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日蓮大聖人・池田大作

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対談にあたって  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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1  【著者略歴】
 金庸(きんよう)
 一九二四年浙江(せっこう)省海寧(かいねい)県生まれ。五五年に処女作『書剣恩仇録(しょけんおんきゅうろく)』を発表以来、世界の中国語圏に幅広い読者層をもつ、武侠小説の作家。
 香港を代表する日刊紙「明報(めいほう)」、文化誌『月刊明報』を創刊し、言論界に重きをなす。内外の政府首脳とも対話を重ね、中国返還後の香港のあり方を決める「香港基本法」の起草委員を務め、香港特区準備委員会の香港側委員も歴任した。九三年に「明報」の社主を引退。
 代表的な作品に『碧血剣(へきけつけん)』『雪山飛狐(せつざんひこ)』『射鵰(しゃちょう)英雄伝』『天龍八部』『連城訣(れんじょうけつ)』など多数。
2  池田大作(いけだ・だいさく)
 一九二八年東京都生まれ。創価学会名誉会長、創価学会インタナショナル(SGI)会長。創価大学、創価学園、民主音楽協会、東京富士美術館、東洋哲学研究所、また香港、シンガポール、マレーシアの創価幼稚園などを創立。六○年に創価学会第三代会長に就任。同会の飛躍的かつ国際的な発展をもたらす。六八年、いち早く「日中国交正常化」を提唱。平和・文化・教育の推進に尽力し、世界の知性と対話をすすめる。
 代表的な著作に『人間革命』(全12巻)『私の世界交友録』『私の人間学』(上・下)、対談集に『二十一世紀への対話』(A・トインビー)『二十世紀の精神の教訓』(M・ゴルバチョフ)など多数。
3  抗日戦争が続いていたある夏休み、学友のほとんどは帰省し、帰るべき家を失った私とわずかな学友だけが、学校に残った。酷暑にあえぐ日々、炎天下でできる運動といえば水泳ぐらいで、他には何もできない。そこで、私は仕方なく、教室で読書に没頭することにした。
 読んだものは、『資治通鑑』とH・G・ウェルズの『世界史概観』(『THE OUTLINE OF HISTORY』)である。『資治通鑑』は中華書局から出版された和綴じ本で、字がとても大きく、糸で綴じられた薄い一冊一冊を手に取ると、古典を読む喜びが自然と沸き起こってきた。『世界史概観』は挿し絵の入った洋装本で、厚くて重たい。こちらは手に取って読むわけにはいかず、机の上に広げて読んだ。書中の挿し絵を楽しみながら、ウェルズの華麗な文章で描かれた世界史の諸相を堪能した。読書に倦むと、細長い腰掛けに、汗だくの体を横たえ、手足を縮めたままでひと眠りし、目が覚めると、また読書にとりかかった。腰掛けは半尺ほどの幅しかないもので、『阿Q正伝』に出てくる「条凳」というのが、まさにそれである。こうして一夏中、この腰掛けの世話になったが、不思議なことに、眠っている間におっこちてしまったということが、一度もなかった。私は『神鵰侠侶』で、小龍女が一本の縄を張って、その上で眠ったことを書いたが、今から振り返ってみると、このときの体験からインスピレーションを得て、考えついたものかもしれない。ともあれ、この夏休みは、中国と西洋の優れた二つの歴史書を伴侶にして、楽しく充実した日々を過ごすことができた。
4  後に、英国のある歴史学の教授がウェルズのこの著作を批判した文章に出合った。内容は、ウェルズが歴史事実を処理するうえで慎重さを欠き、証拠が不十分なままで結論を下しているため、学術上公認されている規則に適合しない、と指摘するものだった。私は、この厳格な批評に完全に信服し、学術研究を行うことと華麗な文章を書くことはまったく別のことである、とつくづく思った。同時に、『資治通鑑』に綴られている司馬光の文章も、縦横に筆をふるった典雅で優美なものだが、おそらくこれも、真相に必ずしも合致せず、粉飾が少なからずこらされているのであろう、と推察せずにはおれなかった。
 抗日戦争に勝利した後、西南地方から故郷に戻ってきた私は、上海西書店でアーノルド・トインビーの大著『歴史の研究』(『A STUDY OF HISTORY』)の縮刷版を見つけ購入した。寝食も忘れ、夢中で読み進めるうち、四分の一ほどの所で、俄然、これまでに聞いたことも見たこともないきらびやかな世界に入っていくような感覚にとらわれた。想像するに、『紅楼夢』の劉おばあさんが大観園に初めて入って、見たり聞いたりしたものも、これほどのことはなかっただろう。世界に、このような学問、このような見解があろうとは、夢にも思わなかった。トインビー博士は、豊富な史実に基づき、世界の各文明が存在し、さらには繁栄と発展を持続できるゆえんは、何れの場合においても、重大なる「挑戦」を受けながらも、それに対し、見事に「応戦」しうる能力を備えていることによる、と結論を出している。私はこの法則に、はなはだ得心した。そして、この本を読めば読むほど、心の中のある思いがますます強くなるのを感じた。それは、もしトインビー博士の教え子になって、彼の教えを受けることができたなら、たとえその後の一生が、貧しく落ちぶれ、苦労に苦労が重なり、揚げ句の果てに、路上で行き倒れて、屍を拾ってくれる人がいなくても、きっと幸福で満足な人生にちがいない、ということだ。
5  香港に来て、『大公報』に勤務しているとき、トインビー博士のこの大著の縮刷版(この大著は全部で十二巻あるが、当時はまだ未完成だった)を翻訳しようと思い立ち、仕事の合間を縫って、取り組んでみた。西洋史の修養が十分ではなかったので(特にエジプト、バビロン、ペルシャ、中央アジアに関する部分)、難しい箇所にぶつかると、粗末ながらも独学しては足りないところを補い、対処していった。私は当時、こうした困難こそ、トインビー博士が言われる「挑戦」であると考えていた。しかし後に、仕事上の必要から、中共の革命戦争や朝鮮戦争といった時事問題を扱った書籍を何冊も翻訳しなければならなかったため、『歴史の研究』は横にのけてしまった。さらに、台湾で出版された陳暁林の同書の翻訳本を目にするに及んで、若いころに始めたこの努力は、ここで永久に放棄することになったのである。
 その後、数十年間、およそトインビー博士の著作で、買ったり、借りたりできるものであれば、必ず手もとに取り寄せて熟読した。こうして、『試練に立つ文明』、『戦争と文明』、『東から西へ―世界漫遊記』といった著作の数々を読みこなすなか、トインビー博士と池田大作先生の対談集『二十一世紀への対話』に巡り合った。
 『二十一世紀への対話』を読んだとき、私はすでに、マルクス・レーニン主義に関する数多くの著作に目を通していたため、書中で、トインビー博士がキリスト教精神を過度に推賞する発言に接したときは、やや覚めた気持ちになって、間隔を置いてしまった。そして、これ以後、以前のようにトインビー博士を無条件に敬服することはなくなった。しかし、二人の該博な知識、人類社会の行く末を思う広い心に、深く感動してやまなかったことはいうまでもない。
6  北京大学から名誉教授の称号を授与されたとき、かつて何人かの日本の著名人が候補者として挙げられたが、いづれも教授会の承認が得られなかった、という話を聞いた。何となく申し訳ない気持ちでいると、池田大作先生が私の先輩であったことを聞き知り、安堵とともに、光栄がより大きく増したように感じた。後に、『月刊明報』総編集の潘耀明先生から、池田先生と対談してみてはどうか、という提案を受け、私はもちろん喜んで賛同した。ただ、いっぽうでは、池田先生の名声と学識を考えたとき、私など不つり合いではないかと心配し、恐縮した思いがぬぐえなかった。
 ところが、その後、実際に池田先生との対談が、香港と日本を行き来するなかで行われだすと、対談が知識上の交流であるだけでなく、精神と友情が織り成す、とても大きな喜びでもあることを知った。私たちは、すべての問題において、意見が一致しているわけではない。しかし、私は心から、池田先生が、日本は中国を侵略した事実に対して、誤りを認め、謝罪すべきだ、とあくまで主張されていることに感服し、恐喝や誹謗・中傷に断固として屈せず、正しい道理に基づいた大いなる勇気を抱いて、奮闘しておられることに感服し、世界平和と各国人民の文化交流を促進するために、たゆまぬ努力をなされていることに感服している。
 対話は即興で行われた。あるときは食事の席で、あるときはお茶を飲みながら、またあるときは、山水の秀、庭園の美を愛でながら。私自身は、学識が浅薄で、ややもすればよく考えもしないで口から出まかせにしゃべっているので、誤りや不十分なところが多々あると思う。読者諸兄にご指教をお願いする次第である。私のこうした浅見が、もし珠玉のような池田先生の言葉の後につき従ったものでなければ、北京大学創立百周年の記念出版物としては、とても体裁を調えることなどできなかっただろう。ただ、私たち二人は共に、学術の尊厳と開放を尊重し、学術研究を尊敬し、学術の進歩が、世界、社会、人民に対して、有益な貢献をなすことを切に希望している。この心は、私たち二人を名誉教授として迎えてくださった「北京大学の精神」と響き合うものではないだろうか。
7  最後に、対談の進行に当たり、通訳を務めてくださった洲崎周一先生、翻訳を務めてくださった孫立川先生、ご尽力くださった香港国際創価学会・理事長の李剛寿先生、陳萍生先生、『月刊明報』総編集の潘耀明先生、編集担当の甄艶慈さんに、深く感謝の意を表したい。
  一九九八年三月 金庸

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