Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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遁世による解脱観
「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)
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池田
世俗的絆を断つ修行法は、釈尊自身も行ったところですし、その初期の経典にも見られますが、後期の教えとされる大乗仏教では、そうした修行法を低く位置づけています。
もとより大乗仏教でも、修行者が出家をすることはずっと行われましたが、それは僧侶として修学に専念するためであり、僧侶は、ただ自己の修行だけを目的としたのでなく、学を修めた後は広く人々に仏法を教えることを任務としたのです。したがって、大乗仏教における出家は、利己主義におちいることはなく、ひるがえって社会に帰り、人々を利益することにあったわけです。
もとより、この仏法の生き方、すなわち、ウパニシャッド的表現でいえば自己の存在の最高の核である「アートマン」以外のものは存在しないとして除去するのでなく、それらの存在をも認め、究極の「大乗」に到達するための導き手として生かしていくためには、それを裏づける原理が明確にされなければなりません。これを基本的に説いたのが、私は仏教経典のなかでも『法華経』であったと思っています。
すなわち、『法華経』は、あらゆる万物・生命の事象(諸法)が究極の実在そのもの(実相)であると説いています。現実に私たちはさまざまな欲望思考・意識等を起こしながら生存しているのであり、それらを“存在しないもの”とすることは、あまりにも観念的といわざるをえません。なによりも大部分の人は、これらの心の働きにとらわれずに生きていくことはできないのです。
『法華経』は、この「諸法が実相である」との原理から、人間が日常的に起こす欲望思考・意識などの“煩悩”も、そのまま究極の真理の覚り、すなわち“菩提”に転ずることができる道を教えました。
究極のものが何であるかを覚ること自体を目的とする生き方においては、それを妨げ、覆い隠している“煩悩”を取り除き、捨てる以外ないのですが、『法華経』の場合は、究極のものをめざしつつ、その途中に介在しているものをそれなりに楽しみ、生かしていくのです。
譬喩的にいえば、究極の存在のみをめざすいき方の場合、森の中で迷い、どう進んだらよいかを懸命に探しているようなものです。ここでは、樹木や草は、
正しい方角を見いだすのを妨げる働きをしています。これに対し、『法華経』の場合は、進むべき道を十分に知って、森の中を散歩しているようなものです。木々は、この人になんの不安もあたえず、むしろ心の安らぎと、さまざまな発見の喜びをもたらします。
同様に、人間としてのふつうの生活を営みながら、そこで日常的に起こす欲望や意識、思考が生命のなかに潤いと躍動を呼び起こし、しかも、最高の理想に到達できる道を教えているのが、仏教のなかでは『法華経』の教えといえましょう。
このような究極の真理のとらえ方について、博士はどうお考えになりますか。
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カラン・シン
妄想を取り除くということに関する点は、大切なことです。あなたの引かれた森の中で迷った人の譬喩を用いるならば、ウパニシャッドの教えでは、霊的悟りに到達するためには、その人は森から抜け出す必要はまったくないのです。なぜならば、その人にとって森自体がブラフマンの在所となるからです。
私は以前に主張した点を再度、強調したいと思います。それはウパニシャッドの悟りは意識の質的変化を表し、一度それを成就したならば、外的な生活状況は、もはや、枢要ではなくなるということです。もちろん、悟りへの過程では、ウパニシャッドにおいても仏教と同様、人生における苦楽はともに精神的成長のための積極的要因となりうるのです。
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