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日蓮大聖人・池田大作

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「デーヴァ」と「アスラ」  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 『リグ・ヴェーダ』以来、インドにおいて、一般に神を意味する言葉は「デーヴァ」で、その語源はラテン語の「ディウス」と同じく「輝く」ことを意味した語から作られたと聞きます。
 この神に対立する存在として、後世に「悪魔」を意味する「アスラ」(阿修羅)がいます。
 さて、私たちに非常に興味深く思えるのは、デーヴァとアスラの関係が歴史的に変遷していく、その過程にあります。
 もともと、デーヴァもアスラも、ともに『リグ・ヴェーダ』の文献に登場し、初期においては、アスラはそれほど悪い意味を付与されていなかったようです。アスラは語源的には、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダのアフラに相当し、最初は、生気・活力を意味していたようです。
 しかし、デーヴァとアスラは初めから異なった神格を表していて、前者のほうが、友愛的、温情的で親しみやすいのに対し、後者は、恐るべき呪力をもっていて不気味な性格を有していたようです。このような相違からも、のちに、アスラが「悪魔」を意味するようになったこともうなずけます。
 ところで、興味深いことに、イランでは、このデーヴァとアスラの関係がインドとは逆になっています。
 先ほどあなたも挙げられたイランの宗教改革者ゾロアスターの説教を伝えるとされる、聖典『アヴェスタ』の最古の部分である「ガーサー」においては、デーヴァに相当するダイヴァの地位が下落して、ついに「悪魔」の意味になり、アスラに相当するアフラのほうは、最高神として崇拝されるにいたっています。このように、神々の世界にも変遷の歴史があり、デーヴァとアスラの対立はその典型例であろうと思われます。
 ところで、私たちの日常感覚として、アスラは非常にとらえにくい概念ですが、インドの人たちには、ある明確なイメージとして定着しているのでしょうか。もし、現在もアスラのイメージが生きているとすれば、それはどんな形で表象されているのでしょうか。
2  カラン・シン デーヴァとアスラの関係は、たしかにたいへん興味深いものです。あなたのおっしゃるとおり、「アスラ」は元来、尊敬を表す言葉で、このことは、聖典『アヴェスタ』の伝統のなかに残っており、そこでは神自身がアフラ・マズダの名前で知られるようになりました。インドに入ってから「アスラ」という言葉の意味が逆転したことについては、まだ完全な説明がなされていません。
 プラーナの伝説においては、アスラは巨大な力と富をもち、多くの場合、デーヴァよりもはるかに強い支配者として現れます。事実、一人の際立って強力なアスラにすべてのデーヴァが打ち負かされるが、ヴィシュヌ、シヴァ、または女神に祈って介入してもらうことにより、やっとアスラを打ち負かし、デーヴァが本来の地位を取り戻すという例が数多く見られます。
 クリシュナは、『ギーター』の中でアスラの特徴は飽くなき欲望と自負心、尊大さ、色欲、残酷さに満ちていることであると明確に定め、一方、デーヴァの性格は、徳、仁愛、親切、寛大等のあらゆる良い性質を備えていると述べています。このことはヒンドゥー教の発展段階のある時点で、ある支配階級の人々がヴェーダの教えに反対したが、その後、非常に苦労してやっと彼らを屈伏させたことを示唆しているといえましょう。
 とくに興味深いのは、ヒラニヤカーシャパの事例です。彼は、神を自称し、各寺院のヴィシュヌ神像をすべて破壊しました。彼は、最後に、人獅子ナラシンハに化身したヴィシュヌに殺されますが、このナラシンハは、ヒラニヤカーシャパ自身の息子でありながら熱心なヒンドゥー教徒であったプラーラダの要請で、そこに現れたのです。このことは、アスラのなかには邪悪な者もいるが、アスラの一族全体が邪悪視されたわけではなく、プラーラダのような傑出した信者もアスラの一族から生まれていることを示唆するものでしょう。
3  池田 仏教では、デーヴァは「天」と訳されて、『リグ・ヴェーダ』に登場するインドラを代表とするデーヴァたちは諸天善神となって、仏やその教えを弘める人々を守護する役割を担うことになります。アスラのほうは、阿修羅として、善神と戦う悪神であり、とくにつねに帝釈天(インドラ)と戦う鬼神とされ、須弥山の外輪の大海の底に住むとされています。
 さらに、仏教は、「十界論」といって、人間の意識活動それ自体の根源をつかさどっている“生命”を存在論的に、低次元より高次元へと、十段階に立て分けて論じています。
 これは、インド仏教の頂点である『法華経』で明かされたものですが、中国仏教の天台大師、そしてわが日本の日蓮大聖人においてはさらに発展しました。そこでは人間の一念(一瞬の思い)に三千の世界を備えていることを徹見して、「一念三千」という法理を説き明かしているのです。
 この十界の中で、アスラは第四に、デーヴァは第六に、それぞれ位置づけられています。しかし、これらは双方とも、無常を免れない低い世界として組み込まれているわけで、そこに、仏教以前のデーヴァとアスラの対立を仏教がどうとらえているかが現れています。
4  カラン・シン 仏教の分析においてアスラとデーヴァという用語がどのように使われているか、についてのあなたのご説明は興味深いものです。ヒンドゥー教の伝統では、この二つは、それぞれ人間の精神の暗い要素と明るい要素を表すものといえます。ヒンドゥー教においては、アスラのほうは、実際には歴史的・神話的な意義しか残っていません。
 しかし人間一人一人が自己の中にアスラとデーヴァの両方の傾向性を備えているという覚知は、人間の心の本質に迫るヒンドゥー教の一つの主要な洞察です。
 ついでながら、これは最近、西洋において、ユングおよび彼の信奉者からかなりの支持を受けている考え方です。
5  池田 たしかに、博士のおっしゃるとおり、人間一人一人が自己の心の内に二つの側面、すなわち、デーヴァとアスラ、明るい要素と暗い要素、善と悪、を備えているとの洞察はすばらしいものです。
 博士がその名を挙げられたC・G・ユング、あるいはかつて私が対談したA・J・トインビー等に代表される西洋の文化人が、東洋の叡智に大きな関心を寄せているのも、人間の内なる心の世界を、東洋の精神文化が西洋にもまして徹底して説き明かしているからであると思います。
 「心」の問題は、今後の人類の盛衰を握る最大かつ重要なテーマであるだけに、同じ東洋人として、私は博士とともに、この東洋の叡智による知見を世界に訴えていく使命と責務があると、ひそかに自負しております。

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