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日蓮大聖人・池田大作

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『法華経』と釈尊の真意  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
2  カラン・シン 『法華経』には譬喩的表現としてのイメージや解説的手法がふんだんに使われており、それを理解しないと、この経典の深い意味が明らかになりません。その意味で、容易に理解できる経典でないことは明らかです。
3  池田 『法華経』自体「この経は、これまでに説いたどの経と比べても、また、これから説かれる経と比べてさえも、もっとも難信難解である」と断っているくらいですから(笑い)……。
 また『法華経』の原名は「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」ですが、これを五世紀初めに漢訳した鳩摩羅什は「妙法蓮華経」と訳しました。妙法とは「不可思議な法」という意味で、やはり深遠であり、容易に理解できるものではない、ということを表しているのです。
 ところで、『法華経』の経典としての成立については、仏滅後、早い時期にまとめられた部分もあるが、全体としては、仏滅後五百年ごろに、『法華経』の教義をもった一つの教団によって完成されたのではないかという学者もいます。
 そして、『法華経』の教義は、出家比丘である二乗(声聞と縁覚)の成仏を許しているところに特徴があり、これは出家比丘を中心とした教団と、それを激しく攻撃した大乗教団との相克を止揚して、一乗のもとに統合しようとしたものであるとされています。そして、このことから、『法華経』は、そうした歴史的発展のなかで作られたもので、釈尊の正説ではないとする学者もいるようです。
 しかし、『法華経』に説かれている原理は、彼らが正説としている原始経典にも見られ、少なくともその基本的な教えは釈尊が説いたものであるといってよいと考えられます。
 「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」のスートラ(経)とは、仏説であるとの主張がこめられているわけです。
4  カラン・シン インド思想の伝統では、スートラとは「糸」を意味します。つまり、一つの教えの必要最低限の要素を意味します。それが暗誦により、代々伝承されてきたのです。パーニニの『ヴィヤカラナ・スートラ』やパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』といったインド哲学経典は、簡潔で神秘的な性格のため、記憶するのが容易です。
 インド哲学では、それぞれの教師が経典を詳細に解説しますが、バーシャと呼ばれるこうした解説の中には、経典の意味を理解するうえで大切なものもあります。このように、西暦七八八年生誕とされるインド哲学のもっとも偉大な哲学者アディ・シャンカラ・アーチャーリヤによって、さまざまの重要なインド哲学の経典に加えられた注釈は、それ自体が古典になりました。しかし、『法華経』は、長く複雑で記憶しにくい経典です。
5  池田 『法華経』の中には、たくさんの偈頌が含まれています。そして、それらは、散文体の記述があって、それを繰り返す形で配列されています。そこから考えられることは、記憶し伝承されたのは偈頌であって、それを文字化するときに散文で、その意味や状況を述べ、そこに偈頌を組み込んでいったのではないかということです。
 ちなみに、サンスクリットのスートラは「糸」のことだといわれましたが、その漢訳である「経」という文字も糸を表しています。すなわち布のタテ糸のことで、これに対し、ヨコ糸を緯といいます。中国の人々は、仏教が渡ってくる以前から、後世に伝えられるべき重要な教えを『易経』『詩経』などのように、経と名づけていました。その伝統から、仏教の伝来後、仏説を記したスートラを「経」と記したのです。
 次にプンダリーカ、すなわち蓮華については、インドでは古い伝統があるようですが。
6  カラン・シン インド哲学の伝統では、蓮華には、多岐にわたる精神的意味があります。密教的な次元では、個人の意識自体が、開花する蓮華によく譬えられますし、クンダリニーの力の湧現によって活性化する「つぼ」つまり身体の中心点も、さまざまな数の花弁をもつ蓮華として説明されています。
 インド哲学の神話と図像においても、蓮華は重要な意味をもっています。ブラフマーは、ヴィシュヌの「へそ」から生える蓮華の上に座して宇宙を創造します。
 また、慈悲と繁栄の偉大な女神、マハーラクシュミーも、蓮華の上に立ち、左右の手に蓮華を持っている姿で描かれます。
 ヒンドゥー教徒にとって、蓮華は神性の表現であり、清浄と優しさを象徴するものです。ヴェーダやサンヒターのような最古のインド哲学の経典には、蓮華を神や女神の台座として述べている個所が数多く見られます。かつてサンスクリットの詩人たちは、男女の主人公の顔を、美の象徴としての蓮華に擬して謳い上げました。
 蓮華はインド哲学諸宗派のみならず、仏教やジャイナ教のようなインド起源の諸宗教の美術や文学のなかにも浸透していきました。そして、仏教がインド以外の国に流布するにつれて、宗教美術における装飾に蓮華を用いる手法もまた、スリランカ、ミャンマー、ネパール、チベット、中国、インドネシア、日本等の国々にまで伝播されていったのです。
7  池田 日本でも、さまざまな仏像が蓮華を台座とする形で表されます。しかし、なんといっても蓮華は『法華経』の象徴として有名です。『法華経』において、蓮華はたんに神性の象徴ではなく、因果倶時といって、因すなわち、まだ成仏していない衆生と、果すなわち、悟りを開いたブッダとが、その生命は本来等しく、衆生はそのままの姿でブッダとなることができることを表すのです。それは、蓮華がその花の中に実(種子)をすでにもっていることから、花=因と、実=果とが同時に存在しているからです。
 それとともに、蓮華は「如蓮華在水」といって、泥水の中に生じながら、泥に染まらず清浄な花を咲かせることから、仏が苦悩に覆われた衆生のなかに生じながら、その苦悩に染まらないことを象徴するとされます。
8  カラン・シン それはヒンドゥー教でも、世における賢者の生き方を象徴する効果的な譬喩として用いられます。蓮華は泥から生じますから、そのサンスクリット名の一つを「パンカジャ」といいます。水の中に生えていながら、環境に影響されず超然としているということです。蓮の花を摘み取っても、花が水に濡れていることはありません。そこからヒンドゥー経典は、この世に生き、世俗の活動にどっぷりつかっても、人間を取り巻く泥に汚されないで生きるように勧めています。
 『法華経』は、たしかに東アジア、とくに日本でもっとも普及している仏教経典の一つであり、大乗哲学の卓越した経典です。インドでは、ダンマパダ(『法句経』)のほうが仏典の決定版として広く知られていますが、最近では『法華経』にも人気が集まっているようです。
 この対談を始めてから私も『法華経』に目を通す機会がありましたが、それは初めて読む者にとっても、感銘深い、生き生きとした譬喩を使って語られ、まことにすばらしい経典です。サンスクリットは、他の言語に見られない荘厳さをもっておりますから、サンスクリットの原文で読めば、翻訳で読むよりも、さらに感動的でしょう。
9  池田 想像できますね。
 ともあれ、このように一切衆生の成仏を説いたのが『法華経』であり、そこに一貫しているのは、一切の人々を包容する平等思想です。しかし、それだけに、二乗は成仏できないとして排斥した大乗諸教を激しく破折しています。つまり、『法華経』はカースト制度による人間差別の考え方を排撃したのみならず、仏教教団のなかにあっても、小乗・大乗両教団を打ち破っているのです。
 このため『法華経』は排他的な教えであるかのように悪口をいわれたのですが、偏頗な教えに対して排撃的であるのであって、人間については、すべての人を平等に包容している教えであることを忘れてはならないでしょう。
10  カラン・シン それにもかかわらず、『法華経』の信奉者を取り巻く争いや論争があったであろうことは、『法華経』によく説明されています。それは、あなたが信奉されている日蓮大聖人の生涯にもっとも劇的な形で象徴されているところです。日蓮大聖人の試練に満ちた波瀾万丈の生涯は、まことにすばらしい叙事詩です。
11  池田 釈尊は宇宙の最高真理ブラフマンに目を向けることに偏った伝統的バラモン哲学を批判するとともに、それに対抗して現実存在に偏った六師外道の生き方をも否定しました。釈尊は、あくまでも現実を凝視するとともに、そこに空・無常を見て、伝統的バラモンと六師外道の両者をともに退けたわけです。
 しかしながら、その「空(シューニャター)」は、決して虚無主義のそれではありません。こうして、現実存在にとらわれる「有」や、その否定である「無」にともすれば偏りがちな門下たちの誤りを正しながら、中道の思想、いわゆる空・仮・中の三諦円融を完璧に説き示しているのが『法華経』だったのです。こうした『法華経』の示した真理を、自身の生き方のなかにあらわされたのが日蓮大聖人であったともいえるのです。
12  カラン・シン 「シューニャター(空)」という言葉に言及されましたが、これはまさに、仏教哲学のなかでももっとも不可思議で、理解のむずかしい言葉の一つです。語源的にいえば「膨らむ」「広がる」を意味する「スヴィ(svi)」という語根から派生したものです。おもしろいことに、ブラフマンという言葉も「膨らむ」「広がる」を意味する「ブリフ(br∴h)」という語根からの派生語なのです。この共通点は驚くべきものです。なぜなら、ヒンドゥー哲学も仏教哲学も、その基盤全体が、すべて究極の実在という問題にかかわっているからです。
 シューニャター(空)が有と無のいずれにも偏らない中道であるというあなたのご見解は、ニヒリズムの概念とヒンドゥー教のブラフマンの概念との中間に位置づけられるものです。ブラフマンについては、ムンダカ・ウパニシャッドに「自ら輝きつつ、万物を輝かしめるもの、つまり宇宙を照らす光」と述べられております。
13  池田 日蓮大聖人が『法華経』の示した真理を顕されたことは先に述べましたが、それが「南無妙法蓮華経」であり、今、博士が指摘されたムンダカ・ウパニシャッドとの関連でいえば、大聖人は、あらゆる仏天人、さらに地獄や餓鬼などの衆生も、この妙法の光明に照らされて本有の尊形となる、といわれています。いいかえると、宇宙万物も、人間の本能や欲望も、妙法を根本としたときに、その善性を発揮していくということです。

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