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日蓮大聖人・池田大作

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4 二十一世紀の国家観――人類こそわが…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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10  人々を救うための文学
 ヴィティエール 私は、中国のことはよく知りませんが、おっしゃることはよく理解できます。
 もし、お許しいただけるならば、ここで私の個人的な見解を述べさせていただきたく思います。
 おそらく東洋では、とりわけ日本においては、文学は西洋におけるように病的で毒されているようなものではないのでしょうが、しかし、現代西洋文学がマルティの示唆した方向に進むことは、ほとんど期待できないことは確かです。当時は、ユゴーやエマーソンやトルストイなどの、世界的に偉大な作家・思想家たちが、まだ生きていましたけれども。
 現代においては“使徒”としての文学など、もはや存在しないのです。
 マルティの思想を普及させていくうえで、もっとも大きな障害の一つは、まさしく彼の“使徒”としての雰囲気なのです。それはマルティの大きな魅力なのですが、今日の多くの読者を遠ざける要因となっているのです。
 マルティは職業作家として生きることに、あまり関心をいだかなかったため、(もっぱら教師たちによって研究されるためだけでなく)人々を救うために書いたマルティの文学が息づくための“時”が過ぎてしまったのか、あるいは、まだその“時”がめぐってきていないのかもしれません。
 私は、その“時”がまだめぐってきていないものと信じ、池田博士の学識豊かな熱情と、決して手放すことのない熱い希望に勇気づけられて、あなたとの対話を行うという名誉を、お受けすることとしたのです。
 池田 光栄です。
 もう一人、私の友人を紹介させてください。キルギス(共和国)の出身で旧ソ連邦を代表する作家の一人であるチンギス・アイトマートフ氏です。ご存じのとおり、氏の作品は、現代のヨーロッパやアメリカ合衆国では、ほとんど見られなくなった、コズミック(宇宙的)な世界観を濃厚におびています。
 ゴルバチョフ元大統領の側近として、ペレストロイカ(改革)に挺身していた氏にとって、一九九一年のクーデターはたいへんなショックであった。そして、その後のソ連の混乱、荒廃は氏の文学にかける情熱にも、冷水を浴びせかけるものであった。
 当時、彼は文学の力、生命力を信じられなくなった苦しみを切々とつづった長文の書簡を私に寄せてくれました。
 それに対し、私も私なりに、自分の思いのたけを返信にしたためました。その最後の部分を引用させていただきたいと思います。やや、長文になりますが……。
 「『私は今、文学の生命力が感じられないことで苦しんでいます』とのあなたの言葉は、優れた文学者の発言だけに、また私の親しい友人の表白であるだけに、他人事とは思えません。日本においても言えることですが、グラスノスチ(情報公開)による言葉や情報の洪水は、それに反比例するかのように、言葉の内実の希薄化をもたらすことは否めません。厳しい言論統制下にあっては、限定されたものであっても、真実の言葉を求める渇きにも似た希求がありましたが、ちょうど、その反対の現象が現れるようです。
 しかし、それも一時のことでしょう。私は、
 歴史の淘汰作用を信じております。もちろん“外野席”からの発言ではなく、みずからその流れの中で、流れを作る作業にたずさわりながら、そう申し上げたい。本年(一九九一年)六月、あのヨーロッパの“緑の心臓”と呼ばれる美しいルクセンブルクで語り合ったさい、あなたはおっしゃったではありませんか。――ヴィクトル・ユゴーを領袖とするロマン主義を古いと言う人がいるが、私は、そうは思わない。現代にロマン主義をよみがえらせる作業は、とても大切なこと、と。
 今こそ、決してあせらずに、その共同作業を始めましょう。この対談集も、もちろん、その一環です。ユゴーのごとく、善を語り、正義を語り、友情や愛を語るに、なんの臆することがありましょうか。マルクスの評判は、今や地に墜ちたかの感さえありますが、少なくとも、私は、彼が、大著『資本論』の冒頭に、次のダンテの言葉を引いた心意気は、壮とするものです。『汝の道をゆけ、世人をして語るにまかせよ』と」(『大いなる魂の詩』。本全集第15巻収録)
 ヴィティエール 博士! 私もあなたと同じく「まだその“時”がめぐってきていない」と確信するがゆえに、また、その“時”を招来せんがために、僣越ですが、アイトマートフ氏に送ったエールを、あなたにも送らせていただきたいのです。

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