Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ウパニシャッドと仏教の相違  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
3  池田 なぜブッダは階級やカーストの差異を超えて、一般大衆が理解できる平易な言葉で説くことができたのか、という点をさらに考えてみますと、
 おそらく釈尊の到達した“悟り”の内容と性質に密接な関連性があるように私は思います。
 これは、『法華経』において「諸法実相」という法理に表現されていることから明らかですが、人間ならだれびとであれ、目の当たりにしている諸法を洞察したのが、釈尊の“悟り”でした。
 最古の経典に属する『スッタニパータ』の第五章「彼岸に至る道の章」で直弟子たちが語る釈尊の説法の内容に関する説明を見ても、これは明らかでしょう。
 すなわち、「かれはまのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき〈妄執の消滅〉、をそなたに説示した。かれに比すべき人はどこにも存在しない」(『ブッダのことば―スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫)、あるいは「即時に効果の見られる、時を要しない法、すなわち煩悩なき〈妄執の消滅〉、をわたくしに説示しました。かれに比すべき人はどこにも存在しません」(同前)というのがそれです。
 ここで、「まのあたり即時に実現され」とか「時を要しない法」と表現されていることに関連する内容として日蓮大聖人も、多くの書簡の中で、だれびとも目の当たりにしている“虚空”や“睫”のようなものであると表現されています。あまりに身近すぎて見逃してしまうような真理を悟ったということは、これを人々に伝えるにあたり、釈尊はただ人々に、そのことを気づかせることのみに焦点を合わせた説法を行ったといえるように思われます。
 これが先ほども述べたとおり、ウパニシャッド哲学が、悟るべき真理を志向したものであるのに対し、釈尊に始まる仏法が、真理を人々がみずからにおいて悟るための智慧の開発へと向かっていった根本的な理由であります。

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