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日蓮大聖人・池田大作

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都市型宗教の脆さ  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 今、博士が挙げられた都市集中ということですが、ソ連の考古学者V・マッソンは「バクトリアの大中心地における仏教の役割は一目瞭然である。しかし、ひとたび地方的な町ケイシャーへ赴けば、もはやこのインド宗教の影響や意義はほとんど見られない」(『埋もれたシルクロード』加藤九祚訳、岩波新書)と述べています。これはインド内についての記述ではありませんが、仏教が都市中心的であったことを示す一つの証拠といえます。
 仏教が都市型宗教として発展したのは、釈尊滅後の仏教教団のあり方にも大きな原因があるように思われます。
 釈尊は、その悟りを自在に説いて人々に伝えましたが、その説得力と同時に、卓越した人格の感化力によって、その説く法を人々に納得させました。したがって、難解な仏教の法理を理解できない人々も、巧みな譬喩と慈悲に満ちた釈尊の人間性によって、仏教に帰依していったと考えられます。事実、経文には、釈尊の弟子のなかには、シャーリプトラ(舎利弗)やマウドガルヤーヤナ(目連)などの優秀な学究者ばかりでなく、無学な人々も数多くいたことが記されています。
 ところが釈尊滅後、釈尊の教えは煩雑で難解な教理として展開されていきました。いわゆる部派仏教といわれるのがそれであり、各部派間の論争によって、仏教教団のあり方は釈尊の真意とはかけ離れたものになっていったわけです。
 釈尊は、人々に分かりやすくプラークリット(俗語)で法を説いたといわれますし、無益な観念論を嫌いました。弟子たちから問われたときも、相手の機根にもよりますが、それが現実の苦悩を解決するためには無益であると思われたときには、黙して答えなかったといいます。「毒矢の譬え」は、そうした釈尊の一面を語る有名なエピソードです。
 釈尊は、死後にも「我」は存在するか否かという質問に対して、こう答えたと伝えられています。――ある人が毒矢によって射られたとする。その矢を抜いて治療しようとする人に対して、この矢を射たのはだれか、背が高い人か低い人か、矢羽は何でつくられているか、などといって詮索するだろうか。そのような議論をしているあいだに毒が身体にまわって死んでしまうであろう。まず矢を抜いて、毒を消すことが大事である。同様に、死後に「我」があるか、ないか、等を論じるより、煩悩の毒による衆生の苦しみをどう解決するかが大事だと説いたというのです。
 このエピソードは、釈尊が現実の苦悩をどう解決するかを第一に考えたことを表しています。だからこそ、世間の人々の言葉で平易に語り、広く民衆のなかで説いていったのです。
2  カラン・シン いかなる宗教も、一人の人間の教えにもとづいたものであるかぎり、その人がいかに高潔・高尚であろうと、時がたつにつれてその教師の当初の輝きがしだいに薄れていったとき、滅亡の危険にさらされるものです。
 ブッダは人類のもっともすぐれた教師の一人でした。そしてその生涯によってまったく驚嘆するばかりの大きな変容をもたらしました。その教えは智慧と慈悲に満ちており、人間意識が生んだ偉大な財宝のなかに数えられています。ブッダの有名な毒矢の譬喩は、たしかに条理にかなっています。しかし、矢を引き抜いてけが人の手当てをするのと並行して、襲撃した者がだれであったかを捜し出し、次の攻撃を未然に防ぐ試みがなされたとしても別に悪いことはないでしょう。
3  池田 先ほど申し上げたとおり、それは相手によるとともに、
 手順の問題でもあります。まず手当てをして毒がまわらないようにすることが先決である。犯人の探索はその後にすべきだということです。もう一つは、犯人の探索は警察の仕事であり、医師の仕事ではないということでもありましょう。
 ともあれ、釈尊滅後の教団は、難解な法理の追究に終始するようになっていきました。もっとも釈尊は入滅にあたって、自分の滅後は「法」を根本とするように遺言していますから、滅後の教団が釈尊の教説の正確な把握を心がけたのは当然であったといえます。しかし、それが過度になって厳密な解釈学に走り、教理が煩雑になって、一般庶民から離れる結果になったのです。
 また、カニシカ王のもとで行われた第四回の仏典結集の時には、仏典はサンスクリットでまとめられました。サンスクリットは、日常の会話に用いられる言葉ではなく、聖なる言葉として、バラモン教の聖典『ヴェーダ』などに使用されたもので、サンスクリットを梵語というのは、これが梵天の言葉であるという伝承によるものです。こうした言葉でまとめられたこと自体、すでに仏教が一般庶民から離れたものとなってしまったことを示しているといえます。
 私は、真実はもっとも簡潔にして明快な現実の道理のなかにある、と考えます。もちろん、複雑な理論体系がその真理の裏づけとして必要であることは否定しませんが、その出発点であり原点であるところのものを見失ってしまえば、その思想は生命を失ってしまうでしょう。
 釈尊滅後の仏教教団は、その点において過ちにおちいったといわざるをえません。そして、いわば一つの学問体系と化した仏教は、都市のなかに設けられた学問研究機関のなかでのみ生きていくということになってしまったのではないかと思われます。それが、仏教の滅亡の一因になったのではないかと思うのです。
4  カラン・シン ブッダの教えはあまりに長大であり多様であったために、滅後にさまざまな解釈がなされるようになりました。種々の部派が生まれて、それぞれブッダの教えの異なった要素を強調し、やがてブッダの教えの輝きは学問的な論争や解釈の泥沼のなかに失われていったのです。
 ふつうの人間にとって、純然たる学問と化した宗教が自身の内的要求を満たすことはできないというのは、まったくそのとおりです。しかし、だからといって、複雑な哲学上の疑問に知らぬ顔をしたり、答えないままにしておいてもよいということにはなりません。また学習の方法をたんに単純化するのでなく、不当に単純化してよいということにもなりません。
 死後、個人の霊魂はどうなるのかとの問いに、ブッダは答えなかったといわれました。ヒンドゥー教は、肉体の死後もアートマンが存続することを明快に仮定しています。『バガヴァッドギーター』の有名な一句(Ⅱ、22)は次のように述べています。「人が着古した衣服を脱ぎ捨てて新しいものを着るように、肉体に包まれた我もその使い古した肉体を脱ぎ捨てて他の新しいものの中に入るのである」。私はこの明快で明白な主張のほうが、とるべき態度としてより満足のいくものであると考えています。
5  池田 もとより仏教も、死後の生命の問題について何も説かないで終わったのではありません。ただ、関心を向けるべき主たる目標が死後という抽象的論議におちいりやすい問題であってはならないと戒めているのです。
 それは、また説法の対象となっている人が哲学的な人であるか、たんなる抽象論をもてあそぶ人であるか、現実的関心にのみとらわれている人であるかによっても、さまざまに異なった説き方がなされたことによるといってもよいでしょう。
 カラン・シン すべての宗教、とくにヒンドゥー教は、実際にはいくつかの異なった段階で機能しています。つまり、哲学の段階、組織または僧院の段階、そして民衆の段階があるわけです。仏教では「仏に帰依したてまつる。衆(僧団)に帰依したてまつる。法に帰依したてまつる」という偉大な祈りがその三つの大きな段階を表しています。
 池田 仏教の歴史を見ると、今、博士がいわれた哲学の段階、組織の段階はきわめて充実していたが、民衆の段階が脆弱であったということができますね。ヒンドゥー教は組織の段階は弱かったが、とりわけ民衆の段階で強かったといえるでしょう。

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