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第一章 香港の明日――返還を前にして  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

前後
1  「宿世の縁」を感じつつ、永遠の「精神の対話」を
 池田 人は多いが、語るべき人は少ない。考えが通じ合う方とお話しするのは、本当に幸福なことです。こうしてお話ししていても、まるで昔からよく存じあげていたような気がします。
 旧ソ連の作家アイトマートフ氏が私との対談『大いなる魂の詩』(上下巻、読売新聞社)を始めるに際し、語っていた言葉が思い出されます。
 「……どのようにして話が始まったのかは覚えていない。より正しく言えば、話は始まったのではなくて、続いたのである。なぜならば、私たちはもっと前から、お互いに知り合う前から、話をしていたからである」(上巻)と。
 金庸先生との出会いにも、同じような意義――仏教的に言うと、「宿世の縁」のようなものが感じられてなりません。
 金庸 私もそうです。「二人は兄弟だ」と言っても、みんな信じるんじゃないでしょうか。(笑い)
 池田 私自身、世界の文学に広く親しんでおり、若いころは、作家を志したこともあります。ゆえに文豪・金庸先生との対談は、なによりの喜びです。
 まして香港の中国返還という歴史的な節目のときに、香港の「良識の灯台」であられる先生と語り合えることは光栄です。
 また、こうした対談企画と時を同じくして、日本でも昨秋(一九九六年)から『金庸武侠小説集』(徳間書店)が翻訳・刊行され始めました。中国語圏での絶大な声望にもかかわらず、これまで日本では、金庸先生の文学世界が味わえなかった。翻訳は喜ばしいかぎりです。
 金庸 ありがとうございます。中国と日本とでは、文化的背景の多くを共有しているにもかかわらず、未翻訳であったのを、少々残念に思っていましたので、たいへん喜んでおります。
 また、私は、ずっと前、池田先生とトインビー博士との対談(『二十一世紀への対話』聖教文庫)を読み、たいへんに感銘しました。このたびの対談は、私こそ光栄です。
 池田 かつてトインビー博士は私に言われました。
 「人類の道を開くのは、対話しかありません。あなたはまだ若い。これからも世界の知性との対話を続けていってほしい」と。私への遺言でした。
 対話――ソクラテスも「対話の人」でした。弟子のプラトンも「対話篇」を書き続けました。私どもが信奉する日蓮大聖人も対話形式で著作を残されています。警世の書『立正安国論』を、「主人」と「旅客」との対話で記しました。
 難解な論文だけでは、どうしても多くの人には読まれないでしょう。また、独り善がりになる場合がある。その点、対話形式は、読みやすく、普遍性があります。
 そして、残された「精神の対話」は永遠です。トインビー博士と対談しているとき、ある国の首脳同士の会談が華やかに報じられていました。しかし博士は「政治の次元は一時的なものであり、地味であっても私どもの対話こそ未来に残るものです」と、厳として言われていました。
 金庸 池田先生は、これまでも多くの世界の著名人と対話してこられました。私が尊敬する政治家の一人、ゴルバチョフ氏もそうです。中国の常書鴻氏(敦煌研究の第一人者。故人)も優れた芸術家です。そうした人々に続いて私が先生と対談できることは、たいへん名誉なことです。
 池田 恐縮です。私のほうこそ、金庸先生に学ばせていただくつもりです。
 金庸 先生が「対話が大事である」と言われたことを、私は感銘深くうかがいました。
 中国の孔子は『論語』を残しましたが、それも対話形式で書かれています。
 先生も、また私も仏教を信奉していますが、釈尊も対話を通して仏教を残しました。仏典の「如是我聞(是の如きを我聞きき)」との言葉――釈尊の言葉を、弟子たちが書き留めたわけです。『法華経』にも、釈尊が、どういう場所で、誰に、どのように法を説いたかが書かれています。いわば「対話の記録」です。
 池田 先生の博識は存じ上げているつもりでしたが、改めて敬意を表します。
 金庸 私は、池田先生が今まで対談された世界的な著名人と同じレベルにはないと思いますが、私なりに先生との対話を楽しみにしております。
 私は、池田先生と同世代に属します。〈金庸氏は一九二四年生まれ、池田名誉会長は一九二八年生まれ〉
 池田先生に比べて四歳、「虚長」です。「虚長」というのは、中国人の間で古来から使われている言い方です。たとえ何年か年長だったとしても、その歳月になんらの進歩なり業績もなければ、それはただ無為に過ごした歳月にすぎない。これを「虚」と言います。
 私の生まれた中国江南地方の言葉では「年を犬の体の上でとる」と言います。
 池田 ご謙虚なお言葉です。私は、金庸先生に"大人"の風格を感じます。
 金庸先生は七十二歳。七十の賀は、日本でも「古稀」(「人生七十、古来稀なり」)として祝いますが、先生は七十二年の人生で、まさに「古来に稀有」の足跡を残してこられた。
 「中国人のいるところ、常に金庸の著作あり」とたたえられる中国語文学の巨匠、アジア最高峰の文豪として。世界の「繁栄と平和の港」香港の世論をリードしてこられた「ペンの闘士」として。
 昨年の創価大学でのご講演(一九九六年四月)では、『春秋左氏伝』を通じて「人間にとって最も不朽な行いは、精神的価値の創造である」と論じてくださいましたが、先生の築いてこられた数々の精神の価値こそ「不朽」です。
 金庸 私が池田先生を尊敬してやまないのは、その多くの著作のなかで、素晴らしい見解を発表され、世界平和のために絶え間ない努力を続けておられること。また創価学会という、非常に価値のある「精神の大団体」の偉大な指導者であること。さらに大事なこととして、「真理のための勇気」を堅持し、多くの悪意や偏見に満ちた世論の圧力に屈しないことです。
 私が書いた小説では、主人公は一人か、もしくは数人の英雄です。その英雄の主な資質は、勇気です。
 それは肉体的な勇気だけではありません。より重要なのは「道徳の勇気」なのです。先生は、その「道徳の勇気」をおもちです。
 池田 励ましのお言葉に感謝します。
 これまで私は、二○人を超える識者と対談集を編んできましたが、文学者の方とは比較的少ない。その意味で、金庸先生との対談は、このうえない喜びなのです。
 西洋の文化人との対談も進めていますが、金庸先生との語らいは、特に大きな歴史になると思います。
 対話はゆっくりと、楽しくやりましょう。そして回を重ねるたびに、金庸先生が健康になられ、お若くなられるような対話にしましょう。香港のために、中国のために、世界のために。
 金庸 二○年後にも、まだ同じように、こうして語り合っていたいと思います。そして二○年後の世界が、今よりも、もっと良くなっていてほしいものです。
 池田 そのお言葉を、私たちの対話の約束としましょう。そして、この世の宝である「友情」の樹を、年ごとに大きく育ててまいりましょう。
2  香港の「より良い明日」を強く確信して
 池田 一九九七年七月一日、いよいよ香港の中国返還の日を迎えます。香港の方々だけでなく、全世界が注目する「歴史の日」です。そこで金庸先生、私たちの対話も、ここから始めてはいかがでしょうか。
 金庸 私も同意見です。
 池田 中国をこよなく愛しておられたトインビー博士は言われました。「中国にとっての世界は(かつての旧世界の東側半分から)今や全世界へと広がっている」。そして中国がアジアだけでなく、全世界の未来に果たすべき役割に期待しておられました。
 二十一世紀に向けて中国の可能性は、いよいよ大きい。その一つの鍵をにぎるのが香港です。また、身体に心臓があるように、それぞれの地域にも「要」となる心臓部があります。アジアでは香港です。ゆえに関心は大きい。
 たしかに一部には、返還後の香港は混乱するだろうと予測する向きがあります。しかし私自身、これまで幾度となく訪れて実感していることですが、香港の人々には、底知れない「人間の活力」があります。
 金庸 池田先生が、たいへん大きな善意と関心をもって香港を見てくださっていることに感動します。先生のご厚情は、先生が詠まれた詩にも、よく表現されています。たとえば次のような一節です。
  私の思いは
  いずこにあっても
  香港を離れることはなかった
  それはこの地こそ
  アジアの幸の光源となり
  世界の平和への港となる
  尊き使命の天地であると
  信じてやまないからだ
 池田 恐縮です。それだけ香港には、人を引きつけてやまない魅力があるのです。この「繁栄の港」の熱気に、誰もが、たじろがざるをえないでしょう。
 百聞は一見にしかず、あの銅鑼湾の賑わいや旺角の雑踏を、一度でも体験してみればわかることです。
 逆境を勝ちゆく勇気。いかなる困難に対しても柔軟に対応し、自己の可能性を伸ばしゆく知恵。地に足のついた人間の活力。これこそ、香港の宝です。この宝があるかぎり、香港は限りなく発展するにちがいない。私は香港の人々の明日を信じます。
 その香港の方々は、「香港の明日」について今、どんな見通しをもっておられるのか、率直にうかがいたいと思います。
 金庸 一部の日本のマスコミは、香港の人々が中国返還に不安を感じ、なんらかの混乱が起こるだろうと予測している――先生は今、そう指摘されました。
 そして、こうした報道は真実を反映していないとし、香港の「より良い明日」を強く確信されています。そのうえで私に、「香港の明日」についての見通しをお尋ねですね。
 池田 そのとおりです。
 金庸 未来がどうなるのかを予測することは難しいことです。どんなに膨大な事実を積み重ねて、その根拠にしようとも、結局は観測と推察の域を出ることはありません。一○○パーセントの正確を期すことは不可能です。
 ただ私は三十数年にわたって新聞紙上で政治を論じてきましたが、実は「予測を好む」ことを、その最大の特徴としてきました。未来の事柄が、どのように進展するか、いつも明確に、キッパリと、言い切ってきました。つまり、「この問題は将来、必ずこうなる。絶対に、これと違った展開などありえない」というようにです。
 池田 先生のような大言論人なればこそ、よくなしうることです。
 金庸 たいへんありがたいことに、私が行った多くの大胆な推理は、のちに事実が、その正しさを証明してくれました。大きな食い違いは、まずありませんでした。
3  若い人たちに贈る座右の銘――「苦に徹すれば珠となる」
 池田 日本の読者のために、その一端だけでも、ご紹介いただけませんでしょうか。
 金庸 たとえば文化大革命が始まってしばらくたったころ、毛沢東は将来必ず(後継者に予定されていた)林彪を粛清するだろうと予測し、「皇帝とは皇太子を好まぬものだ」と題する社説を発表しました。
 また毛沢東の逝去後、江青はただちに逮捕され、処刑されることもありうると予測しました。このときの社説の題名は「どこに隠れたらよいかわからない」でした。
 江青は当時、権勢をほしいままにしていました。が、毛沢東がこの世を去るやいなや、江青は、「どこに隠れればよいかわからなく」なり、逃げ場を失うだろうと予想したのです。
 さらに香港の前途についても予測しました。そのうち比較的重要なものに、一九八一年二月二十六日付「明報」に発表した社説があります。私は中国当局は必ず香港を回復するだろうし、その時期については回復の一五年前には正式に発表するだろうと述べました。さらに「その後の香港の現状は、今とまったく変わらないと中国側は発表する」だろうと予想したのです。
 池田 実際、その翌年の八二年に返還が決定し、全部、金庸先生の予見どおりになりました。感銘します。状況判断が実に的確であられる。
 思うのですが、それは何よりも先生ご自身が、「困難な時代をかいくぐってきた経験」をおもちだからではないでしょうか。
 先生が以前、中国共産党の江沢民総書記と会談された際、江総書記は、こう言われていましたね。「私たちは、みな年齢が近い。抗日戦争後か、解放前に大学に入っています。民族と国家が困難にあえぎ、危険にさらされているなかを生きてきました」と。
 金庸 ええ、その会談については「明報」にも書きました。
 池田 「民族と国家が困難にあえぎ、危険にさらされているなかを生きてきた」――だから、未来を見とおす眼も鍛えられたのでしょう。
 明治維新以降の日本を見ても、苦労して新国家を築いた、いわゆる「維新の元勲」たちは、多くの場合、状況判断が的確でした。
 私はいかなる戦争にも絶対に反対ですが、あの日露戦争にしても、日本の指導者たちは、大国ロシアに勝とうなどという夢想はもたなかった。初めから「どう戦争を終わらせるか」を考えていた。「いつ、どうやって終わらせるか」「和平の仲介を、誰に頼むか」を緻密に、冷静に考えていた。むしろ、世論のほうが主戦論、積極論で沸き立ち、政府の"弱腰"をなじっていました。
 そうした冷徹な状況判断も、幕末・維新で生死の狭間を、かいくぐってきた体験あればこそでしょう。苦労した。骨身に染みて現実を知った。だから、ものごとを的確に判断することができた。
 金庸 なるほど、共感できます。
 池田 ある意味で、そうした先達がいなくなってから、日本は次第におかしくなりました。「夜郎自大」になりました。中国の反日・排日運動を一気に激化させた、第一次世界大戦中の「対華二十一カ条要求」などは、身のほど知らずの「夜郎自大」の典型です。第二次世界大戦中、何の展望もなく「いつかは神風が吹く」などと現実離れした思い込みで国民を駆り立てていた指導者たちにいたっては、なおさらです。
 やはり人間、特にリーダーにとって大切なのは、悩む、苦労するということですね。金庸先生と私が、ともに愛読する吉川英治の言葉に「苦に徹すれば珠となる」とありますが、まさに至言といってよいでしょう。とりわけ若い人たちは、それを座右の銘としていってほしい。苦労してこそ人格も識見も磨かれ、現実を的確に判断し、将来を見とおす眼力が磨かれる。
 また国家であれ社会であれ団体であれ、本当に苦労した世代が活躍している間は、その舵取りも間違うことはない。金庸先生のお話を聞いていて、そう思います。
 金庸 いえ、こと香港の前途に関していえば、予測するのは、そんなに難しいことではないのです(笑い)。それは主に中国当局の基本政策が根拠になっているからです。しかも基本政策の要素は機密ではなく、また基本的に納得のいくものだからです。
 中国の香港政策は、「現状を変えずに長期にわたってこれを利用する」こと。そこに、「民族の大義を守り国家に利益をもたらす」ことを加えたものと言ってよいでしょう。
 香港の現状を維持することが、中国にとって有益である。ならば、これを長期にわたって、かつ十分に利用していこうということです。
 池田 歴史の経緯は経緯として、ですね。
4  江沢民総書記との会見――「中国人は背骨をもっている」
 金庸 イギリスはアヘン戦争(一八四○年―四二年)を経て、香港を割譲させました。西洋の帝国主義は、ここから本格的な中国侵略を始めます。中国人が国事を談じ、民族の前途に関心をもつとき、誰もが香港を失ったことを深く悲しみます。耐えがたい屈辱を感じます。
 その後、日本帝国主義による中国侵略が、より直接的かつ性急に行われました。そのため中国人が戦う相手は、イギリスから日本に移りました。しかし愛国の志士にとって、アヘン戦争と香港は、悲憤慷慨せずにはいられない出来事であり続けました。
 池田 お察しします。長い歴史をもった、誇り高い民族であればあるほど、そうだと思います。日本の攘夷論も、伝え聞く植民地支配への危機感を背景にしていました。しかし、本当の苦しみは、外国に国土を踏みにじられた、慟哭の歴史をもった方々にしかわからないでしょう。
 金庸 今でも覚えています。小学生のころです。歴史の先生が、帝国主義者たちが中国で、いかに残虐な行為を働いているかを講義したとき、アヘン戦争に話が及んだのです。
 中国当局が、いかに無能で、なすすべを知らなかったか。兵士たちはみな勇敢で、よく戦ったが、火器や軍艦がイギリスよりも劣っていたため、無残な死を遂げてしまった。語るほどに先生は激情に強く揺さぶられ、ついには突然、顔を覆って泣き出したのです。私とクラスメートも、みな先生とともに泣きました。この思い出は、私の心から永遠に消えることはないでしょう。
 私たちの世代の中国人は、香港で長年暮らしている人は別として、「香港の中国返還」は「天地の大義」とでもたとえられるほど、当然の道理なのです。「たとえ生命の犠牲を強いられても悔いることなどなく、考える余地などまったく必要ない自明のこと」なのです。
 池田 文豪・魯迅が仙台の医学校に留学していた当時のエピソードを思い出します。
 日露戦争中、魯迅が学校で見た幻灯に映し出されたのは、いわれなき罪で日本人に処刑される同胞の姿だった。虐げられる中国人。驕りたかぶる日本人。そのときの魯迅の悔しさ、悲しみ、苦しみ――それは、すべての中国人の思いだったにちがいありません。
 金庸先生が江沢民総書記と語り合われた際には、魯迅のこんな言葉も話題になったそうですね。
 「私たちには古よりこのかた、脇目もふらずに励む人がいた。命知らずの硬骨漢がいた。民衆のために戦う人がいた。わが身を顧みず、理想を求めた人がいた」
 「皇帝などの封建領主のために作った家系図のことを『正史』というのかもしれないが、そこにもしばしば、こういった人たちの光り輝く存在が見え隠れする。そして彼らこそが中国の背骨なのだ」
 そうした「背骨」があるかぎり、中国は断じて屈しない。苦難を前に立ち上がり、前進していくのだ、と。
 金庸 江総書記は、その魯迅の言葉の最後のところに言及し、「中国人は背骨をもっている」と強調していました。「民族の大義」という観点から言えば、一般の中国人が香港の中国返還について異見をさしはさむことなど、決してありえないのです。
 ただ、「国家に利益をもたらす」という実際問題を考慮に入れた場合、事情はそう簡単にいかなくなります。
 池田 と言われますと。
 金庸 抗日戦争と国共内戦のころ、中国共産党は香港を資金と物資を調達する場所として利用しました。また多くの重要人物が敵の追跡をかわして中国内地へ入境するときは、香港を経由しました。香港は抗日宣伝や反国民党宣伝の基地となり、多くの宣伝ビラや出版物が香港で印刷され、内地へ運ばれました。
 朝鮮戦争のころ、中国は北朝鮮を支援するため義勇軍を派遣し、アメリカ軍をはじめとする一四カ国の軍隊からなる国連軍と、数年にわたる死闘を戦い抜きました。当時、中国は国連軍によって封鎖されていましたので、軍隊が必要とする通信器材や医薬品などは、香港経由の密輸品に頼っていました。これらの物資は「抗米援朝」の戦いに大きな役割を果たしたのです。
 その後、中国共産党とソ連の関係が悪化しました。戦争は時間の問題であり、一触即発の状態となったとき、香港は中国にとって戦略上きわめて重要な場所になりました。
 つまり中ソ間にもし戦争が起こったなら、上海、天津、大連、寧波、厦門、湛江などの主要港は、間違いなく空爆を受けます。海外の支援に頼る以外にない物資は、当然、入手不可能になります。香港はイギリスが統治していますから、中立港です。当時のソ連軍は香港を攻撃することはできません。中国からいえば、貴重なルートを確保できたわけです。
 もう少し続けていいでしょうか。
5  文化大革命の混乱と周総理のリーダーシップ
 池田 どうぞ、続けてください。多くの日本人は、そうした中国と香港の歴史的関係について、あまりにも知りません。
 金庸 文化大革命が終わった後、改革開放政策が進められました。「四つの現代化」を目標に経済建設に力が注がれました。
 香港は経済建設に関して、先進的な経験を豊富にもっています。先進的な管理技術と、豊かな人的資源をもっています。そして香港は国際金融センター、貿易センター、交通や運輸の中心地として、重要な位置にあります。
 香港の企業と世界中の主だった企業は密接な関係をもち、長年にわたって往来を続けてきました。このような背景のもとに、香港人はいち早く、中国大陸の各地に大量の投資を行い、中国の商工業への投資を促進しました。
 中国が改革開放に転じて数年のうちに、経済発展は人智を超える速さで進みました。世界のいかなる地域の経済成長も、これには及びません。
 池田 「奇跡」ともいえる発展です。同じ社会主義の大国といっても、ソ連崩壊後のロシア経済の混乱、迷走と比べて、際立って対照的です。
 金庸 この経済発展に香港が果たした役割が、どれほど大きかったか。また、どれほど重要な貢献をしたか。とても推し量ることはできません。
 以上のような現実から考慮して、毛沢東と周恩来が定めた香港政策は、「現状を維持し、十分にこれを利用する」ことでした。
 香港が現状を維持することが中国にとって有益である。有益である以上、これを長期にわたって、かつ十分に利用していこう、ということです。この政策は、これまで一貫して変わることがありません。
 池田 よくわかりました。ここで一点、うかがっておきたいのですが、文化大革命の混乱は、香港にどんな影響を与えたのでしょうか。
 金庸 文化大革命が最高潮に達した一九六七年、香港の中国側指導者は、極左の思想と政策の影響を受け、いわゆる「反英暴動」を起こしました。彼らは左翼寄りの群衆を組織し、香港のイギリス政府と真正面から衝突したのです。総督府は襲撃を受け、警官との乱闘が発生しました。いたるところに爆弾が仕掛けられました。イギリスは正規軍を出動させて反撃したため、双方ともに死傷者を多く出し、さらに何の罪もない市民にまで災いが及びました。事態は悪化の一途をたどりました。
 ところが幸いなことに、周恩来が自ら命令をくだして暴動をとめようとしたのです。このような挙動は中央の政策に違反し、香港の安定と繁栄を破壊するものだ、と。実際、左派の暴動は、これによってようやく少しずつ終息に向かいました。のちに暴動の組織者や扇動者は、党内の批判を受けたと聞いています。なかには懲罰を言い渡され、辺境の農場や鉱山で労働教育を受けた人々もいるようです。
 暴動の教訓を経て、中国共産党指導者層は「香港の現状を破壊してはならない」という政策を一段と重視するようになりました。この政府が支持される基本的な理由は、香港の現状維持が国家にとって有益だからです。また全国の人民にとって有益であるならば、それは全党にとっても有益であり、香港に住む多くの中国同胞にとっても有益だということです。
 池田 常に「民衆の安穏と幸福」を見つめておられた周恩来総理らしいリーダーシップですね。あの文化大革命中は周総理自身が激しい批判を受け、生命すら危うかった。しかし総理はわが身を顧みることなく、鄧小平氏をはじめ多くの人々を暴動から敢然と守られた。
 私がお会いしたとき(一九七四年十二月)も、暴虐な「四人組」との戦いの真っただ中におられました。安穏を願う一○億の民の思いを一身に背負って、一人、大樹のごとく立っておられた。周総理と聞けば思いは尽きません。
6  「欧米流の民主主義」による民主化提案
 金庸 今、池田先生が言われた「リーダーの在り方」に関連して、少しお話ししたいことがあります。
 一九九二年、イギリスは保守党前幹事長のクリストファー・パッテン氏を総督に任命し、香港に派遣しました。それまでの歴代総督、たとえばマクレホース、ユード、ウィルソンといった人々はみな、長年に及ぶ中国経験をもっていました。つまり、中国で外交官として勤務した経験があり、中国語の書籍や新聞を、直接読むことができ、流暢な中国語をあやつることもできたのです。
 しかし新任総督は中国について、きわめてわずかな知識しかもたず、香港での職務すら、まったくといってよいほど不慣れでした。中国の歴史や文化を理解せず、中国人の心理や行動もわからない。そのような総督が突然、香港の民主化提案を持ち出してきたのです。
 池田 香港、中国においてだけでなく、国際的な論議を呼んだ問題です。
 金庸 ええ、提案の内容は、中国とイギリスとの間で、すでに取り決められていた合意に完全に違反するものでした。そのため大きな風波を巻き起こし、政治を激しく揺り動かす結果になりました。
 中国側は何の遠慮会釈もない言葉で、彼の行動を批判・叱責し、中国の政府高官も彼との会見を拒絶しました。中英双方が、それまで長期にわたって築いてきた友好的な協力関係が、短時日のうちに突如、様変わりしてしまったのです。
 私はパッテン氏とはロンドンでも、香港でも、お会いしたことがあります。また、共にイギリスのオックスフォード大学の校友という間柄でしたので、民主化提案を取り下げるよう、彼に面と向かって真剣に進言したことがあるのです。このとき、私は率直に説明しました。
 ――この提案は中国の既定の政策になじまず、かつ香港の現実になじまない。とても通用するものではない。たとえ自分の意見にこだわって、必ず成し遂げようと無理をしても、結局は九七年七月一日以後に中国によって全部取り消され、反古にされてしまうだろう。中国にとって不利なだけでなく、イギリスにとっても不利である、と。
 池田 しかし、パッテン氏の受け入れるところとはならなかったのですね。
 金庸 彼は、すでに既成事実になった香港の政治制度を中国が反古にする、とは思えなかったのです。そして、より民主化された制度を香港で実施すれば、多くの香港人の歓迎と支持を得て、それが伝統となる。将来、中国が香港の統治を引き継いだ後でも、香港の民意に反して、この種の制度を取り消すことはできない。そう考えたのです。彼は、「中国と香港の政治情勢はイギリスと同じだ」と思っているのです。つまり政府と政治指導者は、民衆の大多数の意見に従わなければならず、民意に違反することなどできない。もし違反すれば政権を失うだけだ、と。そうした大確信のもと、民主化提案を推し進めたのです。
 いうまでもなく彼は、共産党の政治の在り方がイギリスのような民主国家とは異なるのだ、と頭では理解していました。しかし長い間、イギリスの民主政治の雰囲気のなかで生活し、活動してきた彼にとって、「民意に依拠する」ことは、ウィスキーを飲んだりステーキを食べることと同じくらい、思索する必要のない「自明の理」になっているのです。ところが、こうした直観にもとづく政治的信念を香港で実行することは、大きなあやまちでしかありません。
 池田 おっしゃりたいことは、よくわかるつもりです。日本人の中にも、「欧米流の民主主義を"大義"として植民地支配を正当化しようとする宗主国意識を感じる」という声がありました。植民地主義が第三世界にどのように深い傷跡を残してきたかに、もう少し敏感であってほしいという声です。
 金庸 イギリスは香港で植民地統治を行ってきました。香港総督は独裁者のようなもので、一切を決定できる大権をもっています。民意に耳を傾ける必要など、まったくなかったのです。その意味で言えば、香港では一五○年にもわたって、いかなる民主制度も存在したことはありません。
 これに加え、ソ連と東欧の共産政権が、数年の間に次々と瓦解していきました。このことがイギリスの政客たちの心中に、ある種の錯覚を引き起こしたのです。つまり中国の共産政権も、民主化の圧力のもとで崩壊するか、崩壊を免れたとしても、少なくとも譲歩は余儀なくされるだろう、と。
 しかし、こうした認識と推測は完全に間違っています。私は九二年十月十九日と二十日の二日にわたって、「明報」に社説を発表し、香港の現状を、さまざまな角度から概括的に論じました。これは事実を冷静に叙述したもので、個人的な好悪の感情や、是非の判断はまじえていません。つまり、「事実はこうです。あなたが好もうが好むまいが、これは立ち向かうべき事実なのです」と、たんたんと述べたものです。
7  社会主義国キューバの現実とホセ・マルティの思想
 池田 たしかに世界には、さまざまな国があります。伝統や国民性、社会の現状もそれぞれです。政治体制にせよ社会ルールにせよ、たとえある国で正義とされ常識とされているものでも、他の国にとっては、そうでない場合がある。それを、その国の国情を考えずに、何か杓子定規に押しつけるようなことは、戒めなければなりません。
 一九九六年六月、私は初めてキューバを訪れ、カストロ国家評議会議長とお会いしました。いろいろ考えさせられることの多い旅でしたが、その一つがまさに今、申し上げた点でした。
 ご存じのようにアメリカは、社会主義国キューバを、喉元に突きささった"とげ"のように、目の敵にしてきました。
 しかし社会主義とひと口に言いますが、キューバの「精神の父」ホセ・マルティの思想にしても、その言わんとするところは単なる社会主義の枠組みではとらえきれません。幅広く「自由」の意義を含めたものです。
 しかもキューバには、かつてのバティスタ政権という「革命を掲げた政権の腐敗堕落」という苦い経験がある。これに対してカストロ政権は、「ノーメンクラツーラ(旧ソ連時代の特権階級)のない社会主義政権」と言われるほどの清貧さを誇ってきた。
 こうしたキューバならではの特徴、特質を一切無視して、ただ社会主義を掲げているから敵対視する。これには疑問を感じます。
 金庸 おっしゃる意味は、よく理解できます。
 池田 歴史的にもアメリカは、いささか自らを頼むところが強すぎて、とにかく敵味方の区別をはっきりさせたがる傾向があるようです。それは、自主独立を尊ぶアメリカの国民性の表れでもあるわけですが……。
 たとえば、キューバへの経済制裁の強化を狙って最近つくられた「ヘルムズ・バートン法」という法律があります。これは、キューバからアメリカに亡命した人の土地が、キューバ政府の手で没収されて国有地になりますね。一方、キューバも経済開放を進めていて、外国資本がだんだん入っている。そこで、そうしたキューバの土地を借りたり、買ったりする外国の会社は、アメリカで営業することを禁じられ、従業員のビザも拒否するという内容です。
 民主主義の正しさを主張するにしても、もっと幅の広い、複眼的な行き方でなければ、かえって不信の根を深めるだけです。画一的に「これはこうするのが正しい」と押しつけるのは、率直にいって非常に疑問です。
 この点、キューバ問題については、ヨーロッパ諸国の目もアメリカに厳しい。そもそも人口一○○○万の島国が、それでも世界の大国アメリカに対して、四○年近くにわたって屈せずに今日まできた。この事実自体、中南米諸国の民衆のアメリカへの密かな反発、キューバへの共感を抜きにしては考えられないことなのです。話が少し広がりすぎてしまったかもしれませんが。
8  香港報道にみる「予断」と「偏見」
 金庸 興味深いお話です。
 香港の中国返還についても、西側諸国は敵意と反感を募らせています。政府当局だけでなくマスコミ、新聞、雑誌、ジャーナリスト、編集者、作家といった人々まで「一つの自由都市が共産主義者の手に墜ちてしまうとは民主主義の悲劇だ。西側資本主義世界の悲劇だ」と考えています。
 香港に関する一切の報道と予測は、彼らの価値判断、情緒、偏見にもとづいています。現地を見ることなく、自己の主観的な願望に頼って書かれています。そして「一九九七年」後の香港はきっと混乱するだろう、人々の心は動揺し、苦しみにあえぐだろうと、ことさらに強調しています。
 池田 だが、そこには、抜きがたい「予断」と「偏見」がある、とおっしゃりたいわけですね。「対岸の火事」を眺めるような――。
 金庸 ええ。人々の心が動揺するのは、それなりの理由があり、自信が足りないからです。それはたしかです。しかし「九七年以後、必ず混乱する」という見方は、おそらく事実にならないでしょう。まだ「九七年」が来ていませんので、どの意見も推測にすぎないかもしれません。しかし私は、香港に対する十分な理解と、中国の政治に対する理解にもとづいて、そう判断します。池田先生も香港人に対する理解と、香港に対する深い愛情にもとづいて、こう言われています。「香港の明日は、もっと良くなる」と。
 池田 私は香港にかぎらず、その国の将来について展望する場合は、基本的に楽観主義で物事を見るようにしています。
 ガンジー記念講演(一九九二年二月)で引いた言葉ですが、マハトマ・ガンジーも、こう言い残しています。「わたしは手に負えないオプティミスト(楽観主義者)です。わたしのオプティミズムは、非暴力を発揮しうる個人の能力の、無限の可能性への信念にもとづいています」(『わたしの非暴力Ⅰ』森本達雄訳、みすず書房)と。
 人間への絶対の信頼から生まれた、力強い魂の響きのこもった言葉です。何か客観的な条件がととのったから、現状を分析して明るい見とおしが立ったから楽観するとか、というのではない。どんな悪条件が重なっても、それでも手放さない金剛の信念を意味する言葉です。
 もとより、そうした主観的要因だけから言っているのではありません。客観的に見ても、欧米流の民主主義の物差しだけでは計り知れないバイタリティーを、私は香港にも、中国本土にも肌で感じています。
 そのうえで、楽観主義という「心の宝」があるかぎり、行く手に何があろうと、突破口が見いだせないことはないはずです。まして香港の中国返還は、洋々たる可能性に満ちた、歴史のドラマではありませんか。必ず、実り豊かな未来が開けていくと信じます。
 金庸 ありがとうございます。「香港の明日は、もっと良くなる」――この池田先生の言葉には、楽観主義と自信が満ちあふれています。およそ香港人の能力、活力、積極的で努力を惜しまぬ精神を理解している人ならば、こうした見とおしに賛同するはずです。
 ただ私たちは、ここではできるだけ飾り気を取り払って、現実を直視してみましょう。それでも少なくとも次のように言えるのではないでしょうか。
 「長い目で見たとき、九七年以後の香港は、きっと今日よりも良くなっているにちがいない。そして、今後数年という短い歳月を考えても、たとえより良くはならなくても、今日より悪くなることはありえない」と。
9  香港基本法の起草委員の任命を受けた理由
 池田 金庸先生は、返還後の香港の社会体制を決める「香港基本法」の起草委員を務められました。基本法自体も先生が考えられた骨格にもとづいてつくられたとうかがいました。
 とかく人心が揺れ動くなか、先生が示した指針は、香港市民の生活を第一に考え、なおかつ中国政府の立場も熟慮した、最善の内容であったと言われています。
 重責を担われて、さぞご心労の連続だったでしょう。そのうえで、基本法の作成にあたっては、特にどんな点に苦心されたのか。貴重な歴史の証言として、後世のためにうかがいたいと思います。
 金庸 起草委員会に参加するよう要請されたとき、実は大いにためらったのです。当時の私は「明報」の社長として経営と編集に全面的な責任を負う一方、社説まで自分で書いていました。
 もし起草委員会に参加すれば、中国の当局側に立っていると宣言するようなものですし、「明報」のイメージをそこなうにちがいないと思ったからです。
 しかし、そのあと考えました。たった一人で南方にやってきたときは、徒手空拳で何も持っていなかった。それが香港で結婚し、仕事に励み、事業の成功と名誉を手にし、幸福な家庭をもち、幸せな生活を享受するようになった。自分が精を出して努力してきたのはもちろんですが、それらが香港という環境から授かった賜物であることも間違いない。
 池田 「第二の故郷」である香港の現状を、見て見ぬふりなどできなかった……。
 金庸 ええ、香港は、大きな困難に直面していました。そして今後どうなるかは、基本法の内容次第でした。
 私は香港のことであれば、あらゆることを知っています。大学では法律を学びましたので、国際法についても詳しいつもりです。また香港には、友人や身内の者とともに、幾千幾万の読者がおります。彼らの苦楽、喜び、悲しみに、切実な関心をもたずにいられなかったのです。
 起草委員会に参加する人々は、大部分が香港の著名な人物ばかりで、社会から尊敬を受けている人々です。みなさん、名誉、地位、財産、事業をもっておられました。委員会に参加するのは純粋に社会貢献のためであり、なんらかの利益を求めるためではありませんでした。さまざまに考えたうえで、主に「香港の人々にお応えしたい」という動機から、起草委員会の任命を受けることにしたのです。
 池田 恩を知り、恩に応える。人道の根本です。仏法でも「衆生の恩」を説きます。先生は、その人道の根本にもとづいて決断なされた。美しい、尊いお心です。
 先生の日常について書かれた、こんな文章を目にする機会がありました。「金庸は恩を施しても、その見返りを期待しない。しかし『恩を受けて忘れるなかれ』で、金庸に世話になった人が、心からの感激を表したときは、金庸もまた、うれしそうな様子を見せる」。先生のお人柄が、にじみ出ています。
 また「人間であるかぎり、報恩をわきまえるべきだ。香港人が私にくれた恩恵は、とても大きい。必ずや全身全霊でこれに応えなければならない」「私は、ずっとこの『報恩の思想』をもって、この仕事に取り組んできた」と。これは、先生ご自身の言葉です。この信条どおりに働いてこられた。
 私も、これまで中国を訪問させていただくときは、「恩人の国」として礼を尽くしてきたつもりです。日本は仏法をはじめ、ありとあらゆることを中国から、また韓・朝鮮半島から学びました。一人の日本人として、大恩ある国に最大に尽くしたい、恩を報じたい。その思いできました。
 恩を報じる心は、人間の誉れです。その逆は、「裏切り」です。どんな理由をつけて弁解しようとも、一人の人間として、裏切りほど情けなく、恥ずかしく、そして哀れなことはありません。
 「裏切りは、犯罪以上の犯罪である」。金庸先生もよくご存じのゴルバチョフ氏とも、幾度も確認し合った点です。
 ともあれ恩とは、現代人が見失いかけている価値のなかでも、最も大きなものの一つではないでしょうか。その意味で、先生の今のお言葉を、現代人の傲慢さに対する警鐘として、私はうかがいました。
 ところで基本法の起草にあたっては、中国の要人とも意見を交わされ、周到な準備にあたられたとか。
10  四首の漢詩に綴った起草参加の経緯と心情
 金庸 先ほども話に出ましたが、一九九四年三月、私は招きに応じて北京で中国共産党の江沢民総書記と会見しました。その後、会見の模様などを「北国の初春に思うこと」と題する文章にまとめましたが、そのなかに基本法の起草に参加した経緯や、感想を綴った漢詩四首を収めました。
 ここで、その漢詩を引かせていただき、起草に参加した当時の心情と、その過程を簡単に示したいと思います。
  南来白手少年行 立業香江楽太平
  旦夕毀誉何足道 百年成敗事非軽
  聆君国士宣精闢 策我庸駑竭愚誠
  風雨同舟当協力 敢辞犯難惜微名
 (若いころ何ももたずに南へやってきた/そして香港で事業を成し遂げ、太平を楽しんでいる/〈起草委員になって〉けなされたり、持ち上げられたり。しかし、そんなことは意に介さない/百年の成否に関わることは決して簡単なことではない/国士たる者から優れた意見を聞く/私は凡庸であるけれど愚直に誠意を尽くそうとする/「風雨同舟」で協力すべきであり/ちっぽけな名声を惜しんで、困難を避けることなどできようか)
  京深滇閩渉関山 句酌字斟愧拙艱
  五載商略添白髪 千里相従減朱顔
  論政対酒常憂国 語笑布棋偶偸閑
  銭費包張倶逝謝 手憮成法涙潸潸
 (〈起草委員会に出席するため〉北京・深圳・雲南〈昆明〉・福建〈厦門〉を渡り歩いた/草案の語句の検討・推敲は、難しくてなかなか進まない/五年にわたる検討で、めっきり白髪も増え/千里の道を一緒についてきた妻も疲労のために痩せてきた/〈委員の方々は〉政治を論じ、時に酒を酌み交わしながら、常に国を憂い、たまには談笑したり、囲碁を打って、くつろいだひと時を過ごすこともある/銭昌照・費彝民・包玉剛・張友漁の皆さんは既に逝去した/完成した基本法を手にしながら、彼らを思って涙が止まらない)
  法無定法法治難 夕改朝令累卵危
  一字千金籌善法 三番四復問良規
  難言句句兼珠玉 切望条条奠固基
  叫号長街焼草案 苦心太息少人知
 (定めた法がなければ法治することは難しい/朝令暮改は卵を重ねるように不安定で危険である/金もかけ、一字一字慎重に検討して善法を作り上げ/何度も推敲を繰り返し、よりよい規範を問いかけた/一句一句に珠玉の輝きがある名文とまではいかないが一条一条が/固い基礎を作り上げてくれることを切望する/しかし草案に不満な人々が、デモ行進をしながら反対のスローガンを叫び、草案を焼く/我々の苦心を知る人は、あまりにも少ない)
  急躍狂衝搶険灘 功成一蹴古来難
  任重道遠乾坤大 循序漸進天地寛
  当念万家繋苦楽 敢危百姓耐飢寒
  譁衆取寵渾閑事 中夜撫心可自安
 (急進的なやり方は、あまりにも危険であり/古来、物事が易々と成し遂げられることはない/責務は重く、道は遠く、世界はあまりに大きいが/順序立てて一歩一歩進めば、天地は広がる/〈指導者というものは〉万民の苦楽を思うべきであり/庶民が苦しむことに対して、どうして目を背けることができるだろうか/大衆に媚びて人気を取ることは簡単だが/夜中に自分の心に問うたとき、本当に後ろめたくないだろうか)
 池田 感銘しました。「〈指導者というものは〉万民の苦楽を思うべきであり/庶民が苦しむことに対して、どうして目を背けることができるだろうか」とのお言葉に、万感の思いを感じます。
 自分は、どう言われてもいい。人のため、民のために尽くそう――民衆を思う金庸先生の真情があふれています。
 ご存じのとおり大乗仏教では、「菩薩行」を最も大切なものと教えています。その菩薩の心に通じる広い、深いお心を見ます。
 香港、台湾、中国、そしてアジア、世界へと、常に天下の人民を思い行動する。この菩薩の戦いを貫いてこられたのが金庸先生ご自身であられると、私は尊敬を込めて申し上げたいのです。
 金庸 温かいお言葉です。
11  すべては「幸福をはかる」ところから出発
 池田 先生は「明報」の社説で返還問題を取り上げた際、こうも言われました。
 「急進を主張するにせよ、穏健を主張するにせよ、真に中国のため、香港のため、香港人のため、その幸福をはかるところから出発しさえすれば、意見の違いなど、たいしたことではないはずだ。なるべく心穏やかに討論し、意見を交換する。互いに仇敵を相手にするように敵対する必要などない」と。
 すべては幸福をはかるところから出発すべきである――若き日、敗戦の直後、三木清という哲学者の『人生論ノート』という本を読みました。そこに、こうありました。「倫理の本を開いて見たまえ。只の一個所も幸福の問題を取扱っていない書物を発見することは諸君にとって甚だ容易であろう。(中略)幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実において虚無主義にほかならぬ」(『三木清全集』第一巻、岩波書店)。忘れられない一節です。
 人間、何のために生きるのか。幸福になるためです。宗教も、政治も経済も、人間が幸福になるための「手段」です。ところが、この幸福という根本の目的が、意外に忘れられています。そのために「手段」であるはずの宗教や政治や経済に、かえって人間が縛られている。とんでもない転倒です。
 ゆえに私たちはもう一度、先生の言われるように「幸福をはかる」ところから出発すべきです。根本に立ち返るべきです。これも現代人にとっての焦点の課題と思います。
 それにしても基本法の起草作業には、五年もの歳月をかけられたわけですね。その一事からも、難事業だったことがわかります。
 金庸 委員会の下に五つのグループが作られ、私は「政治体制グループ」の責任者(香港側)に任命されました。もう一人の責任者(中国側)は、北京大学法学部長の蕭蔚雲教授です。
 蕭教授はソ連に留学したことがあり、法学の知識は奥深く、多くの著作があります。かつて中華人民共和国憲法の改正作業にかかわったことのある法学の権威であり、人柄はたいへん穏やかで、開かれた思想の持ち主です。
 池田 ご同胞とはいえ、それぞれ立場も経歴も違う。意思の疎通に、ご苦労もあったことでしょう。
 金庸 私と教授も時に意見が合わないことがありましたが、そんなときも率直に討論し、議論を戦わせることができました。あるとき、香港の記者たちが集まった前で、かなり激しい議論を戦わせたことがあります。中国内地の法律を香港特別行政区に適用する問題についてです。
 このときは教授のほうが遠慮して、譲歩してくれました。私は心中、とても感激し、自分の態度が良くなかったと自分を責めました。このことがあってから二人は良き友人になったのです。のちに私の小説について、中国内地での版権問題が起こったとき、教授は自分の教え子を紹介してくださり、問題処理に協力してくれました。
 池田 金庸先生と蕭教授という、お二人の意気投合したリーダーを中心に、グループの討議が進められたわけですね。
 金庸 私たちのグループは、将来の特区の政治体制について起草する責任を負っていました。とても重要な内容ですので、論争も他のグループに比べて格段に多かったと思います。
 私たちはおおむね中英共同声明の協議内容にもとづき、行政・立法・司法の三方面が、それぞれ独立して権力を行使する職権を定めました。
 問題は行政長官および立法会議員の選挙方法に集中しました。私と蕭教授はじめ大多数の委員は、現行の政治体制をなるべく維持し、あまり改変を加えるべきではないと主張しました。これに対して李柱銘氏(弁護士)と司徒華氏(香港教師協会主席)の二人は、急激で大規模な民主改革の推進を要求し、行政長官と立法会議員を選出するために、特区成立後、ただちに一人一票の選挙区直接選挙を実施すべきだと主張したのです。
 二人はグループ内では少数派でしたが、自分の意見を固く守って譲らず、ほかの委員と激論を交わすことが常でした。しかも香港のマスコミ界や青年、学生の支持を得て、たびたび群衆を利用した圧力の行使を行いました。具体的には群衆を動員したデモ行進や署名運動、また公然と基本法草案を燃やしたり、明報ビルの前で「明報」を燃やして抗議の意思を表すなどの行動に出たのです。
12  民意を正しく汲み上げることの難しさ
 池田 先日、初代の行政長官には、董建華氏が選ばれましたが、日本のテレビでも、その模様を報じていました。直接選挙を行うかどうか、大きな焦点になっていたことは知っております。
 民意を正しく汲み上げることは、容易なことではありませんね。たしかに、直接民主主義的な手法というものは、民主主義の原点のように見えても、一歩間違えると「アテナイの民主主義がソクラテスを殺した」といった衆愚政治の轍を踏みかねない。逆に、ルソーが嘆いたように「民衆は選挙の間だけは主人だが、あとは奴隷である」ような事態では、政治が民意から浮き上がって、民衆の政治離れを加速させてしまうでしょう。そのジレンマというか、ご苦労はお察しします。
 金庸 基本法の起草過程で最も困難をきわめたのは、今、お話の出た行政長官と立法会議員の選挙方法でした。
 「民主派」と呼ばれる香港の急進的な人々の主張は、あまりに急進的すぎるもので、私とグループの大部分の委員は、とても通用するものではないと考えました。
 イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、日本、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの民主国家でも、直接選挙で国家の行政の長を選んでいません。国会も通常、衆参両院または上下両院に分かれています。これは選挙民の投票権も決して完全に平等ではないことを表しています。つまり、社会における特殊な階層がもつ伝統的利益に配慮がなされているのです。
 池田 そのあたり、グループ内の見解が分かれるところだったのですね。
 金庸 私は理論上の問題について、「民主派」の学者や宣伝家たちと激しい論争を展開しました。
 論争相手は、事実を顧みることなく、ひたすら声高にスローガンを叫び、「一人一票の直接選挙」を要求したのです。しかし実際には一人一票の選挙区直接選挙といっても、必ずしも最も公平で、最も民主的な選挙制度とはかぎらないのです。
 日本が最近、行った国会の選挙では、旧制度を二つの部分に分けました。五○○人の議員のうち三○○人を小選挙区から直接選挙で選び、二○○人を政党の比例によって選びました。どの選挙民も、二票を投じたわけです。「一人二票」への改正です。
 香港の青年と学生は、宣伝と扇動の影響を受け、具体的な状況を冷静に考えることがなかった。一方的に「およそ中国当局と同じ意見をもつものは、親共産主義者であり、香港人の利益を売り渡す者だ」と思い込んでしまったのです。
 池田 お考えは、よくわかりました。金庸先生は政治的安定を最優先に考えられたわけですね。
 金庸 ちなみにパッテン総督が提起した民主化法案は、元来の「職能別団体選挙」を別のかたちの「一人一票の直接選挙」に改めようというものです。これは基本法の規定に合致したものではありませんので、中国側は絶対に認めず、九七年以降は完全に無効とする決定をくだしています。
 池田 注目される返還まで、あと半年。私は重ねて祈ります。また信じます。香港の方々が、歴史の荒波に果敢に立ち向かうなかで、自分たちさえまだ知らない新しい可能性を大きく開いていかれんことを。
 「九七年問題」がはらむ歴史的意義については、まだまだ語り合いたい点があります。回を改めて続けたいと思います。

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