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日蓮大聖人・池田大作

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第二十章 最近の世界の動きに関して――…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

前後
1  池田 私たちの対談も、そろそろ終わりに近づきました。そこで、あなたの日常生活や、最近の世界の動きなどについて、うかがいたいと思います。
 初めて日本がチリの国家元首としてお迎えした方が、エイルウィンさん、あなたでした。日本を訪問なさって、日本の文化についてどうお感じになりましたか。
 エイルウィン 私はふたたび、日本を訪問しました。一度目は、共和国大統領として(一九九二年十一月)。二度目は、創価大学と池田会長の招聘でまいりました。(九四年七月)
 私は、自国とはまったく異なった現実、非常にエキゾチック(異国的)なものを目のあたりにすると覚悟してやってきました。しかし、そこで遭遇したものは、近代的に発展した姿でありました。たいへんよく発達した姿でした。本当のところ、表面的な概観に関しては東京の規模の大きさに驚きました。
 そして、人間的な視点からいえば、配慮の行きとどいていることに驚きました。歓迎の仕方一つを見ても、どこへ行っても心づかいを感じました。それは、私が思っていた以上のもの――繊細さ、親切、また、人間的なあたたかみ――これらが、私に感銘をあたえました。
 池田 では、続いてあなたの人生への姿勢について、おうかがいいたします。もっとも逆境にあったと思う時は、いつでしたか。
 エイルウィン そうですね。幸いにも私の人生には、あまり多くの逆境はありませんでした。おそらく、私の人生においてもっともつらい時期は、両親の死と関連しているでしょう。母そして父が、何年かの違いで亡くなった時です。
 私の公的な活動面でいえば、一九七三年九月に起きたクーデターで民主主義が崩壊した時です。人生において試練が少なかったこと、つらい時期が少なかったことを私は神に感謝しなければなりません。満足感あふれる人生を送ってきました。
2  人生は正義という天命を果たす挑戦の場
 池田 もっとも順境にあったと思う時は、いつでしたか。
 エイルウィン ええ。ずいぶんありましたね。個人的には結婚した時、子どもたちが生まれた時、孫たちが誕生した時です。孫は十六人になりました。私の家庭生活は、たいへんな活力をあたえてくれ、たいへん励みになり本当に楽しいものでした。
 専門分野では弁護士の資格をとった時(チリでは大学を卒業し、一~二年、実地訓練を経て弁護士になる)、チリ大学の教授に選任された時です。
 さらに、政治生活におきましては、おそらく、疑いなく順境の頂点は八九年十二月十四日にチリ共和国の大統領に選ばれた時です。
 また、当然、次の大統領にバトンを渡した時も同様です。同国民の支援を得て、満足できる形で任期を終了できました。私にとって、たいへんに勇気づけられることでした。
 要するに、私は多くの楽しい時期と数少ないつらい時期をともなう、恵まれた人生を送ってまいりました。
 池田 順境の時には、どのように自戒されていましたか。
 エイルウィン そうですね。私は人生はつねにこれからの作業、みずからの天命を果たす永続的な挑戦の場ととらえてきたといえるでしょう。私にとって、その天命とは、正義という言葉に要約されます。私の国で、そして世界で、正義のために奉仕しようとすることです。そうした天命に導かれて私は、法律を学び、弁護士という職業に就き、大学で法律を教えることになりました。しかし、同時に、その天命は私と政治を結びつけたのです。なぜならば、正義を実現化(達成)する範囲でいえば、たんに専門分野だけでは、あまりにもかぎられているということに、しばらくして気づいたからです。
 さらに、正義に関連した問題の大半が社会的な性質をおびています。ですから、自身が属する社会の生活水準を向上させようとの責任を担うことになり、生活水準の向上やその他の変革は、政治行動を通じて達成されることが分かったのです。
3  音楽を聴き、読書をする日々
 池田 よく分かりました。今は大統領を退かれましたが、毎日がご多忙かと思います。日課を教えていただけますか。
 エイルウィン 私は、早起きの人間です。朝六時に一日が始まります。その時間に新聞を取りに行き、目を通し、朝食をとった後、時には散歩をしますし、または卓球をやります。たいていは、九時ごろ、仕事机に座り、午後一時半まで仕事をします。午前中は、できるだけ会見はひかえて、一人で机に向かって仕事をしています。時には当面する課題について協力者と議論したり、彼らのサポートを必要とすることがありますので、協力者たちと会うことにしています。
 その後、昼食をとり、二十分から三十分は睡眠をとるようにしています。仕事の再開は午後三時からで、たいていは財団の本部か、または私のオフィスで会見をしたり、会合をもちます。通常は七時から八時までです。その後、八時半から九時まで訪問したり、講演したり、会議をしたり、時に懇談を行います。ですから夕食はたいてい九時ごろになります。自宅で妻と一緒にとります。食事のあと少しのあいだ、音楽を聴いたり読書をします。就寝は十一時です。
 池田 精力的に活動なさっておられますね。趣味をおたずねしたいのですが。
 エイルウィン 趣味ですか? 本当のところ、趣味はこれと言ってありません。あえて言えば、音楽を聴くのも好きですし、読書も好きです。もっと若いころは、詩の暗唱を好んで行いました。しかし、今はもうそうした習慣をやめました。年齢とともに人の記憶力は落ちてくるものです。
 池田 大統領時代と今の大きな違いは何ですか。
 エイルウィン 実際のところ、大きな違いは責任感です。なぜならば大統領の時代は自分の双肩にすべてがかかっていました。
 したがって、私の一挙手一投足の結果が自分だけにとどまらず、国に影響をおよぼすということを自覚し、私がやることすべてに熟慮を重ねなければいけませんでした。
 大統領を辞めてからは、国家の運営に直接的な責任はありません。ですから、解放されて軽くなり、重荷がとれたような気がします。したがって、やりたいことをもっと自由にやれるようになりました。つまり、あまり結果を推し量ることなく行動ができるようになりました。
4  二十世紀の教訓
 池田 お話から、大統領として祖国のために、渾身の働きをなさっていたことがよく分かります。ところで、最近の世界の状況をご覧になってなにか感じられることはございますか。
 エイルウィン これは、一人のチリ人の危惧から申し上げるのですが、太平洋戦争を前にした日本の対外政治を総括して、あなたは次のように述べておりますね。
 「かつてアジアに軍事的進出をした折の、朝鮮の人々に対する日本の側からの創氏改名の強要、国語としての日本語使用の強制などは、およそ文化破壊という以外になく、文化というものの在り方、成り立ちへの無知からきているとしか言いようがない」(一九八八年一月、第13回「SGIの日」記念提言「平和の鼓動 文化の虹」、本全集第1巻収録)
 武力が介入する、このような政治に対するあなたの叱責に対して私も同感です。
 池田 日本の戦前における歴史は、すべての面において自国の利益のみを優先させ、他国民はいうにおよばず、自国民までも一顧だにしない政策が“お国のために”との美名のもとにまかり通っていた時代でした。
 この点は、一九九五年の「SGIの日」記念提言の中で再確認し、「アジア諸国を侵略し、残虐な行為を重ねていた当時の軍国主義政府が、その国内にあっては『信教の自由』をはじめとする精神の自由を次々と踏みにじる挙に出て、国民をみずからの政策遂行の“犠牲”にして顧みなかった歴史を、私たちは決して忘れてはならない」(要旨)と述べました。
 「内なる人権侵害」を許す国は他国に対して「侵略的態度」をとる――というのは、狂気の嵐が吹き荒れた二十世紀における大きな教訓の一つといえるでしょう。
 この二つの態度は「人間の尊厳」に対する軽視や冒涜という点で、まさしく表裏一体をなすものではないのか、と私は考えるのです。
 その点、あなたはつねづね、「民主的文化」の重要性を強調しておられます。民主主義をたんなる「制度」ととらえることは、たいへんな誤りである――との鋭いご主張に、私も心から同意いたします。
 エイルウィン 日本は過去を断ち切り、平和に生きる証拠をみせてきております。
 しかしながら、あなたがご指摘のとおり、日本は「個人の権益が国家や会社、団体のために犠牲にされ、権力の前に、民衆、特に権力を監視し、異議申し立てをすべき知識人が屈し、沈黙する」(一九九〇年一月、第15回「SGIの日」記念提言「希望の世紀へ『民主』の凱歌」。本全集第2巻収録)のです。
 そのような権力が、日本を悲惨な軍国主義に導いていったのと同じような性格をもった政治のなかで、ふたたび台頭してくることはあるまいか、ということを危惧します。
 池田 民主主義は、なにより「文化」と「生き方」の問題であり、人間への敬意、たがいに思いやる心を人々が失い、人権を踏みにじる行為や嘘への怒りが衰弱するとき、民主社会は、土台からもろくも崩れていってしまうと考えます。
 その意味で近年の日本は、あなたがまさに的確に危惧されているような、「いつか来た道」に戻りつつある――すなわち、国家主義が高まりつつあるように、私には感じられてなりません。
 「二十一世紀への最大の課題は、強まる国家主義をいかに抑制していくかにある」との危惧がありますが、本質的な部分で戦前と現代が歴史的に“断絶”していないと言われる日本においては、とりわけその危険性は大きいと言えるのではないでしょうか。
 チリでの軍政下における悲劇をふまえてあなたが述べた珠玉の言葉、「嘘は暴力にいたる控室です。『真実が君臨する』ことが民主社会の基本なのです」は、日本においても万鈞の重みをもちます。民衆一人一人が、権力にだまされない賢さと嘘を見抜く眼をやしなうことが、第一の課題となると考えます。
 哲学なき政治、信念なき指導者は、結局、権力欲に動かされ、おぼれて、腐敗・堕落し、その醜い実態を隠すために弁解と嘘を重ねていく。この悪循環から日本社会が抜けでるためにも、指導者層が「権力は、民衆のための『道具』であり『手段』である」「『力』よりも『道理』を武器としてこそ民主社会である」――との、あなたが体現された基本思想を謙虚に学ぶとともに、この理念が社会全体の背骨として貫かれるようになってこそ、民主社会は真に花開いていくと強調したいと思います。
5  中国へ精神の扉を開き信義の橋を
 エイルウィン あなたは中国大陸をいくども訪問され、多くのご友人をもっていらっしゃいます。周恩来氏は、あなたのもっとも親しい友人のお一人であったと聞いております。
 池田 隣国である中国に対しては、ひとかたならぬ思いをいだき続けてきました。
 その直接の契機となった出来事の一つは、私がまだ十三歳だったころ、日本が中国大陸を戦場にして繰り広げている惨状を長兄から耳にしたときの鮮烈な思い出です。日本軍の残虐な行為に、憤りをおぼえたものです。
 また、恩師戸田第二代会長はつねづね、「日本と中国との友好がもっとも大事である」と語っていました。私は一人の日本人として、また戸田先生の弟子として、“必ずや将来、日中友好のために力を尽くしたい”と、長い間、心に深く期してきたのです。
 エイルウィン そうでしたか。
 池田 ええ。ですから一九六八年(昭和四十三年)に日中の国交正常化とともに中国の国際社会における地位回復をいち早く提唱しました。また、七二年に日中国交正常化の実現をみてから、これまで十回にわたって中国を訪問し、両国の友好交流の促進に尽力してきました。
 私の強い念願は、日本が引き起こした悲惨な戦争によって失われた友誼の絆をふたたび紡ぎなおすことにあります。そのためには、民間レベルという裾野での交流をいくえにも広げながら、たんに国交の回復という制度的な扉だけでなく、もっと深い次元で、たがいの“精神の扉”を開き、“信義の橋”を架けるしかないと考え、行動してきたつもりです。
 周恩来総理とは、二回目の訪中(一九七四年十二月)のさいに、ガンの闘病中にもかかわらず連絡をいただき病院でお会いしました。総理は目に光をたたえ、「二十世紀の最後の二十五年間が、世界にとってもっとも大事な時期です」と遺言のように語っておられました。事実、人類は大いなる激動を経験しました。その後、重責を担っておられた夫人の鄧穎超さんとも何度かお会いしました。夫人から周恩来総理の遺品もいただきました。
 エイルウィン 今日、中国大陸は世界最大の人口をかかえる国です。この地球上の人口の二〇パーセント以上が中国に住んでおります。また、中国は近年、もっとも大きな経済成長の実験を行った国の一つであり、現在の成長率を維持しながら、これからも進んで行くと予測しております。中国の将来について、どうお考えですか。
 池田 本年(一九九七年)五月に、上海を訪問しましたが、目覚ましい発展をとげる中国の姿を、訪れるたびに目のあたりにしています。無限の可能性を感じることもしばしばです。世界は今、人口やその版図の巨大さもさることながら、その伸びゆかんとする勢いを驚嘆の思いで見つめているのではないかと思います。
 私は二十五年前、トインビー博士とともに未来を展望し、“これからの地球・人類社会の統合化の過程にあって、主導的な役割を演ずるのは、間違いなく中国である”などと種々語りあったことを、思い起こします。
 エイルウィン 中国は、世界でもっとも古い文化、おそらく人間性という観点から見て、もっとも豊饒な文化をもっていると思います。
 私自身、国家元首の立場で中華人民共和国を訪問してみて、この国はすべてのことを、確実に遂行していく能力があり、新たなる国際秩序のなかで、たいへんに重要な役割を果たしていくと確信しております。中国の国際秩序における役割について、意見をお聞かせください。
6  人類の未来を信じる楽観主義に立ち
 池田 中国の数千年の歴史に脈打つエートス(気風)については、北京大学での講演(「新たな民衆像を求めて」、一九八〇年四月。本全集第1巻収録)や、中国社会科学院での講演(「二十一世紀と東アジア文明」、一九九二年十月。本全集第2巻収録)などで論じてきました。大要すれば、対立よりも調和を、分裂よりも結合を志向する「共生」のエートス、そして、個別を通して普遍を見る、現実そのものを直視し現実を再構成していく精神は、人類が未来を開いていくうえで寄与するところがまことに大きいと思います。
 つまり、前者は国際社会がめざすべき時代の潮流の核となるべき歴史の知恵であり、後者は“社会主義市場経済”という実験に見られるような、改革における漸進主義的手法の基盤となっている思想と言えましょう。加えて、香港の中国返還(一九九七年七月)にともなって始まる「一国二制度」の試みも注目されます。
 こうした中国がもつ特性というものはまさに、あなたがいみじくも指摘された「おそらく人間性という意味から見て、もっとも豊饒な文化をもっている」という事実に根ざしたものにほかならないと私も考えます。
 トインビー博士は私と対談した折、「中国こそ、世界の半分はおろか世界全体に、政治統合と平和をもたらす運命を担っている」と予見しておりました。私も、「尚文」という言葉に象徴されるような中国が長い歴史を通じて培ってきたソフト・パワーの潮流に着目しています。そして、この“人間主義的なモラルの力”こそ、今後の世界秩序を考えるうえで、一つの大きな機軸となりゆくものであると期待しています。
 さて、語らいは尽きませんが、私たちの対話もそろそろ結びとなります。最後に、二十一世紀は明るいと見てよいでしょうか。
 エイルウィン 私は生来、楽観主義です。私は人類のことを信じています。
 憂慮すべき問題はたくさんあります。そのうえ、歴史は人類の進歩の歩みは一直線ではないということを示しているのです。むしろ、向上しながらも、急降下があり、多くの障害があるのです。それでも、私は、二十一世紀を楽観的に希望をもって見ています。
 池田 よく分かりました。私も、必ず未来を明るくしていくとの確信と行動を自己に課して、楽観主義に立ちます。こうして論じあってきますと、あなたと私は、本当に多くの面で同じ方向に立っているように思います。二十一世紀の人類の明るい未来を信じて、この対話を終わりたいと思います。
 ありがとうございました。

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