Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

仏寿の久遠の意味するもの  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
2  カラン・シン 人は、その霊魂がモークシャ(解脱)を成就するまで、いくつもの長大な期間にわたって再生を繰り返さなければならない、というのがヒンドゥー教の基本的な教義です。またサンサーラ(輪廻生死)は、どうしても超克しなければならない状態であると考えられています。その理由は、サンサーラが必然的に私たちのいう「苦」に満ちているからでなく、この世の悦楽は長続きしないからです。
3  池田 なるほど。そこで、輪廻生死(サンサーラ)を超克し、解き放たれることを解脱(モークシャ)、そのようになった状態を涅槃(ニルヴァーナ)といったわけですね。
 ともあれ、仏とは、こうした輪廻を超克し解放された存在であるはずですが、『法華経』において釈尊は、自分が遥かな遠い過去に仏になったことを明かします。しかし、にもかかわらず、釈尊は、この世に人間として生まれ、輪廻の世界にいるのです。このことは、この解脱、涅槃という考え方を根本から覆すものであったといわなければなりません。
 つまり、生命の輪廻が、われわれにとって根本から否定されるべきものではなく、むしろ歓迎されるものにもなりうるということであり、輪廻思想そのものについて、根本的な発想の転換を迫ったものとなっているのです。『法華経』が他の経典に比べて、人生を積極的にとらえ、人間存在を肯定的にとらえる教えとなっているのは、このためといってよいでしょう。
4  カラン・シン 忘れてならないのは、ヒンドゥー教の見解では、この世に生まれ、また次に生まれてくるまでの中間期は、その人自身のカルマ(業)しだいで、快適な状態で過ごすか、あるいは不快な状態で過ごさねばならないかが定まるということです。善きカルマの人は死後の状態を快適に過ごし、そのうえ、来世は有利な条件のもとに生まれてくることができます。
 しかし、ウパニシャッドは、どんなにうっとりさせられるような天上の喜びも、より長大な時間的単位でみれば、つかの間の、はかないものにすぎない、と主張しています。であるからこそ、生死の流転を超克しなければならないのです。
 ただ、ヒンドゥー教は、仏教ほどには苦を強調しません。なぜなら、ブッダの哲学全体が「生とは、ただドゥフカ(苦)のみである」という前提に立っているのに対し、ヒンドゥー教では、生の本質はアーナンダ(歓喜)であると考えられているからです。
5  池田 『法華経』の中で、釈尊はみずからが仏になったのがどれほど遠い過去であるかを示すのに膨大な数字を挙げていますが、これは結局、無限を示そうとしたものと思われます。そしてそれと同時に、有限の存在としての歴史的釈尊から、無限の心理的釈尊――こういう呼び方が妥当であるかどうかわかりませんが――への転換を示しているのではないかと考えられます。
 すなわち、ここに現れてくる釈尊は、もはや、歴史的にインドに出現した釈尊ではなく、本来、仏とはかくあるものだという意味での釈尊なのです。いいかえると、永遠なる法をそのまま体現している存在としての普遍的なブッダの姿です。
 これは、釈尊の滅後に生まれてくるあらゆる人々に対し、大いなる希望をあたえてくれます。なぜなら、仏滅後の人々は、歴史上の釈尊を見ることはできません。
 しかし、ブッダが真に偉大な存在であり、あらゆる衆生への平等の慈悲をたたえた存在であるなら、その生命は永遠常住でなくてはならないはずです。
 『法華経』において、この永遠に存在するブッダが示されたことによって、滅後の衆生も、ただ教示された真理だけでなく、衆生を慈しむ存在としてのブッダを心のよりどころとすることができるようになったといえましょう。
6  カラン・シン 仏身の久遠という概念は、たいへんにすぐれたもので、私としては、『バガヴァッドギーター』の第十章、第十一章にあるクリシュナの偉大な顕現を思い起こさずにいられません。時間と空間を超越した存在として『法華経』に説かれるブッダは、天界から人界以下までのあらゆる存在を包含し、久遠の過去から無限の未来にいたるすべての時代を包摂しております。
 このことから、『法華経』が釈尊をもはやシッダールタ太子という歴史的な人物としてでなく、永遠の仏界の象徴として描いていることは、きわめて明白です。生命を意味あるものとするためには、神性の原理は時空を超越し、あらゆる存在の内に反映されるものでなければなりません。
 しかしながら、ブッダのように生死を超克した人のことを考えるとき、あなたが提起されたように「すでに解脱を成就した人が、どうしてまた生まれてきたのか」という疑問に突き当たります。その答えは「悟達を得た人はジーヴァンムクタ(生存中に解脱を得た人)ともいうべき存在となり、みずからの意志による行為の結果として、未来にいくらでも生まれることができる」ということです。再生の目的は人々を救うためであるということになります。
 ここに仏教思想のもっとも重要な貢献の一つである、菩薩の概念があります。
 菩薩とは、涅槃に達したのちも、みずからの究極の幸福には背を向け、光明の大海に身を浸すことなく、悲嘆の苦海を和らげることによって人類に奉仕するという重責をあえて担った偉大な存在のことです。
 類似の概念はウパニシャッドにもありますが、仏教のほうがこの慈悲を強く打ち出しており、『法華経』のもっとも感銘深い特徴の一つとなっています。
7  池田 久遠の仏が明かされたことにより、インドにシッダールタ太子として生まれた釈尊も、この久遠の仏があらわした一分枝となりました。それとともに、今、言われた菩薩という点でいえば、釈尊滅後の悪世に出現して人々を救うのが地涌の菩薩です。
 そして、久遠の仏は宇宙の本源として常住するとともに、それは衆生みずからの生命にも内在しているとされます。『法華経』が強調しているのは、じつはこの普遍性にあります。時間的に過去にさかのぼってブッダの永遠性が説かれたとき、それは同時に空間的無限をも意味していたのです。
 こうして、『法華経』における仏身常住の説法は、衆生から遥かに隔絶した存在とされていた仏を、衆生に内在する仏性として示し、人類を限りない高みに引き上げることにさえなったのです。
8  カラン・シン あなたのおっしゃる「仏性」というのは、ヒンドゥー教ですと「ブラフマンの人格化された側面」とでも呼ぶべきものでしょう。ブラフマンとは、この世に顕現される万物の背後にある「偉大なる存在」ですが、精神的なダルマ(法)を弘めるために、ときどき人間の姿をとって降臨するとされています。
 ヒンドゥー教でも仏教でも、現在のユガ(時代)において大きな災害が世界を破壊する前に、そうした最後の示現がふたたびあるであろうと予言しています。それがヒンドゥー教ではカルキと呼ばれ、仏教ではマイトレーヤ(弥勒)仏であるわけです。
9  池田 西欧の人々は、死後の生命について永続は認めながらも、“最後の審判”によって永遠の天国か、永遠の地獄かに定められるとしているようです。
 このような神話的な死後観は、近代人にとって受け入れうるところとならず、近代人の多くは今世限りで死後は無になってしまうとの考え方におちいっています。そして、それが現代人の生命の尊厳観を空虚化する原因になっているのではないでしょうか。
10  カラン・シン 私もあなたと同感です。一回限りの生ですと、時間が少なすぎて、カルマをまっとうすることも、また、個人の内面で精神的悟達を開花させることもできないからです。
 このことについて、私がよく使う譬喩があります。それは、一回限りの生というのは、ちょうど子どもがたった一日しか学校に行かせてもらえないのに、その一日で規定の教育課程を全部習得するよう要求されているようなものだ、ということです。
 また、現在、一方では何百万という人々が不潔と貧困に苦しみもがいているのに、他方には贅沢三昧の暮らしをしている人たちがいます。
 このように、人間は千差万別の条件のもとに生きているわけですが、どうしてそのように大きな差異があるのかについて、一回限りの生という考え方は、納得のいく説明をまったくあたえてくれないのです。
11  池田 まさしく、おっしゃるとおりです。生命が死を繰り返しながら永遠に続いていること、そして、そこに、原因・結果の法則にしたがってカルマを形成しているということ、これを前提にしてはじめて、各人のもっている異なった条件は説明できるといってよいでしょう。
 それとともに大事なことは、そうしたカルマによってただ縛られている存在であるととらえるのでなく、そうしたカルマに挑戦し、それを意志のままに転換できる強く偉大な生命の力を湧現していく道があるということです。
 それは、あたかも人類が本来、動物の一種であり、欲望や種々の本能に縛られた存在でありながら、それを超克する理性や倫理観、意志力を涵養してきたし、また、涵養しつづけていかなければならない、というのと同じです。

1
2