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日蓮大聖人・池田大作

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2 民衆の教師――対話と行動の戦人  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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1  偉大な民衆指導者が放つ人間性の光彩
 池田 一九九九年九月三十日、貴国のプリエート文化大臣を東京にお迎えし、親しく語らいました。
 そのとき、話題の中心になったのも、マルティの卓越した精神性でした。
 大臣から「ヴィティエール博士も、この対談を非常に喜んでいました」との報が伝えられ、私にとっても、このうえない励ましです。
 対談もようやく道半ば、ここで、肩のこりをほぐすようなつもりで、少々、具体的な点についてお聞きしてみたいと思います。
 鋭く、そして慈愛の温光をたたえた眼差し。強固な精神力を物語る、引き締まった頬。あふれ出る大感情を押し隠すかのような口髭……。手元にある、いくつかのマルティの肖像を見ていると、私には、創価学会の創立者である牧口常三郎初代会長の面影が偲ばれてなりません。
 初代会長は、幾多の庶民に勇気と希望の炎をともした、
 偉大な民衆指導者でありました。
 “キューバの使徒”マルティもまた、すばらしい人格の芳香を放つ指導者であったのではないでしょうか。
 そこで、マルティの人間性の光彩に思いをはせつつ、いくつか素朴な質問をさせていただきます。ややアトランダム(思いつくまま)になりますが、日本の読者のマルティ理解のためにも、資料の残る範囲でお教えいただければ幸いです。
 ヴィティエール マルティに対して寄せられる関心事ですので、喜んでお答えいたします。
 池田 写真を見ると、マルティは意外と背は高くない。背丈はどれくらいだったのでしょうか。
 ヴィティエール 彼の服の仕立屋がとっていたメモによると、五フィート六インチ(約一六八センチ)です。
 池田 髪の毛は何色でしたか。瞳の色は。また、肌の色はどうでしたか。
 ヴィティエール 髪の毛は黒く、瞳は茶褐色で、肌の色は白でした。
 池田 あの髭は何歳ごろから生やしたのですか。(笑い)
 ヴィティエール 髭を生やしている初めての写真は、一八七二年、スペインのマドリードで、フェルミン・バルデスとエウセビオ・バルデスと一緒に撮影されたものです。十九歳でした。
 池田 声は高かったのか低かったのか。どちらかというと、温かい声であったのでしょうか、理知的な声であったのでしょうか。
 ヴィティエール 声は高くもなく低くもなく、中間の声域でした。ベルナルド・フィゲレドは「ビオラとオーボエの間」と言っています。
 演説するときは金属的な音色になりました。いつも理論武装していましたが、彼の演説は基本的に情緒に訴えるものでした。
 池田 右利きでしたか、左利きでしたか。
 ヴィティエール 右利きでした。
 池田 お酒はよく飲んだのですか。
 ヴィティエール 食事のとき、マリアニという薬効のあるトニックをいつも飲んでいました。飲んでよいときはキャンティ(イタリア産)やトカイ(ハンガリー産)のテーブルワインを、ほどよく楽しんでいました。もちろん、アルコール中毒になるほどではありません。
 池田 演説のさいは、ジェスチャーをまじえるほうでしたか。
 ヴィティエール 演説のさいのジェスチャーは控えめでした。
 池田 感情を顔に出すほうだったのですか。
 ヴィティエール 感情は顔に出すほうでした。
 池田 持病はありましたか。
 ヴィティエール 収容所で損傷(睾丸瘤腫)を受けたほかに、晩年には肺を患いました。
 池田 よく笑いましたか。
 ヴィティエール あまり笑うほうではありませんでした。
 たった一枚だけ、息子を抱いて微笑んでいる写真があります。一八七九年にハバナで写されたものです。
 池田 ユーモアのセンスはどうだったのでしょうか。
 ヴィティエール いくつかの印刷物に表れているとおり、洗練されたユーモアのセンスの持ち主でした。人間のもろさを極端に非難するべきではないと考えていました。
 池田 何か癖はありましたか。
 ヴィティエール 彼の癖は、写真でも見受けられるように、“手を軽く握る”ことです。
 池田 一日どれくらい睡眠をとっていましたか。
 ヴィティエール 睡眠時間については、彼自身が、「キューバが解放されない間は、五時間です」と答えています。
2  なぜ“使徒”と呼ばれたのか
 池田 また、博士は、キューバの貧しい庶民階層から、マルティのような大いなる人格が育っていった一番の要因は何であったとお考えですか。
 ヴィティエール 私の答えは十分な説明になりえないかもしれませんが、私たちが“天分”と呼ぶ能力の持ち主であることを、何人にも首肯させずにはおかない神秘性とでも言ったらよいのでしょうか。
 マルティについては“使徒としての天分”でしょう。
 池田 なるほど。
 日本語の“天分”という言葉には、天から授かった性質、生まれつき具わっている性質といった意味が含まれています。
 いずれにせよ、それは人間が自由にしようと思ってもどうにもならない宿命性のニュアンスをおびており、その背景には、人知を超えた“大いなるもの”“永遠なるもの”への畏敬の念が横たわっています。
 そうした謙虚さを失ったところに、近代人、近代的知性の傲慢さがあるわけですが、そうは言っても、健全なる常識のなかには“天分”や“天職”“天命”といった言葉の含意は、必ず生きているものです。
 ヴィティエール なるほど。
 ところで、なぜマルティの支持者たちは、いやむしろ信者と言うべきかもしれませんが、彼を“使徒”と呼び始めたのでしょうか。
 たしかに彼自身が、福音書にある言葉を用いることが好きでしたし、しばしば使徒たちの禁欲的な生き方を賞賛していました。
 また友人宛ての手紙の中で、自分自身の革命家としての行動様式について説明しながら、「心の中に福音書、眉の間に節度、両腕と裸形の魂は求める人に」「憐愍は選ばれた魂の証」と言っていますし、「人間には、胸に湧く同情心や、目に浮かべた涙で心を動かしてくれたり、寛大な心でこのうえない善行を行わせてくれる人が、しばしば必要なのだ」と洞察したりしています。
 このような意識で見れば、引用文はさらにふえていくでしょう。それらに共通して認められるのは、キリスト教が彼の思想の根であって、鞭をもって神殿から商人を追い払ったキリストを忘れていない、ということです。
 池田 神殿の主は神であって、商人ではない――弟子たちに対するイエスの厳しい戒めですね。
 ともすれば利害にとらわれ、栄誉栄達に流されやすいのは人間の常ですが、そうした勘違い、価値観の転倒への戒めは、高等宗教に共通のものと言えそうです。
 日蓮大聖人は、京の都に上ったある弟子が、公家の持仏堂で法論したことを得意げに報告したのに対し、その心根を厳しく戒めています。
 「最高の法門を持った身でありながら、たかが島の長に仕える者たちに『召された』とか『面目を施した』などといって喜ぶのは、日蓮を卑しんでいるのであろうか。総じて日蓮の弟子は、京に上ると、天魔がついて正気を失ってしまうのだ」(御書一二六八㌻、趣意)と。
 京風に媚びる弟子の醜態は、宗教的信念を捨て去り、世俗の権威におもねる堕落の姿以外の何ものでもなかったのです。
 ヴィティエール 相通じていますね。
 ここで特筆すべきことは、マルティのような人間にとって決定的なものは、思想だけでもなく、理念だけでもなく、彼の言葉が放射するものや彼の行動そのものだったのです。
 ゴメス将軍は、こう証言しています――「マルティは魔術師で、あらゆることを言葉で実現した」。
 ルベン・ダリーオも認めていますが、ディエゴ・ビセンテ・テヘラは、こう語っています――「マルティの打ち解けた話を聞いたことがない人は、人間の言葉には魂を奪うほどの強力な影響力が存在していることがわからない」。
 ある田舎の貧しい男が最上の賛辞を贈っています――「わしらにはマルティのことはわかりませんが、あの人のために死ぬ用意はできております」。
3  言葉の響きから伝わる人生の“真実”
 池田 あなたは著書の中で、スペインの詩人ミゲル・デ・ウナムノがマルティを評した「彼のスタイルは預言者的であり、聖書的であった。弁舌に優れていた。イザヤやキケロよりも、だれよりも優れていた」との言葉を引用しておられます。マルティの声の響きは、
 そうした抗いようのない魅力をもっていたであろうことは、私も十分推察できます。
 また、人生の“真実”とは、ぎりぎりのところ、そうした肉声を通してしか伝わらないものです。ですから、仏教においても「耳根得道」(耳から法を聞いて道を究めること)と説いているのです。
 ヴィティエール フロリダにあるタバコ工場の労働者たちがマルティを信奉し、心からつき従っていったことの証としては、彼らが贈ったアルバムを読めばそれで十分です。
 また、(だれかが)敵意に満ちた手紙を彼に送りつけたことを謝罪するため、キューバの女性労働者たちは、言葉に尽くしがたいほどの敬慕の思いをこめて、彼にぴったりの言葉――貝殻をはめこんだ「十字架」を贈っています。
 マルティを毒殺しようとしたある裏切り者が、彼と会話したあと、泣きながら立ち去っていき、解放軍に身を投じたこともありました。
 ソテロ・フィゲロアとフェルミン・バルデスは、とりわけニューヨークで、
 マルティが貧しい人々や不幸な人、卑しまれている人や苦しんでいる人、病人などに思いやりをこめた心遣いを示していたことを証言しています。このような話を聞くと、同市でかつて先駆者のフェリックス・バレラ神父が黙々と義務に精励していたことを思い起こします。
 池田 マルティは、訪れたいずこの国でも、感動と敬意をもって迎えられています。追放先のスペインでも、メキシコでも、グアテマラでも、ベネズエラでも、そしてニューヨークでも……。彼の行くところ、心から慕い、尊敬するたくさんの民衆が喜々として集い、その思想を吸収しています。
 こんなエピソードも聞きました。
 ――ニューヨークで、彼が演説を終えて友人と街を歩いていたとき、貧しい黒人の労働者が近づき、銀の鉛筆入れを差し出しながら親しみをこめて言った。「ホセさん、ホセさん、これは私からのささやかなお土産です」と。
 「見てください」。マルティは友人に語った。「これら貧しい葉巻職人の素朴さを。彼らは、貧しいわが祖国の解放のために私が苦しんでいること、闘っていることに気づいているのです」と――。
 万人を魅了してやまない、民衆指導者マルティの人となりが彷彿とさせられます。
 ヴィティエール マルティはつまるところ、偉大な人物の究極の謙虚さと、言葉の天分、洞察力、深い思考力、政治家としての能力、使命感の強さを具えた人物だったのです。
 あくなき善の戦人であった点は特筆すべきでしょう。幼子たちや恵まれない人たちに語りかける術を知っていました。
4  類まれなる“対話の達人”
 池田 現代人の魂は“失語症”と“多弁症”との間を揺れ動いている、と言った人がいましたが、それは言葉を換えれば、真実の対話がますます成立しにくくなっているということにほかなりません。
 対話については前章でもふれましたが、さらに話を進めたいと思います。
 マルティは、終生、卓越した民衆指導者として、つねに目線を平等にして、民衆との「対話」の大海原のなかで生きぬいた人でした。
 彼が(キューバやプエルトリコからの移民たちが多数居住するフロリダの)キーウェストに初めて到着したとき、そこには富裕な支援者によって豪華な車が用意されていました。しかし、マルティはそれを断って、こう叫びます。
 「こんなにまで気を配っていただいてありがとう。でも、わが庶民が私に広げてくれる真心の翼に乗っていくのには、どこへ行ったらいいのだろうか」
 こうして彼は、彼を歓迎するために集まったキューバ人の歓呼に包まれ、それに応えながら歩いていったというのです。
 ヴィティエール 当時マルティは、理想家肌で人類の予言的な展望をものしていた時期を経て、革命的行動の時期に入っています。
 この時期、マルティは苦悩と展望によって深化された愛情をもって、自分の周りの人、隣人に目を向け、接していきます。
 理想的な人間や無名の群衆というより、ニューヨークや(フロリダの)タンパ、そしてキーウェストの哀れな移民たちに、彼の目は向けられていきます。
 池田 また、時期は若干前後しますが、ニューヨークでも、彼はスペイン語の教師の仕事をし、社会的に差別を受けていた貧しい黒人たちのための同胞グループ「連盟」にもかかわり、キューバやプエルトリコの黒人たちに授業をしていました。
 その時期の様子は、こう伝えられています。
 「なんと魅力的な先生であったことか。彼の授業のやり方は主に話すこと、つまり対話だった。質問には全部答え、自分も質問して説明した。ゆっくりと分かりやすく、知識の豊富な話だった。クラスでは本に書いてあることや現実生活、歴史、道徳、政治のことがまざりあい、すべてが際立っていた」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)
 アテネの青年たちに囲まれた“産婆術”の大家にして“人類の教師”ソクラテスもかくありなん、と想像させるようなエピソードです。マルティが類まれな“対話の達人”であったことがよくわかります。
 大衆の胸を打つスピーチと執筆が、マルティの主要な“武器”でありましたが、その他に、「一人一人」の無名の民衆との対話、“陰の人”へのこまやかな心配りなど、庶民との交流のエピソード等をご紹介いただければと思います。
5  無名の労働者に宛てた一通の手紙
 ヴィティエール マルティが“民衆”と行った対話で、私がすばらしい話として思い出すのは、ニューヨークの貧しい黒人移民たちと交わしたものです。ここに取り上げてみましょう。
 ――下層の黒人労働者の保護と教育の団体「連盟」では、マルティはいつも無記名で質問を書いてもらい、それに答えて全員がわかるように話すという対話形式をとっていました。
 ある夜、机の上に次のような質問が置かれていました。
 「社会上の身分が違う二人の間に、真の友情は成立するでしょうか?」
 「身分の高い人と低い人の真心というものについて、疑問はもっていませんか? 身分の高い人は、低い人の好意をあまり利用価値がないとみなしていると思いませんか? 身分の高い人には権力があるのに、身分の低い人にはないですよね?」
 ここに取り上げたとおり、質問は鋭く的確に、貧しい人々の悲痛ともいえる心理的・精神的コンプレックス(劣等感)をあらわにしています。
 池田 その心理的・精神的コンプレックスと決別するよう、ラテンアメリカの人々に強く警鐘を鳴らしたのが、同時期に書かれた論文「われらのアメリカ」なわけですね。
 「足は珠数つなぎにされ、頭髪は白く、体はインディオとクリオーリョ(=現地生まれのスペイン人)の混血だが、われわれは勇躍と諸民族の世界に登場した」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)――と。
 ヴィティエール そのとおりです。
 この質問に対するマルティの答えは、ラファエル・セラ――その後、それらの質問を書いたのは自分だと、恥ずかしがりながら名乗り出た本人です――に宛てて、感動をもって書いた手紙の中に垣間見えます。
 「――ぼくは次のような独りごとを言いました。『ここに自分が考えたことを述べ、また当然考えなければならないことを考えている人がいる。この人の疑問は人間として当然いだくものであり、正義に満ちたものである』。ぼくは親愛感と誇りをもって、それを読みました。なぜなら彼は、ぼくのように率直な疑問を投げかける人だったからです。
 また同時に、人間としての愛情をもって答えました。
 『……どこから勉強に手をつけるべきなのか、自分自身をさしおいて? 物事はその核心部分をえぐり出し、白日のもとでその本質を見きわめるべきでしょう。そうしなければ前進はありません。質問は、とてもよくできていましたし、また普遍的な意味をもったものです。
 ぼくは骨抜きにされた人間を好きではありません。……ぼくはいっさいを苦労とは思わなかった。だれをも侮辱したいとは思わなかった。
 痛みをともなった目で、ぼくが衣類の下の真の心を見ることができないとしたら、セラ、あなたはどんなフロックコートでぼくの目をさえぎっているのでしょうか?(そんなフロックコートなどありません=訳注)
 ぼくは〈連盟〉の友人たちを誇りにし、信頼しています。ぼくたちは人間を創造しており、ぼくたちは人間なのです。これが、この世で真に未聞の出来事であることを、ぼくは知悉しているのです』と」
6  ぼくには不死の精神がある
 池田 あなたは、著書でこう言われています。
 「マルティの使命は、共通の、調和をもたらす人間の本性なるものを、金鉱脈を求めるかのように探すことであった。それは、マルティ特有の意味合いと味わいをこめて呼ぶならば、人間の『節度』というものである」と。
 「節度」という言葉には、マルティの人間主義の気高さの精髄がほとばしっております。かつて、スペイン内戦に義勇兵として参加したジョージ・オーウェルが、その動機を語った言葉を想起します。「あまねきディスンシィ(decency=品位、礼儀正しさ、見苦しくないこと)のために」と――。
 ヴィティエール いってみれば、ソクラテス派と福音書との二つに根源をもつ教育のための会話が「連盟」では行われていたのですが、残念ながら、あまり多くは保存されておりません。
 時間はさかのぼりますが、真にアカデミック(学術的)な分野で、マルティが自分の思想と初めて向かいあったのは、一八七五年、メキシコのリセオ・イダルゴにおいてです。
 ここで彼は実証主義者や精神主義者たちと議論を交わし、
 次のような原則を表明しました――「ぼくは、ぼくの人生のあらゆる行動の基準となっている融和の精神をもって議論するために、ここにきている」
 彼の姿勢の鍵は「行動」という言葉にあります。つまり、論争に終止符を打ち、行動を開始することのできる“機”の模索ということです。“機”の選択は、歴史の流れのなかで試され、検証されるものであるがゆえに、マルティ本来の真理に対する考え方そのものを守りぬくことの障害にはなりませんでした。
 したがって、彼は次のようにはっきりと言明しています――「ぼくには不死の精神がある。なぜならその精神をぼくは感じ、信じ、そして欲しているから」。
 また若干、ニュアンスを異にしますが、マルティが歩んだ道は、フェリックス・バレラ神父やホセ・デ・ラ・ルスによって唱導された、科学と信仰の融和という路線の継承でもありました。マルティはこう確認しています――「ぼくは比較解剖学の書物とルイズ・ブフナーの唯物論の書物から、精神主義を学びました」。
7  「智慧」「行動」によって価値は創造される
 池田 大事な視点ですね。
 法華経の哲学では、物事の真実へのアプローチとして、「随縁真如の智」と「不変真如の理」という二つの側面を説いております。
 端的に言えば、「随縁真如の智」とは、縁にしたがって湧き出ずる自在の「智慧」であり、「不変真如の理」とは、永久に変わらぬ絶対の「真理」を意味しています。
 とくに日蓮仏法では、前者の「随縁真如の智」のほうを格段に重視しています。「真理」がいかに正しくとも、それ自体では価値創造につながりません。現実社会の上でその正しさが立証されなければ“絵に描いた餅”になってしまいます。ゆえに、その「真理」を現実との格闘のなかで価値創造につなげていく「智慧」が大切になってきます。
 そのとき「真理」は、近代流の客観的な概念操作の対象ではなく、自己の実存の深みにおいて体得された主体的真実となります。その意味からも、マルティの「不死の精神」と響きあっていると思います。
 同じように、「智慧」とは博士がおっしゃる意味での「行動」と、ほぼ同義といってよいでしょう。そして「智慧」や「行動」の最大の武器となっているのが、生きた「対話」です。
 リアリズム(現実主義)という言葉は、ずいぶん手垢に汚れてしまいましたが、私はマルティこそ、言葉のもっとも正しい意味での「リアリスト」であると見ております。
 ヴィティエール なるほど。興味深い東洋の知見です。
 不思議なことですが、いかなる教会にも、いかなる哲学の流派にも属さない彼独自の精神主義のほうが、最終的には(当時流行の)コントやスペンサーなどのイスパノアメリカに対する影響よりも、はるかに創造的であり革命的でした。
 彼ら(コントとスペンサー)が意図した影響性は、実りの少ない実証主義や適者生存の法則の枠を一歩も出ようとしませんでした。彼らの流れをくんで、メキシコのいわゆる「科学者たち」や、“野蛮に対抗する文明”を唱えたサルミエント――マルティは「われらのアメリカ」(一八九一年)の中で、さりげなく彼に反駁しています――などが群生していったのです。
 池田 そのへんの事情については、ほとんど無知に等しいのですが、おおよその状況は推察できます。日本においても、ヨーロッパの学問を受け入れるさいの適応異常にずいぶん苦しんできたからです。
 とくに人文科学系においてその傾向は顕著で、「自由」や「平等」「人権」などというキリスト教的個人主義の伝統を背景とした言葉などは、いまだにその適応異常を払拭しきれているとはいえません。
 ヴィティエール よく似たことが、グアナバコア学園でもありました。(一八七九年)
 それは、芸術における写実主義に対して、マルティが理想主義を擁護したときのことです。
 そのとき彼が論破したことは、これみよがしの自己主張やたんなる模倣にすぎない写実主義は、無意識のうちに、あるいは狡猾に、旧套を墨守せんがために、流行の魅力につられてしまい、ヨーロッパから輸入された“見せかけだけの写実主義”にすぎなくなるということでした。“直輸入の芸術”に“人格を具えた芸術”を対置させたのです。
 キューバにおける実証主義者やヘーゲル派哲学者に対して、あるいはエンリケ・ホセ・バロナやラファエル・モントロに対して、若かりしマルティが要請した写実主義は、ドイツの独我論的観念論とはなんら関係なく、抵抗の、創造の、そして意義深い芸術を求める革命の理想と結びついていたのです。
 つまり、“すばらしきものを求める心”“偉大なものへの熱望”に応えることのできる壮大な写実主義なのです。
8  開示悟入の「民衆教育」
 池田 ここでは、マルティの教育観――といっても、教師としての活動というよりは、広い意味での「民衆教育」に対する姿勢についてうかがいたいと思います。
 幼き日の窮乏や、過酷な獄中生活、祖国からの追放等、人間の憎悪や狡猾の心をいやというほど見せつけられたマルティですが、その彼をして、次のように言わしめたものは、いったい何だったのでしょうか。
 「何か良いものをもっていない人なんてだれもいない。それをどう見つけ出すかを知らないだけなのだ」
 人間心理の奥の奥まで達観しながら、なおかつその善性を信じぬく広さ、強さ、大きさ。マルティのこの言葉は、私どもの実践する仏教の発想――万人に内在する「仏の生命」を、内発的に「開き」「示し」「悟らせ」、その仏の道に「入らせる」ことをめざす仏教の発想と、深く通じあっております。
 仏法は万人を賢明にし、人類全体の境涯の向上をめざしゆく、まさに「民衆教育」の宗教なのです。
 ヴィティエール マルティの教育観を要約してお話しする前に、あなたが取り上げられた――「何か良いものをもっていない人なんてだれもいない。それをどう見つけ出すかを知らないだけなのだ」という発言が意味しているところについて、私の意見を申し上げたいと思います。
 この発言が正確ならば(逸話というものは、いつもそうとは限りませんので)、マルティの「人間の本質は、外見ではなく、内面にある」という発言となんらかの関連があることは確かでしょう。
 人間性に関してあまりにも矛盾する経験をしたことから、その人間性が彼の思索のテーマとなりました。
 われわれが言及しているマルティの言葉も、同様に矛盾しています。一方では人間に関する本質的善を認めながら、もう一方では生得の悪を認めています。
 その分極化は、人間として独自の創造を行う弁証法の力としてのみ、理解されるでしょう。マルティにとって人間とは「善と悪との戦場」(“ヒンドゥー教の二元性”と名づけた戦争です)なのです。
 人間の宿痾ともいうべき悪業にそそのかされ、顕在化してくる獣性、すなわち“獣的人間”――それが、悪の本質です。
 善とは、意志や性質の働き、なかんずく愛によって十全に具現化されるはずの生得の能力でしょう。
9  21世紀を拓く鍵――悪は「内面」にある
 池田 「人間の本質は、外見ではなく、内面にある」とのマルティの言葉は、まったく正しいと思います。悪の本質を「内面」ではなく「外面」に求めてしまった点に、二十世紀の最大の失敗があったと、私は思っております。
 そこでは、異なる民族や異なる階級を殲滅させてしまおうという凶暴なイデオロギーが猛威をふるい、大殺戮時代を現じてしまいました。世紀末の現代でさえ、“民族浄化”などという忌まわしい現実と、人類は決別できていません。
 そうではなく、おっしゃるとおり、もっと「内面」に目を向けなければなりません。
 カール・ユングが「すべてはいわば人間の心とその働きにかかっている。心こそもっとも深い関心を払うべきものなのだ」(松代洋一編訳『現在と未来』平凡社)と喝破しているように、「内面」における善悪の葛藤を凝視し、いかにして悪を斥け善を顕在化させるかということこそ、二十一世紀を拓く鍵といえるでしょう。
 その意味からも、あなたのおっしゃる「あくなき善の戦人」ホセ・マルティには、もっともっとスポットが当てられなければなりません。
 彼は、アメリカ・ルネサンスの旗手エマーソンに寄せて、「ごく一般の人たちにとって、道理に適った繁栄をもたらさない人生は苦い。しかし、精神の喜びさえ与えない〈人生〉は癌のようなものである。それこそ、国民の中の、先見の目を持つ人々のすべき作業であり、事実、エマーソンの仕事は、一つの星が胸中に輝いていたかのように、人民に魂を打ち込むことであった」と論じていますが、それはマルティ自身の信条でもあったと思います。
10  自己の可能性を彫琢せよ
 ヴィティエール 同感です。「黄金時代」の中でマルティは、とても簡潔に子どもたちに向かって語っています。
 「人間は一人一人、自分のなかに理想の人間をもっています。同じように、大理石のひと欠片ひと欠片に、ギリシャの彫刻家プラクシテレスが創ったアポロン神のような美しい像が、荒削りのまま埋まっているのです」と。
 その全員がもっている“良いもの”とは、たんにたまたまあるものではなくて、生来の希望に満ちた可能性なのです。“それをどう見つけだすか”とは、それを光のもとに取り出して、彫刻家が石を彫るように刻むことです。
 それは教育者の仕事ですが、教育者は芸術家としての特性を具えていなければならないのです。
 でも、私たちはまず第一に、自分自身をつくり上げる芸術家でなければなりません。マルティの言うように「倦まず、弛まず、汝自身の魂を彫琢していかなければならない」のですから。
 池田 私どもの宗祖の遺文からも、同じ波長の言葉を聞くことができます。
 「衆生といい、仏といっても、またこのようなものである。迷うときは衆生と名づけ、悟るときを仏と名づけたのである。たとえば、曇った鏡も磨けば宝石のような明鏡と見えるようなものである。われわれの一念無明の迷いの心は、磨かない鏡である。これを磨けば、必ず悟りの明鏡となる。ゆえに深く信心を発して、日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきである」(御書三八四㌻、通解)と。
 ヴィティエール もしマルティが“使徒”という呼び名に値するならば、再言しますが、もっとも広義で、「マエストロ(師)」という呼び方がいちばんふさわしいでしょう。二十四歳で教師という職務に初めて就いたグアテマラで、マルティは「グアテマラが私を教師にしてくれた」、教師とは「創造者を創り出すこと」である、と述べています。
 ベネズエラのカラカスでも、やはり雄弁術の授業を行っています。ニューヨークではスペイン語を教えてもいましたが、とくに「連盟」では、諸学に通じた知識や人間としての知恵などについての講義を行っていました。
 池田 ニューヨークでは、こんなこともありました。彼の仲間が、キューバ人のあるグループに、「瀕死の同胞を助けるため」という名目でなにがしかのお金をだましとられたのです。
 だまされたことに気づいて怒る仲間を、マルティはこう諭しました。
 「そんなに文句を言わないでおこうよ。あなたがこれらの不幸な人々に与えた十ペソで、われわれは貴重な教訓を得られたのだから。何という教訓だろう! これらの同僚を立ち上がらせ、祖国解放のための支援の必要性を感じられる尊厳なる人間に育てていこうよ」
 卓抜なる民衆教育者の面目躍如たる“名台詞”です。
11  民衆の幸福のための「自然に即した教育」
 ヴィティエール さて、マルティの教育観は、教育だけを孤立させる考え方であるとか、社会の限定された一部分を対象としたものにすぎないといった受けとめ方をすべきではなく、共和国のプロジェクトの本質的部分であると受けとめるべきでしょう。
 しかしながら、いずれにしてもそれは、明確な青写真として提示されているわけではないのです。
 マルティが身近に知ることとなった二つの教育システム――イスパノアメリカのシステムとアメリカ合衆国のシステム――に対する批評をしつつ、解答を模索するなかから現れてきたものなのです。
 池田 前に、マルティが未来のための「社会的プロジェクト」をもっていたのかというところで言及したのと、同じことが言えるわけですね。現実から離れたところで組み立てられた青写真ではなく、つねに民衆の側に身を置いて「現実」と格闘する――そこにこそ、真実に民衆を幸福にする社会への道が拓けていく、と。
 ヴィティエール ええ。前者(イスパノアメリカのシステム)については、極端に文学的な傾向があることや、イスパノアメリカ諸国の基本的支柱となっている農業の実態と乖離していること、科学や技術面での遅れなどについて厳しく批判を行いました。
 また、後者(アメリカ合衆国のシステム)については、過度にプログラム化された指導をはじめ、度量の広さのないもの、人気取りのためのもの、金儲けだけが目的のものなどを拒絶しました。
 彼が提起したのは、教育上の三要素――①科学的思考、②自然に即した知識を習得する仕事、③情緒の育成――のバランスでした。別の言い方をすれば、①現状に合わせた情報、②学習が発見につながるような個人としての経験、③倫理観を育む感性、でしょうか。
 これらすべては、マルティ自身が用いた決まり文句――「自然に即した教育」に要約することができるでしょう。
 これは、技巧に走らず、言葉で飾り立てず、役立たずでなく、という三つの意味においてです。
 国や時代の必要性や要請に合わせることによって、また祖国の基盤であると同時に世界と結びついている自然との、生産的かつ直接のふれ合いをもつことによって、教育は活気づけられていくということなのです。
 池田 妹のアメリア宛ての手紙の一節が想起されます。
 「木が見えますか? 太い枝に黄金色のミカンが、赤いザクロがなるには、どんなに時間がかかるかわかるでしょう。そう、人生を極めていくと、あらゆるものが同じプロセスを踏んでいるのがわかるのです。
 木と同じように、愛情は、種から苗木に、それから花を咲かせ、果実となるのです」――と。
 彼の自然観は、人生観とほとんど同義語であり、私はそこに、暴走しがちな近代科学に大きく疑問を投げかけたゲーテやトルストイの自然観と通底するものを感じます。
 ヴィティエール マルティの考えは、彼の生きた時代の学校教育という障害によって条件づけられているため、狭義の科学主義ではないか、との印象を受けるかもしれませんが、表現に留意し全体的に読んでいけば、マルティが科学教育を美的重要性(感情や想像力)や倫理的価値観とともに定着させていたことが、きちんと理解できるでしょう。
 科学主義でないことは、まず初めに行ったことが「情緒と科学のキャンペーン」であり、「想像力」の役割を取り戻すことであったことからも明らかでしょう。
 次に、倫理的価値観を重視していたがゆえに、二十世紀において大惨事を引き起こした「精神不在の科学」、すなわち道徳観念を欠いた科学技術がもたらす危険性についての警告を行いました。
 池田 よく理解できます。
 トルストイやガンジーが、客観性の装いのもとで、人生の意義とは無関係に、没価値的に肥大化し独り歩きしがちな近代科学の自然観に、強い疑問を投げかけたのは周知の事実ですし、ゲーテが、ニュートンの自然観に、時代を先取りするかのように執拗に反発したのも、同じ危惧によるものです。
12  教育こそ人間のもっとも根元的な営み
 ヴィティエール 一方、マルティの推奨する学校は、彼がアウトライン(輪郭)を描いていた共和国と同じように、(特定の宗教に関係のない)厳密な意味での世俗の学校です。宗教的でも反宗教的でもなく、自由な選択のための準備が整っており、良心の動きに干渉することはありません。
 教育方法に関していえば、マルティはもっとも自由な会話方式を好み、また生徒一人一人の独創性をもっとも大切にしました。
 そのやり方をとった最古の人はソクラテスでしょう。身近な師は、ホセ・デ・ラ・ルスや合衆国のブロンソン・オルコットです。そのもっとも明らかな例が「黄金時代」であり、「連盟」における教師ぶりでしょう。
 しかし実際のところ、彼のすべての仕事が巨大な教育的業績となっているのです。だからこそ、民衆は直観で彼を言い当て、彼ららしい木訥な節回しのなかで歌い続けたのです。“いつの世もマエストロ(師)”と。
 池田 マルティのすべての仕事は、巨大な教育的業績であった――まことに示唆深いご指摘です。まさに「教育」こそ、人間と社会の根本の目的です。
 アメリカ・コロンビア大学のサーマン博士(宗教学部長)は、あるインタビューで「社会における教育の役割について、教授はどのような考えをもっておられますか」と尋ねられたさい、こう答えたといいます。
 「私は、むしろこの質問は『教育における社会の役割は何か』であるべきだと思います。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると私は見ているからです」
 私は、この一言に深く感動しました。
 「社会における教育の役割」を問うのではなく、「教育における社会の役割」を問うべきだ――ここには、透徹した人間観が表れています。つまり、「教育は、社会の一部分ではない。教育こそ、人間のもっとも根元的な営みである」という達観です。
 マルティをはじめ、世界史を彩る偉人たちの多くは、分野はどうあれ、その人格と生涯を見れば、広い意味での“教育者”そのものでありました。
 大衆の心を開き、その持てる可能性を十二分に開花させる“対話と触発”の名手なればこそ、それぞれの道で大事をなしとげることができたのです。
 マルティの人格、ふるまい、著作――その隅々にいたるまで、こうした偉大な教育者としての面目が輝きわたっております。

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