田 胸を突かれる一言です。
6  想像力を開花させる若き日の読書
 池田 さて金庸先生は、古今の書を読んでは博覧強記、創作の筆を執れば当代随一といわれる。天空を翔けるがごとき文豪の「独創の扉」を開いたものは、何でしょうか。
 金庸 若いころ、私の創作能力と文章能力を養ったのは読書です。特に小説を読みました。父も小説を読むのが大好きで、家には多くの蔵書がありました。
 池田 中国でいう「書香の家」ですね。家が書物の香りに満ちている……。
 金庸 私は子供のころ、大家族のなかで育ちました。私の曾祖父には、息子が二人おりました。長男は祖父で屋敷の東半分に住み、次男が西半分に住んでいました。屋敷は前後に五棟の建物が並んでおり、前方には大きな額が掛けられていました。
 その額には康煕帝が、私たちの先祖である査昇に与えた堂の名前が示されていました。この堂名――「澹遠堂」という三つの大きな文字は、九つの金の竜に囲まれていました。
 祖父には三人の息子がおり、父は三男でした。祖父の弟は早く亡くなり、四人の孫がいましたが、彼らは私よりもずっと年上で、みな小説を読むのが好きだったのです。
 池田 自然に読書に親しむ環境だったと。
 金庸 ええ。家は地主で、普段は仕事もなく、時間もたっぷりあります。お金も自由に使えます。ですから、みないろいろな小説を買っていました。伝統的な明朝、清朝のものもあれば、比較的新しいもので、上海で出版された小説もありました。たとえば張恨水の小説や、さまざまな武侠小説、新文学の『小説月報』や、鴛鴦蝴蝶派の『赤い雑誌』『赤いバラ』などの小説雑誌です。
 池田 先生には、お兄さまがいるそうですが。
 金庸 兄の査良鏗も読書家で、古典文学と新文学を学んでいました。上海の大学に進んだのですが、たくさんの本を買って食費にすら事欠き、父によく叱責されていました。(笑い)
 兄は茅盾、魯迅、巴金、老舎などの作品をよく読んでいましたね。伯父や、いとこたちは、持っている本をお互いに貸し借りしていました。ですから私は小学生のころから、実に多くの小説を読むことができたのです。
 父や母は、私が一日中、本を読んで、遊んだり運動をしないのを見て、健康的ではないと心配しました。そこで外に連れ出しては凧揚げをさせたり、自転車に乗せたりしましたが、私はひととおり遊ぶと、すぐ家に戻って本を読んでいました。(笑い)
 池田 やはり、栴檀は双葉より芳し、ですね。(笑い)
 お父さま、お母さまが心配されたように健康であることは当然の前提として、青少年は良書を、文学を大いに読むべきです。読書は人生を深め、世界を広げる。読書には人生の花があり、水があり、星があり、光があり、楽しみがあり、怒りがあり、海があり、世界があります。
 私も青年時代、徹底して読書に挑んだつもりです。恩師も亡くなる直前まで、「きょうは何を読んだか」「今何を読んでいるか」と、厳しい薫陶でした。
 栄養を与えるほど、木は大きく育ちます。同じように魂にも滋養を与えることです。特に十代、二十代に読んだ本は、一生の財産です。金庸先生の場合も、やはりそうであられた。巨匠の創作力の秘密に触れる思いがします。
 金庸 私が通った小学校の図書館の蔵書は豊富で、教師たちも生徒に、教科書以外にも読書をするよう勧めてくれました。
 傅という先生は『小公女』『小公子』『良き妻』のバーネット三部作を貸してくれました。この訳者である鄭暁滄氏は、私の故郷・海寧出身の有名な文士で、みな彼を誇りにしていました。そのため、これらの外国作品は私の故郷でかなり流行していたのです。
 池田 「江浙は文学の淵薮(江蘇省と浙江省は、深い淵に魚が集まり、茂みに鳥が群れ集うように、文人が集まる)」――先生の故郷・浙江省は、隣接する江蘇省とともに、文人を数多く輩出してきたことで有名です。歴史上、いわば中国きっての文化・教育の先進地域だった。
 魯迅、章炳麟、茅盾ら中国近現代の「ペンの巨人」も、先生と同じ浙江の出身です。そうした伝統の厚みを感じます。
 先生が青年時代、一番、愛読された作品は何ですか。たくさんおありでしょうが、三冊、挙げていただけませんか。
 金庸 最も愛読したのは、『水滸伝』『三国志演義』、そして大デュマ(アレクサンドル・デュマ・ペール)の『三銃士』、および『三銃士』の続編です。『三銃士』と続編は伍光建氏の翻訳で、中国語の題名をそれぞれ『侠隠記』『続侠隠記』といいます。
 そのほか『十五少年漂流記』も印象に残っています。一五人の少年が航海に出て、無人島での冒険を体験するという物語です。
 池田 不思議です。どれも私が恩師・戸田先生のもとで教材として学んだ作品です。ぴったり一致します。
 今も思い出します。『十五少年漂流記』と同じ一冊の本に収められていた『ロビンソン・クルーソー』についても、恩師は無人島での主人公の生活と、ご自身の獄中での生活を比較されながら「これはフィクションだよ。塩を作ることが書いてないじゃないか」(笑い)と、ユーモアを込めて語られていました。
 金庸 『十五少年漂流記』の翻訳者の包天笑氏は文語体で訳していましたが、さいわい私の国語の能力は、ましなほうでしたので、理解することができました。包氏は一九五○年代まで香港で執筆活動を続け、百歳を過ぎて大往生されました。香港でお目にかかったことがあります。
 ほかにSF小説の『大陸沈没』が、少年時代の私を、ロマンと幻想の世界へと誘ってくれました。十数年前、作家の安子介氏のお宅で歓談する機会があったのですが、少年時代の読書が話題になったおり、この作品は安氏が翻訳されたことを初めて知りました。
 物語の細部にいたるまで、よく覚えていましたので、安氏と、たいへん楽しく語り合うことができました。中国の総理大臣が活躍するくだりがあるのですが、これは原作にはない安氏の創作だったことも、このとき知りました(笑い)。これによって中国の読者、特に若い読者は、作品への興味を大いに増したことでしょう。
7  文学の想像力はどこから生まれるか
 池田 楽しいお話です。
 今、挙げられた作品は、特にストーリー展開のおもしろさが際立つものばかりです。文学については別の章でゆっくり語り合いたいと思いますが、私は、「おもしろさ」ということは、たいへん重要な要素だと思っています。
 物語には「結ぶ力」「結びつける力」がある、と言った人がいました。人間と動物、人間と宇宙、精神と身体、男性と女性、あの世とこの世、過去と現在・未来等々――それらを結びつけ、一個のコスモロジー(宇宙論)を形成していくわけですが、私は、その力の本質は、「おもしろさ」にこそあると思っています。
 「おもしろさ」を「意味」と言い換えてもよい。それは深い次元で、大乗仏教が、人間がこの世に生まれてきた目的としている「衆生所遊楽」の「遊楽」と通底していると思います。
 そこで、金庸先生は、ストーリーの構成力、文学の想像力といったものは、天性のものだとお考えですか。それとも環境や本人の努力によるものでしょうか。
 金庸 文学の想像力は天賦のものであり、物語の構成を考える力も天賦のものだと思います。
 同じ物語でも、私が妻や子供たち、孫たちに語って聞かせるときは、ほかの人よりもおもしろく、ひきつけられるようです(笑い)。私は何でもない平凡な出来事に、多くの空想を交えて不思議な出来事に言い換えてしまうことができます。いつも妻に「また自分で話をつくったでしょう。本当か、デタラメか、わかったものじゃないわ」と笑われます。(笑い)
 ただし、文章を書く能力は、多くの読書と後天的な努力によると思います。
 池田 納得できます。
 また、思うのですが、「子供時代に何を耳にするか」ということも大切でしょう。
 たしかに文学の想像力は天賦のものかもしれません。その天賦の芽を伸ばすのは、やはり幼いころの体験ではないでしょうか。特に「誰から、どんな話を耳にしたか」です。
 ゲーテにしても、プーシキンにしても、幼いころ母親や乳母から、夜ごと、昔話やおとぎ噺を聞かされて育ったことは有名です。昔話や、おとぎ噺の特徴は、人の魂から魂へ、直接、語り継がれる点にあるといえるでしょう。「語る人」と「聴く人」との心の通いのなかから、生き生きとしたイメージを結び、意味の世界を形づくっていく――こうした働きは、話を「聴く」ほうが「読む」よりも、はるかに強力に作用するでしょう。
 ゲーテの言葉は、まことに的を射ています。
 「書くということは、おそらく言葉の乱用だ。文字を黙読することも、生きた対話の、みじめな代用物でしかないだろう。人間は『個体』によって、あらゆる可能なものを直接人間につたえるのだから」(『ゲーテ全集』第十一巻所収の大山定一訳「ゲーテ格言集〈箴言と省察〉」人文書院)と――。
 遠い昔の物語、そしてその物語を伝える「声の響き」に心を躍らせ、その心の鼓動が、文豪たちのロマンの金の苗を大きく育てていったわけです。
 時代とはいえ、今は、そうした素朴な心の交流が失われる一方です。
8  十五歳でベストセラーを出版
 池田 多感な少年時代。読書に明け暮れる日々。十五歳のときには二人の友人とともに、中学受験のための参考書を出版されたとか。しかも、またたくまにベストセラーを記録したとうかがっています。
 金庸 題名を『中学受験者に贈る』というのですが、内容は平凡で、当時の多くの中学の入学試験問題を収集し、分析と解答を加えたものです。ただ、調べたいところを容易に探し出せるようにしたのが、大成功の理由でしょうか。浙江の南部で出版したこの参考書は、福建や江西など各地でも売れました。この収益は、私たち三人の高校卒業から、重慶の大学に進学するまでの助けとなりました。
 もっとも、この本は文学の修養とは無関係で、商売上の成功にすぎません。十五歳の少年が、同じ境遇の受験生である消費者の需要をよく把握し、簡単明瞭な方法で彼らを満足させることができたということです。
 ただ、のちに「明報」を創刊し、成功を収めたのも、こうした読者心理を洞察する直観力に負うところが大きいのかもしれません。
 池田 優れた数学者でもあった私の恩師も、若いころ『推理式指導算術』という青少年のための数学の参考書を著し、数年間で百数十版を重ねる、大ベストセラーになったことがあります。やはり、読者心理への洞察でしょうね。
 金庸先生は、十七歳のとき、文章をめぐって早くも人生の大きな転機を迎えたとうかがいましたが。
 金庸 ええ。ワンマンな訓導主任の沈乃昌先生を風刺する壁新聞を書いて、退学させられたのです。
 これは私の生涯における最大の危機の一つでした。なぜなら退学とは、勉強を続けることができなくなるだけでなく、食べることや住むことといった生活上の問題にも、深くかかわっていたからです。
 のちに校長先生や友人の助けを得て、別の学校に入ることができましたが、これは本当に、私にとって生死に関わる大難でした。
 池田 のちに「明報」紙上で大きく開花する「反骨」の精神は、すでに十代のころ、芽吹いていたわけですね。
 金庸 「大きな圧力を恐れずに、言いたいことを存分に書く」。これも、のちに「明報」を成功へと導いたポイントの一つです。
 「明報」の社説を書いたり、編集方針を死守したとき、私には「不合理には反対する」という意識がありました。
 それにひきかえ、あの壁新聞は、少年の一時の衝動から、あとさきを考えず、思慮を欠いた結果、厳しい現実を招いてしまったのです。愚かな行為にすぎません。
9  恩師・戸田先生のもと若き編集者として
 金庸 池田先生は、少年時代に第二次世界大戦に遭遇し、教育を受ける機会を大きく奪われました。しかし創価学会に入会されてのち、戸田先生の薫陶を受けられ、学問は飛躍的に進歩された。
 また、それと並行して少年雑誌の編集を担当されたとうかがっています。仕事上の必要から、困難を乗り越えて勉学に励まれ、多くの知識を吸収されたことと思います。
 池田 恩師の出版社で初めて任された仕事が、『冒険少年』(のち『少年日本』と改題)という少年雑誌の編集でした。二十一歳のときです。
 プランから原稿依頼、編集作業から校正まで、一人でやりました。予定していた原稿が間に合わず、雑誌に「穴」があきそうなときは、自分で書きました。要するに必要に迫られたわけですが、本格的に文章に取り組みはじめたのは、このときです。また当時、戸田先生に厳しく文章を鍛えていただいた経験は、私の生涯の財産です。
 とにかく子供たちのために少しでも良い作品を、と思って、ほうぼうの作家を訪ねましたが、作家というものはやはり一風変わっていて締切もなかなか守ってもらえない(笑い)。"この忙しいのに、何度、足を運ばせれば気がすむのか"と、腹立たしくなることもありました。(大笑い)
 それに当時は夜学にも通っていました。忙しい毎日でしたが、自分の心が躍動していなければ、子供たちが感動できる雑誌はつくれません。ですから本だけは読んだつもりです。
 金庸 私も、池田先生と似た経験があります。新聞の芸能欄の編集に携わったときのことです。企画や編集のほかに、自分でも映画や演劇に関する記事を書きました。
 もともと映画芸術についてはまったくの門外漢だったのですが、仕事の必要から毎日、とりつかれたように映画と芸術の理論書に目を通し、わずかの期間で、この方面の「セミプロ」になりました。(笑い)
 実践経験はないのですが、理論面での知識や、主な演劇、映画に関する理解度はすでに映画、演劇にじかに携わる人々を超えていました。これ以後、「即学び、即用いる」が、私の仕事の取り組み方になったのです。
 私をよく知らない人は、私の学問は博くて深く、きわめて幅広い知識をもっていると思い込んでいます。しかし実際の私のやり方は、「必要があればただちに学ぶ」「わからないことをわかるようにする」、自分自身を「素人から玄人に変身させる」ということです。
 池田 まさに「必要は成功の母」です。
 金庸 ところで、先ほど私の読書体験について聞いていただきましたが、池田先生は青年時代、どんな本を読まれたのか、今度は先生の学問と読書の経験についてお話しいただけないでしょうか。
 池田 恩師にお会いする前は、主に文学と哲学、詩にあこがれ、独学で挑戦していました。戦争直後で本もなく、同世代の友と読書サークルをつくって本の貸し借りなどもしながら、手当たりしだいに読みました。
 当時の愛読書を思いつくままに挙げれば、日本では国木田独歩、徳冨蘆花、石川啄木、吉田絃二郎。また西田幾多郎、三木清など。西洋ではユゴー、ゲーテ、ベルクソン、エマソンなどでしょうか。トルストイは、ほぼ全作品を読みましたし、ホイットマンの詩にも大きな影響を受けました。
 今振り返ってみれば、やはり体が弱かったためでしょうか、「人間とは何か」「人生いかに生くべきか」、さらに「生命とは何か」というテーマに強く心ひかれたようです。
 それも否定的、悲観的なものより、宇宙的生命観というか、人間の「生」を大きく肯定しゆくもの、より人間の可能性を信ずるものへと向かっていたように思います。
 金庸 そうした読書経験が、先生の今日に大きな影響を及ぼしているのですね。
 池田 善くも悪しくも、かもしれません。(笑い)
 ハーバード大学で初めて講演した際(一九九一年九月)、ホイットマン、エマソン、ソローの「アメリカ・ルネサンスの旗手」について触れたのですが、講評してくださったハービー・コックス教授が言われていました。"池田氏には今後、できればメルヴィルなども論じてほしい"と。
 痛いところを突かれました(笑い)。作家のもっているものは、処女作のうちにすべてある、といわれますが、人間は若い時期に学んだものが一生を決定づけるのかもしれません。
10  若き日の志望、青春の蹉跌
 池田 青年時代のエピソードを種々うかがいましたが、先生は、もともと何になりたかったのですか。やはり文筆家ですか。
 金庸 いえ、若いころは外交官になるという強い願いがありました。ですから(当時、中華民国の首都であった)重慶に行き、大学に進みました。大学は中央政治大学の外交学部です。
 その後、当時の国民党がもぐりこませた学生と衝突し、退学させられました。戦後は上海に行き、東呉学院で国際法を学び、同じ学科で引き続き研究を続けました。
 一九五○年に北京へ行き、外交部(日本の外務省にあたる)の仕事に就こうとしました。これは当時の外交部顧問だった梅汝放先生の招きによるものです。梅先生は国際法学家で、かつて日本の戦犯を裁いた極東国際軍事裁判の司法官の一人です。
 (地主の家という)私の出身と家庭の背景から、当時、外交部の実質的責任者であった喬冠華先生は、私に「まず人民外交学会で、ある一定期間、仕事をし、それから外交部に転入するように」と主張されました。この間のいきさつについては、一部では誤って伝えられているようですが、喬先生は、あくまでも好意で言ってくださったのです。
 しかし私は、うれしいとは思いませんでした。当時の人民外交学会は、国際的な宣伝や外国の賓客の接待といった事務しかやっていないと思ったからです。
 そこで、以前に携わっていた「大公報」の仕事に戻ることにしました。
 池田 外交官への夢が断たれたのは、あるいは青春の一つの蹉跌だったかもしれません。しかし、お国の故事にあるごとく、「人生は万事、塞翁が馬(人生における幸不幸は一概には測れないことのたとえ)」です。
 ゴルバチョフ氏が語ってくれました。氏は大学卒業後の進路として首都モスクワのソ連検察庁への就職を希望し、内定していた。ところが突然、採用を取り消され、故郷に戻ることになってしまった。氏は、たいへんなショックを受けたといいます。将来への希望が一瞬にして崩れさった、と。
 しかし、そのとき、当初の希望どおりに首都の桧舞台に立っていたとしたら――その後の氏の人生は大きく変わっていたはずです。
 金庸先生の場合も、同じではないでしょうか。青春の蹉跌を超えて先生は今日、アジアの動向を一望し、香港と中国の将来に多大な影響を及ぼす存在となられた。先生の若き日の夢は、より壮大なかたちで実現されたといってよいのではないでしょうか。
 金庸 今から思えば、外交官への夢は破れたとはいえ、かえって良かったと言えないこともありません。というのは、私のクラスメートの多くは、のちに国民党政府の大使や総領事といった高位の官職に就きました。しかし、一人また一人と、その職務を失っていき、失意のなか閑居するという境遇に陥ってしまいました。自分の生活すら思うに任せない状態です。
 「香港基本法」の起草委員、またその後の政府準備委員を務める間、私は中華人民共和国外交部の多くの高級官僚と一緒に仕事をし、あるいは交渉をもちました。しかし、現在では、彼らの立場をうらやましいとは思いません。
 もしも私の小説家、言論人、研究者としての経歴を、彼らの経歴と交換する可能性があったとしても、私は絶対に拒否するでしょう。(笑い)
 でも池田先生、私は現在の成功が、彼らよりも大きいなどと言うつもりは、決してありません。
 池田 謙虚なお心は、よくわかっております。
 金庸 私が言いたいのは、私自身がこの人生で自由自在、心のおもむくままに生きているということです。上司の命令や官職の束縛を受ける必要がなく、行動は自由で、言論も好きなことを言って過ごし、自由に生きて人生を大いに謳歌しているということです。
 新聞紙上で評論を発表し、民族の主権と尊厳の維持、そして世界平和を訴えることは、外交官となって貢献するよりも、より大きな意義のあることだと思います。
 外交官の行動は、各種の厳格な規則に束縛されるものです。私のように独立独歩、他人が何を言おうと自分のやり方でやる自由な性格には、まったく合わないのです(笑い)。もし私が外交官になっていたら、おそらく一生、束縛されているような気がして、幸福や喜びを今ほど感じることはできなかったでしょう。

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