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日蓮大聖人・池田大作

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ガンダーラ文化と西方世界  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 西暦一世紀から四、五世紀にかけて、西北インドのペシャーワル(現在はパキスタン)を中心に栄えたガンダーラ文化は、世界史上でも注目に値するものです。それは一つには、東方のインド文化と、西方から来たギリシャ文化(ヘレニズム)とが合流して花開いた“東西融合の文化”であるからであり、しかも、その融合をなしたのが、北方から来た謎の民族クシャン人だからです。
 古代インド史上、最大の版図を実現したクシャン人については、中国の史書には「貴霜」とか「大月氏」として記されており、そのルーツは、西暦前三世紀ごろまで、今の中国の敦煌から祁連山脈にいたる地域に生活していた人々であるといわれます。それが西暦前二世紀の前半、匈奴に追われて西走し、シルクロードを通って今のアフガニスタンに落ち着いたのでした。
 そのころ、ガンダーラ地方には、ギリシャ人やイラン人、サカ族、パルティア人などが住んでいました。すでに前三世紀の中ごろ、ガンダーラにはアショーカ王によって仏教が伝えられていましたから、おそらく、西方から来た諸民族も仏教に帰依していたことでしょう。
 西暦一世紀、クシャン人が侵入したころから、ガンダーラは“文明の十字路”として脚光を浴びるようになりました。シルクロードを通っての通商交流がさかんになってきたからです。土着のインド・アーリアンの他に、アレキサンダー麾下のギリシャ人兵士たちの末裔や種々雑多な遊牧民が往来し、それこそ諸民族のルツボと化していたことでしょう。
 やがて二世紀になって、有名なカニシカ王がクシャン第二王朝を開くと、ガンダーラでは仏教文化が絶頂期を迎えます。しかも、カニシカ王の時代に、クシャン王朝は最大の版図をもつにいたりました。
 東はマガダ地方から西は今のアフガニスタンまで、南はデカン高原から北は今のソ連領中央アジアの一部、そして中国のタリム盆地南縁のオアシスまで、ガンダーラ様式の仏教文化が伝えられています。その影響力は、さらに周辺の諸国にまで及んでいたことはいうまでもありません。
 仏教徒の伝承によると、カニシカ王はガンダーラに来る以前、ホータン出身の小月氏王であったといわれます。崑崙山脈の南側を通り、インドのカシミール地方を通ったかもしれません。というのは、玄奘三蔵が伝えるところによると、カニシカ王は第四回の仏典結集をカシミールで行っているからです。はじめは本国のガンダーラで結集の作業を行う予定でしたが、暑熱と湿気を心配して、結集の地をカシミールに移したのであろうと推測されています。
 玄奘の『大唐西域記』によると「この国(迦湿弥羅国)は四周の山は堅固で薬叉が守衛しています。
 土地は肥沃で物産は豊富です。聖賢が往来する所であり、仙人が逍遙する場所です」(水谷真成訳、『中国古典文学大系』22、平凡社)と記されています。ヒマラヤと崑崙、カラコルムの大雪山にいだかれたカシミールは、要衝の地として当時から栄えていたことがうかがえます。
 さて、ガンダーラに来たカニシカ王は、クシャン王朝の春秋の都をプルシャプラにおきました。今のペシャーワルです。そこには、即位第一年に雀離浮図という大ストゥーパを築き、ブッダの舎利を奉納したことが知られています。のちに中国からインドに来た法顕や玄奘も、このカニシカ大塔をめざしてガンダーラ入りしたといわれています。
 カニシカ王は即位して間もなく、東インドのマガダ国を攻め、そこで活躍していたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)をガンダーラに連れて帰りました。アシュヴァゴーシャは古代インドで第一の仏教詩人といわれます。インド文学の傑作として名高い『仏所行讃』五巻を著しました。カニシカ王は政務の余暇に、いつも仏教を習い、日ごとに一僧を宮殿に招いて説法を聴聞したといわれます。おそらくアシュヴァゴーシャやパールシヴァ(脇尊者)から仏典を学んだのでしょう。
 ところで、インドのマトゥラーや、パキスタンのタキシラ、ペシャーワル周辺、それからアフガニスタンのハッダなどから、おびただしい数の仏像や菩薩像が出土しています。仏教徒は最初、インドでは仏の尊像を造りませんでしたが、クシャン王朝のころから造像がさかんになりました。
2  カラン・シン ガンダーラという名称は、じつは北インドのカンダハール(現在のアフガニスタン)という都市に由来しています。ガンダーラ文化は、たしかにインド文明のもっとも華やかな場面の一つであり、ギリシャとインドの伝統が見事に融合したものです。
 彫刻という観点から見れば、ガンダーラ美術は、きわめて重要な役割を演じました。神仏を人間の形で表現するという伝統は、古代のインダス流域文明では広く行われておりましたが、アーリア人にも初期の仏教徒たちにもありませんでした。ガンダーラ派に見られるギリシャ人の華麗な彫法の影響によって、インドの宗教、つまり仏教・ヒンドゥー教双方の伝統に、人間の形をした仏像・神像が導入されるようになったのです。
 よく知られているように、幾世紀もの間インドの仏教徒たちは、ブッダを人間の形で描写することを差し控え、菩提樹、法輪(ダルマ・チャクラ)、ブッダの足跡、傘蓋、台座等の象徴によってのみブッダを表現していました。しかし、ガンダーラ派がクシャン朝の諸王の後援によって隆盛するのにともない、人間の形をした像の彫刻という偉大な伝統が、まことに劇的な、そして感動的な形でよみがえったのです。
 クシャン王朝のなかでもっとも有名で印象的な統治者であり、また疑いなくインド史における偉人の一人であったのがカニシカ王です。ウィル・デュラントは、彼の不朽の名作『文明物語』の第一巻で、カニシカ王をさして「アショーカの再来とさえいえる」と述べております。カニシカ王の治世のもとで多くの宗教が栄えましたが、王はとくに仏教を尊崇しました。この崇敬の念が仏教美術の開花をもたらしたばかりか、カシミールで第四回仏典結集を実現させることにもなったのです。
3  池田 仏像の起源については、洋の東西の学者たちが熱心に研究し、多くの論文を発表していますが、いまだに定説らしきものは見当たりません。一つの有力な仮説は、西方から来たギリシャ人に仏教を理解させるために、具体的なイメージとして造像を許したのがはじめである、といわれています。こうしたガンダーラ文化のもつ歴史的意義について、博士はどのようにお考えになっていますか。
4  カラン・シン ギリシャ人は人間の形を見事に描写することに巧みであり、太陽神アポロンの像はその典型的な例と考えられていました。しかしその一方、彼らの彫刻は、神々の外形的な美しさは表しましたが、その内面的な光輝を描写するという要素に欠ける傾向がありました。この内外両面の同時描写を可能にする独創的な融合――その代表的な例がマトゥラーやサールナートのすばらしい仏像(五世紀)であるわけですが――それがギリシャ的伝統のインド化とでもいうべき現象の結果として実現したのです。
 仏像の起源に関するあなたのご質問には、かなり明快な解答があるように思われます。個人が神と接触しうる方法は数多くあります。あなたの以前のご質問への答えのなかで、人と神の合一のためにヒンドゥー教が説く道(つまり瑜伽行)について述べました。それは四つに区分され、学問、献身、精神的実践、社会活動です。その一つがバクティ・マールガ、すなわち献身、信愛の道です。人類の歴史が明らかに示すように、この信愛の念は、神が人間の形で描き出されたときに最高度に喚起され、表現されます。
 たしかにプラトンやシャンカラのような非凡な人々は、観念を黙考するだけで神なるものの認識を発現させることができましたが、大部分の人々にとっては、人間の形をした神像が礼拝にもっとも適した形態であるようです。
 興味深いのは、ヒンドゥー教も仏教も当初は神仏を人間の形で表すことはなかったのに、やがて非常に多種多様の神像・仏像を造りだしたということです。
 ですから、人間の形をした仏像の発展は、ギリシャの影響を受けて促進された一つの論理的帰結であったと見るべきでしょう。人間の形をした彫像を礼拝に用いることを奨励するヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、ローマ・カトリック教等の宗教と、それを禁止するユダヤ教、イスラム教、いくつかのキリスト教派のような厳格なセム系の宗教との間のさまざまな心理的相違については、十分な研究が必要でしょう。
 おそらく、人間の形をした彫像が使われる場合、とくにヒンドゥー教のように男像と女像が組み合わせで用いられる場合には、礼拝者の心をやわらげる力があるものと思われます。
5  池田 信仰・礼拝の対象を人間の形をした像として具象化するか、まったくそうしたものを立てないか、あるいは第三の道がとられるか、これは生命的感応において非常に重大な問題です。
 この点については、かつてトインビー博士とも論じあったところです。
 トインビー博士は“究極の精神的実在”は神人同形のものとして表現するより、仏教に説かれるような普遍的な生命の法体系でとらえるほうが、より合理的で、より正しいと思うと語っておりました。

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