Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 師弟――限りなき向上の軌道  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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2  「人間の種を蒔く」ことを好んだ賢人
 ヴィティエール メンディーベがマルティにあたえた影響について話すとなれば、メンディーベ自身の師であったホセ・デ・ラ・ルス・イ・カバジェロについても言及しなければなりません。
 カバジェロが教えた学校コレヒオ・デ・サルバドルは、キューバの精神文化の故郷です。「第一次独立戦争」(一八六八年―七八年)を開始した愛国者たちの多くが、ここで学び、あるいは伝説的ともいえる、この学校の波及を受けて教育されたのです。
 カバジェロ自身は革命家ではありませんでした。しかし、奴隷制度の構造的不当性を感じとっていた特別の階級に属する人物でした。
 マルティは「人間の種を蒔く」と言いましたが、カバジェロは同じように、本を書くより「人間の種を蒔く」ことを好んだ賢人でした。福音書の精神と教皇の破門状をもった“世俗の説教師”として、祖国を救出する基盤を黙々と築いていたのです。
 池田 なるほど。師には、そのまた師がおられたわけですね。
 私の師匠の戸田城聖第二代会長には、そのまた師匠である牧口常三郎初代会長がおられました。
 「人間の種を蒔く」とは、いかにもマルティらしい言葉です。
 日蓮仏法でも、教えを説いて聞かせることを「下種」つまり“種を蒔く”と言い、「仏は種をまくがごとく、衆生はそれを受ける田のごとし」(御書一〇五六㌻、通解)と譬えています。
 牧口先生は、学者肌の方でしたが、たんに机上の人ではなく、その話を聞きたいという人がいれば、どんな山間辺地もいとわず、足を運ばれました。
 また、第二次世界大戦中、宗門が軍国主義の圧力に屈し、教義上の妥協を企てたとき、宗祖日蓮大聖人の精神を守って断固それに反対し、宗門から登山の差し止めを命じられました。
 つまり、聖職者から敵視された“世俗の説教師”であったといえます。この点も、カバジェロと共通しています。
 その弟子であるメンディーベは、愛国の詩人であり、ペンの闘士だったのですね。
 ヴィティエール そうです。メンディーベは、スペインの植民地支配に対する抗議者であり、そのために、天才的な教え子マルティが投獄に処せられる少し前に逮捕され、スペインへ追放されてしまったのです。
3  「奥様。私が敵を討ちます」
 池田 師メンディーベが投獄され追放されたとき、マルティは十五歳。多感きわまる年代です。事件はさぞかし、大きな影を投げかけたことでしょう。
 マルティ少年は、残されたメンディーベ夫人を、こう励ましたといいます。
 「心配なさらないでください、奥様。私が敵を討ちますから。どうぞ見ていてください」師の敵を討つ――崇高です。
 たんなる命の奪いあいだとか権力闘争といった次元をはるかに超えて、「師の正義を満天下に示さずにはおくものか」という、厳粛にしてあまりにも人間的な情念でしょう。これこそが、たゆまざる「精神の闘い」の起爆剤であると私は信じます。
 この心こそが、マルティの激烈な「人権闘争の生涯」を支えたのではないでしょうか。
 ヴィティエール その師弟の絆に関しては、さまざまな角度から論じることができます。
 マルティは、フェリックス・バレラ神父――マルティが生まれた年に亡くなっていますが――によってサン・カルロス神学校(ハバナ)で開始された、「愛国の伝統」の継承者であり完成者でした。
 マルティは一八九一年、“セスペデスの行進”を進めながら、メンディーベ先生のことを思い起こしています。
 もっとも忘れがたかったのは、メンディーベ先生が「キューバの処刑台で命を落としていった者たちについて話すとき、激高して椅子から立ち上がり、顎鬚をふるわせていた」ことでした。
 師の正義の怒りは、弟子のなかで浄化され、マルティは勇気をもって革命闘争を呼びかけ、組織していきます。
 解放のためには、もはや決起以外に選択の余地はなかったのですが、それでもマルティにとっては「人に憎しみを抱かない」というのみでなく、すべての人々が――目前の敵も隠れている敵も含めて――恩恵を受けられる、建設的で同志愛にもとづいた戦争でなければならなかったのです。
4  師の「正義の怒り」を受け継ぐ者こそが弟子
 池田 マルティという巨大な人間にあっては、戦いさえも結びつきの一つのあり方、変形であったのかもしれませんね。
 ともあれ、「正義の怒り」のすさまじさは、卓越した人間に共通しているようです。
 先ほども申し上げたように、牧口初代会長は、第二次世界大戦中、平和主義と信教の自由を貫き、軍部勢力にまっこうから立ち向かいました。そして投獄され、七十三歳で獄死しております。
 その弟子であり、私の恩師である戸田第二代会長も、初代会長と獄を共にしましたが、先師の獄死を語るときの恩師の怒りは、本当にすさまじかった。
 こぶしを握り、身を震わせるようにして悲憤慷慨し、「悪」を糾弾してやみませんでした。
 生きて獄を出た恩師は、「巌窟王」として、師の敵を必ず討つと決めて生きぬきました。そして、弾圧で崩壊していた創価学会を、たった一人で再建し、民衆救済の大運動を起こしていったのです。
 私もまた、この恩師との出会いが人生を決定しました。十年間にわたり、師のもとで薫陶を受けました。
 大学に進めなかった私に、戸田先生は毎朝、一対一で、あらゆる学問を教えてくださいました。
 また病弱な私に、「私の命と交換するのだ」「君は生きぬけ!私に代わって!」と魂魄をとどめてくださいました。
 その恩師との約束を、一つ一つ、すべて果たしてきたのが、私の人生であります。それが私の誇りです。
5  「人生の手本」をもつことの幸福
 ヴィティエール あなたとの対話の魅力の一つは、あなたがマルティの生涯と、自分自身の愛着を覚える思い出とを、結びつけて話されるところです。
 あなたにとっての戸田第二代会長と、マルティにとってのメンディーベは、ともに“第一の師”そのものであり、
 その直接の薫陶の期間がどの程度であれ、まだ無名で危地に立たされている弟子の潜在能力を見いだし、救い、消し去ることのできない影響をあたえたといえるでしょう。
 池田 そのとおりです。かつて私は、恩師をしのんだ一文に「恩師によって拾われ、恩師によって育てられ、恩師によって厳たる信心を知り、また、仏法を学んだ私。さらに、恩師により、人生いかに生くべきかの道を教わり、恩師によって、現実社会への開花を教わった私」とつづったことがあります。
 現代は、「人生の手本」を失った時代と言われています。
 その意味で、重ねて申し上げますが、マルティという偉大な手本をもつ貴国の方々は幸福です。どんなときも、心はつねに富んでいます。
 ヴィティエール キューバ国民は、マルティが私たちの最大の“人生のモデル”であること、大文字のMで書き始める「マエストロ(師)」であることを知っています。現在では教育の場で、マルティを手本として子どもや青少年に示すなど、かつてないほど熱心に彼の啓蒙に取り組んでいます。
 マルティに関する知識が、専門家の一団のみに納められてしまうのは許しがたいことです。もちろん、彼の知的・芸術的・革命的遺産の新たな広がりを、現代に絶えず蘇生させるための研究や学問を、おろそかにすることはできませんが。
 マルティ没後、百年を超えてなお、マルティが示した予測や判断が“新たな有効性”を獲得しています。
 また日常生活においても、日々ますます「非道徳的」になってきている世界を前にして、マルティの倫理観や生きざまは、
 私たちにとって重要な意味をもっているといえるでしょう。
6  小学生への質問「マルティはどんな人?」
 池田 最近、キューバを訪問した私どものメンバーが、感動的なエピソードを伝えてくれました。少年マルティが政治犯収容所で重労働を強いられていた「石切場」の跡を見学したときのことです。
 たまたま、そこに小学校の低学年と見られる二、三十名の子どもたちが、先生に引率されてきていた。
 そこで、「君たちにとって、ホセ・マルティはどんな人?」と尋ねたところ、ほぼ全員が手を挙げ、目を輝かせながら、
 「お父さんのような人!」
 「弁護士!」
 「正義の人!」
 「友情に篤い人!」
 などと答えてくれたというのです。それも、ごく自然で、ステレオ・タイプ(紋切り型)の臭みが、まったく感じられなかった。
 そこに、キューバの人々の心に、マルティがどのようなかたちで息づいているかが、端的に表れているのではないか――と。
 ヴィティエール ありがとうございます。
 マルティの最大の栄誉は、「貧しい者と子どもたちに語りかけた」こと、「彼らのために生きて、死んでいった」こと、そして「国民と、その魂にとって光であり続けている」ことにあります。
 それは、彼が誕生した場所を含め、あらゆるところにおいて、彼の事業が限りなく続いているからです。
 幸いなことに、キューバ国民は、だれが強制したわけでもなく、おそらく直観から、これまでそうであったように、現在も彼をこよなく愛しています。
 「国の精神」とか「良心の運動」と私たちが呼んでいるもののなかで、私たちキューバ国民をもっとも強く結びつけているのは「ホセ・マルティ」なのです。
 人々の心をとらえてやまない、その赫々たる光明は、その生きざまと英雄的な死、散文と詩の中に残されたすばらしい言葉、その人柄全体から発せられているのです。
 池田 まさに“使徒”そのものとして、「人生の手本」たり続けているわけですね。
 今、「倫理観の崩壊」は人類史的課題になっています。倫理が崩壊すれば、背骨のない体のようになり、社会は成り立ちません。だからこそ、今、マルティに学びたいのです。
7  友情のドラマ――不当な罪を一身に背負う
 池田 さて、「人間らしい生き方」にとって欠かせないものは「友情」でしょう。
 ゲーテが「きみがだれと付き合っているかを言いたまえ。そうすれば、きみがどのような人間であるかを言ってあげよう」(「箴言と省察」岩崎英二郎・関楠生訳、『ゲーテ全集』13所収、潮出版社)と述べていますが、古来、ひとかどの人物は、必ず善き友人に恵まれていたものです。
 卓越した人格というものは、磁石が鉄片を引き寄せるように、人々の心を魅了し、引きつけていく磁力をおびているからでしょう。
 こういう傾向は、利害や打算に無縁な若いころほど顕著であることは、いうまでもありません。
 ヴィティエール おっしゃるとおりですね。
 池田 孤高の人、ホセ・マルティも、決して例外ではなかったようです。
 十六歳の青年マルティが投獄される場面は、友情に篤く、友情を大切にした彼の生き方を象徴するエピソードです。
 スペインの植民地支配のもと、その威を借りて暴虐をほしいままにしていた傀儡政権の手で、マルティは捕らわれました。
 逮捕の「証拠」とされたのは、家宅捜索の挙げ句に見つけだされた一通の手紙です。それは、スペイン軍に入隊した友人の「祖国キューバに対する裏切り」を糾弾する内容でした。マルティと、彼の同級生で青年時代の親友のフェルミン・バルデス・ドミンゲスの二人の署名が記されていた。
 それだけで、二人が逮捕されるに十分でした。
 しかしマルティは、法廷でこう言い放ったのです。「私が一人でやりました。責任は私一人にあります」と。そして、不当な罪を一身に背負いました。
 これによって、マルティの監獄行きが決まってしまった。いや、ある意味で人生が決まってしまったのです。
 ヴィティエール キューバでは、だれもが心にとどめ、語り伝えられている有名なエピソードです。しかも、小説やドラマのなかの出来事ではなく、現実に演ぜられた美しい友情のドラマなのです。
8  杜甫が謳う管仲と鮑叔の「友情の道」
 池田 心優しいマルティでした。心強きマルティでした。なればこそ、前にあなたがおっしゃったような、
 獄中での「憎悪や報復の克服」が可能になったのでしょう。私は、この美しきドラマに、若いころの純粋さがもたらす気負いというものを超えた、「透徹した信頼感に裏打ちされた友情」の輝きを見たいのです。
 真の友情とは、「何があっても誤解されず、不信というさびに侵されることのない、金剛にして不壊なる一体感の異名」だからです。
 東洋にも友情に関する故事は多々ありますが、中国・唐の高名な詩人・杜甫は謳いました。(「貧交行」)
 「てのひらを上に向ければ雲となり、下に向ければ雨となる。それほど世人の心、態度というものは変わりやすい。
 このように状況によって豹変するような薄っぺらな人間のことなど、いちいち数え立てる必要はない。
 君は見ないか、いにしえの管仲と鮑叔(鮑叔牙)の、貧しき逆境にも変わらなかった友情を。
 今の世の人は、この『友情の道』を土くれのように捨て去ろうとしている」
 (「手を翻せば雲と作り手を覆せば雨
   紛紛たる軽薄 何ぞ数うるを須いん
   君見ずや 管鮑貧時の交わりを
   此の道 今人棄つること土の如し」)
 春秋時代の人・管仲と鮑叔のたがいに信頼しきった友情は“管鮑の交わり”として、現代でも崇高な友情のシンボルとされています。
 功成り名を遂げた管仲は、鮑叔との友情を回顧して、こう述べています。
 「わしはまだ若くて貧乏だったころ、鮑君といっしょに商売をしたことがあるが、その利益の割前を、いつもかれより余分にとった。
 しかしかれはわしを欲ばりだとはいわなかった。わしが貧乏なのを知っていたからだ。
 また、かれの為を思ってしてやったことが失敗で、なおさらかれを窮地に陥れたこともあったが、わしをおろか者だとはいわなかった。事にはあたりはずれがあるのを知っていたからだ。
 わしはまた何度も出仕してはそのたびに馘になったが、それを無能だとはいわなかった。まだ運が向いてこないのを知っていたからだ。
 戦さの時にも何度も敗けて逃げ出したが、それを卑怯だとはいわなかった。わしに年老いた母のあるのを知っていたからだ。(中略)わしを生んでくれたのは父母だが、わしを知ってくれたのは鮑君だ」(後藤基巳・駒田信二・常石茂編『中国故事物語』河出書房新社)
 マルティとフェルミンという二人の若者を結んでいた友情の絆も、おそらくこの“管鮑の交わり”と強く響きあうのではないかと思います。
 そうした人間の連帯が、歳月の激流のなかで大きく育まれ鍛え上げられながら、キューバ革命の土台を形づくっていったのではないでしょうか。
9  逆境にも揺るがない金剛にして不壊の信頼
 ヴィティエール マルティとフェルミンと同じような友情の例として、あなたが引用された管仲と鮑叔の交わり――はるか昔の中国の詩人・杜甫の詩に、私も強く感動いたしました。
 私の父、メダルド・ヴィティエールは、キューバの思想家で教育者でした。父は、「人間には本性がない」というスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットのテーゼに対して、歴史や文化を通して「人間性にひそむ普遍かつ揺るぎない堅牢な特質」の存在を主張しました。
 あなたがお話しくださった友情の話を聞けば、父も私のように喜んだことでしょう。
 友情とは「何があっても誤解されず、不信というさびに侵されることのない、金剛にして不壊なる一体感の異名」とは、言い得て妙だと思います。
 池田 すばらしい父上だったのですね。キューバで初めてマルティの書物を出版した、高名な教育者であられたことも、よく存じております。
 「人間には本性がない」とのオルテガのテーゼとは、おそらく『無脊椎のスペイン』での主張をさしておられると思いますが、私は、オルテガが考究した人間の本性に関する分析は、一種のイロニー(皮肉)であったと理解しています。
 その点はさておき、父上の人間性に関する分析は正しいと思います。
 それは、すべての人々に「仏性」という「最高の人格になりうる種子」――ご指摘の「普遍かつ揺るぎない堅牢な特質」――が具わっているとする、仏教の知見にも通じています。
 ヴィティエール 父のことをそこまで評価してくださり、ありがとうございます。
 父の書いた書物は、私の生まれる十年前の一九一一年に出版されました。マタンサスという地の弁護士協会が開催したコンクールで、第一位になった作品です。
 ともあれ、マルティはたしかに立派な友人に恵まれました。
 フェルミンのような愛情深く誠実な友のほかにも、ゴンサーロ・デ・ケサーダ・イ・アロステギを主とする、解放運動に献身的に貢献してくれた友もいました。アロステギは、
 のちにマルティの作品の最初の編集人となった人物です。
 また、友情と父親がわりの愛情で結ばれたマクシモ・ゴメス将軍と、その息子パンチート・ゴメス・トロの名前も挙げることができます。
 しかし親友といえば、遠く離れていても心から信頼することができ、たがいの逆境も慎み深く静かに受けとめられる人物でなければなりません。
 そこで私は、マルティが「静かな兄弟」と呼んだ、メキシコの友人マヌエル・メルカードについてふれたいと思います。
 メルカードは、一八七七年からマルティの死の直前まで、彼の手紙を受け取っています。その手紙はマルティの「精神的伝記」を成しており、その意味でメルカードは、マルティと私たちとの間に存在する一人の神秘的な仲介人です。
 しかもメルカードが出した手紙は残っていないため、その関係は一種の象徴的崇高さをおびて見られているのです。
 マルティが戦闘で斃れる数時間前に、彼宛てに書きかけて中断した手紙が、遺言となりました。
 この手紙で言及されているのは、マルティの全作品を貫く反帝国主義的意識です。これが、奇跡的にもコピーされて残されたことは、キューバ人にとってもラテンアメリカ人にとっても幸いでした。
 池田 その手紙の中で、マルティは帝国主義を「怪物」にたとえ、「私は怪物の中で暮らしていたので、その胎内をよく知っています。私の投石器は、ダビデのそれと同じです」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)と記していますね。
 みずからの戦いを、巨人ゴリアテを倒した『旧約聖書』中の英雄ダビデに、さりげなくなぞらえています。
 このような神韻をおびた言葉が、いかにも似つかわしいところが“使徒マルティ”たるゆえんですね。
10  無名の庶民のなかにこそ英雄はいる
 ヴィティエール ええ。
 さらにマルティの“生涯を通しての心の友”ということになれば、前にも紹介した、血まみれの痛々しい姿をした政治囚老人ニコラス・デル・カスティーリョもいます。
 また、ルカス島出身であった無名のダヴィッ(ダヴィッド)も挙げなければならないでしょう。“この世の貧しい者”すべてを代表して、帆船でマルティをモンテクリスティ(ドミニカ)からハイティアーノ岬(ハイチ)まで運び、泣きながら別れを告げた人物です。
 池田 無名の庶民のなかにこそ英雄はいます。この視点を、指導的立場にいる人は決して忘れてはなりません。
 ヴィクトル・ユゴーが、ワーテルローの戦いの勝者はウェリントンでも、ましてナポレオンでもなく、イギリス軍の猛攻撃に「くそ!」と最後まで立ちはだかった無名の兵士カンブローヌである、と声を大にして叫んでいるように――。(『レ・ミゼラブル』)
 今から二十余年前(一九七九年)、衣の権威で民衆を見下す腹黒い聖職者や、それに取り入った退転者・反逆者の策謀がありました。私は創価学会の会長をやめることになりましたが、そのときも、いささかも変わらずに私を慕い、支えてくれたのは、幹部ではなく無名の庶民でした。
 ヴィティエール そういうこともあったのですか!
11  革命闘争を支えた友情
 池田 マルティ以前の革命は、散発的な運動で何度も失敗に終わっています。資金も軍隊ももちあわせていないマルティが、その革命を、なにゆえに「不滅の前進」へと導けたのか。
 私はその一つの側面に、マルティを中心とした「人間の絆」を見たいのです。
 革命のための資金は、友人が出してくれたとうかがっています。
 またマルティは、過去の失敗の反省から、「人間を結ぶ」ことに運動の成否をかけたと考えることができます。
 マクシモ・ゴメス将軍、アントニオ・マセオ将軍ら軍人、アメリカ大陸各地の亡命キューバ人たちを結びつけていく、そのキーワードこそ「友情」であり、「友情」がマルティの大闘争を支えたと私は見たいのです。
 ヴィティエール 大切な視点です。
 あなたは、マルティ以前の革命は何度も失敗に終わった、と指摘されました。
 マルティが組織し指導した解放戦争は「第二次独立戦争」(一八九五年―九八年)と呼ばれています。
 それに先立ってなされた、スペインからの分離独立の動向について、簡単に述べさせていただきたいと思います。
 マルティが生まれたころ、キューバでは、アメリカ合衆国への併合を目的とする謀議がありました。しかし、これはスペイン当局により一八五一年から一八五五年にかけて阻まれました。そして一八六七年、スペイン国会における改革の動きも失敗に終わります。
 その直後の一八六八年十月十日のことです。今も「祖国の父」としてキューバ国民に慕われているカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが、みずから所有していた奴隷を解放して独立戦争を開始したのです。
 池田 「第一次独立戦争」ですね。
 それは十代半ばのマルティを鼓舞し、革命闘争の決起へと一生を決定づけました。
 ヴィティエール ええ。戦争は十年間続きましたが、その間にキューバ国家統合の基礎ができたのです。
 裕福で教養のある愛国者によって始められたこの戦争のなかから、マクシモ・ゴメスやアントニオ・マセオという庶民階級出身の軍事指導者が出現しました。
 しかし、一八七九年に起こった「小戦争」といわれる運動は挫折。さらに、この二人の将軍に主導された一八八四年の計画も失敗に終わりました。
 池田 マルティは「小戦争」に対しては、その性急な武力闘争を思いとどまるよう戒めていますね。
 また、一八八四年の蜂起計画に対しては、文民を除外し、すべての指揮を強力に軍人に統括させようとするゴメス将軍らに、傲慢な独裁の萌芽を嗅ぎ取り、ただちに距離を置いています。
 ヴィティエール ご指摘のとおりです。しかし、ゴメスとマセオの二人の将軍は、やがてマルティ自身が起こした革命運動にとって、欠くことのできない存在となりました。
 池田 そこですね! 一八九三年、革命組織の結集をめざしたマルティは、ひとたびは離れていった二将軍に近づきます。マルティが、
 この年長の二将軍の心をがっちりとつかんでいく場面は、まさに圧巻です。
 電光石火の行動でした。誠実な対話でした。
 ゴメス将軍には、ドミニカの家にまで訪ね、三日間の粘り強い対話を重ねて、完全に味方にした。
 また、コスタリカに追放されていたマセオ将軍には、まずジャマイカに住む夫人と母親のところへ行き、心をこめて激励したうえで、コスタリカの将軍のもとに説得に向かった。
 戸田先生は、よく「人間は感情の動物である。一人一人の心をどうとらえていくかが大事だ」と語っておりました。マルティの行動には、そうした巧まざる人間学が煌いています。
 また、三年前の貴国訪問のさい、私はハバナ市の「最高賓客」称号を授与されましたが、ハバナ市博物館の一室には、マルティと両将軍の大きな肖像画が飾られていました。
 三人の深く結ばれた「人間の絆」を象徴しているように感じました。
12  大闘争を成功に導いた「人間の絆」
 ヴィティエール それまでの革命運動は、たび重なる挫折のなかで、自治主義(スペインのもとでキューバの自治権を求める考え方)やカウディリョ政治体制(軍人主導の政治)、移民同士の分裂、軍人と民間人との対立、人種差別などが際立つようになってしまいました。だからこそ、あなたが強調されたとおり、「人間の絆」が重要だったのです。
 そのうえマルティは、新たな障害を次々と克服しなければなりませんでした。キューバ内外にはアナーキー(無政府主義)的趨勢がありました。さらに、
 世代間に出現した不信もありました。すなわち、たえず最高権力に屈服してきた旧世代の人々と、マルティがあの忘れがたい演説(一八九一年十一月)のなかで「新しい松」と名づけた新しき人々との間に不信が広がっていたのです。
 池田 なるほど。状況はかなり複雑で、おたがいが一致しない面も少なくなかったのですね。そのなかを、粘り強く「人間の絆」を織りなしていった。
 革命をなしとげるには、民衆の心が一つになっていなければなりません。
 長い間の圧制や混乱のなかで、人々の心には、不信や卑屈、怠惰、臆病などの“負”のメンタリティー(精神性)が、澱のようにたまっていた。それを“正”のメンタリティー、すなわち信頼や誇り、努力や勇気などへと転じていかねばならない。
 インドのネルー初代首相は、語っております。
 マハトマ・ガンジーの出現は、長年の植民地支配のもとで虐げられ、いじけていたインドの民衆の心から「どす黒い恐怖の衣」をはぎとり、「民衆の心の持ち方を一変させた」のだ(『インドの発見』辻直四郎・飯塚浩二・●山芳郎訳、岩波書店)、と。
 マルティが粒々辛苦のなかに志向していたのも、そうした「民衆の精神変革」だったのでしょう。
 この精神変革――私どもの言葉で言えば「人間革命」を可能にするには、何が必要か。そのためには、卓越した人物が出現し、優れた範を示していくことです。それ以上の力はありません。
 フランスの哲学者ベルクソンを、私は青年時代に愛読しました。彼は『道徳と宗教の二源泉』の中で「いつの時代にも、この完全な道徳の権化であったような例外的な人々が出現した」(平山高次訳、岩波文庫)として、彼らの存在自体を「英雄の呼びかけ」と名づけました。
 マルティも、おそらく、そのような“英雄”の一人であったにちがいありません。
 ベルクソンは、「なぜ偉大な善人たちはその背後に群衆を従えたのであろうか。彼らは、何一つ要求しない、しかも獲得する。彼らは説きすすめる必要はない。彼らは存在しているだけでよい。彼らの存在がひとつの呼びかけである」(同前)としています。
 この言葉のように、マルティの存在自体が「呼びかけ」となって、多くの人々を引きつけていったのでしょう。
13  「友といる、それが社会である」
 ヴィティエール そのとおりです。もちろん歴史の常として、それは試練の連続でした。マルティは、たえずスペインのスパイ行為に悩まされました。そればかりか、キューバの人々すら、彼のいだく理想に対して、ますます敵対的になっていったのです。
 その逆風のなかで、彼の政治的役割は、「植民地のくびきから解放され、独立した主権をもつ共和国を築こう」と決意しているあらゆる階層、人種、信条のキューバ人たちを、一つに結びつけることでした。
 融合と結合をめざす交渉です。そのためには、イデオロギーと同様に「人格的要素」が重要な役割を果たしていたのです。これは万人の認めるところです。
 それは、彼の業績の魅惑的な側面となっているのですが、じつに友情に関する深い思慮にもとづいているのです。
 友情について、若き日のマルティは「女性の気まぐれを除いた愛という行為である」と言っています。のちには「人生におけるもっとも強力な財産」であるとし、「友といる、それが社会である」とも述べています。
 池田 いかにも、人間愛の人、マルティらしい言葉です。とくに「友といる、それが社会である」など、まことに簡勁で要を得ています。
 私もお会いしたことのある、ある日本の識者(小林秀雄氏)は、「道徳は全て社会的なものだ。(中略)親友を捉めない人は道徳を捉めない」(『常識について』角川文庫)と言っていますが、マルティの言葉と瓜二つといってよいでしょう。
 友情こそ、社会秩序を成り立たしめる根幹なのです。
 ヴィティエール マルティの友情礼讃については、さらに多くのことを付け加えることができるでしょう。同時に私は、彼がこの上なく、心優しく打ち解けやすい人柄の持ち主だったことを強調したいと思います。
 それは彼の生まれついての気性ですが、また“孤独な人間の愛への渇望”とも呼ぶことのできるものなのでしょう。
 彼のほとばしる思いをこめた手紙の多くに、それを感じとることができます。それらは、やむをえなかった亡命生活の非情な空間を埋めるために書かれた手紙でした。しかし、まるで彼にとっては未知の名宛人――後世の人々に対して書かれたものではないか、と思うこともしばしばなのです。
 池田 私どもの宗祖も、宗教的信念においては巌のごとく揺るがぬ大確信の方でしたが、その一方で、無名の婦人や老人に対しては、
 それはそれは情愛あふれる手紙の数々を遺しておられます。
 強さに裏打ちされた優しさ――それは、優れた人格に特有のことなのかもしれません。

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