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日蓮大聖人・池田大作

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ブラフマンとアートマンの概念  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 ウパニシャッド哲学の根本は「ブラフマン」と「アートマン」の合一にあるとされますが、その言葉が知られているのに比して、それぞれの内容については、あまりにも漠然としています。
 私が知りえた説明によると、「ブラフマン」とは、もとは“祈祷”“呪文”を意味した言葉で、それが“聖なる知識”を表すようになり、さらに、普遍的な世界の創造原理・万物がそこから生じ、そこに帰する世界・霊魂を意味するようになったということです。
 また「アートマン」とは、もともとは“息”を意味したのが“本来の自我”“自己以外のものと対立する自己”という内容をもつようになったとされます。つまり、現象としての人間から、身体という蔽いを外し、さらにその残った精神的な自己から意欲意識・欲望などを除去したあとに残る、自己の最奥の中核であると説明されています。
 このように、もとは具体的な行為や事物を意味した言葉が、感覚ではとらえられない深い抽象的概念を表すようになった推移自体、人々の関心が日常的・表面的なものから超越的・根源的なものへと向かっていったことの現れでもありましょう。
 そうした思考の進められていった過程と、その行き着いたところとして形づくられた「ブラフマン」と「アートマン」の概念を西洋起源の諸宗教と比較するとき、古代インド人の独創性が指摘できるでしょう。
 なぜなら、たとえば「ブラフマン」という面だけなら他の民族も、万物に超越し、一切の根源となった“神”――創造神――の概念に到達しています。キリスト教やイスラム教といった世界宗教の土台となった、ユダヤ教がその例です。
 しかし「ブラフマン」に相当する、この超越神のみにかたむいた思考のもたらしたものは、“神”の偉大さ、強さに対し、それとは対照的な人間の卑小さと弱さです。彼らにおいては、人間は他の万物と同じく神の被造物です。
 したがって、神によって創られながらつねに堕落の危険性をもち、神の意志しだいでは全滅さえ免れない人間は、あまりにも卑小で弱いといわなければなりません。
 これに対し、古代インド人は、一人一人の人間の内に「アートマン」の実在を認め、それが「ブラフマン」と合一すると説いたのです。「ブラフマン」そのものが、人格的な神ではなく、原理というべきものであり、神々もそこから生まれたとされます。そして、この「ブラフマン」に対応する「アートマン」を自己存在の核とする人間一人一人は、神の意志一つで滅ぼされる弱々しい存在とはたいへんな違いです。「人間の尊厳性」の概念は、こうした考え方によって一つの確立の手がかりを得たのではないかとも考えられます。
2  カラン・シン あなたは、インド思想の伝統たるブラフマンとアートマンという、重要な一対の概念を正しく理解されています。また、この点に関するご指摘にも深い洞察力をうかがうことができます。まさにお説のごとくブラフマンの概念と、天上にいてその高い位置から神命を下し、それに背いた人間には、即座の破滅あるいは永遠の断罪をもたらす全能の人格神というユダヤ教的概念との間には、本質的な相違があります。
 インド思想の偉大な伝統の真髄は、神の力が宇宙に存在する原子――目に見えるもの見えないもの、顕在的なもの潜在的なもの――の一個一個にまで及んでいるという考え方にあります。この神の力が個人の内に反映したものがアートマンであり、ブラフマンとアートマンの合一が究極の目的であり、即、霊的悟りとなるのです。この過程を“ヨーガ”といい、この言葉は英語の“ヨーク(くびき)”と同一語源をもち、アートマンとブラフマンの合一を意味します。
 アートマン・ブラフマンの概念は、“天上”の唯一神というユダヤ教的概念の対極に位置するものです。インド思想において、神とは、究極的には各個人の内面に存在するものなのです。アートマンの概念は、人間一人一人に、カースト宗教・民族を超越した精神的尊重と威信をあたえるものです。この考え方が、奪うことのできない一人一人の人間の尊厳性を強力に支えるものであるというあなたのご指摘は、まったく正しいものです。
 さまざまな集団が、ありとあらゆる方法で個人を支配しており、そのため人間の尊厳性が低下している現今の状況においては、とくにそういえると思います。

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