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日蓮大聖人・池田大作

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ウパニシャッドの修行法  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

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1  池田 ウパニシャッド哲学と今日呼ばれているものの伝授や思索・修行は、どのような形で行われたのでしょうか。
 “ウパニシャッド”という呼称の一つの語源解釈では、“ウパ”とは「近く」の意であり、“ニシャッド”とは「座る」という意味で、弟子が師匠の近くに座って、師から弟子へ口伝されたことを表すと聞いています。
 それは、師から弟子へ一方的に伝授するという形をとったのでしょうか。もし、そうとすれば、いわゆる哲学とは異質の、むしろ教義的宗教に属するといわなければなりません。“哲学”の名で呼ばれる西方世界での営みは、師は弟子と対話を行い、問答議論を通じて弟子に対し、真理への道を見いださせようとしたものでした。それは、師が弟子に外側から、すでに得られた結論を伝えるのとは、まったく異なります。
 “哲学”という名称自体「智を愛する」という意味で、あくまで彼方に智慧・真理の悟りを見つめ、それへ迫っていくことを表しています。“哲学”においては、
 この基本的立場は、師も弟子も同じといってよいでしょう。
 それに対し、師が弟子に伝授するというのは、師は智慧・真理をすでに得ていることを前提にしているわけです。ウパニシャッドがとったいき方は、この「すでに得ている真理を伝授する」ことだったのでしょうか。あるいは、真理を悟る智慧をいかに開発するかの実践法を伝授することに、その目的・意義があったのでしょうか。
2  カラン・シン サンスクリットでは、一つの言葉がさまざまなニュアンスの意味をもつようになることは珍しいことではありませんが、“ウパニシャッド”という語には、二つの意味があります。一つは、弟子が師のまわりに座って行う対話という意味です。二つ目の意味は、教義の性格に関するもので、“奥義”“秘義”という意味をもっています。
 ウパニシャッドにおいては、師には二つの重要な資質が望まれます。すなわち、知識を習得しているという意味のシュロートリヤムであるということ、そしてブラフマンの体得者という意味のブラフマニシュタムであることが要求されるのです。つまり、博学な教師であるだけでは不十分で、霊的な悟りを得た人でなければならなかったわけです。
 この点を考えれば、あなたのご質問への答えは明快です。師のなすべき任務は、弟子に対して、知識と霊的悟りの両方を伝授することにあります。知識を十分に習得していなければ、当然、弟子に教えることはできません。また、弟子がすでにその知識を身につけていれば、師は必要なくなります。したがって、弟子が師と同等であるということはありえなかったのです。
 このことは、ヒンドゥー哲学で「グル」が深く尊敬されている背景にもなっています。
 グルという語は、語義的には暗黒を払う者という意味であり、師は、その霊的な力と知的能力をもって弟子の心にある無知の闇を晴らすよう要請されるのです。弟子は師に対して尊敬を捧げ、その返報としてグルは弟子に慈愛を示しました。弟子は、つねに、親愛と愛情を意味する“サウミャ”という呼称で呼ばれています。
3  池田 ウパニシャッドのグルが、知識習得者としてのシュロートリヤムと霊的覚者としてのブラフマニシュタムの双方を兼ね備えているとのお話ですが、これは、宗教者と哲学者が一人の身に体現されていたということであると思います。
 少し話が飛躍するかもしれませんが、宗教と哲学は本来は一体のもので、この点は古代ギリシャにおいても多くの場合にあてはまるようです。それが分離したのは、やはり近世から近代にかけてのヨーロッパにおいてであったといえましょう。十九世紀の西洋の哲学者のニーチェなどは、こうした「分離」「分化」の思考法の限界と、それがもたらす人間の生命の衰弱を見いだし警告しました。
 今日、分離、分化が極限にまで達した感があり、学問など、文化のあらゆる分野で細密な分化が進行してしまい、それぞれの分科の各専門家はすぐ隣接の分科のことがまったくわからないという状況にあります。その結果、人間の全体像やトータルな生のあり方が見えなくなり、さらには温かい生命感覚の喪失という、混沌とした状態になっていることに、ようやく人々が気づき始めたのは、ごく最近のことです。
 人間と生命の全体像をトータルに把握し、これにもとづく新しい人間復興が待たれている今日、古代インドや枢軸時代の思考の原点をとらえ直すことはきわめて有意義であると思われます。

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