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日蓮大聖人・池田大作

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3 リーダーシップ――先覚者の苦悩と決…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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2  みずからの民衆観を貫き先輩と離別
 ヴィティエール マルティの生涯のなかで、そのような決断を下さなければならない、きわめて重大な時期は、三回ほどありました。
 一回目は、一八八四年、「ゴメス・マセオ計画」といわれるものに同意しなかったとき。
 二回目は、一八八九年から九〇年にかけての冬、第一回米州諸国会議が開催されていたとき。
 三回目は、一八九五年、「フェルナンディナ計画」が挫折したときです。
 一回目について言えば、「十年戦争」を生きぬいた、もっとも尊敬されていた指導者であったマクシモ・ゴメス将軍とアントニオ・マセオ将軍は、一八八四年、ニューヨーク市にやってきて、マルティに彼らの立てたキューバへの武装侵入計画を援助するよう求めました。
 マルティは同市にその四年前から住み、カリクスト・ガルシア将軍と協力して、独立のためのプロパガンダ(宣伝活動)を行ったり、組織を編成したりしていました。このころ行った「ステック・ホールの講演」という演説はたいへん重要視されています。
 池田 一八八〇年一月、追放の地スペインを脱出したマルティが、ニューヨークに到達したあと、二十七歳の誕生日(一月二十八日)を前にして行った、合衆国で初の講演ですね。講演の行われた場所ステック・ホールの名前をとって、そう呼ばれていると聞いております。
 ニューヨークでは、キューバからの移民や亡命者が多く住んでいたが、マルティについてはほとんど知られていなかった。しかし、それまでの講演者が、声高なアジテーター(扇動者)風の者が大半だったのに対して、マルティの格調高きなかにも静かな情熱をたたえた演説は、不思議な力で人々を魅きつけて、一気にこの青年を革命運動の指導者へと押し上げました。
 ヴィティエール ええ。イスパノアメリカ諸国では、(第一次)独立戦争を戦いぬいた将軍たちが、軍人主導の、広範な討議も合意もない、一方的なやり方を押し付けていることを、マルティは身をもって知っていました。
 一方、ゴメス将軍とマセオ将軍は、市民意識が意のままにならないことに、また市民たちが、いわゆるキューバ“大戦争”(十年戦争)のときの口舌の徒にすぎなかったリーダーたちと同じ轍を踏んでいることに、無力感をいだいたのです。
 双方の意見の対立は不可避であり、マルティはゴメスに宛てて、かの有名な手紙を送ることとなるのですが、その中でこう述べています。
 「将軍、人民というものは、野営隊を率いるように、簡単には組成することはできません……」と。
 マルティは、みずからの民衆主導の原理に忠実に従い、それまで数年間にわたり、多くを犠牲にして取り組んできた、あらゆる公的活動から身を退きました。
 「ゴメス・マセオ計画」が勝利を収めたならば、マルティは祖国の歴史を決定づける出来事の外に身を置くことになったでしょう。沈黙していたその時代の苦悩は、『素朴な詩』(一八九一年)の作品のいくつかに反映されています。
 池田 尊敬する二人の先輩と袂を分かたなければならない、苦渋に満ちた決断――その由って来るところは、その二年前、ゴメス将軍へ送った最初の手紙の一節からも、はっきりとうかがい知れます。革命機運の高まりにふれつつ、マルティは述べています。
 「いまや、静かに熟慮のあげく革命の旗のもとに結集した人たちが現われ、この国の疑問に答えようとしています。忍耐は勝つためのひとつの方法です。このことに期待をかけた結果、この好機この幸運が訪れているのです。力を抑制することこそ、力を持っている最大の証拠だとわたしは思います」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)と。
 「力を抑制することこそ、力を持っている最大の証拠」――いかにもマルティらしい表現ですが、そこに流れるトーンは、軍人主導の運動とは本質的になじまないものがあると思います。その意味から言えば、マルティは、今日のシビリアン・コントロール(文民統制)と呼ばれるものの先駆者でもあったわけですね。
3  「北の大国」の野望を見抜いた先見性
 ヴィティエール ええ。
 二回目の決断(第一回米州諸国会議が開催されていたとき)について言えば、『素朴な詩』のプロローグ(序章)の中でマルティは、「あの苦悩に満ちた冬、イスパノアメリカの民衆は、無知からか、ファナティック(=狂信的)な信条に押されてか、危惧を抱いてか、それとも善意からか、恐るべき鷲の下ワシントンに集まった」(井尻直志訳、『選集』1所収)と、当時の状況がどのようであったかを語っています。
 池田 一八八九年十月、アメリカ合衆国が、ラテンアメリカ諸国をまねいてワシントンで開催した米州諸国会議に向けて鳴らした、マルティの警鐘ですね。
 ヴィティエール そうです。それは初期のアメリカ帝国主義が、南の諸国に軛をかけて、自国の優勢な経済の荷車につなごうとする、初めての操作だったのです。
 ブエノスアイレス(アルゼンチン)の「ラ・ナシオン」紙上に掲載された、その米州諸国会議に関するマルティの報道記事の中に、彼の分析とより明確な反帝国主義的な声明がすでに含まれています。その部分を示してみましょう。
 「イスパノアメリカにとって、(スペインからの独立に続き)第二の独立を宣言する〈時〉がやってきました」
 また、次の問いかけのなかにも、はっきりと言明されています。
 「アメリカ合衆国が世界中の他の諸国に仕掛けようとしている戦いの場へ、青春期を迎えている国々が、なぜ連合して出て行かねばならないのか?なぜヨーロッパとラテンアメリカの共和国諸国との紛争をよいことに、解放された国民を合衆国の植民地システムの実験台にしようとしているのか?」
 つまり、イスパノアメリカ諸国、とくに一八九八年の軍事介入以降のキューバに対して、現実に押し付けられることとなる、金融のネオコロニアリズム(新植民地主義)を見通していたのです。
 池田 「北の大国」の野望に対して、マルティが一人抜きんでて鋭い判断、決断を下すことができたのは、いつに、その透徹した革命観によるのではないでしょうか。
 先の「ステック・ホールの講演」で、彼は当時の利権政治を批判したあと、こう述べています。
 「しかし、このようなつまらないことを思いめぐらすのはよしましょう。(中略)私たちは、名誉と生死にかかわる第一義的問題を、押し並べて経済問題にしてしまうような人間ではないからです。名誉と生死にかかわる問題を解決しないかぎり、私たちの息子に天井はなく、私たちが存在する目的も、私たちの骨を納める熱い墓もないのです」(青木康征訳、『選集』3所収)と。
 米州諸国会議のころも、私利私欲に目がくらんで、スペインに替わりアメリカ合衆国を“宗主国”に仰ごうとする併合主義など、多くの意見が混在していました。
 そうしたなかで、マルティの先見性が光っているのは、何といっても祖国の独立、解放こそが、キューバ人の人間としての尊厳を守るための第一義的課題であることを、彼が骨身にしみて知っていたからでしょう。
 ヴィティエール それにとどまらず、マルティにとって、その冬の最大の苦悩は、キューバに対するアメリカ合衆国の、ジェファソンの時代以来の密かな目論見に気づいたことでした。
 その目論見とは、キューバを買い取る、それが不可能であれば、かねてから欲してきたように、いわゆる“そうなる定め”という論理によって、何としてもキューバを占拠しようとするものです。
 そこで一八八九年の十二月に、もっとも親しくしていた協力者ゴンサーロ・デ・ケサーダに対して、次のようにしたためています。
 「ゴンサロ、祖国についていままで知られていたのとはちがった、不可解な計画がたてられています。それは島内をむりやりに戦争にかり立てようとする不当な計画です。その計画者はキューバ島に介入する口実をつくり、調停者や保証人と見せかけて居すわろうとしているのです。自由な国民の歴史にこれほど卑劣な行為はございません。これほど冷酷な不正行為もございません」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)
4  人種間の和を乱すことは人類に対する罪
 池田 そうした「彼らのアメリカ」(合衆国)の野心を暴き、「われらのアメリカ」(ラテンアメリカ)への愛情を凝結させた一文の末尾は、神々しいまでのヒューマニズムをたたえています。
 「そこ(=大自然の正義)では輝かしい愛と、烈しい意欲のなかに人類の普遍的な平等がはっきりと現われている。外観と皮膚の色こそちがえ、その肉体からほとばしる精神は同じであり、永遠のものである。人種間ににくしみと不和を助長し広める者は、
 人類にたいする罪を犯している」(同前)と。
 ヴィティエール マルティの真骨頂です。
 このような不可解な計画を策謀する国(合衆国)に住むみずからの心情を、「まるで犬に咬まれズタズタになった雌鹿」のようだと、メキシコの親友メルカードに宛てた手紙の中で書いています。
 このマルティが感じとった(合衆国の)陰険な目論見が実行に移され始めたのは、一八九五年一月、一人のキューバ人の軽率さと、密告、そしてアメリカ人の悪意に満ちた罠により、マルティたちの「フェルナンディナ計画」と言われるものが失敗したときです。
 それはフロリダのフェルナンディナの港に停泊させている三隻の汽船に武器を積み込み、キューバに向かう準備を整えていたもので、乗船した指導者たちの上陸に合わせて、各地の戦略地点で武装蜂起をしようという計画でした。
 周到な準備で突然の蜂起を起こすことにより、戦争を短期に終わらせることができ、犠牲者も最小限ですみ、また合衆国に介入の機会をあたえることがないように考慮されたものでした。
5  “時”を感じ戦争開始に踏み切る
 池田 「フェルナンディナ計画」は極秘のうちに進められていたため、その秘密がもれてしまったことに、マルティはたいへんなショックを受けていますね。
 ヴィティエール ええ。その計画の挫折により、戦争の開始が早められ、奇襲のチャンスが失われてしまい、ゴメスとマルティはオリエンテの海岸を前にして遭難寸前の状態におちいることとなりましたし、マセオとマルティの仲は気まずくなってしまったのです。
 その結果、活動は長引くこととなり、のちに(三年後)合衆国の戦艦メーン号がハバナ湾で爆破されたことを口実に、合衆国による介入が画策されるにいたったことは周知の史実です。
 このような厳しい不幸に見舞われるということも含めて、あらゆるマイナス面を予測していたにもかかわらず、(「フェルナンディナ計画」のための)密かで綿密な準備と献身的な募金集めに何年も費やしていたので、マルティは続行を決意しました。これが、三回目の決断です。
 池田 おそらく、マルティは“時”を感じていたのでしょう。前にも論じましたが、とりわけ指導者にとって、時を知るということは、運動の成否を決定づける要因となると言っても過言ではありません。ゆえに、私の恩師も、青年に贈った一文で「今はいかなる時かを凝視せよ」とつづっておりました。
 マルティの言葉が想起されます。
 「ものごとには為すべきときというものがあります。明らかに無理とわかっているときに無茶をすることはありません。時を待つというのは、永遠に決断しないということではありません。記憶が高揚し、恨みがつのり、破滅がはっきりと目の前に迫り、今がそのときという瞬間、決断するのです。そのときを見極めるのが指導者の務めです。人の先頭に立つ者には誰よりも広い視野が求められるのです」(青木康征訳、『選集』3所収)と。
 ヴィティエール そうした決断に立って、一八九五年五月二十四日に決行されることとなる「蜂起開始の命令書」を起草したのでした。
 それからサントドミンゴやハイチにおける無数の困難や危機を切り抜けながら、一八九五年四月十一日の嵐の夜、ゴメスと他の四人の仲間とともに、プライタス・デ・カホバボから上陸したのです。状況は最悪というほどではなかったのですが、それでもマルティは日記に(祖国への第一歩を印した感触を)「跳んだ。大いなる喜び」と書いています。
 たしかに戦闘中、死によってのみそこから解放される、苦悩の日々が続いたでしょうが、義務を遂行した充実感や、祖国の自然との交わり、貧しい人々から寄せられた愛情などが、最期の時がくるまで、彼の傷を癒し、和らげていたと私は推察します。
6  「革命を終わらせる革命」
 池田 ここで、マルティの革命観に話題を転じましょう。
 「もっとも必要な革命は、革命を終わらせる革命である」――マルティの箴言にこうありました。
 革命を終わらせる革命――。彼が志向したのは、本来、武力による争闘ではなく「平和革命」であったのではないでしょうか。
 中国の文豪・魯迅も、「革命というものは本来、人を生かすものであって人を殺すものではない」(竹内好編訳『魯迅評論集』岩波文庫、参照)と語っていますが、マルティの革命観も、ここにあったはずです。
 ある若者が彼に「キューバが武器をもって立ち上がったとき、どうか私を最初の軍団に入れてください」と意気込んで語ったのに対して、マルティは「幸せなやつだ、わが息子よ。君は最初の軍団に入るだろう。しかし、もし可能ならだれも送り出したくないんだ」と応えています。革命の犠牲は私一人でたくさんだ。できることなら、
 だれ一人として犠牲にしたくないのだ。――こんな切々たる心が伝わってきます。
 ヴィティエール 一八七六年十二月七日に、マルティはメキシコの「エル・フェデラリスタ」紙にこう書いています。
 「さらにもう一つの革命が必要である。自分たちのカウディリョ(=軍人指導者)を大統領にしないような革命である。いっさいの革命に反対する革命である。あらゆる平和を愛好する人びとが、彼や他の人びとがもはや決して武器をとる必要がなくなるように、一度だけ兵士になって戦う蜂起である」(高橋勝之訳、前掲『キューバ革命思想の基礎』所収)
 これは、マルティが一貫して擁護したメキシコのレルド・デ・テハーダ政権――功労者ベニート・フアレスの自由改革の継承者――に反旗を翻したポルフィリオ・ディアス将軍の反乱の勝利を前にして、沈痛な思いと怒りをこめて書いた、最後の別れの文章の一つです。
 このような状況においては“革命”は“反乱”の意味しかなく、その反乱は民衆の真の利益に反していました。逆説的なことに、それは、スペインの独裁権力からの独立をめざしてきた人々の功績が生んだ鬼子ともいうべき、同じように独裁的な軍人主導の政治の帰結だったのです。
 マルティが目の当たりにしたこの現象については、グアテマラやベネズエラにおいても同様に見られました。すでにもうふれてきましたが、一八八四年の(軍人主導の)「ゴメス・マセオ計画」と意見を違えたのも、このことが原因でした。
 八五年の手紙の中でマルティは、こう表明しています――「専制政治のなかにはすばらしい名前と重要な偉業で飾り立てられているものもあるが、
 形が違うだけで専制政治に変わりはない」。
 池田 そうであっては、人類史上あくことなく繰り返されてきた、民衆を置き去りにした権力と権力との交代劇にすぎないということですね。
 ヴィティエール ええ。ところで、一八九二年、キューバ革命党を創設したさい、マルティは、たんにキューバにもう一つの独裁政権をつくるために、スペインの植民地政権を転覆させんとする暴動を目論んでいたのではありません。
 そうです。それは一八六八年の第一次革命(独立)戦争の指導者の目的でもなかったのです。マルティは『モンテクリスティ宣言』で「道徳的共和国」と名づけたものにもとづいた、不断の革命を考えていました。
 それらの焦点の違いは、マルティが一八七六年に世に問うた、もっぱら軍人主導の政治を糾弾するネガティブ(否定的)な論調と、次に挙げる不断の革命を強調する九二年の論調とを比較してみれば、明らかでしょう。
 「――祖国が崩壊している今、大きな責任を担って誕生したキューバ革命党は、一時的な激情や上滑りの実現不可能な願望やどす黒い野心から、出現したわけではありません。党みずからが宣言しているように、共和国以前に、共和国という生命の誕生を妨げてきた過去の過ちをあがなおうとする民衆の奮起から出現したものなのです。あらゆる地域から、同時に一つのものが誕生したのです。
 党の外部にいようと、あるいは内部にいようと、党がいずれ消滅する運命にあるとか、一時的なものであるとか考えた者は間違えたのです。一部のグループの野望は消滅しますが、民族の望みは持続していくものなのです。キューバ革命党はキューバ民族です」
 マルティは、思想の発展過程におけるこのような革命観から出発しました。またみずから「避けることのできない戦争という悲しくも毅然たる誓願」と名づけた、国を解放するための戦争の「必要性」(宿命)に身を焼き尽くすことを、彼に選択させた深い苦しみから、マルティは出発したのです。
7  あくまでも平和革命を志向
 池田 心から共感のエールを送りたいと思います。マルティは「紐で首を絞められ、このままでは死んでしまうというとき、紐がひとりでにほどける見込みがなければ、その紐を引きちぎるしかありません」(青木康征訳、『選集』3所収)と述べています。
 限界状況におけるぎりぎりの選択を迫られたとき、高貴な人格は、その人のみならず、その民族ひいては人類史の来し方、行く末を一挙に照らし出す、眩いばかりの光芒を放つものです。マルティにあっての戦争の選択は、まぎれもなくそのようなものであったと私は理解しております。
 革命が、えてして暴力から暴力への連鎖になることを、彼は知りぬいていたはずです。しかし、祖国を蹂躙する圧政に対しては、武器をとって立ち上がらざるをえない。ここにもまた、“キューバの使徒”の深い苦悩と決断があったでありましょう。
 けれども、彼が志向してやまなかったのは、言論闘争による変革であり、平和革命であったと、私は確信しております。この志向性こそ、彼のリーダーシップを光輝あらしめていた最大の要因ではなかったでしょうか。
 ヴィティエール あなたが提起されていることは、次の二つの観点において、基本的に正しいと思います。つまり、そのような、やむをえざる戦争に言及しておられる点と、(にもかかわらず、マルティが)平和革命を望んでいたという点において――。
 すでにもう繰り返し述べてきたように、マルティは、ガンジーの“市民の不服従”以上に困難なことを説いています。彼は、やむをえざる革命の暴力(みずからの民族の物質的・精神的勝利を純粋に守ろうとする暴力)から、憎悪という本能を除こうとして、祈りをこめて次のように書いています――「神様、これは正当な戦争であり、人々を解放することができる、おそらく重要で決定的で唯一の戦争――憎悪に対する戦争なのです」。
 また、一八八一年にカラカス(ベネズエラ)でも「愛のための戦争」を行おうと言っていなかったでしょうか?その戦争は「知的」であることを願っていなかったでしょうか?
8  「真の人間は根源に向かう」
 池田 そうした「愛」や「知性」などの精神性に裏打ちされてこそ、「革命を終わらせる革命」は可能となります。
 ガンジーは、いっさいの暴力的手段を厳しく排することによって、それをなしとげようとしました。それに対して、あえて暴力的手段を受容しながらも、なおかつガンジーと同じような精神性の高さを持続させようとしたマルティは、たしかに、おっしゃるとおり、ガンジー以上の困難な重荷を双肩に背負っていたともいえましょう。
 そのマルティの精神が、現実のキューバ革命にどう反映され、継承されているか――私は、軽々な判断は差し控えたいと思います。しかし、現在のキューバで、老若男女を問わずマルティを“師”と仰ぎ、限りない敬愛の念を寄せているという事実に、私は、人類の歴史の一つの希望の灯を見いだします。
 ヴィティエール ありがとうございます。
 その一方で、キューバ革命党で唯一のマルクス主義者であったカルロス・バリーニョは、マルティがこう言ったことを覚えています――「革命?革命は武力蜂起から始めるものではなくて、共和国のなかで育てるものなのですよ」。
 つまり、マルティはあくまでも「平和革命」を考えていたのであり、後に武力蜂起という、さけることのできない「戦争の時代」へと変化していったのでした。
 これはすでにふれましたが、国家と不可分の、あるいは少なくともより良い国家をめざしての、建設のための革命であることと関連があります。
 その「平和革命」は事実、あなたが指摘されたとおり、“教育と言論による闘争”(実際彼は、大半は手仕事を行う労働者であった移民に対して行った熱烈な演説によって、この闘争に着手していったのです)でしたが、とはいえ“被抑圧者と連帯すること”を決して忘れていませんでした。
 この大義のために、「合衆国風の新しいユニホームで外見を装い、植民地時代の魂をひきずっているのではなく、われわれの共和国の本質と実態」に目を向ける、真の社会革命へと、徐々に、本来の構造を変化させざるをえなくなったのです。
 池田 マルティ自身、「真の人間は根源に向かう」と言っているように、彼の社会革命への志向は、真の人間たらんとして根源へと迫っていった旅程の必然的帰結であったということですね。よく理解できます。
 私どもの宗祖も「立正安国」というテーゼを唱え、「立正」という真の人格完成をめざす宗教的使命は、必然的に「安国」という社会の平和と繁栄をめざす社会的使命へとつながっていくことを訴えられました。
 ヴィティエール 「強力な隣国」(合衆国)は、彼らの利益と構想に反するそのような変化をキューバ国民がなしとげることを、静観できたでしょうか? 黙って見ていられなかったことは、歴史が明らかにしているとおりです。
9  マルクスの革命思想の功と罪
 池田 さて、近代革命といえば、マルクスの名と切り離して論ずることはできません。マルクスについて、マルティはこう語っています。
 「カール・マルクスは新たな基盤のうえに世界を築く術を研究した。眠れるものを目覚めさせ、壊れた支柱をいかに取り除くべきか、その術を教えた。ただ、性急すぎたのである。日の当たらない陰の部分を少し歩きすぎた彼には、家庭にあっては、どんな女性の体内からも、また歴史においては、いかなる民衆のなかからも、困難で自然な懐胎期間を経ることなく、丈夫な子どもは生まれないということがわからなかった」と。
 平易な言い回しのなかに、世紀を跨いで露わになってきた社会主義の「正」の側面と「負」の側面とを見事にえぐり出しており、マルクスの思想に対する、モラリスト(道徳家)・マルティの的確なスタンスが表れています。
 彼は、マルクスが「何故に人間は苦しむのか、人間は何処に行かんとするのかを、深く掘り下げた追求の人であると同時に、善を尽くすことを渇望していた」ことも知悉しておりました。
 ヴィティエール カール・マルクスが資本主義について行った分析を、マルティがどこまで理解していたか、私たちにはわかりません。一八八三年、マルクスが死去した折に、マルティは彼に関する評価を始めています――「彼の偉業は、国際化にあった」と。
 一方、専門家たちによると、当時の北アメリカには、マルクス主義のよき代弁者や仲介者がいなかったようです。
 また、マルティが尊敬していたヴィクトル・ユゴーは、リベラル(自由主義的)なヒューマニズムの原則に従って、蜂起し迫害を受けている市民に共感をいだいていました。しかし、マルティは、それを超えたところにあるパリ・コミューンに対しては、情報の欠如や気質的理由もあって、共感をいだけなかったのではないでしょうか。
 池田 マルクスはパリ・コミューンを、組織されたプロレタリアート(労働者階級)の最初の蜂起であるとして高く評価していますが、あまりにも血が流されすぎましたね。そのイニシアチブ(主導権)をとっていたのは、暴力革命を至上とするブランキストでした。
 ヴィティエール それと同時に、マルティの鋭い直観力は、マルクスの偉大さを十分認識して、「弱者の立場に立ったことは、賞賛に値する」、あるいは「熱烈な改革者、多様な民族のまとめ役、不屈の力強いオーガナイザー(組織のまとめ役)」と述べています。あなたが引用された文章に、このような文章を加えながら、締めくくっています――「彼は自分自身のなかにある反抗心、向上心、葛藤を、すべての人々に見いだしていたのだ」と。
10  急進性と社会的暴力がもたらす野蛮性
 池田 そうしたマルクスの“功”の側面は当然のこととして、「ただ、性急すぎた」というマルティの言葉は、歴史的マルクス主義のアキレス腱――“二十世紀最大の実験”といわれる社会主義の歴史を通して露わにされてきたアキレス腱を、ものの見事にとらえた名言であると思います。
 これは、裏を返せば、「困難で自然な懐胎期間」を経た「漸進主義」的な革命へのマルティの希求を示しているといえましょう。私はそこに、ゲーテのジャコビニズム・急進主義批判にも通ずる、驚くほどの円熟した知恵が感じられてならないのです。
 私が多くの識者と対話するなかでも、漸進主義的なアプローチの重要性は一致した見方であります。
 ロシア革命の時代を生きた世界的なバス歌手シャリアピンは、そうした「性急な革命」への批判をこめて、回想録にこうつづっています。
 「彼ら(革命家たち)は、ごく普通の調子の健康的な歩調で、人々が仕事に行き、また、仕事から家に帰ってくるようなことに満足できなかった。彼らは、すぐに“七マイル間隔”の歩幅で未来に突進しなければならないと思ったのです」
 マルクス主義のもつ急進性と、マルティが描いた漸進主義的な革命の構想について、博士はどうお考えですか。
 ヴィティエール マルティのマルクスへの賛辞は批判的な賛辞であり、おっしゃるとおり、マルティはその方法論について異議を唱えていたのです。なぜなら、「害を指摘し、性急に解決しようとするのは得策ではない。害に対して漸進的な対策をとることを教えるべきである」と気づいていたからです。
 池田 ゲーテも、同じようなことを言っています。
 「本物の自由主義者は、(中略)自分の使いこなせる手段によって、いつもできる範囲で、良いことを実行しようとするものだ。しかし、必要悪を、力ずくですぐに根絶しようとはしない。彼は、賢明な進歩を通じて、少しずつ社会の欠陥を取り除こうとする。暴力的な方法によって、同時に同量の良いことを駄目にするようなことはしない」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)と。
 ヴィティエール なるほど。一方、マルティのそうした主張にかなりの矛盾を感じとっている人たちがいます。
 というのも、マルティが求めたのは植民地に関する漸進的な対策ではなく、解放のための戦争であったではないか、というのが彼らの主張です。
 たしかに植民地であることを終わらせるためのなんらかの平和な解決法があれば、戦争などを行うことはなかったでしょう。
 マルティにとっても、さまざまな社会的問題を解決するには、(ときに暴力的手段に訴えざるをえない)政治的解放を求める方法とは別の方法が必要である、との考えが基本的に存在していました。
 パリ・コミューン運動そのものにとって逆効果をまねいた出来事(その挫折)の後、ヨーロッパ情勢に関するマルティの論評は、しばしば、このような問題の本質が何であるのかをはっきりと示していました。
 つまり、“社会闘争”に言及しながら、「人間の上に人間を置くことに警鐘を鳴らそう」と言っているのです。彼は「他の人々を利用する人間が必然的にもっている野蛮性」に対する憤りを共有しつつも、「限界を超えることなく、野蛮性を停止させ取り除けるような、その憤りの解決法を見つけるべきである」と考えていました。未熟な社会的暴力というものは、その帰結として、本来の目的の由々しき後退を意味するのではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。それもゲーテが警鐘を鳴らしてやまなかったことです。先に語りあってきた「革命を終わらせる革命」「憎悪に対する戦争」「愛のための戦争」へのマルティのスタンスを考えれば、ことの本質は明らかです。
 ヴィティエール それらのことを踏まえつつ、マルティはヨーロッパの社会問題をアメリカ大陸にもち込むことは有害である、と考えていたことを付け加えねばなりません。
 革命を訴える演説のなかで、マルティは階級闘争を支持せず、貧しい者と富める者とが一体となった愛国戦線の結成を呼びかけているのです。たしかに個人的には、みずからの運命を「地球上の貧しい人々(たんに自分の国だけではなく)とともに」することを決意していましたが、その愛国戦線結成の意味するところは、国家として今は何をなすべきかという観点から、慎重に選びとられた選択肢であったのです。
 「ニューヨーク・ヘラルド」紙に発表した声明や、メルカードに宛てた最後の手紙は、明白にこのことに言及しています。それらは、アメリカ合衆国の介入によって「見栄っ張りで役立たずの寡頭政治」と「たくましい大衆――この国の有能で感動的な混血の大衆、
 白人も黒人もふくめて創造力にあふれた賢明な大衆」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)との間に不可避の戦闘が起きようとしている、その脅威を前にして書かれたものです。
11  「尊厳性」「品位」の回復が第一義の目的
 池田 マルティの絶筆となったメルカード宛ての手紙からは、彼が革命戦争を起こした目的がどこにあったかが、はっきりとうかがい知れます。
 「十四日間にわたり雑嚢とライフルをかついで難所や高所を歩いた。道すがら人々を立ち上がらせてきた。人間の苦しみやそれを癒そうとする正義への私の愛着は、まさに人々の魂の慈悲深さに根ざしているのだということを感じた。戦場はまちがいなくわれわれのものだった」(後藤政子訳、『選集』3所収)と。
 この、いかにもマルティらしい表白の意味するところは、革命戦争の第一義的な目的は人間の「尊厳性」や「品位」の回復にあり、そのための欠かすことのできない“足場”が「祖国」であるという確信でしょう。
 いかなるときも「尊厳性」や「品位」を手放さず、問い続けていったからこそ、マルティの訴えがつねに民族や人種、階級の差異を超えた普遍性の響きを伝えているのだと思います。
 ゆえに、パレスチナ出身の優れた文明批評家エドワード・W・サイードは、マルティやインドのタゴールを評して「彼らは死ぬまで民族主義者であることをつらぬきとおしたのだが、その民族主義のゆえに、彼らの批判的見解に手心が加えられることはなかった」(『知識人とは何か』大橋洋一訳、平凡社)と述べ、国家権力に批判的立場をとり続ける知識人として「模範ともいえる人物」(同前)と称揚してやまないのです。
 ヴィティエール この問題に関して忘れることのできないマルティの文章が二つあります。一つはハーバート・スペンサーの『今後の奴隷制度』(一八八四年)に関する書評です。もう一つは、一八九四年五月一日、ある記念式典に親友のフェルミン・バルデスが参加するにさいして、彼宛てに出した手紙です。
 書評においてマルティは、社会主義において「官僚という新しい階層」が出現するという危惧をいだいている点や、自分に有利なように国家の介入を求めようとする「烏合の衆」によるイギリス風「尊大さ」を非難している点、また未来の害悪をひどく心配しているのと対照的に、現在の不公正に対してあまりに無関心である点で、スペンサーと意見を共にしています。
 問題を敏速に掘り返した、この複雑な文章の終結部は、かなり大胆な物言いになっています――「われわれは政治にもの申したい。過ちを恐れるな、だが人々を安んぜよ! 安んぜしめる者は、過ちを犯すことはあるまい!」。
 池田 新しい官僚主義、人々の犠牲の上に成り立つユートピア思想……いずれも、ソ連型社会主義の深部を蝕んでいった病理です。マルティの炯眼は、いち早くそれを見抜いていたわけですね。
 それは「人々を安んぜよ」という言葉に見られるように、抽象的概念ではなく、現実に生き、働いている民衆の幸不幸が、つねに彼の念頭から離れなかったからでしょう。
12  極端と不正義を嫌うマルティの人間主義
 ヴィティエール フェルミンに宛てた手紙の中では、
 他の多くの思想と同様に、社会主義思想がもつ」二つの危険性に対して警告を行っています。
 一つは、外来の主義・運動に関する「未消化な」解釈の危険性について、もう一つは弱者たちに巧みに取り入り、利用するデマゴーグ(扇動政治家)についてです。そこには、以下の文が添えられています。
 「キューバ国民の場合、もって生まれた明るさに欠け、われわれに比べ、ぎすぎすした社会に見られるような危険はありません。言論による説得がぼくたちの仕事ですが、君は気取りなく誠意をもってやってくれることでしょう。問題はやり方を誤ったり、正義を過度に求めるあまり、崇高な正義を台無しにしてしまうことです」
 ここで注目したいのは、「言論による説得がぼくたちの仕事ですが」というところです。ここでまるで運命の糸に導かれるかのように、強く結ばれた二人の友情がふたたび、断ちがたいほどに強固に結び直されるのです。
 そうです。池田博士が感銘を受けられていた、あの青春時代に政治犯として捕らえられたときに、永遠に交わした友情が――。
 池田 『モンテクリスティ宣言』の中で、キューバ在住のスペイン人に訴えている個所が想起されます。
 「彼らがわれわれを冷遇しなければ彼らも冷遇されはしないだろう。尊敬すればみずからも尊敬されよう。鋼鉄には鋼鉄が、友情には友情が答える。アンティール列島人の胸のなかににくしみはない」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)と。
 ヴィティエール これまで挙げられた文章ではむろんのこと、
 詩人で画家のラファエル・デ・カストロ・パロミノの『今日と明日の物語』への序文や、パリ・コミューンに対するあらゆる言及において、マルティは社会正義を求めて「極端で誤った方法をとること」を拒否しています。
 もちろん、社会正義そのものに対しては、フェルミンに宛てた手紙の中で強く訴えています――「君とぼくは、つねに正義のための存在です。なぜなら正義がいかに歪んだ形をとろうとも、正義のための存在であり続けねばならないからです」
 これらの、バランスのとれた数々の発言と、「働く者の共和国」という構想とを結びつけて考えるとき、次のことが明らかになるでしょう。すなわち、「絶えずみずからの手を汚して働き、みずからの頭で考え、みずから誠実に働き、家族の名誉を敬うごとく、他の人々が誠実に働くことへの敬意」をつねにもち続けることによって純化される、漸進的な「社会主義的思想」にマルティは近いと思います。
 マルティのヒューマニズムはまたキリスト教的であり、古典的であって近代的であり、ラテンアメリカおよびカリブ海地域の状況のなかから、彼の生来の気質のままに創造されたものだったのです。
 池田 たしかに、キューバ革命党のニューヨーク評議会議長宛ての通達(一八九二年八月)に「われわれは、ただ一つの階級の利益のためにではなく、すべての階級に等しく利益をもたらすために、革命を継続する」とあるように、マルティの思想はプロレタリアート独裁といった考え方とは明らかに異質ですね。
 とくに、プロレタリアートの勝利に役立つなら「暴力」や「裏切り」「密告」なども、むしろ“善”として奨励するレーニンのような極端な倫理観は、マルティのどこを探しても見当たりません。
 ヴィティエール 残念ながら、マルティは雄図空しく銃弾に倒れ、(一九五九年のカストロによる革命まで)歴史上のチャンスは二度とやってきませんでした。一八九八年から一九五八年まで、キューバにとっては挫折の半世紀であり、唯一の選択しか残されていなかったのです。それは革命による急進的変革でしたが、これを守るための警戒を怠ることは、今なお許されないのです。

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