Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 人道の闘士――永遠なる魂の獅子吼  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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2  宇宙を一つの荘厳な生命と見る目
 池田 有名な一節ですね。マルティは「頭の中で創られる詩」と「心の中で創られる詩」を区別しています。
 「頭の中で創られる詩があります。これらは、心の表面で破れてしまい、心に傷をつけるものの、入り込むことはできません」
 「また、心の中で創られる詩もあります。心から出て、心に伝わる。戦争であれ、雄弁であれ、詩であれ、心から湧き出るものだけが心に届きます」
 ホイットマンの詩は、まさに「心から湧き出て心に届く」ものでありました。
 ともあれ、マルティが語るホイットマンの姿はまた、マルティ自身を映す鏡のようであります。
 「世界はつねに今日あるとおりでした。あるものが、存在しなければならなかったから存在するというだけで充分なのです」(同前)
 「彼にとって無縁なものはなにもありません。彼はあらゆるものに気を配っています。枝をはうかたつむり、不可思議なまなざしで彼を見つめる牛、(中略)人間は両腕を広げて、自分の胸にすべてのものを抱擁しなければなりません」(同前)
 こうしたマルティの言葉と、ホイットマンの、たとえば、
 「ぼくにはすべての人の内面にぼく自身が見える、誰であれぼくよりえらい者はなく、オオムギのひとつぶほどに劣る者もいない、
  だからぼくがぼく自身について語ることは善いことも悪いこともすべて彼らに当てはまる。
  ぼくはまちがいなく堅実で健全だ、
  ぼくをめざして宇宙の万象が合流しながらひっきりなしに流れ寄ってくる、
  万物はぼくに宛てられた手紙、ぼくはその文面を理解してやらねばならぬ」
 (「ぼく自身の歌」、『草の葉』酒本雅之訳、岩波文庫)
 といった一節を重ねてみたとき、二人の魂の共鳴の深さを感じずにはいられません。
 それはあえて言えば、宇宙を一つの荘厳な生命と見る目ではないでしょうか。マルティは「人間は統一された宇宙である」とも言っています。
 ヴィティエール マルティは「人生の目に見えないところに、すばらしい法則が流れている」として、宇宙の森羅万象を貫き、結びつける一つの「法則」の存在を信じていました。
 ところで(人間の魂が不可欠であるとするマルティと同じく)ホイットマンは「民主主義の展望」の中で、詩による「生命の甦り」について、こう述べています。
 「そのようにしてのみ、国は成立していくことができるのである」
 しかしながら残念なことに、この同じ数ページのなかでは、「明白な運命」の主張に対して、何ら疑問を投げかけることなく、当然の成り行きとして、カナダもキューバも、アメリカ合衆国に欠くべからざる、未来の所有地として位置づけられています。
 このような誤った発言を行ったホイットマンと、
 マルティが「暗示の神秘性であり、確信の持つ熱烈さであり、火と燃える予言的な転回となって現われる」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)と評価したホイットマンの詩的天稟を秤にかけて、マルティは当然、彼を許すべきであったのです。
 ホイットマンの言葉は、帝国主義の予言ではなく、普遍的な詩の帝国の予言だったのですから。
 池田 大様というか無頓着というか……。そこがアメリカ合衆国の中枢部に位置するホイットマンと、絶えずアイデンティティー(自己の拠り所)を脅かされている国に生を受けたマルティとの、なかば宿命的な違いといえますね。
3  土着性と普遍性の融合――プーシキン
 池田 さて、マルティの「プーシキン」論は、詩人の使命というものを見事に描ききっております。
 なかでも「筆は知性の命ずるままに動かさねばならない。そして愛国的な詩を書くだけでは不充分である。書いた詩のとおり生きなければならない」(同前)との一節は、“使徒”として生きたマルティの厳格な風貌を思わせます。
 マルティは、あるところで「私は、磁器のごとく響く詩と、火砕流のような破壊的な詩を愛する」と書いております。ここには、秩序と破壊、アポロンとディオニソス、求心力と遠心力ともいうべき、二つの詩のイメージが語られているといってよいでしょう。
 新たな形式の創造と、空虚な形式の破壊。
 自由の行進へ人々を糾合する力と、時代遅れの圧制の破壊。
 解放を待つ民衆の広場と、圧制者を追い払う恐るべき火炎……それは、あたかもプーシキンの詩がロシアにおよぼした影響を語っているようではないでしょうか。そして、マルティの詩も、多かれ少なかれ、こうした二つの側面をもっているのではないでしょうか。
 ヴィティエール 詩に限らず、彼の演説を聞いたあるマンビー(キューバ独立のために立ち上がった者)は「私たちは、彼の言っていることは理解できなかったが、彼のために死ぬ覚悟をしていました」と語っています。
 池田 プーシキンで思い出されるのは、マルティも「プーシキン」論で言及した一八八〇年六月八日の、ドストエフスキーのプーシキン記念祭での演説であります。
 ドストエフスキーは熱狂的に語りました。
 「プーシキンの作品には到るところ、ロシヤ的性格に対する信仰と、その精神力に対する信念がひびいている」
 「(=プーシキンが予言的であるのは)そこには彼のロシヤ国民的な力が表現されているからである。まさしく彼の詩魂の国民性、その向後の発展における国民性、現在にひそんでいるわが未来の国民性が、予言的に表現されているからである。実際、究極の目的において、全世界性と全人類性に対する希求にあらずして、はたして何がロシヤ国民の精神力であるか?」(『作家の日記』、『ドストエーフスキイ全集』15〈米川正夫訳〉所収、河出書房新社)
 ドストエフスキーは何よりもまず、プーシキンが偉大な「国民詩人」であることを情熱的に語りました。ところが、その国民詩人の天才の極まるところ、「全世界性と全人類性に対する希求」という普遍性が、忽然と姿を現すのです。
 言い換えれば、土着性と普遍性の融合であります。
 マルティのたとえば、「わが共和国に世界を移植するならそれもよい。しかし、その根幹には共和国の独自性がなければならない」といった言葉を読むとき、同じ主題を感じるのですが、いかがでしょうか。
 ヴィティエール マルティが「批評の仕事」という成熟期を迎える以前の、一八八〇年に書かれたプーシキンに関する記述は、批評的才能がたしかに認められるにもかかわらず、私たちとしては、エマーソンやホイットマンについて書いたテキストの水準にはいたっていないと考えています。
 池田 その点は、私にも理解できます。分量的に見ても、かなり短い評論ですからね。
 ヴィティエール しかし、いずれにしてもマルティの全世界に対する好奇心を示す実例です。
 彼は、プーシキンが「折り曲げようとしたむちに接吻した」(ツァーリのおかかえ歴史家となり節を曲げた)ことに対して世間から投げかけられた非難を超えた次元で、あなたがおっしゃるように、
 プーシキンの土着性と普遍性の融合を認めています。
 これはまた、マルティの思想における本質でしょう。だからこそ、プーシキンを「ロシア人であるとともに世界的な詩人である」と、そのすばらしい才能を認め、「ロシアに欠けていた、ただひとつのもの――人民の団結――をみずから体現していた」、そして「あらゆる時代、あらゆる国境を超越した人間だった」、つまり「彼こそ本当の人間――世界を一つの胸におさめた人間であった」と評価したのです。
 さらにマルティは、このような多くの長所を挙げてもまだ不十分であるかのように、「プーシキンは直感的な洞察力を駆使して、ロシアを自由に導く道を示した」のであり、したがって「プーシキンは宮廷と結びつきがあったにもかかわらず、ロシア革命が起こるとすればそれはプーシキンに負うところが大きい」と述べています。
 この評価は、その後に出現したイデオロギー的な毀誉褒貶はさておき、もうすでに引用しましたが、次のマルティの発言、この年に行ったステック・ホールでの講演――「専制者には民衆が、苦しむ民衆が革命の真の指導者であるということがわかっていません」――との透徹した民衆観によって補足されなければならないでしょう。
4  祖国愛に根ざしたあまねき人類愛
 池田 プーシキンに、なぜそのような洞察が可能であったかといえば、ロシアの民衆が魂の奥底において――多分に、民衆自身も意識してさえいないであろう奥底において――何を欲しているかを、彼が鋭く感じとっていたからです。芸術的天分の人によくみられることですが……。
 ヴィティエール またマルティは、ドストエフスキーが行った、この偉大なロシアの詩人に対する研究と賞賛に、特別な関心を寄せています。
 ドストエフスキーの主だった小説について、マルティがこの時点で知っていたことは明らかですが、ドストエフスキーがそれらの小説によって、プーシキンに始まるロシア近代文学の衣鉢を継ぎ、「プーシキンを評価する資格をもっていた」とマルティは宣告しています。
 池田 ドストエフスキーの『作家の日記』によると、一八八〇年にモスクワで行われたプーシキン記念祭での、
 彼の演説に対する反響はすさまじかったようです。人々は半狂乱状態になって、人類への同胞愛を口々に誓いあったと言います。
 もちろん、そうした狂乱や興奮はやがて冷めるものですが、ともかくマルティの言うように「ドストエフスキーはプーシキンを評価するすべての人たちの代弁者だった」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)ことは疑いを入れません。
 ヴィティエール マルティの次の言葉には、西洋文明に対して、周縁地域に住む人々がもっている一種の同胞愛が感じられるでしょう。
 「彼(=プーシキン)の詩は、長い生活の流れも都市のちりも心をけがすことなく、森の木を朽ちさせ田畑を荒廃させていない新しい大地に生まれた自然詩である」(同前)
 マルティは、土着のものと普遍的なものの間に(これまでお話ししてきたとおり、“祖国”と“人間性”の間に)弁証法的関係を認めるという点で、プーシキンと見解をともにしていることは、疑う余地のないところです。
 そして、その考えはやがて「われらのアメリカ」(一八九一年)というマルティの思想の頂点を極める著作の中で、もっとも雄弁に語られることになるのです。
 あなたも、これらのなかから、マルティの主要な思想をお知りになられたのではないかと思いますが。
 池田 重ねて申し上げましょう。
 “祖国”と“人間性”、“祖国愛”と“人類愛”というものが、決して二者択一であるのではなく、両者の間に弁証法的な緊張関係があることを確認できたことは、あなたとの対談の大きな収穫の一つでした。
 旧ソ連邦においても、ロシア連邦におけるロシア正教への回帰、中央アジアのCIS(独立国家共同体)諸国における急速なイスラム勢力の台頭など、“ポスト社会主義”時代のアイデンティティーの模索がしきりになされています。
 そうであればこそ、プーシキンが、そしてより先鋭的な形でマルティが体現していた弁証法的緊張関係こそ、きわめて尊い指標であり、足場であると思います。そうした緊張関係を欠けば、世界は救いようのないカオス(混沌)へと突入していってしまうことは必定です。
5  “見えざるもの”との調和――エマーソン
 池田 エマーソンは、いうまでもなく、ホイットマンに先立つアメリカ・ルネサンスの巨人です。
 「われわれは継承し、分轄され、部分となり、分子となって生きている。いっぽう人間の内部には全体の魂がある。賢明な沈黙、つまりあらゆる部分や分子が平等に結びつく普遍的な美、永遠の〈一なる者〉がいる。そしてわれわれの住む宿となり、われわれがくまなくわがものにできる至福をそなえてもいるこの深遠な力が、時々刻々いつも自足し完璧であるだけではなく、見る行為と見られるもの、見るひとと光景、主観と客観とが一体なのだ。われわれは世界を、たとえば太陽、月、動物、木というように断片的に見ているが、しかしこれらのものを輝ける部分にしている全体は魂なのだ」(「大霊」、『エマソン論文集』酒本雅之訳、岩波文庫)
 やや引用が長くなりましたが、このように世界全体を見るエマーソンは、まさに“調和の使徒”といってよい。
 そして、マルティは、そのエマーソンの実像を明晰にとらえていました。
 ヴィティエール プーシキンやホイットマンと同じように、エマーソンにおいても、さまざまな意味で、自然の営みが精神的宇宙観の中心であったことが、マルティを大いに魅了した要因です。
 池田 マルティは言います。
 「彼(エマーソン)にとって、人間は完全に崇高な存在であった」
 「彼(エマーソン)ほど人間とその時代のプレッシャーから解放されている人間など見たことがない。しかも、未来が彼に不安を与えることもなかったし、未来に突入しても惑わされることはなかった」
 「自然は人間に影響を与える。一方、人間は勝手気ままで、自然を陽気にしたり、悲しませたり、雄弁にしたり、黙らせたり、向こうへやったり、呼んできたりする。彼(エマーソン)は、人間の理念を普遍的な物質の主人であると見ている。
 荒廃した精神には世界が荒廃して見えることを知っている。自然の姿が信仰心と愛と尊敬の心を想起させるのを知っている。宇宙は形式的に人間に応じることを拒み、苦悩を和らげ、力強く、誇りをもち、明るく生きさせようという感情を抱かせ、語りかける」
 これらの評言は、エマーソンの核心をついていると思えてなりません。
 マルティが残した、ホイットマンとエマーソンという十九世紀のアメリカ・ルネサンスの巨人との“対話”を読むとき、両者の後継者はむしろ、マルティではなかっただろうかと思えてきます。
 マルティは、エマーソンに会ったことはあるのでしょうか。また、思想的な影響についてもうかがいたいと思います。
 ヴィティエール 個人的には会ったことはありません。
 しかし、発見というわけではありませんが、この“コンコードの賢人”(エマーソン)は、メキシコの「レビスタ・ウニベルサル」誌への寄稿に明らかなように、マルティが若いころから直感的に感じとっていた(卓越した人物が)共有する精神性の流れを見事に体現しており、それはまた、キューバ独立の先達ホセ・デ・ラ・ルス・イ・カバジェロの思想の輪郭に類似したものでした。
 「体系的」な哲学者と呼ぶことはできないにしても、エマーソンは東洋の糸とアメリカ大陸の夜明けの糸とを操りながら、動揺することもなく、大きなキャンバスに“超越論的プラグマティズム(実用主義)”と呼ぶべきものを展開しています。
 マルティは、ダーウィン(その進化論が彼にとって根本的な懸念でした)が当然のように議論の枠外においてきた、見えるものと見えないものとの融合、つまり、科学と精神とがうまく組み合わさっている調和を、エマーソンの哲学に認めたのです。
6  「銀の剣」をいかに用いるか
 池田 “自然淘汰”や“適者生存”などを機軸にするダーウィニズム(ダーウィン的進化論)が、当時、善悪両面でいかに巨大な影響力をふるったかは想像を絶するものでしたが、それが社会ダーウィニズムにまで展開され、欧米の植民地主義の思想的背景になっていったことは周知の事実です。
 西洋文明の周縁地域の人マルティは、「強者である彼(=ダーウィン)は、他人が弱者になることを許しきれないのだ」(「ダーウィン死す」佐藤邦彦訳、『選集』1所収)と語っているように、そうしたダーウィニズムの危険性を鋭く感知していたわけですね。
 ヴィティエール だからこそ、マルティのエッセーの重要な部分に、次のような記念すべき宣言がなされているのでしょう。
 「緩慢で、組織的、類推的方法によって宇宙が形成されたとしても、自然の終わりが告知されるわけでもないし、精神的なことがらが存在することと矛盾するわけでもない。科学がその作業を完遂し、知るべきことがすべて知られたとしても、今日霊魂が知っている以上のことを知りはしないだろうし、彼が知っていることを知るにすぎないだろう」(「エマソン」内田兆史訳、『選集』1所収)
 池田 まったく同感です。
 科学と宗教とは、決して矛盾するものではなく、科学が進歩すればするほど宗教との相補関係は深まっていくものであり、また、そうであらねばならないというのが、優れた数学者でもあった私の恩師戸田城聖先生の訴えてやまないところでした。
 ヴィティエール 有史以来、いまだ到達することのできなかった、至高にして万物調和する時機について、マルティは全作品の中で、一再ならず言及しています。
 そして「科学がその作業を完遂したならば」、そのとき、肉体的に必要とするものと精神的に必要とするもの、理性の価値と希望の価値は、たがいに補いあい、結びつき、均衡を取りあっていくのです。
 哲学的な観点から、マルティがもっとも類似性を感じとった、
 同時代の超越主義者エマーソンは、行動や思想によって彼を魅了した他の偉人たちと同様、マルティが希求していた未来の理想的人間像に、現実のなかでもっとも近いモデルとして、賞賛の対象となったのです。
 池田 細分化された知識の一つ一つが独り歩きを始め、知の統合性を失ったこと、言葉を換えれば「知識の個別性」と「知恵の全体性」が切り離されてしまったところに、近代的知性のあり方の歪みがあるわけですが、エマーソンそしてマルティが志向していたものは、まさしく両者の融合にほかなりませんでした。
 ヴィティエール しかしながら、その足元に、象徴的に、(言論の力を意味する)「銀の剣」を手向けている「偉大なる老兄」(エマーソン)は、マルティにとって、最終的な模範とはなりませんでした。
 新しいアメリカの神話のなかの出来事のように、翼をもって飛び立っていくようにとの願いをこめ、『自由詩』の序文において太陽の光で包みたかったあの剣は、「大理石の回廊」に立つ(マルティに先駆する)英雄たちによって、マルティに手渡されました。それをマルティは、手放すことはありませんでした。
 エマーソンによって唱えられた、かの精神と自然との究極の調和を獲得する可能性は、マルティにとって、その剣をいかに用いるか次第であると思われたのでしょう。
 池田 「その剣をいかに用いるか」――この、人類の歴史とともに古い課題は、マルティ亡き後も、なお未完の大業として残され、われわれに引き継がれている、と受けとめていきたいと思います。言語をもつことが人間であることの第一義的要件であるかぎり、
 この課題は永遠に新しくあり続けるでしょう。
7  “屈せざる魂”――ユゴー
 池田 「われわれの世紀とユゴーはひきはなすことはできない」(高橋勝之訳、前掲『キューバ革命思想の基礎』所収)
 マルティは、一八七四年十二月と七九年十二月の二度、フランスの――というよりも、十九世紀の世界史的巨人というべきヴィクトル・ユゴーと、パリで会ったとうかがっています。
 最初の出会いはマルティが二十一歳のとき、あの四年におよぶスペイン追放生活に終止符を打ち、ラテンアメリカの地に戻る途上のことでした。ユゴーは当時、七十二歳。『九十三年』を出版した年でもあります。
 また二度目は、その五年後。九月にマルティが当局に逮捕され、キューバを追放された直後のことです。
 マルティとの出会い以前、すでにユゴーとキューバは因縁なき関係ではありません。
 一八七〇年、つまりキューバの第一次独立戦争である「十年戦争」が勃発して三年目、ユゴーは彼を訪ねてきたキューバの指導者に会い、キューバ民衆のために一文を書いております。
 今日、「キューバのために」と題されているこの文書には、スペイン植民者によるキューバ人弾圧の残虐さが烈々たる筆鋒で糾弾されております。
 この一八七〇年という年は、ユゴーにとっても重大な転機でした。ルイ・ナポレオンのクーデターに抗議し、ジャージー島、次いでガーンジー島で亡命生活を送ること十九年。
 ついにパリに“凱旋”した年だからです。
 そういうユゴーですから、マルティとの会見はさぞ意義深いものであったと想像するのですが、そのときのエピソード等は何か伝えられていないのでしょうか。
 マルティがユゴーの作品を初めてラテンアメリカに紹介したとも言われますが、それはどんな作品だったのでしょうか。
 ヴィティエール 私たちはマルティが書いたヴィクトル・ユゴーに関するエッセーを、いつも懐かしく思い出します。
 ユゴーは、マルティがもっとも多く言及した作家でした。一八七五年、彼はメキシコの「レビスタ・ウニベルサル」誌に、ユゴーの「わが息子」の翻訳を掲載しました。その序文の中でマルティは次のように書いています。
 「ヴィクトル・ユゴーにおいて、思想は形であり、形はもう一つの思想でした」
 言葉の織りなす絢爛たる宮殿にも似たユゴーの建造物的な偉大さを強調するならば、その思想形、表現様式は、彼自身の内実と“等身大”のものであり、(ロマン派に続く)あらゆる高踏派を飛び越えて、さらにその後の、厳密に言えば他の言語に翻訳しがたい象徴派の扉を開いたのでした。
 形の思想を発見することは、(マルティにとって)眩惑させるほどの研究となるであろうことは必定でした。
 一八三〇年に『エルナニ』が出版されて以降、キューバでヴィクトル・ユゴーは、よく知られている存在でした。その当時のハバナのいくつかの雑誌で、かなり激しい論争が行われていました。マルティの恩師メンディーベは、ユゴーを賞賛すると同時に、
 模倣しています。
 マルティによると、「ユゴーの声」にうながされて、メンディーベは愛国的な意味をもった作品である「眠り込んでいる者たち」を書いたということです。
8  若き革命詩人と偉大な老詩人との出会い
 池田 なるほど。それでは師メンディーベに勧められて、マルティはユゴーの作品にふれたかもしれませんね。
 私自身、青春時代より、ユゴーを愛読した一人です。恩師にも強く勧められてほとんどの作品を読みました。
 『九十三年』は、恩師を囲んだ懇談会で勉強した思い出があり、また、亡命時代の不朽の名作『レ・ミゼラブル』は、幾度となく読み返した一冊であります。
 「海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である」(豊島与志雄訳、岩波文庫)――この一節の鮮烈な印象は、生涯忘れることはないでしょう。
 ヴィティエール 一八八一年、老境に達した偉大なユゴーは、マルティの目には十九世紀の反君主制、自由、進歩主義者の象徴的な存在として、ガリバルディと肩を並べているように映ったようです。
 「未来から過去を振り返ったとき、今世紀の頂点には、白髪の騎士が見えてくるでしょう。広い額、情熱的な眼差し、毛むくじゃらの顎鬚、黒いありふれた衣裳をまとっている。それはヴィクトル・ユゴー。
 そしてその傍らに、赤いマントをまとい、
 炎のような剣を手に、白馬に跨っている輝くばかりの騎手。それはガリバルディである――」と。
 おそらくガリバルディは、マルティが考えたような象徴的で模範的な個性を失ってしまったでしょうが、ユゴーはそうではありません。『キューバの政治犯収容所』以来、マルティに多大な影響をあたえ続けたのです。
 ユゴーのガーンジー島における亡命生活は、マルティに「キューバ諸島で育っている、新しく激しい勢力についての研究」を書かしめました。それで一八七四年十二月、マルティがパリに立ち寄ったさい、個人的に会うことになったのです。
 そのときはすでに、あなたもご存じのように、愛国者アントニオ・サムブラナの要請に応えて、キューバの独立の権利を正当なものである、と公に支持していました。
 池田 『キューバの政治犯収容所』を貫くトーンは、たしかに『レ・ミゼラブル』に横溢している、過酷な運命にもてあそばれ、苦悩しながら必死に光を求めゆく恵まれない人々への限りない人間愛のトーンと、酷似しています。
 若き革命詩人と偉大な老詩人の出会いは、私にとって、深い関心を呼び起こします。
 ヴィティエール じつは、ユゴーとの出会いに関するマルティの文章は、私と妻が一八七五年九月号の「レビスタ・ウニベルサル」誌から見つけだしたものです。
 池田 そうなんですか!
 ヴィティエール ええ。「アナワク」というペンネーム(マルティはキューバ独立のための「小戦争」の共謀期以後、このペンネームを用いていました)で、「パリ雑感」という表題で発表されています。
 この記事は一九七〇年に出版された『マルティ年報』に掲載され、一九七三年に出版された『ホセ・マルティ全集』の第二十八巻に収録されています。
 それによると、ヴィクトル・ユゴーと名前を書いた後、すぐに以下の文が続いています。
 「わたしにはユゴーのあの頭を実際に目にし、あの手に触れ、彼の傍らで長い時間を過ごした経験があるのだが、彼といるあいだ心が広くなったかのように感じられ、目からは感涙があふれ、拙い言葉を口ごもることしかできなかった。最後には生の抑圧からしばらくのあいだ解き放たれたような気分になったものである。宇宙とはアナロジーである。従って、ヴィクトル・ユゴーとは雪を戴いた一つの山であり、その頂からはまさにあの父なる太陽からもらい受けた陽光がふんだんに溢れ出ているのだ」(大楠栄三訳、『選集』1所収)
 ただ残念なことに、あなたが言及されている二回目の出会いに関しては、信憑性のある情報はありません。
9  マルティが背負わざるをえないもの
 池田 ホイットマンが自分の家の窓辺にユゴーの肖像画を飾っていたエピソードをマルティが書きつづっていたことは、先に述べましたが、そのほかにマルティが、この“二人の巨人”について言及していることはありませんか。
 ヴィティエール そうですね……ホイットマンもユゴーも、御者と会話することを好んだという伝聞に、マルティはとても喜んでふれています。
 たしかにホイットマンがユゴーの遺影を窓際に飾っていたことについて言及していますが……
 詳細については池田先生、この二人を心から敬愛しているあなたが、よくご存じのことでしょう。
 この二人は、世界的な民主主義を掲げる、詩の旗手であったことは明らかです。一方のユゴーは「自然の館から出てきたかのように、長い歴史のなかから出現した」旧世界の人であり、もう一方のホイットマンは新世界の人でありながら、両者は自然から生まれたもっとも自由な子どもでした。
 ユゴーとホイットマンに対してマルティを比較してみますと、本質的な違いが明らかになってきます。それは否定的な意味での違いではなくて、マルティが背負わざるをえないものが何であるかがはっきりしてくるということです。
 ホイットマンの民主主義は結局のところマルティの民主主義と違っていますし、ユゴーの近代性もマルティの近代性とは同じではありません。
 ユゴーとマルティの間のこの問題については、カルメン・スアレスが、論文「ホセ・マルティとヴィクトル・ユゴー――近代性のバランス」(一九九六年)において的確に考察しています。
 「ユゴーは、フランス革命に鼓吹された近代を、正当なものと認めていました。
 一方、マルティは、まだ築き上げられていないもう一つの近代を提起しています。
 マルティの唱える異論には、二重の意味があります。なぜならば、植民地化された文化空間のなかで、近代的な人間を育成することを意味していたからです」
10  最後に勝つのは「不屈の魂」をもった者
 池田 どんな偉大な人物でも、その時代から完全に自由でありうるはずはありませんからね。むしろ、そうした人物であればあるほど、余人の与り知らぬ次元で、時代の運命というものを鮮やかに体現しているものです。
 ユゴーについては、雄渾の詩魂から“自由と人道の闘士”としての行動まで、語るべきことはあまりにも多いのですが、なかんずく私が深く共感するのは、彼の何ものにも揺るがぬ「屈せざる魂」であります。
 私の胸には『懲罰詩集』の“結語”の峻厳な一節が迫ってまいります。
 「あと千人しか残らなくなっても、よし、私は踏みとどまろう!
 あと百人しか残らなくなっても、私はなおスラに刃向かおう。
 十人残ったら、私は十番目の者となろう。
 そして、たったひとりしか残らなくなったら、そのひとりこそはこの私だ!」(『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳、潮出版社)
 この不屈の魂は、またマルティの精神でもありましょう。両者の魂は激しく共振(バイブレーション)したのではないでしょうか。
 ヴィティエール そのとおりです。ユゴーの善意に満ちた威厳あふれる老境を称え、彼が八十歳の誕生日を迎えたとき、マルティは次のような文を書いています。
 「人間が未来をどう生きるのか、理性にかなうものであるかを知っているのは、卓越した人物だけである。
 生きることは、卑しい鳥篭に閉じこめられて、フクロウや鳩と同じように生きる鷲以上のものを意味しているのであろうか? やがて鷲が自由を得て、太陽に向かって羽ばたけるような、輝かしい世の中がやってくることだろう!」
 池田 たしかにユゴーの人生は、迫害と闘い亡命する、身は不自由な人生だったかもしれない。しかし、魂の自由を奪うことは、だれびともできない。「不屈の魂」あるかぎり最後は必ず勝つ――同じように“闘う人生”を歩むマルティならではの確信あふるる言ですね。
 私たちの信奉する日蓮大聖人は、流罪の地(佐渡島)から(鎌倉に)戻ったとき、時の権力者(平左衛門尉頼綱)に厳然と仰せになりました。
 「王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、心は従えられません」(御書二八七㌻、通解)と。
 この獅子吼こそ、日蓮仏法の魂です。
 この言葉は、“人権への闘い”の言葉として、ユネスコ(UNESCO・国連教育科学文化機関)の『語録 人間の権利』にも収録されています。
 ユゴーとマルティに共通する「不屈の魂」もまた「獅子吼」となって、悪と闘い続ける人々の心を鼓舞しゆくにちがいありません。
 ヴィティエール 「獅子吼」――その言葉をマルティもきっと喜ぶでしょう。
 なぜなら、親友フェルミン・バルデスに宛てた手紙の中で、マルティは一八八七年にサルミエントが示した次の評価に対して、感謝の気持ちを表しています。
 「スペイン語では、マルティの獅子吼にかなうものはない。ヴィクトル・ユゴー以降、フランスは、このような大音響を示してくれない」
 池田 ドイツの作家カロッサが、こんなことを言っています。
 「生き生きとした言葉の発する計りしれない、つねに効果を発揮できるエネルギーのことを知っている者は、なんと少ないことだろう。詩人たちには、心のうちより生まれ、あらゆる世代の力がこもっている詩句があるということ、それについて誰か少しでもわかっている者がいるだろうか。そのような詩句は、放射性元素に似ている。いや、それよりもさらに驚嘆すべきものだ。なぜなら、たとえ詩人の肉体が地上から消え失せたとしても、その詩句はなおも世界の諸力を引き寄せ、新鮮な生命の潮を勢いよく、永遠に周囲に流出しつづけるからである」(「ルーマニア日記」金子孝吉訳、『ハンス・カロッサ全集』7所収、臨川書店)と。
 詩人の言葉は、永遠の生命をもつ――マルティは、そのことを確信していたでしょうし、私もまたそう信じる一人なのです。

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