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日蓮大聖人・池田大作

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2 民衆の教師――対話と行動の戦人  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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12  教育こそ人間のもっとも根元的な営み
 ヴィティエール 一方、マルティの推奨する学校は、彼がアウトライン(輪郭)を描いていた共和国と同じように、(特定の宗教に関係のない)厳密な意味での世俗の学校です。宗教的でも反宗教的でもなく、自由な選択のための準備が整っており、良心の動きに干渉することはありません。
 教育方法に関していえば、マルティはもっとも自由な会話方式を好み、また生徒一人一人の独創性をもっとも大切にしました。
 そのやり方をとった最古の人はソクラテスでしょう。身近な師は、ホセ・デ・ラ・ルスや合衆国のブロンソン・オルコットです。そのもっとも明らかな例が「黄金時代」であり、「連盟」における教師ぶりでしょう。
 しかし実際のところ、彼のすべての仕事が巨大な教育的業績となっているのです。だからこそ、民衆は直観で彼を言い当て、彼ららしい木訥な節回しのなかで歌い続けたのです。“いつの世もマエストロ(師)”と。
 池田 マルティのすべての仕事は、巨大な教育的業績であった――まことに示唆深いご指摘です。まさに「教育」こそ、人間と社会の根本の目的です。
 アメリカ・コロンビア大学のサーマン博士(宗教学部長)は、あるインタビューで「社会における教育の役割について、教授はどのような考えをもっておられますか」と尋ねられたさい、こう答えたといいます。
 「私は、むしろこの質問は『教育における社会の役割は何か』であるべきだと思います。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると私は見ているからです」
 私は、この一言に深く感動しました。
 「社会における教育の役割」を問うのではなく、「教育における社会の役割」を問うべきだ――ここには、透徹した人間観が表れています。つまり、「教育は、社会の一部分ではない。教育こそ、人間のもっとも根元的な営みである」という達観です。
 マルティをはじめ、世界史を彩る偉人たちの多くは、分野はどうあれ、その人格と生涯を見れば、広い意味での“教育者”そのものでありました。
 大衆の心を開き、その持てる可能性を十二分に開花させる“対話と触発”の名手なればこそ、それぞれの道で大事をなしとげることができたのです。
 マルティの人格、ふるまい、著作――その隅々にいたるまで、こうした偉大な教育者としての面目が輝きわたっております。

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