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日蓮大聖人・池田大作

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インド宗教の両極性  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

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2  カラン・シン おっしゃるところの生の肯定と禁欲主義の二つの流れは、まさに世界のほとんどの大宗教に見られる主要な要素です。
 インド思想においては、そのもっとも初期のころから、あるいは個人的救済を求めて、ある人々はシッダールタ太子の場合のように万人の救済の道を求めて、世俗を捨て、禁欲的な隠遁生活を送ってきました。この隠遁生活への道は、今日のヒンドゥー社会にまだ残っていますが、早くも『バガヴァッドギーター』において、この二つの道を統一しようとする試みがなされました。『ギーター』の中でクリシュナは精神的覚知をもたらすものは、外面的な禁欲ではなく、内面的禁欲であると、繰り返し述べています。
 ヒンドゥー教における崇拝のさまざまな形態の違いは、じつは真理に対する探究の表現形態が異なることに由来する結果なのです。インド思想は、万人がまったく同じ道を進むことを強要しません。
 インド思想では、異なるタイプの人々の間に見られる性格や内面的傾向性の幅広い相違を認めており、人々が各自の要求にもっとも適した道を選ぶことができるように、神への広範なアプローチの方途を提供しています。事実、ヒンドゥー文明に持続的な活力をあたえているものこそ、この大きな多様性なのです。
 今日においても、さまざまなヒンドゥー教の祭典は、あふれるばかりの活気に満ちています。また、現在、大規模な寺院建設事業がインドおよび世界の各地のヒンドゥー教徒によって進められています。だが同時に、厳格な禁欲的修行の伝統も続いておりますし、いかなる教派にも属さない人々による神への探究も相変わらず行われています。
3  池田 よくわかります。仏教においても、厭世的と見える側面と、楽観的と見える側面があるのは、同じこのインド的思索からきているのでしょう。私の仏教観は、大乗仏教の精神を究極の高みにまで結晶させた経典である『法華経』こそが仏教の真髄である、との確信と見解にもとづいています。
 『法華経』の理念から、仏教をとらえるとき、釈尊が世の人々に開こうとした教えの本質は、一人一人にあたえられた固有の人生を、積極的に肯定しつつ生きぬいていくことのできる智慧とたくましい生命の力が、人間の内なる心に厳然として実存していることを明らかにすることであったと思われます。
 しかし、この教えの本質をそのまま明かすことについては、釈尊はかなり慎重であったろうと考えられます。なぜなら、人生を積極的に肯定して生きる、ということを人々にストレートに語れば、人々が誤解する恐れがあったからです。その誤解というのは、現在、自分たちが生きている煩悩(欲望)と自己中心的な人生をそのまま肯定して、それ以上の高い人生を生きようとは思わなくなるからです。
 もし、教えの結果がこのような態度をあたえるものならば、釈尊の同時代に支配的であった快楽主義、現世主義となんら異なるものではなくなります。そこで、釈尊は、いったん、人々が生きている人生を“苦”として否定し、煩悩や享楽に振りまわされる自己中心的なあり方を徹底的に克服することを強調したといえるでしょう。そして、その否定的な教えを通して、人々が目前の人生に対して懐疑の眼をもち、より高い次元の人生へと眼を向け直すことを願いつつ、教え導いたのです。
 ところが、仏教徒の一部の人々(上座部、小乗仏教)は、この釈尊の教えを、その奥にある真意に気づかずに、文字どおり受けとめたため、仏教を厭世的・消極的なものとして展開してしまったのです。
 ついには「灰身滅智」といって、煩悩を起こすみずからの身体を灰にしてなくし、さまざまな迷いを生じる人間の智慧を滅することこそ悟りであるととらえて、結果的に、この現実の生とこれを取り巻く社会から逃避することとなったのです。
 この傾向を是正し、釈尊の本来の真意に立ち返って、仏教の真実の精神を躍動的かつ宇宙的に継承したのが大乗仏教であり、なかんずく『法華経』であったといえます。
 ここにおいては、たんに形式的に、人間の煩悩や迷いの心を断ち切るというような考え方ではなく、人間一人一人の生命の奥底に内在する仏の智慧と生命の力を引き出し顕在化することによって、煩悩のもつエネルギーを正しく生かす道を浮かび上がらせたといえるでしょう。これが、煩悩を菩提へ、生死の苦を涅槃の悟りへと転換する原理として、大乗仏教ではとくに大切にされた道です。
 それゆえに、大乗の教えは、極端な禁欲にとらわれるのではなく、かといって煩悩・欲望に翻弄され享楽に流されるというのでもなく、その“中道”を生きるあり方を積極的に切り開いたものといえますし、また、釈尊の真精神を十全に発揮しきった、人類史上における最高の宗教的精神の一つの発揚として私はとらえております。
4  カラン・シン 仏教は悲観的な宗教のように見えるが、実際にはそうではないというあなたのご見解を、広く世に知らしめていく必要があります。仏教は、人生肯定の積極的な面ではなく、つねに苦悩の要素を強調することによって人生を否定的に、いや自虐的にさえ見る傾向をもっているという印象が、広く行き渡っています。慈悲についても、神への意識が喜びに満ちて展開されたものというよりも、人生に対する否定的な反応から生まれているもののように思われているのです。
 あなたご自身のきわめて積極的なアプローチは、このような印象を取り除くうえで大いに役立つことでしょう。

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