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日蓮大聖人・池田大作

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第十七章 チリにみる「人生地理学」――…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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2  世界的詩人を生む自然環境
 池田 貴国のノーベル賞詩人ガブリエラ・ミストラルは、貴国の多様な自然環境を次のように語っています。
 「チリはしばしば“石の櫃”と呼ばれるが、アラビアの物語に出てくる蓋付きの大箱と同じようにこの長細い財宝を覆い隠しているのだ。だから、この国の分類はとても難しい」(『ガブリエラ・ミストラル詩集』田村さと子編訳、小沢書店)
 また、密林に囲まれた地テムコで少年時代を過ごした貴国のもう一人のノーベル賞詩人パブロ・ネルーダは、その創作の原点を密林の大自然にあるとして、こう記しています。
 「チリの森を知らない者はこの惑星を知らない。あの奥地、あのぬかるみ、あの静寂から、私は、歩き回り世界のために歌を歌いに出て来たのだ」(『ネルーダ回想録』本川誠二訳、三笠書房)
 チリは、詩をこよなく愛する「詩人の国」としても有名です。今あげたミストラルやネルーダなど、世界的詩人を生んだことでも知られています。私は、チリの民衆の詩心も、豊かな自然と決して無縁ではないと思います。
 エイルウィン 私たちチリの国民は、多面的な自然の枠組みのもと、かくも変化に満ちた周囲の状況があたえてくれる可能性を、その活動に吸収しながら形成されてきたのです。そんなふうにして、ノルテ・グランデ地方の鉱山労働者たちや、北部のアンデス高地に住む先住民族の農民や牧童たち、ノルテ・チコ地方の渓谷流域に住む牧草地の共同所有者や農民、中部地帯の田園の農民、セントロ・スル地方の製材業者や農園経営者、チロエ群島の漁師、最南地域の羊牧場などが出現したのです。
 当然のことながら、地理的環境がいちじるしく異なっているという特徴は、住民の習慣や生活様式に反映されます。たとえば、アタカマ砂漠における水を確保する日常的な活動は重要です。中部地方では収穫の労働は、色とりどりの祭りのなかで行われます。また、家畜の群れを追う姿は、セントロ・スル地方の風景に独特の味わいをあたえていますし、最南地域の凍てついたステップ(樹木のない大草原)は大規模な羊牧場地帯なのですが、その地方では寂寥感と風が人間の伴侶なのです。
 もちろん、生活は自然があたえてくれる、あるいは可能にしてくれるものに大いに順応していきますから、地理的環境は、そこに住む人々の習慣や食事や服装に影響をあたえています。
3  「人」と「地」の相関性
 池田 地理学者でもあった牧口初代会長は、気候・地理などの環境が、そこに生きる人間の気質、特徴、思想、文化などに強い影響をあたえるとして、その独自の思想を『人生地理学』の中で、展開しております。つまり「人」=人間、さらにはそのいとなみである人生と、「地」=地理、自然環境との相関性を、つぶさに論じたのです。
 また著書の中で、すべての人はそれぞれ「郷土民」であり「国民」であり、「世界民」であるとしています。そして郷土を観察する重要性を指摘し、教育の場における「郷土学」ともいうべきものの確立を提唱しています。自分たちの住む郷土の川や山、海を観察し、その歴史、人々の生活とのかかわりを知ることは、やがて敷衍して国を、世界を観察し、知ることに役立つとしたのです。
 つまり郷土から国や世界を見て、人と地の関係を知り、そして国や世界から郷土を振り返る。この往還のなかから、郷土を知り、世界を知ろうとした。グローバルな心を育みながら、たがいを理解し、国と国との信頼を醸成していくことが大事であると主張したものです。このこと自体、偏狭なナショナリズムにおちいらず、つねに世界に視点を置いていたことが分かります。
 そうした観点からおたずねするのですが、あなたは、チリの多様性に満ちた環境が、貴国の文化・社会の発展にどのような影響をあたえているとお考えなのでしょう。
 エイルウィン まず、私の考えでは多様性が国の文化的調和を乱すようになっているとは思えません。チリの全国民が、スペイン語という同じ言葉を話しますし、いくつかの特有な言い回しを除いて同じアクセントで発音しますから。そして、しっかり根づいた愛国心が、チリのあらゆる人々の絆としてあるのです。その目に見える形のものとして、国家のシンボル、国旗や国家に対する敬意や、毎年、祖国の独立を記念して行われる“国の祭典”の祝賀などがあります。
 これまでの中央集権主義的体制では、地方の住民たちは首都のサンティアゴにたえず注目することが必要でした。最近、こうした体制を改めようとの動きが出始めています。ほんの少し前まで、教育制度もいちじるしく中央に集中していて、新しい世代に画一的な思考や意見を教えこんでいました。
4  一次産品依存からの脱却 
 池田 地方分権は、日本でも大きい課題です。ところで、貴国は鉱物資源も豊富です。世界で発見されている銅資源の約四分の一が、貴国に埋蔵されています。その地下資源の豊富さから、二十世紀前半における欧米などの資本参入によって、「モノカルチャー」(単一産業)的な色彩が濃い産業構造になっていった。
 その後、技術革新や世界不況によって、危機的状況を迎えた。このことからも限定された産物に頼る単一産業主義はリスクがともなう。いち早く産業の多様化を進めることが、経済基盤の確立につながるという指摘もありますね。
 エイルウィン この課題に対する取り組みは、時代とともに変化してきました。十九世紀の中ごろまで、チリの人々は主として国の中央部に住み、基本的に農業と牧畜業で暮らしていました。
 それから以降、ご指摘のとおり、鉱業が際立って重要性をおびるようになったのです。今世紀(二十世紀)の二〇年代までチリのみが保有していた天然硝石の採鉱が、わが国の経済生活を動かしていました。
 同様に、金、銀、銅の鉱業も重要でした。しかしその後、銅がチリの主要な資源となり、主たる輸出物となったのです。チリは、長い間、世界で最大の銅の供給国でした。
 ここ数十年ほど、チリは徐々に一次産品に対する依存から抜けだしつつあります。観光事業においても、漁業、林業、果樹栽培産業においても、一次産品に対する依存からの脱却という側面がしだいに注目されるようになってきています。
5  海岸線の長短は文化に影響する
 池田 なるほど。水産業の面ではいかがですか。先ほどふれた『人生地理学』の中で、海岸線と文化との密接な関係性について、次のように述べています。
 当時、地理学者の間で言われていた「一国文化の発達と否とは、海岸線の長短と正比例す」との一面的な見方を修正し、新たに「水陸の直接点は之れ人類の繁殖に最も適する所。海岸線の延長は、即ち此人類の繁殖部を増加するが故に、此点に於て海岸線と文化とは一部密接なる関係を有す」と科学的な観察を展開し、「海岸線延長に対する良港の比こそ文化の発達と親密の関係を有す」(前掲『牧口常三郎全集』第一巻)との結論へと導いております。
 とくに貴国は、海岸線がじつに四千キロメートルも延びていますね。
 エイルウィン チリは世界でも最大の生産力を有する生態系の一つを利用できるおかげで、漁業資源の恩恵を受けています。四千キロメートルにおよぶ海岸の資源は、魚粉の製造や新鮮な水産物の輸出などに活用されています。ここでも養殖がしだいに脚光をあびるようになってきました。
 森林資源は植林を基本とし、原生林の利用を推進しつつ、経済的にはたいへんうまくいっています。農業はここ二十年間に大きな構造的転換がなされましたが、果実の輸出や一般的な農産物の生産がとりわけ発展してきました。観光産業は変化に富んだ地理がもたらしてくれる独特の美しい景観とインフラ整備の努力が結実して、かなりの成長率を達成しています。
 一次産品からの脱却をめざすテーマへ本腰を入れた国の試みは、ますます効果を発揮しつつあり、輸出製品をさらにバラエティーに富んだものとしています。これは、とりわけ科学や技術分野の発展と、労働の生産性の向上のおかげでしょう。
 池田 あなたのお話でチリという国が、さらに近くなったような気持ちがします。豊かな自然に恵まれている一方で、細長い国土、全土の三〇パーセントに満たないわずかな耕地面積など、近代工業化や通信・交通などの点において地理的不利があろうかと思います。
 日本も同様に、南北に細長い国土、狭い耕地面積など、貴国に類似した地理的不利をかかえてきました。わが国では、そうした困難を乗り越えるために、狭い有効地に多くの資本を投下する手法を採用してきました。いわゆる“集約型”がそれです。その結果、工業地域の一極集中や農地の荒廃をまねき、ひいては環境破壊をまねきました。この環境破壊については、のちに論じあいたいと思います。
 かつて講演(一九九四年七月)で、あなたは「チリのこのような地形のために、豊かな資源を採掘したり、自然の恵みを利用することは、困難であり費用がかさむ」と述べられていました。それはそれとして、貴国において、困難な自然環境と取り組んだことが、どのように人々の気質に投影されてきたかについて、おうかがいしたいと思います。
6  苛酷な自然が育む創意と冒険心
 エイルウィン 当然のことながら、国土の地理的特徴は、経済発展の面のみならず、文化や国民性の面においても影響をあたえます。ここでは、たいへん重要と考えられるチリの場合についてお話し申し上げたいと思います。わが国の偉大な作家ベンハミン・スベルカシューは、チリのことを“狂った地理”と呼んだのですが、この彼の言葉は、チリとチリの人々を理解するための基本的要素だと思われます。
 先ほどもお話しいたしましたが、チリにも多様な自然が存在しているということは、たんに気温、空気の湿度、風などの気候が異なっている、ということだけではありません。そこに住む人々の暮らし方や働き方もさまざまで、そこからチリの国民性といったものが形成されてきた、と考えます。
 池田 日本の場合は、周囲を海に囲まれていることから、俗に「島国根性」と呼ばれる閉鎖的な国民性を生んでいます。人より突出することをさける。逆に“バスに乗り遅れるな式”の、人と同列であるよう気にする、したがって足を引っ張りあう……といった風潮です。島国の中で、時として世界が見えなくなり“井の中の蛙、大海を知らず”といったことになります。
 もちろん、こうした気質は、時によってプラスに作用することもあったのですが、トランスナショナル(国際化)の時代には、まったく適合できない気質となっているのではないかと、危惧しております。その点、貴国では地理的不利が、国民の精神性に悪影響をおよぼした点はあるのでしょうか。
 エイルウィン わが国では、一般的に自然というものはかなり苦労をして初めて、その豊かさをあたえてくれるものなのです。銅、銀、金、硝石、ヨウ素の採掘は、骨の折れる作業で、多くの労働と創意が求められ、また災害に巻き込まれることもしばしばあります。しょっちゅう時化があったり、凍てついたりしているようなチリの海で漁をしたり、海産物を取ったりする行為についても同様のことがいえるでしょう。
 最南端のステップで牧畜を行うのも同様ですし、わが国では農作業さえ格別な困難をともないがちです。雨量が少ないので複雑な潅漑システムが必要ですし、土地はかなり高低差があるため、浸食されがちです。突然、気温が変わってしまったりするので枯れてしまう危険性もあります。
 このようなすべての困難が、同時にチリ人を働き者で、冒険心に富んだ宿命論者にしたのでしょう。働かなければ、生きていけないことは分かっています。多くの幸運に恵まれることを期待し、また諦観をもって不運な出来事を受け入れるのです。わが国の領土の大部分で地震が際立って多いことも、このような気質を一種独特なやり方で作りあげることに貢献したといえるでしょう。
7  “地面は揺れるもの”という共通の国柄
 池田 まさに、先ほどから申し上げている「人」と「地」の相関を追究した『人生地理学』の展開に似て、たいへん興味深い分析です。次に、今お話しの地震についてですが、貴国とわが国は、「地震国」という点でも類似点が見いだせますね。
 エイルウィン チリ人にとって、地面はしょっちゅう揺れるものなのです。チリでは地震が多く、これまでにも大災害が起きて、多くの人命や家屋、道路の基幹施設や港、学校、病院などを失いました。激震が原因で多くの都市は損傷を受けたため再建しなければなりませんでした。例をあげますと、バルパライソやサンティアゴは、ここ三百年の間に八回の大地震に耐えてきたのです。
 池田 両国は、距離的にははるかに遠いのですが、ともに環太平洋火山帯に位置しています。そして、これまでも地震に関して協力関係をたもってまいりました。
 一九六〇年のチリ地震のさい、津波によって倒壊したイースター島の「モアイ石像」は、両国の手によって再建されました。また、太平洋周辺二十六カ国で構成されている「太平洋津波警報組織国際調整グループ」(ICG/ITSU)では、チリが中心となって作ったテキストを参考にしています。日本の気象庁も、津波への関心を高めるのに役立てたいとしています。
 貴国での地震対策や研究は、どのように進められているのでしょうか。
 エイルウィン 私たちの現実の一部となっている地震の危険から、住民および住民の財産を守るためのより安全な環境を作りだすために、国は総合的な対策を推進してきました。多岐にわたる対策のなかでも、防災措置の分野では、地震発生の研究および監視、危険地帯を設定するための図面の活用、資材の耐震性に関する分析、一般的な基幹施設や住宅やビルを建設するにあたっての基準の制定、災害発生時の具体的な対策などを柱とした取り組みが行われております。
 このような総合的な対策の結果、わが国の大きな地震への対処がうまくいくようになっていることを数字が示しています。たとえば、死亡数の大きな減少です。一九三九年の地震の時には一都市のみで三万人近い犠牲者が出ましたが、一九八五年の地震では、チリの中部地方全域に被害がおよんだにもかかわらず、百五十人の死者でした。破壊家屋数も減少し、道路施設や基幹施設の被害も軽減しています。
 このような状況から判断しますと、わが国の工学は大地震により被る被害を軽減する技術面では、かなりの成功をおさめていると言えるのではないでしょうか。当然のことながら、今後さらなる努力を重ねていかねばなりませんが、以上のことを鑑みますと、ますます高層建築物が建てられるようになっていますが、高層建築物の住民のための高度な安全性は獲得されつつあるのだ、ということが分かるでしょう。
8  アンデスの山々は「挑戦」を意味する
 池田 すばらしいことです。ところで、お国を訪問し首都サンティアゴから眺めた、天空にそびえるアンデスの山々はとても印象に残りました。アンデスの山々は、チリの国民性の形成にどのような影響をあたえましたか。
 エイルウィン そうですね。アンデス山脈の存在は、私たちの自然の居住環境そのものです。ですから、たぶんアンデスの山々を生まれたときから見ていて、あまりそれについて深く考えさせられたことはありませんでした。山々の存在は私たちの平常の状態であるからです。でも、考えてみれば、チリ人にとって、とくに私の場合は、アンデスの山々は一つの挑戦を意味します。これは一般的にこの国の住民にとってもそうと言えるでしょう。
 人はつねに頂上をめざそうとします。人は高い山を見るなり、山頂に登りたいという思いが生まれるのです。また、山頂に立って眺望を楽しみたいと思います。この国の歴史で、これにちなんだ興味深いエピソードがあります。
 それは一九三〇年代の初めのことです。チリのパイロットが、飛行機で初のアンデス山脈越えをしようと決心したときのことです。彼はチリ空軍の士官でした。名前はゴドイ、そうダゴベルト・ゴドイでした。それで、たった一つのプロペラ、二つの羽根をもった単発機で、彼は飛行場から飛び立ちました。「あの雪でおおわれた山々を越えるか、さもなければ、そこが私の墓石となろう」という言葉を言い残して。偉大な挑戦でした。そして大偉業をなしとげた彼は、当時、国民的な英雄になりました。
 池田 興味深いお話です。『人生地理学』でも、高山は挑戦の象徴であり、また幽玄な雰囲気は人生を深く考えさせる場を生みだす、と論じています。
 エイルウィン そうですか。ところで、日本は定義上では島国です。海に囲まれた陸地です。その地に、長い歴史の道程のなかで、外国からの影響をあまり受けることはなく、独特の特徴をもった文明が花咲きましたね。
9  “島国”の特性は全方位“開放性”
 池田 たしかに、島国・日本では独特の文化が長い歴史を通じて育まれてきており、その独自性が強調されることが多いのは事実です。さらに昨今では、それが“異質性”として論じられることも少なくなく、話題となったハンチントン氏の論文「文明の衝突」でも、日本は一つの文明として分類されてしまったほどです。
 私は、日本で花開いた文化を愛する一人でありますが、そこにはまた中国や朝鮮半島をはじめとするアジア諸国の強い影響を受けていることは否定できない事実です。
 日本の歴史を振り返ってみれば、江戸時代の“鎖国”の状態を除いて、他国との文化交流は時代時代において続けられてきたものでした。もちろん、“鎖国”時代といえども、長崎の「出島」を通じてオランダなど西欧諸国の文化を見聞きしていたのです。その意味で、アジアへの侵略を進めた十九世紀後半からの数十年間のほうが、むしろ例外であったと言えましょう。
 その数十年間は、内面から人間性の開花をもたらす「文化」は後ろにひそみ、逆に、外的な抑圧によって人間を脅かし、支配しようという「戦争」の思想が前面に出た時代でした。第二次世界大戦の終結によって、その野望は打ちくだかれましたが、戦後は「経済力」に形を変えて、侵略的な色彩を強めてきたことは、よく指摘されるとおりです。
 エイルウィン 一方、チリは地理学的な意味では島ではありません。しかし、すでに申し上げましたように、チリは高度五、〇〇〇メートルを超す山脈と、広大な海洋と広漠たる砂漠によって隔絶された国です。
 私ども両国の文化に固有なこの“島国的”な特色が、両国が相互に感じる魅力の一部をなしているとお考えになるでしょうか。そして、この特色は両国民の関係をさらに深めるうえで、基本的な要件になりうるとお考えになりますか。
 池田 四方を地理的な障害によって隔絶されているチリが、日本と同じく“島国”的な状況にあったというあなたの指摘は、非常に興味深く適切なものと思います。
 私は、日本のとるべき進路として、世界の“平和の要”となり、人類文明に貢献しうる創造あふれる“文化の宝庫”をめざしていくべきである、と一貫して訴えてきました。
 交通手段や通信技術のめざましい進歩によって、これまで“島国”の特性とされてきた「閉鎖性」は、地理的な意味では解消されつつあると言えましょう。私は、視点を百八十度変えますと、むしろ障害は利点になってさえいると思うのです。“島国”の特性を全方位、全世界に向けて開かれた「開放性」としてとらえ直し、これを強みとする発想の転換が必要ではないかと考えます。その意味で日本社会の課題は、いわゆる偏狭で排他的な“島国根性”と徹底的に対決して、その目を全人類的視野へと開いていくことにあると思います。
 私はそれを、先にも少し紹介しましたが、ハーバード大学における講演(「ソフト・パワーの時代と哲学」、一九九一年九月)で強調しました。つまり「ハード・パワー」(軍事力や経済力)から「ソフト・パワー」(文化や知識)への機軸の移行を前提としたものでなければならないと思います。ハード・パワーによっておちいりがちな「不信」や「反目」を、ソフト・パワーによって「信頼」と「理解」に転じていく必要があるということです。
 その内実がともなった「開放性」を、“島国”である日本、そしてまたチリが十全に発揮することは、国際社会の将来を考えるにあたって、意義深いことになるのではないでしょうか。
 両国が誇る豊かな文化も、その創造のダイナミズムも、こうした確かな舵取りによって、いっそう花開くことになると私は考えます。
 エイルウィン チリの魅力について私がどのように考えるのか、というあなたの質問にお答えするのはやさしいことではありませんでした。祖国に愛情を感ずる以上、私の回答が多少主観的になってしまうからです。むしろ、あなたがチリに対して感じられる魅力に関して、ご意見をうかがいたいと存じます。
10  チリに脈打つ「人間主義」への共感
 池田 あらためて述べるまでもなく、貴国チリは、政治、経済、文化のいずれの面においても、たいへんに魅力に満ちた国であると言えましょう。
 政治面においては、中断の時期はあったものの、貴国はおよそ一世紀半にわたる民主主義の伝統をもつ国家です。経済面でも、“南米の優等生”と言われるような発展をとげております。
 また文化面では、高い教育水準を誇るだけでなく、前にもふれましたが、二人のノーベル賞詩人(ミストラル、ネルーダ)を出すなど、「詩人の国」としても名高い。
 なかでも私は、この二人の詩人に象徴される――民衆への限りない信頼や、平和と人権を求める勇気や信念など――貴国チリに脈打つ「人間主義」の気風に、深い共感の念とともに、二十一世紀への指針をみるのです。
 ネルーダは、力強く謳っております。
 「おれは 人民のために書くのだ」「いつか おれの詩の一行が/かれらの耳にとどく時がくるだろう/そのとき 素朴な労働者は 眼を挙げるだろう」「『これは 同志の詩だ』」((「大きな悦び」大島博光訳、『ネルーダ詩集』所収、角川文庫)
 またミストラルも、訴えております。
 「我が友よ! 憤怒しよう。平和主義とは誰かが信じるような甘いジャムなぞではない。憤りは私達を静かにさせておかない。激しい信念を私達にうえつける。私達が今いるその場所で“平和”を唱えよう。どこへ行こうと唱えよう。その輪がふくらむまで。……風に、海に向かって平和を唱えよう」(この詩は芳田悠三『ガブリエラ・ミストラル』〈JICC出版局〉の中で紹介されている)と。
 エイルウィン チリと日本の両国の文化が接点をもち、文化的、経済的ならびに政治的な交流を伸展させるためのあなたの貢献に、たいへん感謝しています。
 池田 恐縮です。私どもも微力ながら、両国に「友好の虹」をかけるべく努力してまいりました。民音を通じて、一九九〇年には「チリ国立民族舞踊団」の公演、また九二年、九四年と「チリ・バロッコ・アンディーノ室内管弦楽団」の公演を、日本国内で大好評のうちに行うことができました。
 そして、両国の修好通商航海条約百周年を記念する九七年には、東京富士美術館の海外交流展の一環として、貴国チリで「日本美術の名宝展」が開催されたことを、心からうれしく思っております。

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