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日蓮大聖人・池田大作

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民衆からの遊離  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 仏教衰滅の原因として、博士が挙げられた民衆からの遊離という点について考えてみたいと思います。釈尊は弟子たちに対して「歩みを行なえ、衆人の利益のために、衆人の安楽のために、世人に対する同情のために、神々と人間との利益安楽のために」(中村元『ゴータマ・ブッダ』Ⅰ、春秋社)と説きました。
 そして、釈尊自身、つねに人々のなかに入って法を説き、各地を遊行しました。そして、のちの時代のように僧院に定住するのでなく、その日の糧を乞食によって得るために、つねに民衆に接し、そのなかで法を説いたのです。
 当時、インドの修行者は、雨期には一定の場所に定住する習慣がありましたが、それは雨期に萌え出ずる草花や、微小な生物を踏み殺すことを避けるためであったといわれます。はじめ釈尊は雨期にも遊行を続けていましたが、他の修行者の批判もあり、また世間の誤解を避けるために、雨期には定住することにしたということです。
 これがのちの僧院の起源になったのですが、教団が大きくなるにしたがい、釈尊の弟子となった人々はサンガ(僧伽=教団)を形成し、サンガの組織のなかで法を求め、修行を行うようになりました。そして、在家の信徒がふえ、僧院を寄進されるようになってから、僧院に定住して修行をすることがふつうの姿になっていったといわれます。
 それは教理の追究という仏教の学問化のために定住していった面と同時に、都市の住民が信徒のほとんどを占めていたことから、都市またはその周辺に定住せざるをえなくなったといえるでしょう。
 釈尊は「二人してひとつの道を行くことなかれ」(同前)と説き、一人一人が深い自覚と覚悟をもって、民衆のなかに飛び込んでいくべきことを教えたのでしたが、釈尊滅後の教団は、そうした教えとは異なった方向に進んでいったといわざるをえません。
2  カラン・シン ブッダは人類の偉大な師の一人でありましたから、ある特定の教義にもとづいて新たな信仰を創始したのち、門弟の教育や訓練に特別の注意を払ったのは当然のことでした。僧院の発達は大部分が新たな入門者を訓練する必要性に由来しています。この制度は「ニッサヤ」と呼ばれていました。つまり、一人前の僧となる前の学習期のことです。
 興味深いことに、ヒンドゥー教にもこれに匹敵する考えがあります。
 梵行(ブラフマチャリヤー)といって、弟子が六、七歳から十二年間、師(グル)とともに生活することをいいます。この点に関して、ヒンドゥー教と仏教の伝統の比較研究を行えば、貴重な結果が得られるはずです。
3  池田 もちろん、初心の求道者が、人々に向かって法を説けるまでに力をつけるには、先輩について学び行ずることが必要でしょう。しかし、それについても、釈尊は、行動しつつ、行動のなかで行っていったのであり、民衆から離れたところで弟子の訓練を行ったのではありませんでした。
 釈尊は、みずからが悟り、その胸中に輝いていた生命を人々にも自覚させて、真実の幸福を確立させることをめざしました。すなわち釈尊の教えは、本来一人一人の胸中にあって輝くべきものであり、特権的な組織のなかに存在するものではありません。
 しかし、インドにおいて仏教は権威主義におちいることによって、釈尊の時代に生き生きと輝いていた生命力を失い、民衆の心から離れていったのです。インドの仏教がイスラム教徒によって、僧院を破壊され、僧尼を殺された時に滅び去ってしまった背景にも、その点があったといえるでしょう。
4  カラン・シン 仏教という新たな信仰に大勢の在家・出家の弟子が集まるようになった以上、それが制度化していくのは避けられないことでした。ここで心にとどめておかねばならないのは、ブッダの生前、非常に多くの人々が説法を聴きに集まって来ましたが、実際の弟子の数がきわめて少なかったにちがいないということです。
 ところが仏滅後、教団は途方もなく大きくなったため、僧院を中心として組織化していかざるをえなくなり、これらの僧院は、たいてい偉大な学問の府に発展していったのです。
 僧院生活のさまざまな側面を念入りに扱った教則本が現れるようになりました。たとえば有名なサンスクリットの論文『十七地論』(西暦四〇〇年)があります。
 そうした中心的な僧院が発展していった必然の結果として、ナーランダーやヴァラビやヴィクラマシーラに大僧院大学が設立されるようになったのです。これらは人類史上最大の教育施設に数えられるものでした。したがって、イスラム教徒の侵入によって破壊されたことは、人類最大の悲劇の一つと考えねばならないでしょう。
5  池田 ナーランダーやヴィクラマシーラなどの壮大な学問の府が生まれたこと自体、仏教の内容が深遠であることの必然の結果といえます。それ自体はすばらしいことであり、文明の一つの壮麗な高峰に比すべきものといえましょう。私もそれを讃えることにやぶさかではありません。ただ、そうした高尚なもののみに偏ったところにひずみがあったのではないかといいたいのです。
 どのように深い思想であっても、それが現実社会に生きる人々によって実践されなければ生命を失って観念論となりますし、思索は行動に移さなければ、閉ざされた世界での自己満足におちいってしまいます。
 仏教は、たくましく人生を生きぬくための教えです。だからこそ、つねに人々の間で実践され語られていくべきものだと思います。私どもは、日常、庶民の集いである座談会を行い、そのなかで仏教の教義を学びあい、また実践と体験を語りあっていますが、それは仏教というものをそのように考えているからです。
6  カラン・シン 仏教自体は学問の一分野ではないでしょうが、しかし学問性も仏教の重要な一要素として存続しなければならないと申し上げたい。
 先にヒンドゥー教のヨーガのことを話しましたが、偉大な宗教であるならば、いずれも学問、献身、精神的な実践、活発な外的活動がみな同じ程度に必要であると私は思います。この四つの要素のうち一つでもなおざりにされると、体系全体が不安定な状態におちいります。教義と実践の関係は本質的に共生的なものであるべきです。実践なき教義は無益なものとなり、教義なき実践は無秩序で無意味なものとなるからです。

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