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日蓮大聖人・池田大作

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煩悩のとらえ方の転換  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

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1  池田 『法華経』の特徴的な思想として、煩悩即菩提という考え方が挙げられます。煩悩とは人間の心を悩ませ苦しめるもので、欲望の心をいいます。『法華経』の明かした真理を根本とすれば、煩悩をなくすのでなく、かえって菩提すなわち智慧にしていけるということです。『法華経』に属すると考えられている『普賢経』の「煩悩を断ぜず、五欲を離れず」(法華経六八一㌻)という文は、この『法華経』の考え方を端的に表したものです。
 この思想は多分に、小乗教の「煩悩を離れよ」という思想を意識し、それに対抗して述べられたものと考えられています。
 仏教以前のバラモンの教えも含め、インド思想では、煩悩を悪いものとするのが一般的であったと思われます。とくに仏教においては、万物に対する広い愛情を考えようとしました。
 というのは、釈尊が悟った真理は、万物はたがいに相依って成っているということであり、人間存在自体、他のすべての存在の恩恵を受けているということです。したがって逆に人間は他のすべてに対して、そのなしうるかぎりの力で、恩恵に報いていかねばなりません。この考え方は、とくに現代にあっては、いっそう重要になってきているように私は感じております。
2  カラン・シン この点に関する『法華経』の視点は創造的であり、慈悲心に満ちています。いくつかの世界的大宗教に共通した傾向として見られる、罪深い人間の本性を強調するいき方をとらない点を考えますと、『法華経』は、人間生来の善性を確信する一大宣言書といえます。
 しかしながら、煩悩というよりは、無明が災厄をもたらすものであることも認めざるをえません。ヒンドゥー教では、この問題を罪業(パーパ)という概念ではなく、無知(アヴィドャー)として考えます。八世紀の偉大なヴェーダーンタの哲学者アディ・シャンカラ・アーチャーリヤは、人間の精神のなかに神を知る心が生ずれば、あたかも太陽が昇れば闇が消滅するように、無明も自然に消えてしまうととらえています。
 みずからの限界を意識し、しかもそれを乗り越える決意を固めることは、精神的探究をするうえで不可欠の態度です。そして、こういった問題に対する『法華経』の解釈は、じつに明快です。
 われわれ個人の煩悩については、それが煩悩であると気づけば、その問題はひとりでに解決します。しかし、自分たちが煩悩に覆われていることを、人々が認めようとしないところに、本当のむずかしさがあります。
 インドのことわざに「眠っている人を起こすことはできるが、眠っているふりをしている人を起こすことはできない」というのがあります。それは、どんなに揺り動かしても、その人が頑として目を開けようとしないからです。
 これが、実際は無明にはまりこんでいるのに、自分は賢いと思っている人たちの態度です。このような態度のことを、ウパニシャッド哲学では「智慧なきが智慧なきを導く」と表現しています。
3  池田 なるほど。鋭いご指摘です。ところで、煩悩すなわち野放しにされた欲望がなぜ悪であるかを、もう一歩掘り下げて考えてみますと、世界は絶妙な調和によって成り立っており、したがって、それを妨害するものはもっとも忌むべきものとなるからです。この意味で、人間のもっている利己的な欲望は、まさしくこの忌むべきものであると悟らなければなりません。
 ところが、人間はこのように、大きな恩恵を万物から受けながら、それに感謝するどころか、ますます醜い欲望をたくましくして万物を蹂躙しているのが実態です。そして、そうした行為は因果の法則からいって、自身のためにより大きい苦悩の果報を招いていくことになります。そこで、自身にとっても、万物にとっても悪の根源であるこの煩悩をなくしてしまう以外にないという考え方が生まれます。しかしながら、煩悩はまた、それを正しく使えば、万物の生命を慈しみ、世界に調和をもたらしていく方向へ働かせることが可能です。
 私は、『法華経』における煩悩即菩提という考え方は、次のように理解することもできるのではないかと思います。すなわち、人間の煩悩は、万物の調和を破壊する悪の力にもなりうるが、逆に、より高い英知に立つならば、調和をたもち、それを強めていくことにも貢献できるという、人間肯定の見方への転換です。
 それとともに、煩悩に結びついている種々の欲望や本能的衝動に振りまわされるのではなく、これらを正しく使いこなしていける賢明にして強靭な自己主体の確立を教えているのです。これこそ、現代文明のなかに生きている人間にとって、もっとも切実な課題であるといってよいでしょう。
4  カラン・シン この問題を考えるうえで、進化的アプローチと呼べる、今ひとつの方法があります。この考え方は、近年にいたって、偉大なインドの哲学者でヨーガ行者のシュリー・オーロビンドによって見事に説明されています。彼が、力強く、ダイナミックなその哲学体系のなかで、中心概念としたのは、人間の意識の進化ということです。
 すなわち、今日、人間は地球上の生物進化の頂点に立っているものの、進化の究極に到達したわけではありません。事実、人間は、動物の意識と神の意識の中間点に立つ一つの生物であり、その人物が精神的発展を遂げるかどうかは、知性のレベルから一段高い超知性のレベルへ飛躍的進化ができるかどうかにかかっているというのです。
 さらに、シュリー・オーロビンドは、この飛躍によってのみ一人一人が、みずからの煩悩による迷いを真に克服し、正しい物の見方を身につけることができるとしています。
 彼が「完全なるヨーガ」と名づけたこの変革の方法は、きわめて細微な点にいたるまで考えぬかれたもので、『神聖なる生活』『ヨーガの総合』『バガヴァッドギーターに関するエッセー』などの多くの著作の中に詳説されています。
 同じような試みは、キリスト教の視点からもなされました。偉大なイエズス会の哲学者テイヤール・ド・シャルダンの手によるものです。
 これはまことに暗示的なことですが、彼の主著『現象としての人間』は、ローマ・カトリック教会によって発禁処分となり、彼の死後ようやく出版されました。
 私が進化の哲学ともいうべきこの二人に言及したのは、彼らのアプローチが、人間精神の迷いの問題を直截的にとらえているからです。たしかに、迷いあるいは煩悩に対して慈悲心にもとづく見方を欠いてはなりませんが、同時に、内的探究というものは迷いをそのままにしないで、克服しようとする態度であることは、きわめて明白だからです。

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