Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1 心の詩――人間と宇宙の交響  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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2  詩人の目に焼きついた少年の日の体験
 池田 おっしゃるとおりです。仏教の慈悲や同苦の精神です。その意味では、釈尊の時代の代表的な在家の信者である維摩詰の「一切衆生の病むがゆえに我病む」(大正十四巻五四四㌻)という言葉は、大乗仏教の真髄を言い表しています。
 前にも少々、ふれたことですが、大事な点なので、もう一度確認しておきます。
 H・アルメンドロス氏の伝記によれば、マルティは九歳のころ、名も知らぬ黒人奴隷が鞭打たれているのを見て、悲しみと怒りに震えました。彼は後にこう回想しております。
 「黒人が鞭打たれるのを見たことがある者は、永遠に借りができたと思わないだろうか。私は子供の時、それを見た。そして、いまでも恥ずかしくて、頬の赤みが消えていない……。私は見た。そしてその時、彼らを守ろうと心に誓ったのである」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)
 一人の黒人奴隷の苦悶は、何の夾雑物もなく、ストレートにマルティ少年の胸を激しく打った。この言葉自体、あふれんばかりの詩心の表出でありましょう。
 彼の偉大さは、終生、こうした「胸を痛めた」衝撃を忘れなかった。否、不幸な人を守り、救うために闘ったのです。
 詩心はあらゆる境界を超えます。幾千万光年の闇を超える光のように、おたがいを隔てるもの、引き離すものを飛び越え、まっすぐに「心」に向かい、「心」を直観します。
 この巨大な「共感力」とでもいうべき、魂の容量の大きさ。そこに、傑出した詩人にして革命家マルティの資質があると思います。
 ヴィティエール “詩的本質”が文学のジャンルやレトリック(修辞)を超えたところにあると考えるならば、『キューバの政治犯収容所』は、マルティの作品の“地獄篇”であると見なすことは当然であり、また正当なことでしょう。
 しかし、さまざまな地獄の刑罰の“圏”を渡り歩く構想を思い描きながら、フィレンツェ人であるダンテは、カトリックの教義のうえから揺るぎない正義として、永遠に繰り返されるあの責め苦を受け入れていました。
 しかし、キューバ人のマルティは、彼自身が証言者であり、犠牲者でもあった極悪非道の不正義を強く告発していました。
 彼のいるべき場所は、“文人”の系譜ではなく、“見者”の(想像力の)燃えさかる火の輪の中にあるといえるでしょう。
 “見者”たるゆえんは、想像力のうえでも事実のうえでもダンテ的な『キューバの政治犯収容所』の中の、子どもの苦しみを描いた一節からも明らかでしょう。
 「――見ろよ、見ろよ。
 恐ろしい笑い声をあげながら、地獄の涙のような、汚らしい天然痘が、こっちへやってくる。カジモドのように片目で、恐ろしい背中の瘤の上に、まだ生きている(リノという名の)子どもを背負っている。
 その子を地面に叩きつけて、まわりをぴょんぴょん飛び跳ね、踏んづけては、空中に投げ上げて背に受け、また叩きつけて、そのまわりを踊りまわり、
 『リノ! リノ!』とがなりたてる。
 そして、リノの体が動くと、その体に足かせをつけて、遠くへ、ひどく離れたところへ、石切り場と呼ばれる深い溝の奥へ、奥底へと押し込むのだ。
 『リノ! リノ!』と繰り返しながら遠ざかる。身を起こすと鞭のしなる音がする。そしてリノは働くのだ。
 ずっとずっと働き通し!
 精神性のいきつくところは神性だ、ということに疑いはない。なのに神が宿っている人間を叩いている人びとは、どこまで堕落していくのだろうか」
3  一読すれば脳裏に焼きつく鮮烈な描写
 池田 博士は、著書の中で「(マルティが)『キューバの政治犯収容所』の中で目の当たりにする絵画――すなわち、胸が引き裂かれそうな現実的かつ詩的な肖像画」に言及され、こう述べられています。
 「ニコラス・カスティーリョやリノ・フィゲレド、ファン・デ・ディオスや黒人のトマス等の肖像画は、皮肉と残虐な風刺に代わって哀れみがあれば、まぎれもなくゴヤ的な絵画となるだろう。恐怖がマルティに善の無敵な実在性を明かすのである。地獄は、神の存在を立証する。ゆえに『神は実在する』と最初のページで繰り返されているのである」と。
 七十六歳の老人受刑者ニコラス・カスティーリョや十二歳の少年受刑者リノ・フィゲレドについての描写は、一読すれば脳裏に焼きついて離れない、まさしくあなたのおっしゃる「現実的かつ詩的な肖像画」そのものであり、マルティの詩的天稟が十分すぎるほどに感じとれます。
 「闇が深ければ深いほど暁は近い」と言われるように、
 「苦悩」を突き抜けて「歓喜」にいたったベートーヴェン同様、マルティもまた、地獄の苦悩の底に、神性の輝きを見いだしていた――まさに“見者”たるゆえんです。
 余人の容易にうかがい知ることのできない魂の葛藤のドラマ――その葛藤が弁証法的に深まりゆくほどに、万人の魂へと伝播し、揺り動かさずにおかない「衝迫力」や「共感力」を放射し続ける人類の精神史のドラマの一端を垣間見、あらためて確認することができたということは、博士、あなたとの対談が私にもたらした大きな喜びです。
4  未来の光景を描き出す想像力と表現力
 ヴィティエール 私も、たいへんうれしく思います。
 さて、この一節に勝るとも劣らないダンテ的な場面――ただし、ここでは楽園のようなトーンですが――を、一八八一年三月二十一日、ベネズエラのカラカスの商工会議所で行ったマルティの講演のなかから、取り上げてみることとしましょう。
 「――そして、ぼくは、この広大な谷から、未来の光景を見た。ぼくは、その光景を欲し、あるいは辿りつき、あるいは参加したいと思う。
 大地の力がわき上がり、川のせせらぎの水面を、歓びに満ちた船が埋めつくしている。萌えいずる草に樹木は覆い包まれ、この偉大な征服者(草)に道を譲る。草は音をたててうなり、飛び、風が巻く。そして山々の裾は緑に覆われる。その緑は、森の暗い緑ではなくて、繁栄する農園の明るい緑だ。台地の上に、人びとが立ち上がるのを、ぼくは見た。港という港には、幾万の蝶々が群れ集うように、旗がはためいているのを見た。川の水も大地の地層も火山の火も、人間を支え、役立っているのを見た。
 すべての衣類は白く、一月のやわらかな太陽がその光景をほんのりと染めている。
 ああ!ぼくたちはこのような大地を見るために、どれだけの苦難の道を歩まなければならないのだろう!
 ぼくたちの手と手の間を、川の水が流れるように、どれだけの溶岩が(手を焼きつくしながら)流れなければならないのだろう!」
 池田 思わず、ダンテが『神曲』で描くところの浄罪山山頂の美しい光景を想起してしまいます。
 「新しくさしでた太陽を目にやわらかくする
 茂った緑なる神の森の内部やまわりを
 探ろうと思い、
 私はもはや他人をまたず堤を去って
 しずかに野原へ行くと、
 地面はいたるところから芳香を放っていた。
 甘い空気は常のままに動いて
 私の額をうち、そのさまは微風が
 触れるのとすこしも異ならなかった」
 (野上素一訳、『世界古典文学全集』35所収、筑摩書房)
 目をそむけたくなるような、おどろおどろしい地獄界の責め苦から解放されて、浄罪界そして天堂界へと、必然性の糸に導かれるように昇りつめていくダンテのコスモロジー(宇宙観)――この大詩人の詩心、想像力を、マルティもまた、具えていたようですね。
 ヴィティエール 詩の天賦の才能(古典的詩人が「痛みをともなった感性」と呼んだものと、それを表現する能力)をマルティは、
 生まれながらにしてもっていたといえるでしょう。
 しかし、みずからの創造的な言語活動の展開の起点となったのは、一八八一年、カラカスに滞在していたときだと思います。そこで彼は、キューバにいる息子ペペを想いながら『イスマエリーリョ』を書きました。
 小型版叙事詩と呼ばれているこの作品の中で、懐かしく愛おしい息子は、あるときは「楯」となり、あるときは「可愛い騎士」となり、またあるときは「空飛ぶ闘士」(牛島信明訳、『選集』1所収)となって、あらゆる誘惑と闘うのですが、その詩は、いってみればスペイン語の黄金世紀(十六世紀)の“搾り汁”が、新しい“葡萄酒”として滴り落ちた作品といえましょう。
 またカラカスでは、創刊した「レビスタ・ベネソラーナ」誌のスタイルを守るために、イスパノアメリカのモデルニスモ(近代主義)の、最初でもっとも洞察力に満ちた檄文を書きました。
 さらに、カラカスでファン・アントニオ・ペレス・ボナルデの『ナイアガラの詩』の序文を書くために、近代というもの――ラテンアメリカやカリブ地域の国々が、主役の座から外されてしまってもなお、脇役として世界史に登場することを可能にした近代というものの、挫折と喜び、苦しみについて“見者”の眼で考察し始めたのです。
5  二十世紀を見通した“見者”の活眼
 池田 『ナイアガラの詩』へのマルティのコメントは、冒頭「嘆かわしい時代です」という言葉が四回ほどリフレイン(繰り返し)されているように、近代文明が本源的にはらんでいる矛盾、悪弊について、時代を先取りするように警鐘を乱打していますね。
 とくに「知の大衆化ともいうべき時代」と、二十世紀に入ってようやく露わになってくるであろう大衆化社会というものの問題点を、マルティらしい、おっしゃるとおり“見者”の活眼で洞察しております。
 一つだけ挙げさせていただければ、次のような一節は、情報化の流れのなかで“デラシネ(根無し草)”のように漂い続ける現代人への、百年以上も前に発せられた鋭い警告です。
 「人としてまずすべきことは自分を取り戻すことです。人を本来の自分に戻すことが急務です。人としての感情を窒息させ、毒殺し、感覚のめざめをいたずらに速め、有害で、思いやりのない、冷たい、いつわりの情報で知性を鈍くする常識の悪政から人びとを解き放つことが急務です。ただ本物のみが実りをつけるのです。ただ直接的なものだけが力強いのです。他人から受けるものは温めなおした食べものです」(青木康征訳、『選集』1所収)
 ヴィティエール 先にふれましたように、カラカスの商工会議所で行った講演のなかで、マルティは“約束された大地”に抱きかかえられた、一人のアメリカ大陸の人間の楽園のようなビジョンを示しました。
 彼の当時(ベネズエラ滞在時)のあらゆる著作は、一言にして言えば新しい夜明けを、新しい惑星の誕生を告げるようなものです。これらの著作を世に問いながら、(ウォルト・ホイットマンが体現していたような)北アメリカ的世界市民の視野に立ち、すでに『キューバの政治犯収容所』において認められていた言語的資質――ミゲル・デ・ウナムノは、詩と散文が分離する前(あるいは後)の“詩と散文が合体した言語”と呼んでいます――に、さらに磨きをかけていったのでした。
 ヴィクトル・ユゴーや、フランスの象徴派・高踏派の作品、ホイットマンやエマーソンの作品などに親炙することによって鍛えられた、このようなマルティの言語的資質は、その後のアメリカ合衆国についての論評と並んで、「激しく波うつ音節からなる『自由詩』」――生前、出版されることがなく、“マルティの詩の火山地帯”と名づけられた裸形の荒削りな『自由詩』――に顕著に見られます。
 これらはすべて、ある意味では、ウナムノの『ベラスケスのキリスト』の先鞭であったといえるでしょう。
 池田 よくわかります。日本語版『ホセ・マルティ選集』の翻訳者の一人(牛島信明氏)は「マルティの散文は、たとえ卑近なテーマ、人間臭芬々たる題材を扱おうと常に詩的なのである」(「解説」、『選集』1所収)と述べています。
 それはまた、言葉というものの本来的なあり方であって、“詩”を失った“散文”などは、言葉のはたらきの衰弱現象以外の何ものでもありません。
 ヴィティエール そのことを神学の言葉を借りて言うならば、『イスマエリーリョ』(一八八二年四月刊)は、父親(三位一体の「父」)の書であり、『自由詩』(同時期に執筆。死後、出版)は、“十字架のないキリスト”を「どう肉化するか」に苦悶している精神力によって書いた息子(三位一体の「子」)の受難の書にあたります。
 そして『素朴な詩』(一八九一年六月刊)は、ワシントンで行われた第一回米州諸国会議のさいの、以前にもふれた「あの苦悩に満ちた冬」の当然の結果であり、マルティの文学における「聖霊」(三位一体の「聖霊」)降臨の祝日の書にあたるといえます。
 そこでは精神的な愛の源泉が、あらゆる人に理解できる言葉で、また民衆の歌の美しさとして伝えられているのです。
 池田 芸術であれ、宗教であれ、人間の精神的な営みが志向するものは、己が社会や宇宙生命などと一体化しゆく「全一なるもの」です。このことを、かつて私は、フランス学士院での「東西における芸術と精神性」と題する講演(一九八九年六月)のなかで強く訴えました。
 マルティの言論諸活動も、その例外ではないはずです。
6  覚悟の死を目前にして書かれた日記
 ヴィティエール そうですか。興味深い観点です。
 そして、私が強調したいのは、マルティの詩的創造は、彼が円熟期を迎えてからのジャーナリストとしての大部分の作品や演説、書簡、とりわけ豊かな表現に達することのできた晩年の二冊の日記を含まなければ、完全には評価できない、ということです。
 その例として、次の二つの作品を引用させていただきたいと思います。
 一つは、一八九五年四月一日に書かれた「日記 モンテクリスティから、ハイティアノ岬へ」から。
 「苦しみながら、ぼくたちはあちこち棘に刺されながら、暗い真夜中に、塩沢や砂地を横切っていく。コウロウメモドキの茂みを肘で押し分けながら進む。草さえ生えていない砂地だが、棘ある木の茂みがところどころに、染みのように生い茂っている。星のない空に向かって、剥き出しの砂は、死に装束のように光を放っている。
 緑色のものは黒く見える。浜辺に砕ける波の音が、海から聞こえる。
 潮の香りがする。突然、茂みがとぎれて浜辺に出た。波が泡立っているのが、ぼんやりと見える。潮気を帯びた風に――ざわめいたり、静まったりしている。一人のハイチの黒人が、空を背景に、波打ち際を踏みながら、平然と突っ立っている。下穿きを膝までまくり上げて、胸元からはだけたシャツが大胆にたれている。腕を高く組み、山羊髭と口髭を生やして、とがった頭にオオギバ椰子をかぶっている――自然の静けさの中で、男は完璧な美に達する」
 もう一つは、一八九五年四月十八日に書かれた「日記 ハイティアノ岬からドス・リオスへ」からです。
 「あまりの夜の美しさになかなか寝つかれない。コオロギや虫がすだき、トカゲがキリキリキリと鳴き、やがて大合唱となる。暗闇の彼方には、クペイや、パグアと呼ばれるとげが多くて背丈の低いヤシの樹が繁る山がかすんで見える。その上空をアニミタス鳥の群れがゆったりと舞っている。甲高い鳴き声が止んだかと思うと、森が織りなす音楽が聞こえてくる。繊細なバイオリンが奏でる妙なる音楽のようだ。その音色はうねり、一つになったかと思うと解き放たれ、羽を広げ飛び立ったかと思うと木々に留まる鳥のようで、瞬く間に昇天してしまう、常に繊細で、儚い。滑らかな音色が一瞥をくれるだけにすぎないのだ。どんな羽が木の葉に触れるのだろう?どんなに小さなバイオリンなのだろうか? バイオリンの波打つような音色は、木の葉の魂まで抜き取ってしまうのだろうか? 木の葉の魂の踊りはいかなる舞いなのだろう?」(柳沼孝一郎訳、『選集』3所収)
7  「命をかけて仇を討つ」という誓い
 池田 直感的に、おおよそのところは感じとれます。
 ヴィティエール 他の作品と同様に、ここに挙げた作品も、人間の精神と自然が融合しているようですが、これらは大きな不安と危機のなかで書かれたものです。
 池田 マルティが、ドス・リオスで銃弾に倒れるのが、同年の五月十九日ですから、いわばその直前に、戦場の緊迫感のなかで書かれた“野戦日記”ですね。
 ヴィティエール ええ。しかし、そのような状況のなかで、マルティはかつてない幸せを噛みしめていたのです。
 なぜなら、彼は九歳のときの誓い――絞首刑に処された黒人を前に行った誓いを履行する道を、もう歩いていたからです。
 その九歳のときの出来事について、彼は『素朴な詩』の中の詩篇ⅩⅩⅩ(三〇)において言及しています。
 「それを見た少年は 呻き泣く
  人たちと共に身を震わせて
  命をかけて仇を討つと
  死者の足もとで誓った!」(井尻直志訳、『選集』1所収)
 だから、あなたが感じられたように、マルティの言葉はつねに民衆の心に届いたのです。たとえ、民衆が字の読めない人々であっても。
 なぜなら、彼の言葉は「情熱の言葉」であり、“苦しむ人々”に対する「憐憫の言葉」であり、それは、他の人々のためにみずからを犠牲にするという
 「贖罪の言葉」であって、一つ一つ言葉の運びごとに、美と正義の深いかかわりが開示される表現だからです。
 池田 マルティが、いかに民衆と一体化していたか――その高揚感、充足感は、戦死の前日に書かれた親友マヌエル・メルカード宛ての未完の手紙に、はっきりと見てとれます。
 「私はマクシモ・ゴメス将軍と他の四人とともに嵐のなかをボートの櫂をとり、母国の見知らぬ海岸の採石場にたどり着いた。十四日間にわたり雑嚢とライフルをかついで難所や高所を歩いた。道すがら人々を立ち上がらせてきた。人間の苦しみやそれを癒そうとする正義への私の愛着は、まさに人々の魂の慈悲深さに根ざしているのだということを感じた。戦場はまちがいなくわれわれのものだった」(後藤政子訳、『選集』3所収)
8  詩作のうえで師と仰いだ人
 池田 マルティの波瀾万丈の生涯は、彼自身に、象牙の塔にこもることも、机上に静かな思索をめぐらせる生活も許しませんでした。
 しかし、そのなかで彼は、満天に広がる綺羅星のごとく、数多くの不滅の詩をつづり残しました。
 もちろん、生来の優れた資質があったにせよ、詩人マルティの誕生の直接の契機として、やはり師匠であるメンディーベ先生との出会いを忘れることはできません。
 いかなる偉大な才能も、努力なしに、訓練なしに、真の輝きを放つことはありません。
 マルティ少年は、授業中はもちろん、課外においても、メンディーベのもとで家族のように暮らし、先生の詩や小説を読み、世界的な詩人の作品を学びました。
 “修業時代”ともいえるこの時期、彼は、どんな詩作の訓練を受けたのでしょうか。
 ヴィティエール マルティの詩(『素朴な詩』)の一節に、こうあります。
  「わたしの神殿たるこの山では
   ポプラの木が柱だ!
   絨毯は本物の羊歯
   四囲の壁は樺の木
   光りは蒼穹から
   青い空の天井から降り注ぐ」(井尻直志訳、『選集』1所収)
 この詩を書かせた可能性のある作品として、メンディーベの「午後の祈り」の中の、以下の数行が挙げられることを、私は自著『詩におけるキューバ的なるもの』(一九五八年)において指摘しました。
  「山に私たちの神殿を建立しよう
   屋根は空そのもの
   光は星々
   絨毯は地面
   祭壇には一本の木」
9  池田 連想がはたらきますね。
 ヴィティエール たしかに、メンディーベの影響でマルティは、ヴィクトル・ユゴーとアイルランドの詩人トマス・ムーアに傾倒するようになりました。
 今になって考えますと、おそらく彼は、自分の師の詩作品の中の、夜の葉のざわめきを思い出しながら、先ほどの日記の中の「森が織りなす音楽が聞こえてくる。繊細なバイオリンが奏でる妙なる音楽のようだ」というすばらしい光景を書いたのだと思われます。
 池田 メンディーベ以外にも、彼が詩作のうえで師と仰いでいた人はいましたか。
 ヴィティエール マルティ自身の告白によりますと、彼にとっての最初のキューバの偉大な詩の師匠は、ホセ・マリア・エレディアでした。
 マルティは、彼について「スペイン語圏におけるロマンチシズムの最初の嫡子であった」と言っています。エレディアは、「自由を求める飽くことなき情熱」と切り離すことのできない、炎のような詩の師匠でした。
 マルティは彼を、南米解放のシンボルであるシモン・ボリバルに擬してさえいるのです。
 「力強く、目くるめく、あの言葉、巧みに巧んで言葉を選び出すその戦いにおいて、エレディアは、文学における唯一のボリバルである」と述べています。
 これは、『露のしずく』に明らかなメンディーベの資質である穏やかな叙情的作風から見れば、かなり乖離した評価であると受けとめられるかもしれません。
 しかし、(キューバの詩人)レサマ・リマが、マルティの魂を評して「源泉の神秘」と名づけたものに、だれが立ち入ることができるでしょうか。
 家庭、メンディーベの学校、軒端から眺めた星々、文学や愛国者同士の集会での高揚、メンディーベ夫人の奏でたピアノ……若きマルティの詩魂が生まれ育まれた深処を、だれがうかがい知ることができるでしょうか。
10  師匠の大いなる“詩魂”を継いで
 池田 マルティは後に、一八七一年一月十五日、スペインに追放されるとき、師メンディーベに、こう手紙を送っております。すでに引いた内容ですが、もう一度挙げさせてください。
 「多くの苦しみがありました。しかし、私には、それらの苦しみを毅然と耐え抜いたという確信があります。これだけの力が発揮できたのは、そして『真の人間になるだけの力が自分にはある』と実感できるのは、すべて先生のおかげです。また、これまでの私の人生に喜びや愛情があったのは、すべて先生の力によるものです」
 「すべて先生のおかげです」――なんと崇高な師弟愛でしょうか。
 彼が受け継いだ宝の核心には、師匠の大いなる“詩魂”があったはずです。このメンディーベの詩篇には「専制者への嫌悪や人間の誇り、人間の自由への賛歌が脈打っていた」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)といわれておりますが、彼はどんな詩人だったのでしょうか。
 ヴィティエール マルティの師メンディーベは、ヴィクトル・ユゴーを範として仰ぎ、また、トマス・ムーアの『アイルランド歌謡』の翻訳にいそしんでおりましたが、彼の作品自体は、機知に富んだ繊細な一個の詩人のものでありました。
 彼の作品は、ロマンチシズムの行きすぎに対する反発としての“良いセンス”と呼ばれるようになった作品群の代表といえるでしょう。同時に、叙情的スタイルを内面化した詩人の代表的な存在でもありました。
 マルティは、彼について、このうえなくすばらしい言葉でこう言っています。
 「静まった家で、夜の光と葉のざわめきに包まれて、詩を創っていた」
11  完成された詩篇は三百九十三篇
 池田 よくわかりました。
 ここで、詩人マルティについて、ごく基本的なことですが、今日残っているマルティの詩は何篇あるのでしょうか。
 公刊された彼の詩集は、『イスマエリーリョ』(一八八二年)、『素朴な詩』(一八九一年)、そして死後に刊行された『自由詩』の三冊ということですが、これらに収録されていない詩も多数あると思います。
 ヴィティエール マルティの詩作品に関するあなたの質問にお答えしたいと思います。
 ハバナにあるマルティ研究所から出版した『「マルティ全集」に関する文芸批評』(一九八五年)で、私と妻は次のように分類しました。(この作業のおかげで、私たちも初めて、彼の作品を一つ一つ、挙げることができるようになったのです)
 第一巻には、十五詩篇からなる『イスマエリーリョ』、六十六詩篇からなる『自由詩』、四十六詩篇からなる『素朴な詩』。
 第二巻には、十四詩篇からなる『初期の詩』、十三詩篇からなる『スペイン時代の詩』、二十七詩篇からなる『メキシコ・グアテマラ時代の詩』、七十二詩篇からなる『拾遺詩集』、八十三詩篇からなる『蝶の鱗粉』、五詩篇からなる『黄金時代の詩』、四十五詩篇からなる『つれづれの詩』、七詩篇からなる『詩風書簡』が収められています。
 無数の断片や未完成のテキストは除外しました。
 完成された作品は、全部で三百九十三篇あります。いずれも貴重なものであり、そのなかの幾篇かは、マルティを知るうえで本質的に欠くことのできない作品です。
 マルティがゴンサーロ・デ・ケサーダに宛てた文学的遺書ともいうべき手紙(一八九五年四月一日付、モンテクリスティにて記す)の中では、三冊の詩集の表題――『イスマエリーリョ』『素朴な詩』『自由詩』の三冊ですが、当時『自由詩』は未発表で、まだ整理されていませんでした――だけを挙げて、この彼の詩集の未来の編集者に対して、こう述べています。
 「詩ですが、『イスマエリーリョ』以前のものは、いっさい活字にしないでください。すべて駄作です。その後の作品はそれなりのもので、わたしとして、こころを込めて作ったものです」(青木康征訳、『選集』1所収)
 しかし、もちろん彼の全集を編集した者は、だれも彼の指示に従っておりません。
 もし従ったならば、「死んでしまったぼくたちの兄弟に十一月二十七日」(マドリードにて、一八七二年)や「死者」(メキシコにて、一八七五年)などの重要な詩篇や、彼の伝記を書くために必要であり、かつ彼の詩的表現の展開を知るうえで不可欠である、永遠に美しいテキストを知ることはできなかったでしょう。
 マルティが考えた作品の境界線『イスマエリーリョ』は、たいへん意味深いものです。一八八一年以前に書かれた詩と、この年以降に書かれた詩との間には、凝縮度や独創性に関して、質的な違いがはっきり見受けられます。
 池田 『イスマエリーリョ』の意義について、博士は「バイタリティと迅速さと深遠な人情の機微にふれる表現技法を駆使することによる、文学の黄金世紀(十六―十七世紀)に活躍し、時代を特徴づけた世俗の詩人や神秘主義詩人が
 体現していたスペイン語的系譜の刷新」とおっしゃっていますね。
 ヴィティエール ええ。
 池田 さらに、これは選ぶのはむずかしいかもしれませんが、もっともキューバの人々に愛されているマルティの詩はどんな詩でしょうか。
 ヴィティエール キューバ国民がもっとも愛するマルティの作品が『素朴な詩』であることは、疑いえないと思います。
 池田 なるほど、わかりました。
 また彼は「自分の詩を集めることよりも、行動を積み重ねたいと思う」(一八八一年)とも書いております。
 ソクラテス流に言えば「善く生きること」に専心するマルティには、折々の詩を数え、詩集を編むことなど、二義的、三義的なことだったのでしょう。
 ヴィティエール マルティが“詩篇”の中の詩人である以前に、「行動」の詩人であろうとしたことは明らかです。
 詩を書くということは、彼にとってごく自然の行為であり、晩年の十五年間に、私たちの言語であるスペイン語において、今にいたるまでだれびともそれを超えられなかった高い知性や言葉の豊かさ、衝迫性を具えた表現に到達したのです。
12  大感動なくして真実の詩は生まれない
 池田 私が若き日に愛読したイギリスの革命詩人バイロンを連想します。彼も“詩篇”の中の詩人であることに飽きたらず、進んでギリシャの独立戦争に身を投じ、マルティ同様、それに殉じました。
 ところで彼は、どのように詩を書いたのでしょうか。ある構想を立て、推敲に推敲を重ねるタイプだったのでしょうか。
 反対に、かのゲーテがみずからの詩を評して「機会の詩」と言ったような、電光石火、即興的な創作を得意としていたのでしょうか。
 ヴィティエール 彼の書き方については、彼自身がこう言っています。
 「まず、ぼくはレールを敷き、それから機関車を動かします」
 「これから書こうとするものを、ぼくはまず、見なければなりません。そして、描かなければならないものの色彩や姿などを、ぼくのなかで創造し、検討し、再構築していくのです」と。
 また、「レビスタ・ベネソラーナ」誌において、彼が「もの書きは、絵描きのように描かなければならない」と断言したことを忘れてはならないでしょう。
 このような原則は、詩作品よりも散文のほうに当てはまるもののようです。マルティの手稿を考察してみますと、全体的に、散文はあまり修正が施されていないのに対して、詩のほうはさまざまな可能性が、あれこれ追究されています。
 彼自身はインスピレーション(霊感)というものを、非常に信頼していました。「詩というものは、(頭であれこれ考えて言葉を)追いかけていくべきものではない。(詩想が次々に湧き出て)詩が詩人を追いかけてくるのだ」と考えていたのです。そして「頭脳で書く詩を乗り越えようと格闘」していました。
 こうも書いています。
 「詩をはじめ、すべての芸術というものは、感動のなかに、崇高にしてゆくりなき感動のなかにあるものなのです。そのような原初の感動が、時満ちて、
 ある種の詩想にまで昇華され、ついに沸騰点に達したとき、詩が創作されるのです。それ以前のものは部分的で、詩としては不十分なものでしょう」
 池田 その点は、詩を愛し、少々詩作をたしなむ私にも十分に理解できます。
 詩は、人間同士を、また人間と自然、宇宙を結びゆく見えざる絆であり、人間を真に人間たらしむるコスモロジーの源泉です。
 「詩心」とは、人々の末梢神経にしか訴えないような瑣末な事象の間を右往左往しているのではなく、何ものかに突き動かされるような黙しがたい内的なうながしであり、宇宙生命と一体化しゆく大歓喜、大感動のやむにやまれぬ流露にほかなりません。
 こうした大感動なくして、いくら頭の中で言葉を操作していても、マルティが「どっしりした、高みをめざす、他を圧倒するような骨太の作品」(青木康征訳、『選集』1所収)と評した、魂を揺さぶるような優れた詩など生まれるはずがありません。
 マルティの言うように、「初めに感動ありき」です。その宇宙大の感動が、それに似つかわしい適切な言葉と出あったとき、末梢神経ではなく中枢神経を、そして万人の心の奥まで照射する、真実の“詩”が誕生するはずです。
 このような“詩”こそ、細部にこだわり、さまざまな技巧を凝らすのと反比例するかのように、マルティの時代にもまして、現代の文学や芸術から失われつつあるものです。
13  芸術とは「真実が勝利するための最短の道」
 ヴィティエール マルティの文学が、現代社会に受け入れられにくい理由もそこにあることを、私たちはすでに語りあってきました。
 また、表現様式(スタイル)について、マルティは、こう言及しています。
 「表現様式には、川のせせらぎ、葉の色彩、椰子の木の荘厳さ、火山の溶岩が備わっていなければならない」と。
 つまり、マルティは「(巧緻を凝らした)修辞学的手法に対して、自然に即した手法をもって」対抗したのです。
 この自然に即した手法は、唯一「新しく生まれ変わった人間」にふさわしいものであることを、マルティは示唆しているのです。
 その自然からマルティは、表現対象の本質と形、すなわち豊饒と同時に節度を、想像力の横溢と同時にその秩序づけを学んだのでした。
 ゆえに、マルティは次のように要約しています。
 「詩人が自分の考えを、ある形に収めていくということは、刀をその鞘にぴったり収めるようなものです。そのような人は表現様式をもっているといえるでしょう」
 また次の文は、彼の詩論の鍵でもあります。
 「芸術とは(表現対象に)真の敬意を払わずしては成り立たない、ひとつの形式である」そしてこのことは、次のような疑問文のなかで結論づけられています。
 「芸術とはいったい何なのでしょうか?
 真実が勝利を勝ち取るための、最短の道ではないでしょうか?
 と同時に、その真実を人々の心と頭脳に、輝きを失うことなく、永遠に存続させるための最短の道なのではないでしょうか?」
 池田 思わず膝を打ちたくなるような、簡明かつ肯綮にあたった芸術観ですね。
 それは、科学的真実のみが肥大化し、「人間いかに生くべきか」といった問いが宙に浮き、文学や芸術がその根を断ち切られて浮遊している現代の病を、まことに鋭くえぐり出しております。
 「川のせせらぎ、葉の色彩、椰子の木の荘厳さ、火山の溶岩」――このマルティの象徴的な言葉に、私は日蓮大聖人の自然観を重ねてみたいと思います。
 「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭の円かなるは天に象り足の方なるは地に象ると知り(中略)鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり(中略)毛は叢林に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり地に在つては五岳に法とり」(御書五六七㌻)と。
 細かい穿鑿はさておき、そこに響きあっているコスモロジー再興への想いは共通しているはずです。

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