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日蓮大聖人・池田大作

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インド宗教の両極性  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

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1  池田 私はこれまでインドを何度か訪問しましたが、いつも不思議に思うのは、インドの宗教に禁欲と快楽、否定と肯定、静粛と熱狂といった、両極端の生活態度が併存しているように見受けられることです。
 一方では、ジャイナ教の祖マハーヴィーラなどが行ったことに代表される徹底した禁欲苦行の生活態度があるかと思えば、他方では、現世の快楽に耽溺し、徹底して人生を謳歌する態度があります。
 後者については、私もよくインドで見受けたのですが、ヒンドゥー教寺院の勤行の、あの騒々しさと陽気さには驚かされました。シンバルのようなものを派手に鳴らし、太鼓をたたいて、大声で神々の名を連呼している姿は、日本の宗教には見られないものです。また、同じヒンドゥー教に見られる性愛に対する謳歌もまた、日本人のわれわれの想像を超えたものがあります。
 このように、明朗で、騒々しくて、性愛を謳歌する生活態度があるかと思えば、他方では、深刻に人生を苦ととらえ、これを嫌悪し、一人で静かに瞑想し、苦行によって現実の生から解脱することを願う生活態度があります。このように、インド文化のなかに共存している両極端は、私たち日本人にはなかなか理解しがたい謎です。
 ところで、この謎をめぐって、日本のインド専門家たちも、種々、解釈を加えています。
 たとえば、禁欲、苦行、静かな瞑想等によって苦悩の人生からの解脱をめざす生活態度は、一般にインドの諸宗教の開祖に共通に見られるところであるのに対し、現世の快楽を肯定し、騒々しい熱狂的な信仰態度を見せるのは、信者大衆のほうである。このように開祖の静粛さとその信者の騒々しさとが、対照的に見られるのがインド宗教の特質であるというのです。
 また、インドの宗教思想全般に通じていえることは、宇宙と生命への讃歌と謳歌が、その一つの特徴ではないかということです。この一点においては共通していても、宇宙と生命をめぐって、真理獲得のための修行方法やその表現法の異なりが、
 一見、両極端に見える生活態度や宗教の相違となって現れているとも考えられます。
 たとえば、人生を苦無我ととらえることは、表面的に見ると厭世的のように映りますが、裏返せば、この世を苦無常と断定しうるほど、解脱・悟りの世界が無限豊饒・歓喜の生命に満ちているということでもあります。
 それゆえに、一方の、禁欲的苦行、瞑想の生活態度と、他方の、現世を肯定し徹底的に性愛を謳歌する生活態度とは、宇宙と生命を讃嘆することの表現方法の相違とも位置づけることが可能です。この両極端がインド人の精神のなかでは、一つのものとして感得されているようにも思われるのですが、いかがでしょうか。
2  カラン・シン おっしゃるところの生の肯定と禁欲主義の二つの流れは、まさに世界のほとんどの大宗教に見られる主要な要素です。
 インド思想においては、そのもっとも初期のころから、あるいは個人的救済を求めて、ある人々はシッダールタ太子の場合のように万人の救済の道を求めて、世俗を捨て、禁欲的な隠遁生活を送ってきました。この隠遁生活への道は、今日のヒンドゥー社会にまだ残っていますが、早くも『バガヴァッドギーター』において、この二つの道を統一しようとする試みがなされました。『ギーター』の中でクリシュナは精神的覚知をもたらすものは、外面的な禁欲ではなく、内面的禁欲であると、繰り返し述べています。
 ヒンドゥー教における崇拝のさまざまな形態の違いは、じつは真理に対する探究の表現形態が異なることに由来する結果なのです。インド思想は、万人がまったく同じ道を進むことを強要しません。
 インド思想では、異なるタイプの人々の間に見られる性格や内面的傾向性の幅広い相違を認めており、人々が各自の要求にもっとも適した道を選ぶことができるように、神への広範なアプローチの方途を提供しています。事実、ヒンドゥー文明に持続的な活力をあたえているものこそ、この大きな多様性なのです。
 今日においても、さまざまなヒンドゥー教の祭典は、あふれるばかりの活気に満ちています。また、現在、大規模な寺院建設事業がインドおよび世界の各地のヒンドゥー教徒によって進められています。だが同時に、厳格な禁欲的修行の伝統も続いておりますし、いかなる教派にも属さない人々による神への探究も相変わらず行われています。
3  池田 よくわかります。仏教においても、厭世的と見える側面と、楽観的と見える側面があるのは、同じこのインド的思索からきているのでしょう。私の仏教観は、大乗仏教の精神を究極の高みにまで結晶させた経典である『法華経』こそが仏教の真髄である、との確信と見解にもとづいています。
 『法華経』の理念から、仏教をとらえるとき、釈尊が世の人々に開こうとした教えの本質は、一人一人にあたえられた固有の人生を、積極的に肯定しつつ生きぬいていくことのできる智慧とたくましい生命の力が、人間の内なる心に厳然として実存していることを明らかにすることであったと思われます。
 しかし、この教えの本質をそのまま明かすことについては、釈尊はかなり慎重であったろうと考えられます。なぜなら、人生を積極的に肯定して生きる、ということを人々にストレートに語れば、人々が誤解する恐れがあったからです。その誤解というのは、現在、自分たちが生きている煩悩(欲望)と自己中心的な人生をそのまま肯定して、それ以上の高い人生を生きようとは思わなくなるからです。
 もし、教えの結果がこのような態度をあたえるものならば、釈尊の同時代に支配的であった快楽主義、現世主義となんら異なるものではなくなります。そこで、釈尊は、いったん、人々が生きている人生を“苦”として否定し、煩悩や享楽に振りまわされる自己中心的なあり方を徹底的に克服することを強調したといえるでしょう。そして、その否定的な教えを通して、人々が目前の人生に対して懐疑の眼をもち、より高い次元の人生へと眼を向け直すことを願いつつ、教え導いたのです。
 ところが、仏教徒の一部の人々(上座部、小乗仏教)は、この釈尊の教えを、その奥にある真意に気づかずに、文字どおり受けとめたため、仏教を厭世的・消極的なものとして展開してしまったのです。
 ついには「灰身滅智」といって、煩悩を起こすみずからの身体を灰にしてなくし、さまざまな迷いを生じる人間の智慧を滅することこそ悟りであるととらえて、結果的に、この現実の生とこれを取り巻く社会から逃避することとなったのです。
 この傾向を是正し、釈尊の本来の真意に立ち返って、仏教の真実の精神を躍動的かつ宇宙的に継承したのが大乗仏教であり、なかんずく『法華経』であったといえます。
 ここにおいては、たんに形式的に、人間の煩悩や迷いの心を断ち切るというような考え方ではなく、人間一人一人の生命の奥底に内在する仏の智慧と生命の力を引き出し顕在化することによって、煩悩のもつエネルギーを正しく生かす道を浮かび上がらせたといえるでしょう。これが、煩悩を菩提へ、生死の苦を涅槃の悟りへと転換する原理として、大乗仏教ではとくに大切にされた道です。
 それゆえに、大乗の教えは、極端な禁欲にとらわれるのではなく、かといって煩悩・欲望に翻弄され享楽に流されるというのでもなく、その“中道”を生きるあり方を積極的に切り開いたものといえますし、また、釈尊の真精神を十全に発揮しきった、人類史上における最高の宗教的精神の一つの発揚として私はとらえております。
4  カラン・シン 仏教は悲観的な宗教のように見えるが、実際にはそうではないというあなたのご見解を、広く世に知らしめていく必要があります。仏教は、人生肯定の積極的な面ではなく、つねに苦悩の要素を強調することによって人生を否定的に、いや自虐的にさえ見る傾向をもっているという印象が、広く行き渡っています。慈悲についても、神への意識が喜びに満ちて展開されたものというよりも、人生に対する否定的な反応から生まれているもののように思われているのです。
 あなたご自身のきわめて積極的なアプローチは、このような印象を取り除くうえで大いに役立つことでしょう。

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