Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

3 父から子へ――体験、精神の継承  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

前後
1  魂のパン――詩は人間にとって不可欠
 池田 マルティは「ホイットマン論」の中で、「詩は人間にとって不可欠のものではない、と主張するわからずやはだれでしょう?」(「ウオルト・ホイットマン」、前掲『キューバ革命思想の基礎』)と書きました。
 「皮だけがくだものだと信じている精神的にきわめて近視眼的な人びとがいます。人びとを融和させたり離反させたり、強めたり苦しめたり、精神を支えたりくじけさせたり、信念と力を与えたり奪ったりする詩、それは人びとにとって、産業そのものよりも必要なのです。というのは、産業は人間に生存の手段を与えてくれるのにたいして、詩は生活の意欲と力を与えてくれるからです」(同前)
 また、こんなエピソードが伝えられております。
 「松」の種を蒔く老人を見て、マルティが感謝の念を語ったのに対して、同行の少年が「綿や小麦、もっと糧になる有用なものを蒔く人に対してこそ、もっと感謝すべきです」と言った。
 すると、マルティは「画家で音楽を勉強している君が、どうしてそんなことを言うのかい。君はヴィクトル・ユゴーやアミーチスに感動するだろう?人はパンのみにて生くるにあらず、ということを思い出してごらん。そして、詩人のことを考えてごらん。人間の物質的、精神的面を支えるために、すべてが必要であり、有用なんだよ」と。
 この言葉どおり、魂も糧を欲する。まことに「人はパンのみにて生くるにあらず」であります。「詩は人間にとって不可欠」なのであります。
 もちろん、人間が生きていくために“パン”は必要です。民衆が食べることに困らない社会は、古来、一つの理想とされてきました。しかし一歩間違えれば、それは容易に「食べさせておけばよい」というお仕着せや見下しに転化してしまう。貧しい民衆を救わんと立ち上がった革命家にして、いつしか、そうした民衆蔑視の落とし穴に堕してしまった例は、枚挙にいとまがないでしょう。
 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』などで、赤裸々にえぐり出しているところです。
 ところが、マルティは、この“魂のパン”の不可欠なることを絶対に見失わなかった。「詩で教育せよ」――それによって、民衆の魂を高貴ならしめることが、キューバ革命に不可欠であることを知っていた。
 それは、彼が徹頭徹尾、民衆を愛し、尊敬していた証であると私は思いますが、いかがでしょうか。
 ヴィティエール 先に私が部分的にふれた、「詩は人間にとって不可欠なものである」とするマルティの主張を補ってくださったことを感謝いたします。
 たしかに、これは基本的な思想であって、私たちがこれまで考察を行ってきた政治と詩の関係が、
 あなたの発言により、さらに確固たるものとなりました。
 民衆に詩が不可欠であるとする彼の発言の大胆さをおもんぱかるには、あの一八八〇年代当時、産業(大文字で強調されるべきです)は女神、つまり「進歩の女神」「産業革命の女神」のようなもので、私たちはその子どもであり、マルティ自身も、その女神に対して、しかるべき敬意を表していた、ということを想起すべきでしょう。
2  池田 民衆の名を口にする人は多いが、真の意味で民衆を愛している人は少ないものです。
 ドストエフスキーは「わが国の賢人たちが民衆に教えることのできるものはあまり多くはない。わたしは断言してはばからないが――むしろその逆である。賢人たちこそまだまだ多くのことを民衆に学ばなければならないのだ」(『死の家の記録』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』4所収、筑摩書房)と書きました。
 民衆に学べ――それどころか、マルティにとっては、「文学は、それを生み出した民衆を表現するのでなければ、ただの空虚でしかない」ものでありました。
 「歌」は民衆の興隆の息吹です。
 前進の足音であり、魂のほとばしりです。
 創価学会の民衆運動も、にぎやかな歌声とともに勝利の前進をしてきました。
 革命の息吹が新たな歌を生み、その歌声が革命を鼓舞していく――こうした例は、歴史に多数あります。おそらくマルティも多大な関心を払ったであろう、かのフランス革命も歌声とともにありました。
 今日、フランス国歌となっている「ラ・マルセイエーズ」は、その頂点に位置するものでしょう。それが、いかに人々の心を鼓舞していったか、
 たとえば次のような同時代の将軍の証言が残っています。
 「私は戦闘に勝った。《ラ・マルセイエーズ》が、私とともに指揮した」
 「一〇〇〇人の援軍か、さもなくば《ラ・マルセイエーズ》の歌詞を一枚送られたし」
 マルティもまた、こうした「歌の力」に無関心であったとは思えません。
 キューバで、曲をつけて愛唱されているようなマルティの詩はあるのでしょうか。作曲は別の人の手になるとしても、その歌を通して、マルティの肉声が、マルティの精神が、人々の心に蘇ってくるような――。
3  ヴィティエール マルティが詩に帰している力も、けだし女神のように、人間に“生きるための意欲や力”を与えたり、あるいは奪ったりすることのできる、卓越した詩神の働きそのものでした。
 このようなマルティの考え方は、エスプロンセダのような詩人を、彼がなぜ高く評価するのかという基準の一つを明らかにしてくれます。
 最初にスペインに到着したばかりの若きマルティは、エスプロンセダについて、次のように述べています。
 「彼はみじめな生活を送った。あまりに長くみじめな生活を続けたので、みじめさは彼の中の一部となった(中略)しかし(人生のみじめさのみにスポットを当てる彼の詩に)無分別で不当な賞賛を行って、彼を蝕んだ壊疽を他の人々の心に感染させてはならない」と。
 そこでマルティは一つの義務を設定しました。「天才は人類の美徳と、よりよい完成をめざして身を捧げるべきである」と。
 彼自身は読者を憂鬱にし、自信を失わせ、
 気力を萎えさせるような作品を懸念し、自分の書いた「キューバの詩」(『自由詩』の中でもっとも悲痛な作品でしょう)について「あまりにも不満と怒りに満ちているので、読まれるべきではない」と言い、実際、あまり苛酷で苦痛に満ちた彼の作品は、生前、決して出版されませんでした。
 マルティが詩に重大な道徳的責任がある、と考えていたことは明らかですが、その詩が美的魅力をもてばもつほど、その責任を重視しました。
 しかしながら、私たちにとって、彼が権力を握って、“健康的な”文学を押しつけている姿は、想像できないことです。まさにあなたが言及されている見解です。
 マルティは、ホイットマンの書いた“禁書”の中に含まれる否定しようのない価値を、経験によって知っていましたし、オスカー・ワイルドのような“非道徳的な”作家を評価して、讃える文章も書いています。
 このようなデリケートな問題に関しては、盲目的な検閲を行うことには反対して、知性と国民を尊重し、自由な討論を提案したことでしょう。
4  詩人は自分自身を食べて生きる
 池田 「社会主義リアリズム」の名のもとに、旧ソ連邦や東ヨーロッパで猛威を振るった“不健康な”文学や芸術に対する弾圧は、あまりに浅薄な考え方に立脚しています。
 彼らは人間の精神は、外から“健康的な”作品を与えておけば、そのまま健康になりうるかのごとき錯覚におちいっていました。
 そうではなく、まさにマルティがそうであったように、
 精神の健康というものは、善と悪、神性と獣性が激しく対峙、相克する内面的な葛藤をへて、初めて獲得することができる宝です。
 この当然の常識を無視して“消毒済みの”“健康的な”作品のみで書棚を埋め尽くそうという愚挙を犯したのが、社会主義リアリズムで、戦後のスターリニズム下のソ連を席巻したイデオロギーによる文化支配の“ジダーノフ体制”など、その典型です。
 真の意味での自由人であるマルティのメンタリティーとは対極に位置しているといえるでしょう。
 ヴィティエール これまで申し上げてきたことは、キリストの格言「人はパンのみにて生くるにあらず、神の全ての言葉にて生くるものなり」を、マルティが彼なりに解釈していた、ということが背景にあると思われます。
 古代のギリシャやラテンの人々にとって、神々の言葉は詩でした。
 逆説的なことに、ロマン主義革命が詩人をふたたび、そのような立場に立たせることになったのです。若いころ、マルティも同じような考え方をしており、グアテマラ滞在中に、ホセ・ホアキン・パルマに宛てた手紙の中で、「神の世界がやがて来ることを予告し、約束する」特権をもつ人々として、詩人を位置づけています。
 だが、フアン・アントニオ・ペレス・ボナルデの『ナイアガラの詩』のために書いたプロローグの中では、すでに違った考え方をしていて、次のように述べています。
 「現代のダンテはおのれのなかで、おのれを食べて生きるのです。ウゴリーノはわが子を食べましたが、この詩人は自分自身を食べて生きています。この詩人の内面ほど、なんども咬まれたパンは、いまの時代、ほかにありません。心の目でこの詩人の痛々しい拳とむしり取られた翼を見ると、血が出ています」(青木康征訳、『選集』1所収)と。
 これは、もはや『自由詩』の葛藤に満ちた詩人であり、この詩集の幾篇かは、バジェホを予感させてくれるものです。バジェホ自身は、もちろん、ごく若いころにこのプロローグを読んでいましたが。
5  民の声は神の声――民衆に根ざす真実
 池田 年齢を重ねるにつれて、作風に変化が生ずるのは当然のことで、卓越した精神性の持ち主であればあるほど、その傾向は強いようです。
 激しく生きれば、それにともなって魂の成熟がなされるのは必然だからです。プラトンなどは、若いころと長じてからは、文体そのものが一変している、との指摘もあります。
 ヴィティエール 十一年後、『素朴な詩』という均衡のとれた作品に達したところで、フリアン・デル・カサルの悲惨な死について書いたとき、マルティは次のような円熟した言葉で、文を結んでいます。
 「尊厳なる生には、詩がつきものである。すべては、人生の節々に立ち現れてくる不正義とどう戦い、どう乗り越えていくかという道徳的課題にかかっている。まだ行うべき善があり、守るべき権利が存在し、読むに値するたくましく健康的な本があり、林にやすらぎの場所があって、善女や真の友人がいるならば、ときとして、復讐心や強欲による悪行につきものの憎悪に支配されることがあっても、感受性を備えた心は、必ず美と生の秩序を愛し讃える力をもつことができるであろう。
 その力の偉大さは、その勝利によって証される」
 もうすでに、聖職者や預言者のような詩人という少し抽象的な、初期のイメージではありませんし、また、存在の苦しみと信条の危機によって引き裂かれた自我の、いらいらした響きの声でもありません。
 “民の声は神の声”とも言われますが、マルティは最終的に、幼いころに聞いた民衆の調和のとれた賢明な声を蘇らせ、魂のなかで「素朴なキューバ人や楽しい農民」の歌を響かせたのです。すでに申し上げましたが、キューバ国民はそれに応えて、『素朴な詩』をわがものとしたのです。
 それは、このように始まります――。
  「わたしは誠実な男
   棕櫚の育つ地に生まれた
   そしてわたしは死ぬ前に
   魂の詩を歌いたい」(井尻直志訳、『選集』1所収)
 この詩篇は、彼の精神性の結晶であり、集大成でもあります。これに「グループ・オリヘネス」の偉大な音楽家フリアン・オルボンによって、一九五〇年ごろ見つけ出された、島東端に伝わっていた農民の曲がつけられたのです。
 そして詩人や友人の親しい仲間の集まりなどで歌われて「グアンタナメラ」という歌が生まれたのですが、革命後にはマルティの讃歌になりました。現在では、世界中で親しまれる曲となっていますが、私たちが東京や京都を訪れたときにも、創価学園のすばらしい生徒たちが、この歌を歌って迎えてくださいました。
 池田 まさに「民衆に根ざす真実」です。
 『素朴な詩』のマルティは、トルストイ――ナースナヤ・ポリャーナで農民の子弟のために学校を開き、民衆と親しく交わっていたころのトルストイを想起させます。ロマン・ロランの『トルストイの生涯』には、トルストイがある友人に宛てた手紙が紹介されています。
 「私は自分の話し方と書き方とを変えました。民衆の言葉には、詩人が言いたいことをすべて表現するに足りる音が含まれていて、私にはひじょうに貴重に思われます。それは詩の最も良い調整者です。なにか過度なこととか、誇張的なこととか、偽りのことなどを言おうとしても、その言葉はそれに耐えられないのです」(蛯原徳夫訳、岩波文庫)と。
6  未来の使者へ――「黄金時代」にかけた夢
 池田 「ぼくは信念をもってこの仕事を始めた。外見はつつましいけれど、大切な思考が欠如していない真面目で有益なものなのだ」
 「ぼくが助けたいと思う人間を助けられるような雑誌でないといけない。生まれた国で幸せになるように育てられた、独創的な人間で国をいっぱいにするためだ」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)
 マルティは一八八九年、「黄金時代」という表題のもと、ラテンアメリカの少年少女向けの月刊誌を創刊しました。
 「現在」のみならず、「未来」をしかと見据えた指導者であるならば、未来の宝であり未来からの使者である子どもに、限りない慈しみの目を向けることは、必然といえるかもしれません。
 しかし、当時としては、ありきたりのことではなかったはずです。
 ドイツの詩人ノヴァーリスは「子どもたちがいるところ、そこに黄金時代がある」(『断章』)と書き、イギリスの詩人ワーズワースは「子供は大人の父親」(「虹」、平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫)とうたいました。マルティ自身「すべての子どもたちのなかには一人の大人がひそんでいる」と書いています。
 子どものなかに「大人」を見、未来の果実を見る。それはまさに詩人の目であります。
 じつは、恩師戸田城聖先生も、児童雑誌を主宰しておりました。また、私自身、二十代初めの一時期、児童雑誌の編集長を務めたことがあります。現在も、青少年向けの童話・小説を書いたり、新聞で中学・高校生のために人生のアドバイスを語っています。
 それだけに、マルティの「黄金時代」には強い興味をおぼえます。
 彼がこの「黄金時代」を創刊した経緯と、その内容はどんなものだったのでしょうか。子どもたちが、この雑誌をどう思っていたか、率直な反応を示すエピソードなどは残っているでしょうか。
 また、これに関連して、マルティの最初の詩集『イスマエリーリョ』は、彼の息子のフランシスコに贈られました。これをつくるにいたった経緯、その中のもっとも有名な詩はどんなものでしょうか。
 ヴィティエール いろいろな質問をいただきましたが、まず、その『イスマエリーリョ』についてお話ししましょう。
 一八八一年一月、ベネズエラのカラカスに到着したとき、マルティは二つの苦しみを背負っていました。
 一つは「小戦争」として知られる、革命の企てが失敗した結果、ふたたびスペインへ追放されて、その後、アメリカ合衆国で一年間、過ごさざるを得なかったこと。
 もう一つは、妻であるカルメン・サヤス・バサンとの、最初の深刻な争いでした。彼女は一八八〇年の十月、まもなく二歳になろうとする息子ホセ・フランシスコを連れて、キューバに帰国してしまっていたのです。
 このような状況のなかで迎えた息子との別離は、とりわけつらく、父親の喜びを失った苦しみと息子を懐かしむ気持ちから、これらの詩篇は生まれたのですが、苦悩にもかかわらず、献辞――そのすばらしい献辞の後半には、意義深い楽観主義が表明されています。
  「息子よ――
   私はあらゆることに驚いて
   お前のなかに逃げこむ。
   私は人間が進歩することに、
   われわれの未来の生活に、
   美徳の有効性に、
   そしてお前に希望を託している」(牛島信明訳、『選集』1所収)
 この「驚き」のほうは、この詩集にではなく『自由詩』の中に反映されました。この詩集は、グアテマラ滞在中――ここで「時代は解放されている。詩よ、自由であれ」と書いています――に、書き始められたものと思われます。「真夜中」という詩篇の末尾に記されたメモには、二十五歳と書かれていますから。
 “新しい詩神”の訪れとそのやさしさは、『イスマエリーリョ』を人生の純粋な力を讃えるような作品としています。
 「小さな王子さまのためにこのパーティーは催される」(同前)
 との言葉で、初めの詩篇は始まっており、おそらく、この部分はもっともよく知られているところです。
 この輝きと賑わいに満ちた言葉のパーティーは、全テキストにわたって繰り広げられ、パーティーはたんなる楽しみのためのパーティーではなく、悪の力に対抗する闘争とドラマのパーティーであり、夢のなかのイメージのように、その悪は精神の痛みとともに、打ち負かされるのです。
7  父は子を守る以上に何を望むか?
 池田 『イスマエリーリョ』という題名の由来は、どこから来ているのでしょうか。
 ヴィティエール なぜ『イスマエリーリョ』と題されているのかということですが、イスマエルは聖書によれば、アブラハムと女奴隷のハガル(“逃亡者”)との間に生まれた息子です。マルティが、つねに特別の親近感をいだいていたアラブ民族の創設者の名前でもあり、彼の産声は砂漠のなかで聞こえたので、ヘブライ語では“神が聞くであろう”という意味があります。
 また、マルティ自身も「空と同じように、空のすべてのものよりも、地上のすべてのものよりも、愛するわが息子よ、この子をホセと呼ばず、イスマエルと呼ぼう――ぼくが味わった苦しみを、もう繰り返すことがないように」と記しています。
 この言葉を通して、マルティの長期的、教育的目的がうかがえるのですが、それは彼の献辞の最後の部分に、確認できるでしょう。
 「このような小川が私の心を流れて行ったのだ。その流れがお前の心にも達するように!」(同前)
 当時は、まだ息子が幼すぎて、そのような小川が流れ着くのは不可能でした。
 マルティが、自分の子どもの精神面の教育をみずからの手で行うことの不可能を半ば予測しながら、『イスマエリーリョ』に託した、明白な、あるいは暗黙のうちの教育的メッセージは、青年期の息子、未来の若者に対して送られたのです。
 その息子は、静かにしっかりと、そのメッセージを受けとめて、父親がドス・リオスで戦死したことを知った後、解放戦争に参加し、それ以降、つねに尊厳に満ちた人生を送りました。
8  池田 父から子への体験の継承、精神性の継承――当たり前のようで、これほどむずかしいこともないのかもしれません。
 これは、家庭に限ったことではありませんが、自分を見つめる大人たちの目に、少しでも虚偽つまり私心や邪心を見いだせば、子どもはたちまちそっぽを向くか、反発を強めるか、いずれにしても継承の糸は断ち切られてしまいます。
 マルティのメッセージを、息子ホセがしっかりと受けとめたのは、前章で、あなたが若干ふれておられたように、マルティの精神性に、正義、公正、自己犠牲など普遍的な徳性が息づいていたからでしょう。
 ヴィティエール そのとおりです。イスマエルがアブラハムとハガルの息子であるとすれば――『素朴な詩』の詩篇XLⅡ(四二)に、暗示的に、この名前はふたたび登場します。――アブラハムが、聖書においては、民族への愛に満ちた父親像であることを、忘れるべきではないでしょう。
 自分自身の息子と引き裂かれたマルティは、「われらのアメリカ」と名づけた、リオ・ブラボからパタゴニアまでの巨大な民族(ラテンアメリカ)の、
 偉大な祖国の擁護者という運命を受け入れるにあたって、アブラハムと同じような心境に置かれていたにちがいありません。
 このようにして、私たちは『イスマエリーリョ』から七年後の「黄金時代」にいたるまでの、導きの糸を見つけだすことができるのです。
 池田 先生が国立ハバナ大学で行った講演のなかで話されましたが、マルティが「つねに詩をもって」教えたい、育てたいと望んだ子どもは、「われらのアメリカ」の子ども、子どもとしての「わがアメリカ」なのです。
 彼自身が、「黄金時代」の最後のページで、いっさいの気取りもなく、イメージ豊かに述べています。
 「『黄金時代』の人はそういう(=素晴らしい)父親と同じような人間です。(中略)とあるナイル川をモチーフとした彫像と同じようなものです。この像ではナイルは顎髭をたっぷりたくわえた老人として描かれており、その上で腕白坊主たちが跳ねたり遊んだり(中略)善き父親はこのようなもので、あらゆる子供を自分の息子と信じ、ナイル川のように、目に見えない息子たちを背負って暮らしているのです」(柳原孝敦・花方寿行訳、『選集』1所収)
 父親は、自分の子どもを守る以上に、何を望むでしょうか。
 池田 海をも容るるような大きな慈愛で、すべての子ども、すべての民衆を温かく公平に包んでいく――“使徒マルティ”のイメージが躍如としています。
 仏教では、仏の備えている徳目を、主徳(衆生を守るはたらき)、師徳(衆生を教化するはたらき)、親徳(衆生を慈しむはたらき)とし、
 その三徳をもって仏が衆生を救済する、と説いています。
 そうした徳性を体現し、自信をもって民衆の魂をあずかることのできる存在が、現代では、ほとんど地を掃ってしまいました。そこに、現代という時代の最大の不幸があると、私は思っております。
9  「郷土」――美質は経験を通して養われる
 ヴィティエール 一八七八年、グアテマラから、マクシモ・ゴメス将軍に初めて出した手紙の中で、カルロス・マヌエル・デ・セスペデスに浴びせかけられた非難について、マルティは、こう述べています。「書くからには、ぼくは彼を弁護したい」
 弁護するために書く――この言葉のなかに、私は文学と人生の本義、つまり、人生のための文学の使命、という本義を見いだしています。それならば、弁護を必要とするものは何でしょうか。寄るべなき者でしょうか。それとも、もっとも弱い者でしょうか。もっとも無名の者、あるいはもっとも嫌われている者なのでしょうか。
 一八八九年は、マルティにとって意義深い、弁護の年でもありました。キューバを軽視した、スペインとの併合を主張する記事に対して、祖国を守るための戦い――「キューバの名誉のために」という記事、ワシントンで開催された第一回米州諸国会議に派遣されたイスパノアメリカの代表に対して鳴らした警鐘――「母なるアメリカ」という講演、そしてブエノスアイレスの新聞「ラ・ナシオン」に掲載した、あの有名な反帝国主義の記事が続いたのでした。
 このようなコンテキスト(文脈)において、人生のための文学、
 子どものための文学という「黄金時代」がもつ魅力と教育的奇蹟の意味が、もっともよく理解されるでしょう。
 また「黄金時代」は、キューバの教育学の最高の原理を、詩的スタイルで展開させました。それはホセ・デ・ラ・ルスからメンディーベ先生が受け継いだものであり、そのホセ・デ・ラ・ルスは「私たちに初めて考えることを教えてくれた」バレラ神父の弟子でもありました。マルティは、考えるということは、感じること、行動することである、自分の祖国でしっかり生きることである、とも言っています。ですから、マルティは「黄金時代」の計画について、あなたもそこから引用されている一八八九年八月の手紙の中で、こう述べているのです。
 「肥料は他所からもってくることができるだろう。しかし栽培は土壌に合わせなければならない。ぼくたちの子どもは時代に合った人間、アメリカの人間になれるように、育てなければならない」
 池田 教育における“経験”や“土着性”の大切さについては、前にデューイにからめて語りあいましたが、このテーマは、牧口初代会長の教育哲学とも通底しています。
 初代会長は、「郷土」をきわめて重視し、「慈愛、好意、友誼、親切、真摯、質朴等の高尚なる心情の涵養は、郷里を外にして容易にうべからざることや」と述べ、普遍的な精神性、美質というものは、「郷土」という土着性を生きる、すなわち経験を通してしか養われないであろうことを見抜いていました。
10  「行為」と「物語」を重視
 ヴィティエール 同感です。マルティの目から見れば、「時代に合った人間」「アメリカの人間」とは、同時に世界の人間になれるように、という意味にもなるでしょうし、そのことは「自分の家と見なされた人間の歴史」「パリの万国博」「安南人の土地の散歩」などの作品にも確認できるでしょう。これらの作品の中で、マルティはアメリカ大陸の子どもたちに、ブッダ(釈尊)の物語を魅力的に語った後、こう付け加えています。
 「もし、ぼくがこのような尊厳を目にしていなかったならば、このような行動をとっていないでしょう」
 言ってみれば、これは、今までるる述べてきたことの“画竜点睛”ともいうべき言葉です。
 マルティのテーマは、「ぼくの体験をとおして、ぼくの魂のなかで熟成してきたものすべてが、有益で持続していくようにすること」「どのような人間であっても、大人としてのプライドを捨てることなく、子どもたちのための雑誌を出版することができるのだ」という点にありました。威厳とプライドは、要するに、脅かされている未来を守るためのものであり、それらを通して、「黄金時代」の詩がもつ深い政治的役割が明らかになります。「黄金時代」はキューバの名誉擁護と「われらのアメリカ」の回復に、密接に結びついているのです。
 池田 「行為」や「物語」を重視するマルティの考え方は、人間の魂への教育的効果という点で、何がいちばん、重要なのかという洞察にもとづいていると思います。
 ハンナ・アレントは「詩人や歴史家による具象化」としての物語に言及しながら、こう述べています。
 「如何なる哲学も、如何なる分析も、如何なるアフォリズムも、それらがどれほど深遠なものであろうと、意味の強烈さと豊かさとにおいては、正しく語られた物語には比肩するべくもありません」(『暗い時代の人々』阿部斉訳、河出書房新社)と。
 このことは、「子ども」が人間であることのもっとも枢要部分に位置していることと、決して無関係ではありません。
11  子どもたちは世界の希望
 ヴィティエール マルティの作品で、この雑誌「黄金時代」ほど広く普及され愛されたものはありませんでしたが、残念ながら、出版社の似非宗教的な愚かさと経済的な困難によって中断されてしまいました。そのために彼が約束した、幼い読者からの手紙を掲載したり、彼らの質問に答えること――最終号から二番目の号で約束していました――ができなくなってしまいましたし、予告されていた『びっくり箱』も出版されませんでした。
 「黄金時代」はもっと多くの驚きを、もっと多くのすばらしい詩や物語を、回想や記述や知識を提供することができたでしょう。しかし、子どもも大人も、マルティの不滅のヒューマニズムについての巨細を学ぶためには、出版された四号の内容で十分でしょう。
 池田 先生、あなたも青少年向けの童話や小説を書かれるとのことです。キューバにおいては、とりわけ、田舎の学校で行われることが多いのですが、マルティの童話「バラ色のお靴」や「小指」「黒いお人形」「赤んぼう」「ドン・ポムポソさん」などの登場人物に扮した子どもたちが、楽しく劇を演じてみせてくれます。
 これに勝る感動的な催し物はないと思われますし、これらのマルティの作品は、世界中のあらゆる子どもたちの手で実現することが可能な、詩の魅力をともなった正義の理想であると、私たちは信じたいのです。
 池田 全面的に賛同します。新しい世紀を迎えて、世界の人々が、この世紀を「平和の世紀」「正義が栄える世紀」に、と願ってやまないところです。私自身、そのためにも、この世紀は「女性の世紀」そして「少年少女の世紀」であらねばならないと信じ、行動しております。「母と子が笑いさざめく世紀」こそ、真の「平和の世紀」であるからです。その意味で、今こそ、世界がマルティの人間愛のメッセージに耳をかたむけるべき時でしょう。
 周囲からは、悲劇に彩られた、殉教とも見えるマルティの人生――しかし、当のマルティ自身は、最期の瞬間まで「大きな喜びと確信」に満ちておりました。それは、あとに続く者に命を捧げ尽くした栄光と、そして、彼らにすべてを託した安心ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 この対談を終えるにあたって、マルティが「黄金時代」に記した言葉を、二十一世紀の建設に尽力される多くの方々とともに噛みしめたいと思います。
 「私たちは子供たちのために働いています。なぜなら子供たちは愛することのできる者たちだからです。子供たちは世界の希望だからです」(柳原孝敦・花方寿行訳、『選集』1所収)

1
1