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日蓮大聖人・池田大作

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釈尊の生没年  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

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1  池田 インド仏教の開祖釈尊が、いつ生まれ、いつ入滅したかについては、さまざまな説があります。ただ、仏教の多くの経典に記された伝承によって、釈尊の生存期間が八十年間であったことはほぼ確実と見られています。しかし、その時期については、古来さまざまな説があり、日本の仏教徒が受け入れてきた仏滅年代には、大きく三つの異説があります。
 その一つは、インドに旅行したことで有名な中国の僧法顕が書いた『高僧法顕伝』にもとづくもので、仏滅を西暦前一〇八七年とする説です。
 次に、衆聖点記説があります。これは、仏滅直後、釈尊の弟子ウパーリ(優波離)が律蔵を結集した時、供養の意味をこめ、香華をもって一点を下したのが始まりで、以後、この律蔵を師資相伝して毎年、一点ずつ下していったのです。のちに、サンガバドラ(僧伽跋陀羅)が中国の広州にいたって、律蔵を漢訳してみずから一点を下したが、その時、点の数はすでに九百七十五点あったといいます。サンガバドラが点数を数えた年は明確で、西暦四九〇年でした。そこから逆算すると、西暦前四八五年が仏滅年代ということになります。
 第三に、中国の『周書異記』に釈尊の生没年について、周の昭王二十四年四月八日生誕、同じく穆王五十二年二月十五日入滅、と記されているところから、法琳という人が、仏滅年代を西暦前九四九年と定めたものがあります。
 とくに、この『周書異記』の説は、中国・日本の仏教徒たちが伝統的に採用してきたものです。
 これに対し、近代西洋でインド研究がさかんになって以来、科学的方法論を駆使しての西洋の学者による研究成果が次々に発表されていきましたが、この成果も、多くの異説に分かれています。
 西洋のインド研究の学者は、アレキサンダー大王がインドに侵入した年代から、アショーカ(阿育)王の即位年代を推定し(西暦前二五九年)、これにスリランカの伝説にある、アショーカ王即位が仏滅後二一八―九年にあたるという記述を加味して、西暦前四七七―八年ごろを仏滅年代と推定しています。
 さらに、他の方法によれば、アショーカ王が、石や岩に彫りつけた告知板式のもの(アショーカ王勅文)がインド各地で発見されたのにともない、そのなかに記されている外国の五人の王の在位年代から、アショーカ王の年代を推定し、その即位を西暦前二七〇―一年とし、そのうえで、アショーカ王の即位をスリランカ伝説の仏滅後二一八―九年とする説にしたがって、仏滅年を西暦前四八八年前後とするものがあります。なお、アショーカ王の即位(西暦前二七〇年)について、インドの伝説の多くは、仏滅後百年ぐらいとしており、なかには滅後一一六年とするものもあるところから、仏滅年代はさらに百年近く動いて、西暦前三七〇年、あるいは西暦前三八六年とする説もあります。
 最近では、日本の東大名誉教授中村元氏が、同じ算出の方法ながら、アショーカ王の即位年代が最近の研究により若干動いたことを理由に、仏滅年代を西暦前三八三年としています。
 以上のように、最近の研究成果によっても仏滅年代は学者によってさまざまな説があり、結論はまだ出ておりません。
 考えようによっては、伝統的な仏滅年代は別にして、近代の研究成果が、わずか百年の差しかないということのほうを、むしろ評価すべきかもしれません。
 ところで、他方、このような学問的研究とは別に、一九五六年から五七年にかけて、インド、スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアなど南方アジアの諸国で、釈尊の入滅二千五百年の記念式典が盛大に行われましたが、それによれば、仏滅は西暦前五四四年と考えられていることになります。
 今後、さらに研究が進んで、仏滅年代について統一的な結論が出るのか、あるいは、古代インド史については年代不明な点が多いところから、これまでの域を出ることなく終わるのか、その見通しについては、博士はどのように推測されますか。また、仏滅年代について、現代インドの考古学者、歴史学者はどのように考えているのでしょうか。
2  カラン・シン ご指摘のとおり、ブッダの生没年が正確にいつであるかについては、きわめて不明確であり、また種々議論されてきました。しかし、いまさら私が、この点についてのさまざまな説に細かく立ち入って検討しても、意味がないのではないかと思います。あなたは幾人かの学者の説に言及されましたが、そのなかで中村元教授は、私も個人的によく存じ上げています。たいへん博識な方です。
 一九五六年の五月、ブッダの入滅二千五百年を祝う式典が全世界で行われました。このことは、西暦前五四四年説が広く受け入れられていることを示しています。もちろん、すべての国が受け入れているわけではありません。インドにおいては、当時副大統領であった著名な哲人S・ラーダークリシュナン博士とジャワハルラル・ネルー首相が主催して盛大な記念式典が、一九五六年五月の満月の日に行われました。この西暦前五四四年説にしたがい、ブッダが満八十歳まで生きたとする伝統的な考えに立ちますと、ブッダが生まれたのは西暦前六二四年になります。そしてこの考えは、インドで一般に受け入れられているものです。
 私は考古学その他の研究でまったく疑問の余地のない年代が確定するまでは、一つの作業仮説としてこの説が申し分のないものだと思います。ただし、付け加えさせていただくならば、ブッダの教えは時代を超越したものですから、生没年にあまりこだわる必要はないでしょう。ヒンドゥー教の伝統では、いかなる場合でも教えの内容のほうがその年代よりも重要なものとされています。
3  池田 私も、もとより同じ考えです。信仰において大事なことは、その教えの内容が、現に生きている人間の苦悩を解決する力をもっているか否かであって、その教えが歴史的に、いつ始まったかということは二次的、三次的な問題です。ただし、信仰者とは違った視点で見る歴史学者などは、当然、それがいつの時代に始まったかに重大な関心をもちますし、他の宗教思想との交流等が問題になる場合は、こうした歴史学的課題も、無視しえない要素になります。私としては、こうした問題も、インド古代史がより明確になることによって、解答が出されていくことを期待したいと思います。

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