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日蓮大聖人・池田大作

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輪廻観―インドとエジプト  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 人間は死んでもふたたびこの世に生まれてくるとする輪廻観を古代インド人はもっていましたが、同様に一度死んだ人の生命がふたたびこの世に還ってくるという考え方は、古代エジプトにもありました。古代エジプトでは、そのために死体をミイラにして保存することが行われたわけですが、ウパニシャッドや仏教における輪廻と、エジプト人における輪廻とでは、まず、その価値内容に相反するものがあります。
 つまり、エジプト人の場合、輪廻し、蘇ってくることをむしろ理想とし、そのために死体を保存しようとして、巨大な墳墓を築きました。これに対して、インド人の場合は、輪廻してふたたびこの世に生まれることを避けるために、修行に労力を捧げました。
 ウパニシャッドの教えによると、死後の生命がたどる道に二種があり、一つは「神の道」と呼ばれ、火葬に付されたのち、その魂は光の道を通って月にいたり、不死の世界に入るとされます。もう一つは闇の道を行き、やがて雨になってこの地上へ戻ってきてふたたび生ずるとされます。後者が“輪廻”であり、これは好ましい死とはされないわけです。
 このように、ふたたび蘇ることが、エジプトでは理想とされ、インドでは苦しみとされたという相違の原因は、どこにあったとお考えになりますか。
 エジプト人にとって、たとえファラオであっても、人生は楽しいことばかりではなかったはずです。また、インド人にとって、人生は苦しみばかりではなかったでしょう。
 むしろ、古代のインド人は、あらゆる面ですぐれた技術を開発して生活を豊かにし、歌舞や文学をさかんにして人生を楽しんだことが知られています。にもかかわらず、なぜエジプト人はふたたびこの世に生ずることを願い、インド人はふたたび還ってこないことを理想としたのでしょうか。
 これは、あくまで私個人の推測ですが、エジプト人にとって至高の存在は太陽であり、太陽神でした。太陽は、現にこの世に存在するものです。したがって、至福もまた、太陽が君臨しているこの世を離れては、ありえなかったのではないでしょうか。
 それに対し、インド人にとっては、生命を蘇らせるのは雨期の雨であり、それゆえ、雨を告げる雷霆は、インドラと結びつき、インドラはもっとも広く渇仰される神の一人となりました。しかし、雨期と乾期を繰り返すインドの自然は、万物が転変し常住しないことを印象づけます。その変化する万象とは別に不変の世界があるにちがいない。永遠の幸福は転変する事象の世界を離れて初めて得られる――インド人は、このように考えたのであろうと思えるのです。
2  カラン・シン 死に対する考え方の、エジプト人とインド人のもっとも顕著な相違の一つは、あなたが的確に指摘されたように、肉体に対する考え方にあります。古代エジプト人は、死後の人間についてさえも、人間の有形の肉体に対して、病的なほどの固定観念をもっていたようですが、インドでは、ヴェーダ宗教の時代以来、ヒンドゥー教徒は、肉体は必ず滅び、最後には灰燼に帰さなければならないと、つねに信じてきました。このインドの考え方のほうがはるかに健全で、しかもより賢明な態度であると私には思われます。
 それは、この世での生命の様相とはなんの関係もないのです。
 死体を火葬に付すことは、病気や疫病の蔓延を防ぐ効果的な方法であっただけでなく、心理的にも満足をあたえるものでした。ヴェーダ時代、祭火は、つねに畏敬の目で見られていました。ヒンドゥー教徒の結婚式は、火のまわりを歩くことによって執り行われ、ヴェーダ儀式は一貫して、祭火への供物の奉献を根本にしてきました。死体を火葬に付し、その屍灰をガンジス川や他の聖なる川に流すことで、肉体的存在に清潔で満足すべき終局をあたえるのです。これは、インドラや他のヴェーダの神々とはなんら関係ありません。
 この世の生が楽しいから再生を求めたのか、それとも楽しくないから再生を避けたのか――この論点は、世界の大多数の宗教の根底にあるものです。とくに仏教は、人生が苦(ドゥフカ)であることを絶えず強調しており、そのため輪廻再生を避ける方向にかたむきがちなのではないでしょうか。
 しかし、たとえ、人生が物質的・肉体的快楽に満ちていたとしても、三つのどうしても免れえない苦しみ、つまり病・老・死があるのであり、これはこの世に生を享けた者すべてに共通の運命なのです。ウパニシャッドは、生と死という二元性を超えた次元に到達することによって、生死の輪廻から解放されることを前提としているのです。
3  池田 それが、いわゆる涅槃ですね。たしかに小乗仏教経典では、生死の流転をすることは厭うべきことであり、自己の生命を消滅して、いわゆる涅槃に入り、ふたたびこの世に生じてこなくなることを理想としました。このような初期経典の考え方は、のちに発展する大乗仏教では変わってきます。
 大乗仏教では、生死を繰り返すことはだれびとも避けられないが、生死の変化のさらに奥にあって変わらずに常住している生命そのものを覚知することができると教えます。そして、このような覚知に立った、壊れることのない幸福状態を“涅槃”と呼びました。“涅槃”の名称は共通であっても、そこに意味されているものは、本来の“消えること”でなく、むしろ永遠に消えないことです。
 それは、つねに移り変わり変化している事物と、その変化を奏でながら貫かれている本質との、同時存在的な重層性を教えています。現に生きている自分を見ても、肉体・精神ともに絶えず変化していますが、自己存在自体は、幼児の時と五十歳を過ぎた現在と、一貫して変わりません。
 もちろん、現在の人生の枠の中でとらえられる現実と、その枠を超えた生死の流転・輪廻という問題を同じように論ずることはできないでしょう。しかし、一つの考え方の方向性としては、同じ範疇に含めうるのではないかと思われます。
4  カラン・シン 仏教の涅槃の概念に対応するのが、ヒンドゥー教の“モークシャ(解脱)”という概念です。“涅槃とは完全なる消滅である”という見方は、消極的で不十分な概念です。なぜならそれは、この光輝ある宇宙全体を、あたかも生じてはならなかった大きな過誤であるかのように評価させてしまうからです。
 大乗仏教ではより積極的な見方をし、涅槃とは壊れることのない幸福状態(アーナンダ)にいたる悟りである、と見ているということですが、このほうがはるかに満足のいく考え方であり、ウパニシャッドの理想に近づくものです。涅槃はまさに真実でない自我の消滅であり、自己啓発の過程の完成であると見ることができましょう。
 涅槃を成就する正確な過程をすべて説明することは容易ではありません。死ぬという行為それ自体では十分でないことは明らかです。なぜなら、肉体は滅しても、アートマンは認識しがたい身に居して発展を続け、最終的な解脱が得られるまでいくども人間としての生に回帰してくるからです。
 ヒンドゥー教も仏教も、死後に天界へ行けると約束しているだけではなく、この地球上に生きているうちに悟りを得ることができるという同じ考えに立っています。これは銘記すべきことです。

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