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日蓮大聖人・池田大作

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1 流罪の讃歌――千年先を見つめる眼光…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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2  カストロ議長と語りあった「師弟の精神」
 池田 そこで提案ですが、対談の導入部分として、キューバの人々が“フィデル”と親愛の情をこめて語る、カストロ国家評議会議長の話題から入ってはどうでしょうか。
 日本人が、キューバと聞いてまず思い浮かべるのは、軍服に身を固めたカストロ議長の姿です。
 “キューバのカストロ”“カストロのキューバ”と。
 ヴィティエール 結構です。キューバ人民にとってと同様、フィデルにとっても、マルティは尊敬し心から信頼を寄せる“師”であり続けるからです。
 池田 カストロ議長とは、一九九六年(平成八年)六月、ハバナ市の革命宮殿でお会いしました。
 予定を大幅に超える一時間半の会見が、脳裏に鮮烈に焼きついています。
 僣越を承知のうえで、忠言めいたことも申し上げましたが、真摯に耳をかたむけてくださり、最後に「友情に感謝します」との一言を添えてくださいました。
 また、その後も、ある折の私の伝言への返礼として、次のようなメッセージをいただいております。
 「池田会長が、多忙な私の健康を気づかってくださって、たいへんに光栄であり、うれしく思います。私は“革命家”であります。息を引き取る最後の瞬間まで、キューバ人民の尊厳と、キューバ共和国の主権のために戦い続けます」
 「池田会長も“革命家”であり、日々、民衆の尊厳のために戦っておられます。そのために、どのような目に遭おうとも戦っておられます。来る日も、来る日も、長時間にわたり、世界平和の実現のために働いていらっしゃる池田会長のご健康を、私もお祈りいたします」
 三年前の会見のさい、私は「創業は易く守成は難し」との東洋の格言を挙げ、後継者の問題について言及しました。そして、議長がソ連社会主義の崩壊を話題にされたので、私は率直に申し上げました。――クレムリンの歴代の指導者は、ともすれば政治的な権力争いによって選ばれ、そこには精神性の継承がなされなかった。すなわち、「師弟の精神」がなかったことが、もろくも崩壊してしまった大きな原因ではなかったか、と。
 その点、キューバの場合、どこか違うように思えてならないのです。
 ヴィティエール 精神性の継承という点では、マルティを師と仰ぐフィデルは、
 池田 会長のお考えとまったく共通していると思います。
 あのときの会見に同席していたハルト前文化大臣も、この対談が順調に進み、見事に実を結ぶことを念願し、確信しております。
 池田 ハルト前文化大臣にも、たいへんお世話になりました。
 また、カストロ議長からは、つい先日も「ヴィティエール博士との『対談』の成功を近くで見守っています。『対談』の成功のために、私が必要であれば、何でもおっしゃってください」との伝言が寄せられました。ありがたいことです。
3  革命指導者であり続け得る理由
 池田 さて、貴国は、一九九九年に革命四十周年を迎えられました(キューバ革命は一九五九年一月)。その間、カストロ議長は、さまざまな毀誉褒貶の波にさらされながら、変わらず、指導的立場にあり続けました。
 キューバ革命を敵対視する超大国アメリカのひざ元で、四十年もの長きにわたって指導的立場を維持し続けるということは至難の業であり、革命指導者として、ほとんど類例のないことだと思います。
 それを可能ならしめた理由はどこにあるのでしょうか。
 ヴィティエール アメリカは、あまりにも近くに体制の違う国が存在するので「邪魔だ、あっちへ行け!」と思っているのでしょう。(笑い)
 それはともかく、私は、フィデルの個人的な友人ではなく、ふつうのキューバ人の感覚から申し上げるのですが、理由としては、第一にフィデルの人格のおびているカリスマ性であり、
 第二に何といってもホセ・マルティの存在が大きいといえます。
 フィデルもいつも語っているように、キューバ革命の根源は、ホセ・マルティにあるのです。一九五三年のモンカダ兵営襲撃が失敗したあとの裁判で、「いったい、だれがシナリオを書いたのか」と尋ねられたとき、フィデルは「シナリオを書いたのは、ホセ・マルティである」と言い放っています。
 われわれが革命を必死になって守ろうとするのも、キューバ革命がたんなる「権力の交代劇」ではなく、そこには、マルティに源を発する「精神性の流れ」が脈々と受け継がれているからです。
 池田 よくわかります。モンカダ兵営襲撃後のその法廷闘争で、国家反逆罪で被告の席にあった二十七歳のカストロ青年が、あらゆる問責に一歩もひかず、「歴史は、私に無罪を宣告するであろう」と毅然と叫んだエピソードは、よく知られています。
 議長はつねづね、「私は楽観主義者です」と語っているそうですが、みずからの正義に対するこうした巌のごとき信念のなかにも、人間カストロのカリスマ性の一端が見てとれます。
4  入院中の孫娘が見たフィデルの涙
 ヴィティエール そうした剛毅な側面と同時に、フィデルの人格がもっている非常に感受性の豊かな面についても、ふれてみたいと思います。
 フィデルの特徴は、つねに貧しい人々の側に立ち、一瞬のうちに、一個の人間同士として心を通わせることができる点にあるのです。
 形式や儀礼を抜きにして、瞬時に、貧しい人々、弱い立場の人々と悩みを共有できるのです。そうした人情の機微に関しては、たいへんに感受性が豊かで鋭い。
 池田 なるほど。実際にお会いした私の感触としても、うなずける点が多い指摘です。
 ヴィティエール これまで公にしたことはないのですが、私の家族に関する忘れられないエピソードがあります。
 私の孫娘の少女時代のことです。当時九歳の彼女は、小児性の糖尿病を患っていました。病状はかなり重く、入院せざるをえませんでした。
 彼女が入院していた小児病棟に、あるとき、フィデルが視察にやってきたのです。革命以来、フィデルやキューバ政府が、国民の医療(健康)と教育にもっとも力を入れてきたことは、池田会長もご存じのとおりです。
 あの有名な“トップ”が訪ねてくるというので、病院中が大騒ぎとなり、孫娘たちも緊張しつつも楽しみに待っていたそうです。
 病室へさしかかったフィデルは、入院中の子どもたちのなかでも、いちばん重態の患者のところ――集中治療室へ真っ先に足を運んだというのです。病院というものは、ただでさえ悲しい場所ですし、小児病棟とあれば、なおさらです。
 しかも、そのいちばん重態の子どもたちのところに、真っ先に――。
 そこから出てきたフィデルに、心待ちにしていた孫娘たちが近づいていった。当時、孫娘は病状が快方に向かっており、血色もよく、健康体のように見えた。また、性格が内向的だったこともあって、皆の後ろのほうに控えていたそうです。
 その彼女に、つかつかと近づいてきたフィデルが、そっと頬に手をやって、軽くつねるような仕草をしたというのです。フィデル独特の感受性の流露であり、
 愛情の表現です。
 そのさい、見上げる孫娘の目に飛び込んできたのは、「涙でいっぱいになったフィデルの両眼」であった、と。
 このことを彼女は、目を輝かせ、体全体で感動を表現しながら語ってくれました。
 子どもで、しかも病身という弱い立場の人間の苦しみを、わが苦しみとして同苦しゆく鋭敏な感受性――私は、折あるごとに、このエピソードを思い出します。この思いは、抑えようにも抑えがたいものなのです。
 池田 一幅の名画を見るようです。革命の闘士として、議長は“強さ”だけが強調されてきました。しかし、真実の“強さ”は“優しさ”に裏打ちされていなければならない。
 もっとも悩んでいる人、もっとも苦しんでいる人につねにスポットを当てていくことこそ、為政者に限らず、リーダーたるものの要件です。今後の人類社会においては、もっともっと、そうなっていくことでしょう。
 いわゆる「権力者」の時代は終わりました。慈愛をもった「人間指導者」の時代になっていかねば、人類は永遠に不幸の流転です。
 貴国が革命以来、なぜあのように医療に格段の力を入れ、弱者に光を当てておられるのか――その由縁も理解できるような気がします。
 一九九六年、私どものキューバ訪問と前後してハバナ市で「日本美術の名宝展」(キューバ国立美術館、東京富士美術館主催)が開かれました。カストロ議長も、“池田会長との約束だから”と、最終日に見学にこられ、一つ一つ、つぶさに鑑賞されました。
 当方の関係者が感じ入っていたのですが、
 そのさい、議長は会場を回りながら、キューバ側の役員の青年たち一人一人に声をかけ、出身地や家庭の状況などを尋ねておられた。その議長の姿に何人もの若者が感涙にむせんでいた、というのです。なにげないようで、なかなかできないことです。
 ヴィティエール ええ。フィデルは、そのように、人々の悩みや苦しみに同苦しゆく感受性の持ち主なのです。
5  獄中の日々、マルティ全集を読む
 池田 そのカストロ議長が、心から敬愛してやまないのが“キューバの使徒”ホセ・マルティなのですね。
 一九九六年、私は「ホセ・マルティ記念館」を訪れましたが、マルティが戦死したドス・リオス河口で敬虔に頭を垂れているカストロ議長の写真が、強く印象に残っています。
 議長は、一九九五年のマルティ没後百周年のさいのあるインタビューで、次のように語っています。
 「彼の人生の出来事には未知の部分が残っているが、彼の生き方、偉大さ、思想にはそれがない。彼はラテンアメリカの男であり、世界の男であり、思想はすばらしく大きい。彼の多くの書簡、演説、文書、政治声明もそうである。私には若いときから、マルティの人間像、思想、散文、詩がとても魅力的で、それはけっして不思議ではなかった。そしてそれらがすべての人々を魅了していることも、若いときから不思議に思わなかったのである」(エルミニオ・アルメンドロス『椰子より高く正義をかかげよ』〈神尾朱実訳・神代修監修〉所収、海風書房)と。
 ヴィティエール キューバ革命とは、それ自体、マルティの歴史的再誕ともいうべきものでした。
6  先に言及したモンカダ兵営襲撃が失敗したあと、フィデルはハバナ南方百キロメートルの洋上にあるイスラ・デ・ピノス(松の島)の監獄で、一年有半(求刑は十五年)の独房生活を送るのですが、獄中の日々は、勉学に次ぐ勉学でした。
 そこでフィデルは、マルティ全集を読んだのです。その実物が現在、「ホセ・マルティ研究所」に残っていますが、いろいろなところに傍線が引かれたり、コメントが書き込まれたりしていて、たいへん貴重なものです。
 研究者やスペシャリスト、大学教授が読んだのではなく、革命に命をかけた闘士が読んだものだけに、私のような研究者にとっても、興味は尽きません。傍線が示唆しているものは、その思想や理念が、その時代に生きていたという事実にほかならないからです。
 池田 レーニンも、ヘーゲルの『論理学』や『哲学史講義』に関して膨大な「ノート」を残していますね。
 思想や理念は、そのままでは「過去」であり「死」です。自分自身の生きる「現代」において実践してこそ、時代精神のなかで生き生きと蘇ります。そうやって行動によって「生命」をあたえられてこそ、時代を動かす力となるはずです。
7  “師”こそ何ものにも代えがたい財宝
 ヴィティエール フィデルは、多くの記念日のスピーチなどで、大いなる畏敬の念をこめてマルティに言及しています。
 あるスピーチでは、キューバ革命にもっとも思想的恩恵をあたえているのはマルティであり、
 キューバ革命の「道徳的基盤」であるとまで言っております。フィデルのマルティへの尊敬の念がいかに篤いかを、おわかりいただけると思います。フィデルにとって、また真のキューバ人であるなら、だれにとっても、マルティは“根源”であり“師”なのです。
 池田 そういう範とすべき人が存在するということ自体、キューバの人々は幸せです。魂の“根源”や“師”というものは、人生の幾多の荒波を乗り越えていく支えであり、何ものをもっても代えがたい財宝です。
 現代の日本では、政治の世界はもとより、社会全般を見渡しても、マルティのような存在は皆無に近く、“師弟”の気風は地を掃うにいたったと言っても過言ではありません。
 欧米の先進社会と同じように、日本でも、とりわけ若い世代に精神面での荒廃が深刻化しています。
 私は、そのもっとも大きな原因が“師弟”の気風の衰退にあると信じております。尊敬する人、畏敬する人なくして、魂の鍛えなど、期待できるはずがありません。
 創価学会においては、草創期より“師弟”ということを、人間向上の根幹に位置づけてきました。私自身、日蓮大聖人そして戸田城聖という“師”をもちえたことは、荒海を航海する船の羅針盤にも似て、正しい人生を歩むための無上の幸福であったと痛感しております。
 ヴィティエール よく理解できます。マルティは、そのような精神上の“師”であるがゆえに“使徒”と呼ばれているのです。政治の世界だけのリーダーであっては“使徒”とはいえません。
 社会主義や資本主義、民主主義などのイデオロギーは、
 時代とともに変化し、興亡の歴史を繰り返します。しかし、人間の内面的な倫理面、フィデルの言葉で言えば「道徳的基盤」は不変です。いかなる風化作用もはねのけていきます。その不滅性、根源性の次元で輝き続けているからこそ、マルティは“使徒”なのです。
 池田 あなたが、この対話のタイトルを「キューバの使徒ホセ・マルティ」としたいと強く主張された理由がよくわかりました。“使徒”という言葉には、ふれる者すべての魂を震撼させ、目覚めさせていく、ある種の気韻が漂っています。
8  「晴天なり 感動なり 不滅なり」
 ヴィティエール かつて、私は妻(フィナ・ガルシア・マルース夫人)との共同作業で『「マルティ全集」に関する文芸批評』(全四巻)を編んだことがあります。その第一巻の序文を、フィデルが寄せてくれました。
 彼の寄せてくれた一文は、非常に短いカテゴリカル(断言的)なものでしたが、本質的で、フィデルのマルティへの想いをよく伝えています。
 「マルティは、永遠の指導者であり、われわれ人民の“導き手”である」と。すなわちマルティは、たんに十九世紀に生きていた人間ではなく、その言論は今も価値を有している。未来も有し続けるであろう。この国が存在するかぎり、マルティは尊敬され、人々の“導き手”であり続けるというのです。
 また、フィデルが好んで引用する次のようなマルティの言葉があります。
 「この世のすべての栄光は、トウモロコシの小さな粒の中に入ってしまうようなものである」と。
 彼の言わんとするところは“人間は、傲慢、見栄、独善を捨てて、人々に尽くさなければならない。なぜなら、いくらこの世の栄光を手中にしても、ほとんど永続性をもたないからだ”ということです。
 フィデルが、マルティのどういったところに魅かれ、着目しているかが、おわかりいただけると思います。
 池田 よく納得できました。
 さて、このへんで話題をカストロ議長から、あの炎暑の革命広場に転じたいと思います。一九九六年六月、貴国を訪問した私は、「ホセ・マルティ記念館」を訪れました。
 記念館の前にそびえたつ、高さ十八メートルの白亜のマルティ像――この“使徒”が、片膝立てた上に肘を置き、うつむき加減にじっと思いをこらしている大理石の彫像――に、私は深き尊敬をこめて献花いたしました。
 ヴィティエール 「ホセ・マルティ記念館」は、マルティ没後百周年(一九九五年)を記念して、九六年一月、ハバナの中心街の革命広場に開館しました。
 池田 記念館に展示された遺品や資料を通して、私は偉大なキューバの“精神の父”と対話することができました。
 とくに、肖像写真の前で、私の足は釘づけになりました。
 千年先を見つめゆく、鋭き獅子の眼光。命をかけた人間の、鋼鉄の信念の顔。そこには正義と善が結晶し、不滅の光明を放っていました。
 私は、こみあげる思いを芳名録に記しました。
 「偉大なる人には
  大きな嵐の如き難がある
  しかし その人には
  永遠なる栄光と勝利と名誉が
  太陽の如く 悠久に
  赫赫と 昇り輝いていく
  必ず それは必ず
    一九九六・六・二五
    晴天なり 感動なり 不滅なり」と。
 ヴィティエール あなたが「ホセ・マルティ記念館」を訪れた感慨を、「晴天なり 感動なり 不滅なり」と記されたとき、まさにあなたは、さりげなく、そして悠然と、マルティの精神に入っていかれたのでしょう。
 私たちキューバ国民の本質に刻み込まれ、感動によってのみ真にたどり着くことのできる、その精神世界へと。
 だからこそ、ただちにあなたは彼の人生におけるたいへん重要な要因――迫害――を理解されたのでしょう。
9  「苦しみは私を強くしてくれる」
 池田 そこで、まず、その信念を貫いたマルティの四十二年の尊い生涯を、「迫害と人生」と題して探求していきたいと思います。
 十六歳で独立運動に身を投じて以来、投獄、流刑、追放、亡命――その繰り返しでした。
 ヴィティエール 「迫害と人生」――結構です。
 池田 流罪や迫害といった苦難が、「人間を高めていく」ことに着目した作家に、みずからも亡命を余儀なくされたシュテファン・ツヴァイクがおります。
 彼は、こう訴えています。
10  「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか?(中略)自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生のすべてを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人にはその全突進力があたえられるのだ」(『ジョゼフ・フーシェ』山下肇訳、潮文庫)
 ヴィティエール マルティこそ、まさしくそのような人生でした。苦難を追い風にして魂を高揚させていった、人間愛そのものの人でした。
 池田 マルティは、キューバ独立運動に参加して十六歳で投獄されました。「ホセ・マルティ記念館」で私は、彼が牢ではめられていた足枷を拝見しました。「人間の自由」を奪う、冷たく鈍い鉄の光に、胸つぶれる思いがいたしました。
 政治犯収容所とは、どんなところであり、マルティはどんな生活を強いられていたのでしょうか。マルティはそこで何を考え、何を誓ったのでしょうか。それが彼の生涯にどんな影響をあたえたのでしょうか。
 マルティは、亡命中の手紙に、こうつづっています。二十七歳のときです。
 「苦しみは私を強くしてくれるのです」
 また、ある書には、「魂に本当の自由を感じるものにとって迫害は励みであり、地上に存在する不正勢力はシャボン玉以上の何ものでもない」と。
 ヴィティエール すでに十九世紀の前半から、キューバでは、ホセ・マリア・エレディアやフェリックス・バレラ神父、ホセ・アントニオ・サコ、
 フアン・クレメンテ・セネアのような著名な流刑者たちの活動のうえに、「迫害による魂の鍛え」というものが、一種の精神的基盤を築いていました。
 マルティは詩人として、また革命家として、その伝統を極めたのです。
 それにしても、あなたがお気づきのように、マルティを初めて投獄へと追いやった周囲の状況は、たいへんに過酷なものでした。
 池田 当時は、スペインが、ラテンアメリカの植民地を次々に失っており、だからこそ、残り少ない植民地であったキューバを締めつけていた。横暴な奴隷的支配の圧迫をいちだんと加えていましたね。
 過酷な重税が課され、自由が抑圧され、キューバの民衆は徹底的に虐げられていました。闇は、あまりにも深かった。
 わずかな抗議行動も、厳しく処罰された。独立を希望したとか、スペインへの尊敬が十分でないというだけで、処分の対象となった。疑わしい家々や集会場などは、次々に襲撃されたといいます。いわんや、公然たる権力への抵抗は、即“死の危険”を意味していた――。
 ヴィティエール 『キューバの政治犯収容所』(マドリード、一八七一年刊)の中で、マルティは、彼が収監された監獄やサン・ラサロ石灰石採石場での凄惨さを描き、告発しています。
 彼もまた、鎖につながれ、足枷をはめられた。その“冷たく鈍い光”は、あなたが「ホセ・マルティ記念館」でご覧になったとおりです。しかし彼にとって、もっとも非情に感じられたのは、あの地獄で老人や子どもたちや精神障害者たちが残虐な刑罰を科せられていたことです。
 池田 日本で出版されている唯一のマルティ伝ともいうべきエルミニオ・アルメンドロスの『椰子より高く正義をかかげよ』は、次のように政治犯収容所の惨状を描いています。(=一九九八年に『ホセ・マルティ選集』第一巻、九九年に第三巻が発刊された)
 「そこには一〇〇歳の黒人の男がいた。一四歳の男の子もいたし、一二歳の孤児リノ・フィゲレドもいた。政治犯として判決を受け、痛ましく哀れな病んだ廃人のような子供たちで、石切り場の生石灰で傷んだ足は足かせでつながれていた」
 悪政や苛政のしわよせをもっとも受けるのは、老人や女性、子どもなど、社会的に弱い立場にある人たちです。
 それに対し、善き政治というものは、カストロ議長が率先垂範されているように、必ずそれらの人々にスポットを当て、温かい手を差しのべているものです。弱者をどう遇しているか――この一点こそ、政治の善悪を見分けるリトマス試験紙でしょう。
11  “憎悪なき闘い”――十六歳の獄中の誓い
 ヴィティエール まったく同感です。
 ところで、あなたは私に「マルティはそこで何を考え、何を誓ったのか、それが彼の生涯にどんな影響をあたえたのか」と尋ねておいでです。
 じつはこの獄中で、最初の「偉大な驚嘆すべき革命」が出現するのです。すなわち、収監され迫害されている若者が最初に行ったことは、「報復と憎悪という考えを退ける」ことだったのです!
 それは、彼の魂の生得の純潔さのみによるものではありません。彼は、報復や憎悪が「悪の勝利」「悪への服従」を意味しており、「反動」であって、自由な精神の作用ではないことを理解していたのです。
 だからこそ、マルティはこう記しています。
 「刑務所で鞭をふるう日雇い労働者が、憎んだり報復しようとすることはありえましょう。容赦なく鞭をふるわなければ厳しく叱責される不幸な監督官も、同じような感情を抱くでしょう。しかしキューバの政治囚の若者の魂には、そのような感情は起こらない。その魂は、はめられた足枷よりも高くそびえており、良心の純粋さや決して屈することのない信条の公正さに支えられているのですから。あのあさましい者たちはすべて、捕虜の背と同時に、国家の尊厳と名誉を打ち砕いているのです」
 池田 これが、わずか十六歳の若者の言葉とは、にわかに信じられないほど、すばらしい精神の自己統御であり自己超克ですね。
 サルトルは、大戦中の過酷な対独レジスタンス運動のなかにおけるほど、「自由」を実感できたことはなかった、と言っています。
 迫害に立ち向かって、一点に集中し、凝結した魂の力、輝きのなかにしか「自由な精神」の宿るところはないのでしょう。またそこにこそ、マルティがキューバの人々にとって、永遠に“精神の父”であり続ける由縁もあるのでしょう。
 マルティの生涯は、必ずしも非暴力一色に染め上げられていたわけではありませんが、その精神性の核となる部分では、のちに、かのマハトマ・ガンジーが歩んだ道と、驚くほど近くにいたといえます。
 ガンジーの非暴力は、精神の緊張などまるで必要としない、受け身で怠惰な優柔不断などとは、まったく対極にありました。それは、絶えざる自己との戦いによってのみ可能な自己統御、自己超克の異名でありました。
 「非暴力は臆病をごまかす隠れみのではなく、
 勇者の最高の美徳である。非暴力を行なうには、剣士よりはるかに大きな勇気がいる。(中略)非暴力は打ちまかす能力を前提とする。それは復讐したい気持を意識的に思慮深く自制することである」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)と。
 ヴィティエール たしかに、両者の魂は響きあっていますね。
 マルティは牢獄で、七十六歳の老人と出会います。十年の強制労働の刑を受けていたニコラス・デル・カスティーリョという人物でした。老人の傷だらけの背中を見て、マルティはこう述べています。
 「彼を鞭打った者たちに対して、私は深い哀れみを感じた。その不幸な男たちが良心を持ち合わせていたならば、彼らがその良心と語る様子を見ることができるだろうに、と心から残念に思った」と。
 このような悲惨な経験と熟考から“憎悪なき闘い”というマルティの原理が生まれたのです。
12  「迫害こそ誉れ」、それは「正義の証明」
 池田 祖国独立のためとはいえ、戦争という手段が、マルティにとっていかに苦渋に満ちた選択であったか――。あるエピソードを聞いたことがあります。
 ――暗殺から身を守るために、ときどき住む家を変えていたマルティが、ある夜、友人宅で、輾転反側して寝つかれない様子であった。
 病気ではないか、と友人が心配すると、マルティは、こう語ったと言います。
 「ああ、母たちよ! 自分が祖国に仕掛けようとしているこの革命で、どれほどの血と涙が流れることになるのだろう!」と。
13  このような、生命の尊厳性への透徹した眼、生きとし生けるものへの慈しみの情をつねにもち続けていたマルティであったからこそ、“憎悪なき闘い”が可能となったのだと思います。ちなみに、二十世紀の“聖女”と言われたフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、他者のために「胸を痛める心」こそ、人類にとってもっとも普遍的な感情である(「デラシヌマン」大木健訳、『疎外される人間』平凡社、参照)・、と言っております。
 私が信奉する日蓮大聖人もまた、流罪と迫害の連続でした。そのなかで、大聖人はこう仰せです。
 「願わくは、私を迫害した国主等をまず最初に導いて救おう。私を助ける弟子等のことを釈尊に申し上げよう。私を生んでくださった父母等には、生きているうちに妙法の大善を勧めよう」(御書五〇九㌻、趣意)
 「私の生涯は、もとより覚悟のうえである。今になって翻ることはないし、そのうえまた後悔もない。恨みもない。私を迫害した諸々の悪人も、私の正義の道を結果として助けてくれた善友である」(御書九六二㌻、趣意)
 私はここに、「無量の慈愛」とともに、「迫害こそ誉れ」であり「正義の証明」であるとの確信を見るのです。また、あえて苦を求め、みずからを高めていくとの信念が響きあっているように思えてなりません。
 ヴィティエール あなたが日蓮大聖人とマルティの運命を比較されながら言及されている“誉れ”について申し上げようとすると、私にはマルティの次の言葉が浮かんできます。
 「これらの鎖を払いのける私の自尊心は、未来に私が得るあらゆる栄光にも勝るでしょう。祖国のために苦しみ、神のために生きることによって、
 現世においても来世においても真の栄光を得るのです」
 池田 いかなる苦難が待ち受けていようとも、撓まず、屈せず、ひとたび決めた信念の道を歩み通していく。私情を捨て去って、使命に徹しきる。彼の殉教の精神からは、まさに“使徒”と呼ばれるにふさわしい魂の響きが伝わってきます。
14  革命家の自覚と宿命
 ヴィティエール その一方で、ホセ・マルティが自国の状況および自分自身について自覚して以来――それはかなり早期に意識したことですが――彼は、彼自身の家族のなかでさえ、まるで亡命者のような生活をしていたのです。
 ゆえに思春期には、中学校の校長であり恩師であったラファエル・マリア・デ・メンディーベ先生の“精神上の家庭”を必要としたのでしょう。
 池田 日本の読者のために、マルティの家庭環境に簡単にふれさせていただければ、マルティは一八五三年一月二十八日、ハバナの港近くの貧しい一家の長男として生まれましたね。七人の妹がいました。
 まじめで寡黙な父ドン・マリアノ・マルティは、スペイン軍の軍曹として、植民地のキューバにやってきた。が、マルティが二歳のときに軍を退役。その後は失業も重なり、気丈な母ドーニャ・レオノール・ペレスが懸命に切り盛りするものの、一家は暗い日々が続きました。
 父親は、小学生であったマルティに、学校をやめて働くよう望みます。実際、マルティ少年は小学校の卒業を前に学校をやめ、食料品店の店員として働いています。
 両親は善良な庶民でありましたが、
 ともにスペイン人だったこともあり、キューバへの植民地統治をどちらかといえば肯定していました。
 ですから、マルティが貪るように本を読み、知識を吸収して、解放思想へとかたむいていくことに、二人とも不安と恐れをいだいていました。
 ヴィティエール そのとおりです。父親とは親子としての関係は親密でしたが、政治囚という悲惨な経験をして以来、ある程度、深刻な間柄となっていきます。
 母親との関係も同様です。母親は最後まで、息子を革命家としての苦難に満ちた流浪の人生のなかに埋没させたくないと思い続けていました。
 革命家の人生というものは、宿命的に永遠の流浪の生活とならざるをえません。自分の人生を、犠牲者としてではなく解放者として――まず第一に自分自身の、そして最終的には自分の民族の解放者として――選択したときのみ、その人生は完璧な義務と自己犠牲への心からの讃歌に包まれていくのです。
 マルティにとって、その讃歌は、憎悪に対する勝利、隣人への愛、全人類の絶対的正義に対する絶大な信頼とともに、収容所の恐怖のなかで奏で始められたのです。
15  青年は大志を抱き、大きく未来へ羽ばたけ
 池田 私は、一部の前衛革命家のように、“小市民”を決して軽蔑しませんし、小市民的幸福を犠牲にした革命などというものも、ありえないと思っております。
 そのうえで申し上げれば、やはりマルティのような人の人生は、小市民の枠に収まりきらずに、おっしゃるとおり「宿命的に永遠の流浪の生活とならざるをえない」ものなのでしょう。
 私も若き日、父母のもとを離れて下宿し、民衆運動に奔走していたころ、日蓮大聖人の「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」との御文を、当時の心情を託して日記に記しました。
 また、私が、創価学会の第三代会長に就任した日(一九六〇年五月三日)の夜、帰宅した私を待っていた妻は「きょうは、わが家のお葬式と思っています」とけなげに言いきってくれました。毅然としていました。
 いずれにせよ、たしかに小市民的な小さな幸福も大切であるが、それらを超えて、時代と切り結び、大きく人類や世界の動向、運命とかかわっていくことを忘れては、あまりにも寂しいと言わざるをえません。
 とくに若い人たちは、大志を抱いて、大きく未来へと羽ばたいていってほしいと願ってやみません。
 ヴィティエール まったく同感です。
 エセキエル・マルティネス・エストラダは著書『革命家マルティ』(一九六七年)の中で、スペイン、メキシコ、グアテマラ、ベネズエラ、アメリカと渡り歩いたマルティの人生行路を、神話の英雄の運命の構造、あるいは典型と解釈しています。
 マルティの一個人としての生涯が一国の歴史と合致するにいたり、最終的には彼自身が自認するように“生きた模範”になるのです。このような意味で、マルティの投獄およびそれに引き続く流刑は、キューバを出国する以前から予想されたものでした。
 この“英雄の模範”の生き方は、スペイン支配下の祖国へ戦闘員として帰国した“大いなる幸せ”の後も続きました。また彼の死をもっても終わることなく、明るい展望を開く誓いのごとくに、キューバ人たちの歴史的創造力を揺さぶり続けたのです。
 池田 たしかに、“行蔵(出処進退)”の総体を神話の英雄に擬したくなるようなスケールの人物が、稀にいるものです。
 革命家や政治家といっても、最近はずいぶんと小粒になってしまいましたが、戦後の歴史を振り返ってみれば、フランスのド・ゴール大統領などは、好き嫌いは別にして、その稀な例外の一人ではなかったでしょうか。
 私は、フランスの作家アンドレ・マルロー氏と対談集を発刊しました(『人間革命と人間の条件』。本全集第4巻収録)。周知のように、彼はド・ゴールと肝胆相照らし、長い間、側近であり続けた人です。
 マルロー氏は、ド・ゴールとの思い出を回想しながら、次のような、いかにもド・ゴールの面目を躍如とさせる発言を伝えています。
 「一度だって、いいかね、ただの一度だって! 私に対抗して、フランスを代表した男、フランスを引受けた男を、私は見たことはない」(『倒された樫の木』新庄嘉章訳、新潮選書)と。
 傲岸なまでの自信に裏打ちされた言葉ですが、そう言いきることのできる人、言ってもあながち奇異には感じさせない、フランスという国家の命運を一身に担い立つアトラスのようなスケールの大きさ、重厚さを感じさせる人物であったことは事実でしょう。
 マルロー氏は「彼は、(=妻の)イヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚する前に、フランスと結婚したのである」(同前)と語っております。
 そうした人物の人格を支えるものは、
 本当の意味での「責任感」だと思います。
 一身の栄達などとはまったく次元を異にした偉大な使命の道に、心を焦がし、身を尽くし、一点として悔いなき一日一日を送っている「責任感の人」にして初めて、いっさいを「引き受ける」と言いきることが可能なのです。
 私は、ホセ・マルティとキューバとの間には、ド・ゴールとフランスの間がそうであったと同じような、だれびとも切り離せぬ“磁力”が働いていたように思えてなりません。

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