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日蓮大聖人・池田大作

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インダス文明のアーリア人への影響  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 わが国においては、インドに対する関心は六世紀半ばの仏教伝来以来、つねに深いものがありますが、とくに近年、わが国を含めた東洋文化の源泉地として貴国の文化文物への関心が高まっています。このことは、相互の交流・発展のためには大いに歓迎・奨励すべきことであると思っています。
 しかし、そのなかで、インダス文明に対する関心はあまり聞かれないようです。インダス文明は、インド亜大陸の北西部、インダス川流域を中心に栄えた最古の都市文明であり、世界の四大古代文明の一つであることは一応知られているのですが、エジプト、メソポタミア、中国の古代文明に比して関心は薄いのが実情です。その理由として考えられるのは、インダス文明の起源・実態等についてはあまりにも不明な点が多いということがあります。
 文明の内容を知るうえで不可欠ともいえる文字の完全な解明が、インダス文明の場合は、いまだになされていない現状では無理からぬ面もあろうかと思いますが、それに加えて、一つにはヨーロッパ人や日本人がインド文化を理解するのに、かなり偏った見方が支配しているからではないかと思われます。その偏見とは、インド文化を即アーリア文化とするアーリア偏重の視点です。
 もちろん、インダス文明の遺跡の発掘が遅かったこともありますが、とくにわが国のインド研究は、ヨーロッパのインド研究の影響下に十九世紀末に始まって以来、今日まで約百年間、サンスクリット語やパーリ語に代表されるアーリア人の言語の文献のみが研究対象とされてきました。アーリア文化以前に
 栄えていたインダス文明については、遠い過去に栄え滅びてしまった、たんなる文化遺跡として扱われ、のちのアーリア人の築いた文化に大きな影響をあたえた文明として考えることは、あまりなされなかったといえます。
 しかしながら、一九二一年にこの文明の遺跡が発見されて以来、着実に続けられてきた研究によって、しだいにインダス文明の全貌が明らかになるにつれ、のちのアーリア文化との密接な関係が指摘され始めています。
 たとえば、インダス文明の遺跡から発掘された土器の文様や印章の絵にピッパル(インド菩提樹)を表すものが多いことから、のちのヒンドゥー教や仏教が菩提樹を神聖視した事実との関連が指摘されています。
 また、ヒンドゥー教の神シヴァについて、その原型がモヘンジョ・ダロから出土した印章の絵に描かれている人物にあるとする研究者も多いようです。
 さらに、このインダス文明を担った人々が現在、主に南インドに居住するドラヴィダ民族の祖先であったという可能性が、インダス文字の研究を通して強まってきていますし、そのうえ、アーリア民族はインダス文明を破壊して別の文明を打ち立てたという通説が、必ずしも妥当でないことが明らかになり始めているようです。
 つまり、アーリア文化はインダス文明とまったく無関係に築かれたのではなく、むしろ現在のドラヴィダ民族の祖先と推定されている人々が創造していたとされるインダス文明との相互交渉を通して形成されていったと考えるほうが有力になりつつあります。
 この点に関して、博士の所感をお聞きしたいと思います。
2  カラン・シン 古代史のうちでも、インダス川流域の文明が依然として未解決の、大いなる神秘の一つであることは事実です。遺跡から発見されたおびただしい数の印文の解読作業はかなり行われていますし、この分野の傑出した学者たちには、ジャワハルラル・ネルー大学から二つの権威ある奨学金が与えられていますが、広く認められる解読は、まだなされていません。この解読がなされるまで、ヴェーダ文明とインダス文明の相互関係については、われわれは推測に頼るしかないのです。
 ジョン・マーシャル卿は、インダス諸都市の没落とアーリア人の侵入には時期的に隔たりがあると主張しましたが、その後、モーティマー・ウィーラー卿をはじめとする学者たちは、ハラッパーが滅ぼされたのはアーリア人によってであり、ヴェーダの讃歌中に表れる「堅固な砦で固めた都市にたてこもる敵」とは、実際にはインダス文明の住民であったと述べています。
 建築物や芸術作品、わけても都市の設計・開発の分野における高い水準からすれば、インダス文明が幾世紀にもわたって繁栄したであろうことは明らかです。ヴェーダ文学自体に織り込まれている証拠、とりわけ戦闘や戦勝祈願に絶えず言及していることに加えて、インダス川流域の印章に刻まれた人物や装飾についてあなたが指摘しておられる点は、アーリア人とインダス川流域住民がたしかに相互に影響を及ぼしていたという見方を裏づけるもののようです。
 両勢力の衝突があったにもかかわらず、牛とか樹木といった双方に共通するいくつかのシンボルは、
 インド文明では相変わらず意味をもち続けています。加えて、母神崇拝とたぶんシヴァに結びつくと思われる神像を崇拝するという、たがいに密接な関係をもつ信仰も、ヴェーダ文明とインダス文明の間により深いつながりがあったことを示しているようです。
 インダス川流域の住民がドラヴィダ民族であったかどうかは、まだ推測の域を出ません。それらの人々は色白のアーリア人よりも明らかに色黒であったようですが、それは彼らの祖先がドラヴィダ民族であったということを立証する決め手とはなりません。
 いずれにせよ、アーリア民族の偉大な才能は、みずからの経験の枠外にあった考え方をも同化してしまう能力にありました。『リグ・ヴェーダ』に「高貴なる観念をあらゆる方面からわれらに来たらしめよ」とあるとおりです。それゆえ、もし相互作用があったとすれば、ヴェーダ文明は、インダス川流域住民の最良の特色を吸収したものと想定することができます。インド文明の輪郭が形成されていったこの魅力的な時期について、さらに多くの研究が必要であることはたしかです。

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