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日蓮大聖人・池田大作

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3 家族――その人間愛を世界に広げて  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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1  誠実で温かな家庭が幸福な人生の根幹
 池田 家庭といえば、本来、愛情と信頼感に裏打ちされたやすらぎの場、癒しの場であったはずです。
 ところが現代の日本では、逆に家庭の存在が、構成員にとって重荷になってしまい、新たな家庭像をつくり出すために、旧来のものを一遍、ご破算にしてゼロから出発するという“家族解体論”までいわれるようになっています。
 ともかく、この家庭、家族という人類最古の共同体の揺らぎは、二十一世紀へ向けて対処すべき最大の課題の一つであることは間違いありません。
 そこで今回は、マルティをめぐる家庭の問題にスポットを当ててみたいと思います。
 ヴィティエール 結構です。
 池田 心強く、そしてまた心優しきマルティにとって、家庭とは、つねに光と影との交錯する場であったようです。
 その“流星”のような生涯も終わりに近く、
 船上から母レオノールに送った手紙には、胸を突かれます。
 「私の未来は木炭の光のようなものです。周囲を照らしゆくために、みずからが燃え尽きるのです。私の闘いは尽きることがないでしょう。私の内面には『個』は存在せず、蘇生の可能性すらありません。私にとって、今となっては不可能になってしまいましたが、人間にとって唯一の幸福、あるいはその根幹をなす場こそ誠実な家庭なのです」
 ヴィティエール 古来、英雄と呼ばれる人々の家庭生活は、必ずしも恵まれていたとはいえません。むしろ逆の場合が多い。
 マルティの結婚生活も、決して幸福、順風に帆をあげる、といった類のものではありませんでした。
 なにしろ彼は、弁護士そして教師、文学者として成功を約束されていたかのような無事安穏の道ではなく、反乱と陰謀と貧困、自己犠牲をともなう、死を免れない険しい道を選択してしまったのですから。
 池田 ええ。と同時に、誠実な家庭、温かな家庭への希求ということも、いつの世にも変わらぬ人間の普遍的な特性です。
 恩師の戸田先生も、私ども夫婦の結婚式のさいに、妻に「どんなに家のなかで不愉快なことがあっても、朝、主人を送り出すときには、必ず笑顔で送るように」との戒めをあたえてくれました。
 平凡のようで、なかなかむずかしいことです。
 私は一九九八年、フィリピンのラモス元大統領と四度目の会見をしましたが、ラモス氏も「偉大な目標に向かって、自分と一緒に進む家庭こそ大切です。これまでは、家庭を犠牲にして仕事に打ち込んできました。今、人生の『ゴールデン・エイジ(総仕上げの時期)』を迎えて思うのは、やはりいちばん大切なのは、『家庭』だということです」と語っておられました。
2  家族思いの優しさと使命感との葛藤
 ヴィティエール 理解できます。家庭がいかに大事であるか、マルティは何度も感じたにちがいありません。
 池田 しかし、マルティにとって、祖国の栄光、キューバ革命に殉ずることこそ、この世の無二の使命でした。
 彼の美しい言葉を借りれば「義務」――彼が「……人間、娯楽にはひとりで目覚めるが、義務に関しては毎日だれかがノックをせねばならない(目覚めさせねばならない)」と語っているような「義務」――を背に、それを叱咤しながら“使命の道”をひた走った人こそ、ホセ・マルティであると私は理解しています。
 東洋風にいうならば、マルティは、エゴイズム(利己主義)に翻弄されゆく「覇道」とはまったく対照的に、徹して「王道」を征く人ということができましょう。
 ヴィティエール 若いころに書いた詩劇『アブダラ』(一八六九年)において象徴的に予示されているのですが、家庭に対する義務と解放者としての使命との間の葛藤は、マルティの生涯を通しての苦悩でした。
 スペインから移住してきたつつましい夫婦の間の長男として生まれ、七人の妹たちもおり――そのうち一人は幼いころに亡くなっていますが――家を支える責任や貧しさを支える負担が、しだいに大きくなっていったのです。
 ハバナの旧市街にある、現在は国立博物館になっているマルティの生家を、あなたがお訪ねになられる機会があったならば、彼の出生の貧しさがおわかりになったことでしょう。
 池田 写真では拝見したことがあります。二階建ての質素な家ですね。チャンスがあれば、ぜひ訪問してみたいと思っています。
 ところで留意すべき点は、心優しきマルティは、革命のために家庭をはじめ、いっさいを犠牲にして恥じない、古来、多くの革命家がおちいりがちであった玉砕主義の冷徹、冷酷とも無縁の人であったということです。
 「誠実な家庭」のやすらぎを求める心情がそうですし、彼の生涯と遺作をわずかに管見しただけでも、家族思いの優しい心配りを随所に見いだすことができます。
 長き亡命の旅を終えて、闘争の指導のため祖国に戻る直前、最愛の一人息子ペペ(ホセ・フランシスコ)に宛てた手紙には、思わず襟をただしたくなります。殉難の一カ月前のことです。
 「息子よ――私は今夜キューバに向けて発つ。お前といっしょに行けないのが残念だ。傍にいてくれたらどんなに嬉しいだろうに。出発に際して考えるのはお前のことだ。もし私が途中で消息を絶ったら、お前はこの手紙とお前の父親が生前に愛用していた懐中時計を受け取ることになろう。さようなら。正義を愛する人間であって欲しい。
 お前のホセ・マルティ」(牛島信明訳、『ホセ・マルティ選集』〈以下、『選集』と略記〉1所収、日本経済評論社)
3  若き少年誌編集長の祈り
 ヴィティエール マルティは、みずからが編纂した子ども向け月刊誌「黄金時代」の最終号の「最後のページ」で、ナイル川にまつわる伝説に言及しながら、「善き父親はこのようなもので、あらゆる子供を自分の息子と信じ、ナイル川のように、目に見えない息子たちを背負って暮らしているのです」(柳原孝敦・花方寿行訳、『選集』1所収)と語っています。
 「正義を愛する人」に――そのペペへの思いは、すべての子どもたちへ向けた、マルティの心の底からのメッセージであったのです。
 池田 「黄金時代」は、マルティが一人で編纂し、執筆していたようですね。残念ながら、出資者と意見が対立して、わずか四号で廃刊になった、と聞いております。
 じつは、私も青年時代に、恩師のもとで少年向け雑誌の若き編集長として、編集作業にたずさわり、執筆もしていたので、いっそう、親近感を感じます。
 第二次世界大戦後の焼け跡のなかで、物質的にも精神的にも飢えていた子どもたちの心に、何としても希望の灯をともして、「正義を愛する人」に育ってほしいと、祈るような思いで仕事に取り組んだ日々を、懐かしく思い起こします。
 正義といえば、マルティのすばらしい言葉が脳裏に焼きついています。
 「正義に無頓着な大衆より、たった一人の正義の人の存在が強い」と。
 先師牧口先生も、同様の趣旨のことを、「羊千匹よりも獅子一匹」と、つねづね語っておられました。
 ヴィティエール マルティは、まさに獅子でした。「勇気」と「正義」の獅子でした。しかも、非常に心優しい獅子でした。
4  息子の流した“血”と父の流した涙
 池田 同感です。ところで、そのような家族思いのマルティが、必ずしも恵まれた家庭であったとは言いがたいことに、心痛む思いです。
 とくに、妻に最大の理解者を見いだすことができなかったことは、この心優しき革命家にとって不幸であったと言わなければなりません。
 父母、妻、子どもをめぐる家庭環境は、マルティにどのような影響をおよぼしたのでしょうか。また、マルティは、そうした環境を肥やしにして、どのような花を咲かせていったのでしょうか。
 ヴィティエール 質問にお答えするために、両親に対するマルティの痛々しいまでの愛情を示している、いくつかの手紙を偲んでみることとしましょう。
 彼の両親や妹たちが遺棄されたような状態で生きているために、マルティは“見えない血”を流しました。だからこそ、彼は文筆活動をせざるをえなかった、と言っています。
 もうすでにお話ししていますが、収容所を出獄してのち、スペインの老兵であり役人であった父と反逆者の息子は和解します。その和解の心は、生涯変わることがありませんでした。
 池田 父親のドン・マリアノと、政治犯収容所に捕らわれている息子マルティとの出会いは、ベルクソンが「生の飛躍(エラン・ヴィタール)」と呼んでいるような、
 まさに“父子一体”の生命回転のドラマを観る思いがしてなりません。
 「父が見たものは、私の両脚のあの膿んだ裂け目、締めつけられた両脚、泥と血と石灰埃の塊、泥と膿の塊と化しながらも私の体を支え、走りに走らされた両脚だ!
 あまりにも悲惨な日であった! 肉の塊と化した足にしがみついたまま、父は、私を見つめ、こっそり包帯を巻いてくれ、ふたたび、私に目をやった。そして、とうとう潰れた足を激しく抱擁し、わっと泣き出した! 父の涙は、私の傷の上にこぼれ落ちた。私は、その涙をただひたすら拭いあげていた」
 あなたは、どちらかといえば息子に冷淡であった父親のそうした愛情を、「ドン・マリアノのぶっきらぼうな態度に秘められた優しさ」と形容されていますね。
 ヴィティエール ええ。ですから、マルティは父の思い出を、こうつづるのです。
 マルティは友人のマヌエル・メルカードに対して打ち明けています――「気の毒な父は、いちばん洞察力に欠けていたものの、ぼくの心をもっともよく評価してくれました」と。
 また、妹のアメリアに宛てて――「パパはもっぱら称賛に値する人間です。慎み深い人でした。今はもう、そのような人はいないが、花が香りを持つように、岩が硬さを持つように、骨の髄まで慎み深さを持っていました。慎み深いというより、むしろ純正と言うべきでしょう」と書き送っています。
5  決して不満を漏らさぬ父の矜持
 池田 父親が亡くなったのは、一八八七年二月でしたね。当時、マルティは三十四歳。ニューヨークで、祖国への愛を燃やし、精力的な執筆闘争を展開しているさなかでした。
 ヴィティエール 父ドン・マリアノが亡くなったとき、親友のフェルミン・バルデスに対してこう打ち明けています――「外見の凡庸さの奥に父が不撓不屈で美しい魂をもっていることに気づいてから、どんなにぼくは父を愛するようになったか、わかってもらえるでしょうか。(中略)あの激しく堂々たる徳性を、ぼくの徳性が試されるまで、ぼく自身評価できなかったのです」
 池田 “父子一体”のドラマに思いをはせながら、私は、日本の吉田松陰の「永訣の書」を想起しました。
 彼と彼の門下は、明治維新という日本の近代化をなしとげる原動力でしたが、松陰自身は守旧な権力の手に捕らわれ、三十歳で刑死しております。
 その直前に父親に送った「永訣の書」には、次の歌が記されていました。
 「親思ふ こころにまさる 親ごころ  けふの音づれ 何ときくらん」
 (山口県教育会編『吉田松陰全集』9、岩波書店)
 (子が親を思う心よりも深い親心に、きょうの刑死のしらせは、どう響くであろうか)
 父ドン・マリアノを偲ぶマルティの心境にも通ずると思います。
 もちろん、マルティの場合は、吉田松陰とは逆に、親のほうが先に亡くなる、いわゆる“順送り”でしたが――。
 ヴィティエール 革命家らしい激しさ、廉潔さともいえると思います。
 もう一通、紹介させてください。
 義弟ホセ・ガルシアに対して、父の最期を看とってくれたことを感謝した手紙のなかで――
 「ホセ! 晩年を心安らかに過ごさせてあげられない私のこの苦しい生活に対して、父は決して不満を漏らしたことがない。もし、ぼくに何かしら徳があるならば、それは冷静さだが、父には矜持があった。ぼくにとってもっとも苦しかった時代に、父は抵抗し耐えぬくことのできる息子を持ったことを誇りに思ってくれていたのだ」
 池田 総じて、ドン・マリアノ――マルティの心に映じた彼の姿は、父性というもののあるべき“かたち”を、今に伝えています。
 キューバの事情はつまびらかにしませんが、日本では今、父性、父権の危機ということがさかんに言われています。
 家族という共同体を成り立たせていくためには、母性と並んで、父性を欠かすことはできません。
 良い意味での権威としての父性(具体的な父親というよりも、もっと抽象的な存在としての)が欠落すると、子どもたちに人格的な欠陥が生じてしまいがちで、社会を構成するに不可欠な倫理感覚、秩序感覚が揺らいでしまいます。オルテガ・イ・ガセットの言葉を借りれば、“無脊椎人間”を生みだしてしまうのです。
 この半世紀間、日本は経済的な豊かさのみ追い求め、絶対的な価値観や信念の体系などには、およそ目を向けようとしませんでした。その結果、価値観や信念と表裏一体となっている父性や父権も、まったく影が薄くなってしまったのです。
 そうした“ぬるま湯”にひたっているような日本の人々にとって、父を語るマルティの言葉は、まばゆいような輝きを放っています。
6  革命家を子にもった母の苦悩
 ヴィティエール 母レオノールのイメージは、ドン・マリアノとは対照的です。
 マルティの結婚生活が破綻してしまってから、彼が母親に宛てた手紙のことを、あなたは感動しながら思い出されていますね。レオノールは本当に“苦悩する母”の典型でした。いつもマルティに言っていました。
 「小さいころからお母さんの言ってきたことを忘れてはいけませんよ。人を救おうとする人はみんな十字架にかけられるのです……」
 池田 預言者故郷に容れられず、と言いますからね。
 ヴィティエール ええ。凍てつくニューヨークにいたマルティは、長い沈黙を守っていましたが、やがて母への抑えきれない思いがふつふつと沸きあがってくるのでした。
 「あなたを必要としています。あなたのことばかり思っています。これまで思ったことがないほど、今ほど傍らにいてほしいと思ったことはありません。
 しかし、不可能でしょう。お金がありません。寒いのが心配ですし。あなたを自宅に引きこもらせたままにするつらさ。あなたと一緒にいても、(毎晩仕事のために帰宅が遅く)会えないつらさ……」
 池田 マルティの情愛の深さと、それゆえの懊悩が、ひしひしと伝わってきます。
 ヴィティエール 父親が死んでのち、ニューヨークに母親が滞在したときも、このような状況にいたっていました。
 一八九四年五月十五日、その死のほぼ一年前、母親に宛てて次のように書いています。
 「為さねばならないことがあるかぎり、高潔な人間にくつろぐことは許されません。やるべきことをやらないからといって、だれひとり不平を言う人がなくとも、人間はそれぞれなすべき役割があるのです。ぼくが、父や母からではなくして、いったいだれから、このような断固たる態度や不屈の精神を学んだというのでしょう。また、そのような財産を受け継ぐことができたのは、父や母でなければ、いったいだれからであったというのでしょう」
7  愛する母に宛てた最後の手紙
 池田 マルティの父母も、人間である限りいろいろな欠陥を持ち合わせていたにちがいない。
 マルティの革命への情熱に対する理解に関しては、とくにそうだったと思います。
 にもかかわらず、このように外連味なく父母への感謝や恩を吐露できるのは、マルティ自身の人格の高潔さを物語る以外のなにものでもありません。
 肉親にかぎらず、一般的にいって、人間の長所、美質を率直に受けとめていくことは、やさしいようでむずかしいことです。
 ヴィティエール そういう見方もできますね。
 さて、モンテクリスティ(ドミニカ共和国)で母に宛てて書かれた次の手紙(一八九五年三月)は、最後の別れを予知させるものでした。これについてミゲル・デ・ウナムノは「スペイン語で読むことのできる、もっとも重要で詩的な祈りを内包した一つの手紙である」と言っています。
 「愛する母上様――今日、三月二十五日、長い旅を前にして僕はあなたのことを考えています。それこそ絶え間なく、あなたのことを想っているのです。あなたは僕を愛するあまり、犠牲を旨とする僕の生涯に心を痛めていらっしゃる――どうして僕は犠牲を愛する生を担って、あなたから生まれてきたのだろう? 言葉では言い表すことができません。ひとりの人間の義務というのは、彼が最も役に立つところに在るのです。しかしながら、僕はいつでもあなたの、わが愛する母上の想い出につきまとわれ、日々不可避的に募っていく苦悶を覚えております。
 僕の姉妹たちと仲間たちを抱きしめてやってください。ああ、いつの日か彼ら全員と席を共にし、僕のしたことを喜んでくれる皆の笑顔を見たい! そのような日が到来した暁には、その時には僕は親孝行に精を出し、僕の誇りであるあなたを、うんと甘やかせてあげますよ。今はどうか僕のことを祝福してください。そして、僕の心から慈悲と清らかさを欠いた行為が発することは決してないということを信じてください。祝福。
 あなたのホセ・マルティ
 追伸
 僕は、おそらくあなたが想像していらっしゃるより大きな喜びと確信に満ちて出発するでしょうが、そのことは故なしとしません。真理とやさしさは無駄ではないからです。どうか心配しないで」(牛島信明訳、『選集』1所収)
8  すべてを育み慈しむ「母性」の輝き
 池田 マルティのスペイン語のすばらしさがわからないのは、少々、残念ですが、一八九五年三月二十五日といえば、亡くなる二カ月前、キューバ独立戦争において画期的な意義をもつ、かの有名な『モンテクリスティ宣言』に、マルティとマクシモ・ゴメス将軍が署名した日ですね。
 同志の要請に応え、いよいよ愛する祖国へ乗り込もうとしていたマルティは、ほぼ確実に彼を待ち受けているであろう運命的な死を、予感していたにちがいありません。
 大いなる使命に殉じゆく魂の高揚と、骨肉と離別していくことへの悲しみ、哀切――そうしたジレンマ(板挟み)に直面したとき、真っ先に人々の脳裏に浮かぶのが母親のおもかげであることは古今東西変わらぬようです。
 第二次世界大戦末期の日本の戦没学徒の手記を集めた『きけわだつみのこえ』(日本戦没学生記念会編、岩波文庫)という本があります。
 戦没学徒といっても、彼らは特攻隊という、前途には百パーセントの死しか待っていない限界状況に置かれていました。そこから発せられる問いかけ、呼びかけであるだけに肺腑をえぐられるのですが、そこでも圧倒的に多いのは、愛する母へのメッセージです。
 私は、そこにすべてを育み、慈しみ、すべてを許し、包み込んでいく、母性というものの輝き、偉大な力が感じられてなりません。
 ヴィティエール 同感です。
 母親への想いとともに、マルティについてさらに言えることは、マルティの人生の愛の領域は、厳正さと純粋さをみずからに課し続けた彼の激しい生き方の例外ではありませんでした。
 彼は、みずからを「誠実な人間」と称しています。
 その証拠に、ある詩の中では、当時の社会的道徳的規範を考慮に入れつつも「わたしの出自は不純な愛であった」と告白しているほどです。
 しかし、詩から推測されるものと実像はまったくの正反対です。
 『素朴な詩』の中で「愛する人と二人きりで/波と戯れていたあの場所を」(井尻直志訳、『選集』1所収)と思い起こす場面があるのですが、男女の情愛の波間で、傍らの女性はこう叫びます。
 「ここにはキリストがいるはず/だって聖堂があるんですもの」(同前)
 池田 なるほど。マルティにあっては、男女の情愛も、キリスト教でいうところの「アガペー(神の愛)」と表裏をなす次元まで高揚、昇華されているわけですね。
9  サラゴーサでの恋、メキシコで結婚
 ヴィティエール 私が申し上げたかったことは、いつもというわけではありませんが、マルティの人生の愛の領域について考えるときには、あらゆる通俗性を、すべて取り除くべきだということなのです。
 池田 「部屋つきの下男にとっては英雄など存在しない」という俗説を、ゲーテは痛烈に皮肉っています。
 「それは、英雄を識るのは英雄だけという理由からにすぎない。しかし、そうした下男も、自分と同類の者なら、おそらく正しく評価することができるだろう」(前掲「箴言と省察」)美しいものを美しいと、偉大なものを偉大であると見ることができなくなったら、人間の品性は堕落していくばかりです。
 より優れた者を認めようとせず、粗探しをして、相手を自分のレベルにまで引き下げようとする風潮は、社会の成り立ちを根幹から揺るがす不吉な現象であるということは、申し上げるまでもなく『無脊椎のスペイン』などで、オルテガが警告してやまなかったことです。
 ヴィティエール そうです。マルティを俗眼で見てはなりません。
 マルティの戯曲『姦婦』(一八七四年)は、妻とその愛人の苦しみではなく、裏切られた夫の「とてつもない苦しみ」に焦点を当てたものですが、その戯曲の精神的苦闘は、みずからが青春時代に経験した心のゆらめきを語ったものです。
 マドリード(スペイン)から移り住んだサラゴーサで、マルティは、皆が知るところの初めての恋人ができ、彼の人生の数少ない花を芽吹かせることになったのでした。
 その後、メキシコでは、現実的というよりも想像的な面が強いのですが、ロサリオ・デ・ペーニャという娘に熱烈な恋文を送っています。彼女は知識人が集まるサロンのミューズ(女神)であり、彼女のために自殺までした詩人がいるという評判までたっていました。
 そしてここでマルティは、裕福なキューバ人の家庭に育ったカルメン・サヤス・バサンという女性のなかに真の愛を見いだし、結婚するのです。しかし、息子(一八八一年、この息子を思いながら書いた『イスマエリーリョ』の燃え上がるような詩によってイスパノアメリカの文化刷新運動モデルニスモ〈近代主義〉が開始されます)の誕生を境として、徐々にカルメンは政治闘争者となったマルティから遠ざかってしまうのです。
10  “小さな幸福”を求める妻とのすれ違い
 池田 カルメンには、夫であるマルティ、祖国の解放に命を賭し、民衆への奉仕を第一義とする“使徒マルティ”の雄図が、ついに理解できなかったようですね。
 家族と引き裂かれ、二度目の追放の身となり、妻や子の消息に思いを焦がしているとき、ようやく手にした妻からの便りは、彼を励ます言葉ではなく、愚痴めいた繰り言が綿々とつづられていました。
 「この最初の手紙は、私に苦痛をもたらした。胸を百回刺されても、こんなことにはならなかっただろう」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)とメモに記しているマルティの心痛は、察するにあまりあります。
 ソフィア夫人とのもめ事に悩みぬいた晩年のレフ・トルストイの境遇も、同じだったでしょう。
 一人でも苦しんでいる人がいればわがことのように感じ、あらゆる権力を否定しぬき、マルクスやプルードン以上に私有財産を罪悪視するトルストイの双肩の荷は、平凡な家庭婦人であるソフィア夫人がともに担いうるものでは、とうていありませんでした。
 カルメンも、人並み外れた愚妻、悪妻であったわけではなく、ソフィア夫人と同様、健全で平凡な“小さな幸福”を希求する主婦であったろうと思います。
 ただ、トルストイ同様、マルティが、あまりに大きすぎた。私はそこに、何か宿命的な齟齬があるように思えてなりません。
 ヴィティエール 卓越した人物に、
 間々見られることですね。
 マルティへの叶うはずのない恋とその身をやきつくすような恋に苦しんでいた、グアテマラの少女マリア・ガルシア・グラナードスの死は、『素朴な詩』に収められたすばらしい作品の中で、永遠の位置を占めることとなります。
 ニューヨークでは、彼の名声を汚そうとして、マルティが下宿先の少女マリア・マンティーリャのじつの父親である、との中傷が流されました。彼女の父親は、その妻カルメン・ミヤーレスとともに同市で営む下宿に、マルティを、まるで兄弟のように温かく迎え入れていたのです。
 池田 その彼女の父親は、たしか、まもなく亡くなっていますね。
 ヴィティエール そのとおりです。
 幼くして孤児となったこの少女を“精神的娘”として心から愛していたことは書簡集に明らかですが、マルティはこの中傷を(晩年に彼女自身がそれを信じこんでいました)マリアの父親の死後、カルメン・ミヤーレスの従姉妹、ビクトリア・スミスに宛てた手紙の中で明確に否定しています。
 マンティーリャの家では、妻のカルメン・サヤス・バサン、息子、マルティの両親も同居していました。
 マルティは公私にわたるふるまいのけじめをつける必要性に迫られて、キューバとプエルトリコからの移民たちのなかの革命家たちに呼びかけ、公開審議を開催しましたが、だれも彼を非難しようとはしませんでした。
 妻との別離に悩んでいた彼にとって(妻からの手紙は生活の貧しさや不安定さについての小言でいっぱいですが、彼の不誠実に対する非難は見当たりません)、
 おそらく、すでに夫を亡くしていたカルメン・ミヤーレスは孤独を支える心優しい存在だったのでしょう。
 しかし、この偉大な愛情深い人物にとって、孤独はその人生の刻印でした。
11  祖国にすべてを捧げた革命家の執念
 池田 友人宛ての手紙に「わが家の平和を含めてすべてを祖国に捧げた」と書くマルティにとって、孤独は半ば宿命づけられていたのでしょう。
 ヴィティエール ええ。あなたは“そうした環境を肥やしにして、どのような花を咲かせていったのでしょうか”と尋ねておいでです。それに対する答えは、彼が決してあきらめることのなかった義務は祖国への献身であった、としか言いようがありません。
 一八九一年、ニューヨークの彼の事務所でヘルマン・ノルマンが描いた油絵を注意深くごらんになられたら、マルティの左手に指輪がはめられているのに気づくでしょう。
 この指輪は、政治犯収容所の鎖の部分を用いるようにと依頼されていました。指輪には「キューバ」と文字が刻まれています。
 池田 結局は執念ですね。戦いの最終的な帰趨を決めるのは、“この屈辱、この悔しさを断じて晴らさずにはおくものか”という執念です。
 ゆえに私の恩師は、著書『人間革命』に登場する自分自身の名を、デュマの『モンテ=クリスト伯』――執念に貫かれたこの愛と復讐のドラマの日本語版のタイトルになぞらえて“巌九十翁”と名づけておられたのです。
12  女性が真に美しく輝くとき
 池田 次にマルティの女性観について語りあっていきたいと思います。
 マルティは、先ほどふれたニューヨークの下宿先の娘マリア・マンティーリャに宛てて次のようにつづっています。
 「決して苦しみを恐れてはならない。いい意味での苦悩――苦しむに値する苦悩――によって美しさと若さが得られる。寛大な心を持つ女性を見てみなさい。年の功を増してもつねに子どもの心を持っているがゆえに美しい。
 中国の人いわく『決して子ども心を失わない人ほど偉大である』と。傲慢な心を持つ女性を見てみなさい。若くとも無愛想で老いて見える。老いがもたらす皺を恐れてはならない。その昔読んだものに、『あなたの皺は醜き怒りによって寄せられた皺ではない。高潔なる悲しみのゆえである』と。
 マリアさん、人を愛しまた奉仕していきなさい。そうすることによって私を含めて皆から愛される」
 昔も今も変わらぬ女性の、否、人間の真実の美しさ、生き方を示す、すばらしい洞察ですね。
 ヴィティエール 女性の姿は、マルティの作品の中心でじつに豊かな色彩をおびて輝いています。
 たとえば、『自由詩』の中の「ポモナ」の一節(「おお、肉体のリズムよ。おお、メロディよ」)や、『素朴な詩』の中のエヴァに捧げられた詩のシリーズから明らかに読みとれる高尚な官能性の味わい深さ。
 また、“永遠の女性”をテーマにした小説『不吉な友情』(=『選集』1に「ルシーア・ヘレス」という題で一部収録)に描かれた「夜の真のエロス」
 から「勇壮さ」にいたるまで、“根源的なる存在”である女性がもつ美徳への称賛、等々。
 女性の「勇壮さ」という点で申し上げれば、マルティは講演でもファン・デ・メナ(パラグアイの民衆革命の闘士で、殺された)の娘の勇気を、かのマルティン・コルテスと並び称えています。
 マルティン・コルテスとは、メキシコを征服したスペイン人エルナン・コルテスとマリンチェ(コルテスのインディオの妻)の間に生まれた、いわば最初のクリオーリョ(中南米生まれのスペイン人)でありながら、なんと(父の国である)スペインに叛逆を企てた人物です。
 彼女は、父ファン・デ・メナの喪に服しているとき、さらにアンテケーラ(父と同じくパラグアイの民衆革命を闘ったリーダーで、投獄されていた)の死の知らせを聞いてなお、これらの殉教者たちの死を悲しんではいけないと、毅然とふるまいます。これを機に、新たな蜂起が起こっていたからです。
 その様子をマルティは、こう語っています。
 「彼女は、手持ちの宝石のすべてを身につけ、祭りの日のように着飾っていました。なぜならアンテケーラが死んだ日こそ、人類にとって栄光の日となったからです」と。
13  「かかる女性たちありて英雄あり!」
 池田 日本には、ほとんど紹介されていませんが、マルティの作品にはじつに多彩な女性像が描かれているわけですね。
 ヴィティエール またキューバ戦争中に書いた、息子たち全員を祖国のため戦地に送り出したアントニオ・マセオ将軍の母、マリアナ・グラハレスに捧げた頌歌には、こうあります。
 「彼女を評して、魂の根源への自在な深まりと、深淵なる愛情の人と言われるけれども、
 その女の中に何が起こったのか、
 その慎ましやかな女にどのような波瀾や秘密があったのか、
 この母の胸にどのような高潔さと敬虔さがあったのか、
 その素朴な生き方にどのような慎みと偉大さがあったのか」
 このような母や妻たちについて考えながら、マルティは叫びました。
 「かかる女性たちありて英雄あり!」
 しかし、彼自身は、そのような幸運に恵まれませんでした。
 流浪と貧困の人生を送るマルティが、「わたしの心を奪った」(『素朴な詩』井尻直志訳、『選集』1所収)と謳い上げた女性は、なんとマルティが見た絵のなかに描かれた女性だったのです。
 彼女は(夫と子どもを思い、貧しいながらも)献身的に尽くしている女性でした。しかしマルティは、そんなパートナーには生涯、縁がありませんでした。
 池田 「かかる女性たちありて英雄あり!」――至言です。そのとおりです。
14  “正視眼”の人生を歩め
 ヴィティエール 池田先生、妻と私が東京でお目にかかったとき、あなたは、今ここでふたたび言及されているマリア・マンティーリャ宛てのマルティの手紙を読んだ感想を、私たちに語ってくださいました。
 その感動は、いまだに忘れることはできません。
 これらの手紙は、子ども向け月刊誌「黄金時代」とともに真の教育に関する遺言書となっていますし、(何か問題が生じたさい)つねに戻ってくるべき原点でしょう。
 池田 「黄金時代」のいくつかの抜粋に目を通すと、マルティ自身が「決して子ども心を失わなかった」稀有な人だったことが、よく理解できます。
 私は一九九二年に、今世紀最大のバイオリニストの一人、今は亡きユーディー・メニューイン氏と東京で有意義な語らいのひとときをもちました。そのとき、氏が別れしなに残した「私はこの歳になってもどこか子どもなんです」との一言が、強く印象に残っています。
 偉大な人の魂は、いつまでも若く、子どもの純粋さを失いません。
 さて、このマリアには、こうもつづっています。
 「内に豊かなものを秘めている者は、外面を飾るものをあまり必要としない。外面を仰々しく飾り立てている者は、自分の内面があまり充実していないものだから、その貧しさをとり繕おうとしているのだ。みずからの美しさ、つまり内的な美を自覚している者は、外的な借り物の美など追い求めようとはしない」(「マリーア・マンティーリャに」牛島信明訳、『選集』1所収)
 「二十一世紀は女性の時代である」というのが私の信念ですが、そのためにも、マルティのいう意味で「女性が輝く世紀にしたい」と念じております。
 ヴィティエール あなたが指摘されているように、時代遅れの理想とは無縁の、女性の「内面的輝き」に関する主張は、かつてないほど必要性をおびています。
 その輝きが消えることさえなければ、あなたがお考えになっているように「二十一世紀は女性の時代である」との予想は受け入れられることでしょう。
 地球上の多くの国で女性たちがますます辱めを受けており、より豊かな国々で道徳的な混乱が起こっているのを目の前にするとき、あなたのおっしゃるような希望をいだいていくために人類の運命を大いに信じるべきだと思うのです。
 池田 人類の運命といった巨視的な課題に思いをはせるほどに、「女性の輝きは内面から」とする“使徒マルティ”の思想は、たいへんに示唆に富んでおります。
 ともすれば、流行や華美の世界に流され、浮き草のような人生を送る傾向が強いなかで、まことに外連味なく“正視眼”の人生を歩め、とうながしてやみません。
15  「人権」の平等性と「人格」の多様性
 ヴィティエール 古典が不滅なように、偉大な言葉というものは、いつまでたっても輝きを失いません。
 現在、世紀末の人類が直面している危機に対して、マルティは私たちに多くの言葉を残しています。
 女性についてのマルティの理念を、私の妻フィナ・ガルシア・マルースが注解したものですが、要約してお伝えしたいと思います。
 十九世紀にアメリカ合衆国は北半球で最強の国となり、君主制をとる国々に対して民主主義を代表するという名誉を担うようになって、近代精神の模範のごとくアメリカ大陸の他の国々、および世界中を支配するようになりました。
 同様の根拠から、アメリカ合衆国の資本主義によって産出された女性のひな型が、手本とするべき近代的女性のモデルとして流布されてきたのです。イスパノアメリカの女性たちは“遅れている女性”と見なされ、彼女たちは合衆国的女性というタイプを模倣し始めました。男性と同等の権利(投票権、教育、労働、経済的独立、離婚)を擁護するようになりましたが、同時に女性的なるものという本来の美徳から遠ざかってしまいました。
 池田 自由や平等のやみくもな要求が、家族をはじめとする共同体を崩壊させてしまう危険性は、近年ますます顕著になっているという指摘があります。人間は、一人で生きているのではないのですから、本然的に“絆”を求めているものです。
 その意味で、『歴史の終わり』によって、リベラルな民主主義の勝利を宣言して、センセーションを巻き起こしたフランシス・フクヤマ氏が、次の著書を『信頼』(邦題・『「信」無くば立たず』加藤寛訳、三笠書房)としたのは象徴的です。
 人間が人間であるかぎり、信頼の絆のなかでしか、本当の喜びも幸福感も味わえないからです。
 ヴィティエール もちろん、私はフクヤマ氏の『歴史の終わり』で述べられているテーゼ(命題)には、共感しません。
 そのうえで、あなたのおっしゃるプロセス(過程)は近代一般に見られる特徴ですね。
 世界的規模の近代性の特質ともいえるこのような推移を前に、女性特有の諸問題に対して、マルティは共感者であるとともに先見性のある態度をとったのです。
 一方では、あらゆる分野での女性の向上と男女の権利の平等に賛成していましたし(たとえば一八七七年、グアテマラの“新法”に対して述べた賛辞に明らかです)、一方では、合衆国の女性の男性化、男性と同等の権利を求めるだけでなく、過剰なほどの利益追求を、がさつなやり方で行っていることについて警告していました。
 池田 なるほど。自由主義や個人主義などのもたらす光と影を正確に見てとっていたわけですね。まさに先見の人です。
 ヴィティエール 女性の社会解放を行うにあたって、対抗心むき出し、あるいは模倣の時期と呼べるような段階がありますが――かつてそのような時期がありましたし、現在も多くの国では進展を見ない女性疎外をかかえて、そのような段階に置かれています――そうした局面は克服されるべきである、というのがマルティの考えです。
 つまり、公共の権利の平等性と、男女おのおのに備わる美徳を失うこととを混同してはならない、平等である権利のみでなく、女性としてのかけがえのない特性を守り、異なっていることの権利を保障することも必要である、と主張しているのです。
 池田 まったく同感です。「人権」と「人格」は両方相まってこそ、理想的な社会を築くことができます。そして「人権」の側面では、あくまで平等でなければならないが、「人格」の側面では、相違性もしくは多様性こそ、第一義として追求されなければなりません。
16  “女性の時代”へ――桜梅桃李の理想
 ヴィティエール その点を際立たせているマルティ自身の言葉を引いてみましょう。
 「男性に備わっている能力のいくつかが、女性に欠けているのではなく、女性の繊細で、感受性豊かな本性は、より困難で卓越した務めに差し向けられる役割をもっているのです」
 より重大な影響をおよぼす女性たちの役割と価値が人類に認識され、脚光を浴びるその日、「教養があり高潔な女性がその愛情を持って仕事に取り組むときのみ、それは無敵となる」
 「思考というものは、女性たちがそれに親しむようになってこそ確かなものになる」
 「女性は、直感で真実を見抜き、真実を予知する」
 池田 いずれも深い洞察に裏打ちされた珠玉のような言葉ですね。
 ヴィティエール ええ。こうしたマルティが浮き彫りにした女性的・母性的精神の特質(献身、愛情、用心深さ、庇護)が理解されたとき――そのときこそ人類の歴史は“女性の時代”へ確かな一歩を踏み出し始めることでしょう。
 池田 仏法では、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」と説き、桜は桜らしく、梅は梅らしく、そして桃は桃らしく咲き誇っていくのが理想であるとして、多様性をきわめて尊重しています。
 あれになろう、これになろうと外形のみの華美の世界に目をうつろわせるのではなく、まず自分らしい内面の美しさを磨き上げる――まさにマルティの志向するところと呼応しています。

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