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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 民族主義の帰趨――グローバリ…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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2  「民族」のかかえる善悪両面
 池田 自分が本当の自分であるということの確実性の感触、生きることの根拠、自分とはいったい何ものであるかという根源的な問い……。これは均質的で画一的な産業文明の時代を迎えて、いっそう切実さをましているといっても過言ではありません。
 武力やイデオロギーをもってしても消滅させることができず、間歇泉のように噴き出し、ついには抑圧者を逆に放逐してしまう「民族」という巨大なエネルギー……。私は、やはりそこに善悪両面があることを正視しなければならないと考えます。
 エイルウィン 全面的に賛成です。アイデンティティーと所属感覚としての民族主義は善ですが、排他主義と狂信におちいると悪になります。
 池田 まず良い面としては、戦後世界において、少数民族、非抑圧民族を差別と支配から解放する歴史の駆動力となってきました。今日、国際社会は「民族自決」が、原則として正当に要求しうる権利であることを認めるにいたっております。私は、この歴史の流れを決して逆流させてはならないと考えます。
 それら民族の権利は、たとえばアジア・アフリカ諸国の良心ともいうべき“バンドン精神”“平和五原則”にのっとって、徹底して擁護されるべきである、というのが年来の主張です。
 しかし一方、それは自民族の絶対化、他民族の排斥に傾斜する危険をはらんでいます。民族主義の“悪”の側面です。民族エゴの噴出・衝突がいくたの流血の惨事を生み続けている今日、「民族」の根深さや独自性のみを強調するだけでは、もはやなんの価値さえも生まれません。どんなに困難ではあっても、なんらかの形で、「民族」を乗り越えゆくグローバルかつユニバーサルな理念を模索しつつ、そこへの求心作用を強めていくことがさけて通れない課題であると思います。
 いまだ見ぬ新たなるグローバリズムの曙を開くために、今こそ人類は英知を結集すべき時を迎えているのです。
 エイルウィン 現在は、驚くほど発展したコミュニケーションのおかげで、人間は“人類の英知を結集しうる”状況にあります。しかし私はこの総合的観点というものは、長期にわたる困難な一連の処理によるものだと思うのです。
 “ナショナリズム(民族主義)は歴史のなかで長期にわたる一つの性向であり、疑いなく頻繁に度を越した激しさで将来にわたり発生し続けることでしょう”――プロウデルであればこのように言うでありましょう。このナショナリズムは、あなたが言及されている“グローバリズム”の可能性の行く手を阻むものとなりましょう。その理由は、ナショナリズムが最終的に受け入れられるかどうかは別にして、“内面的な普遍性”を困難にする強い力だろうからです。
 また同様に、現在、いわゆる西欧世界で一般的に受け入れられている過度の個人主義が、(これが他の社会の文化にどの程度、同じように浸透しているのか、私には分かりませんが)民族主義がもたらす所属感覚を、徐々に弱めている可能性があります。
 ですから、均質的で画一的な産業文明を迎えてアイデンティティーの必要性がより切実さをましている、との意見に対して、私は疑問を呈します。その反対に私は、少なくとも表面的には、ヨーロッパやアメリカ合衆国、さらにラテンアメリカでさえ、個人主義や競争がもたらす人間性の喪失によって、社会が徐々に細分化されている現象があると受けとめているのですが。
 いずれにしても今日、国際社会が「民族自決」を原則として正当に要求しうる権利であると認めるにいたったことを、私もうれしく思っておりますし、あらゆる国々の権利が、あなたがまさに適切に思い起こされた“バンドン精神”や“平和五原則”にのっとって、徹底して擁護されるべきである、とのあなたの主張に私も賛成です。
3  「閉じた心」から生まれる民族の怨念
 池田 あなたは創価大学の記念講演で、「人類の間に平和という理想を実現することは可能か」と、みずから問いかけ、「可能であると確信している」と語っておられます。しかし現実には、その平和の理想の実現を突き崩す最大の脅威の一つが、先にも若干ふれましたが、民族紛争の激化です。
 現在の民族紛争を、あたかも人類史の業のような、半ば宿命的なものとして受けとめる悲劇論もありますが、私はその根にある民族意識は後天的なものであると思っております。なぜなら民族意識の基盤をなす文化自体、人間にとって後天的なものだからです。
 政治的経済的理由もありましょうが、そこには長い歴史的背景から生じた民族の怨念というべきものがある。さらにいえば、そこにはもっと深く人間の「閉じた心」の次元にかかわる病理が横たわっております。その「閉じた心」とは、みずからを狭いカラに閉じ込めて独り善しとし、「自」と「他」の間を分断させ、民族と民族を対立させていく悪の働きであります。
 エイルウィン 民族紛争のもっとも大きな原因は、あなたが「閉じた心の病理」と呼んでいるものに根ざしている、とするあなたの意見に、私も同意いたします。多様性を恐れる人々は、異なった生き方や習慣や伝統をもつ人々を排除しようとします。自分たち以外に真実は存在しないと狂信し、他の信条を攻撃するのです。私は意見の不一致は恐れませんが、教条主義を恐れます。私は、人生の理想を確信し戦う人を恐れるのではなくて、理想の名のもとに他の人々を殺したり攻撃したりする人を恐れるのです。
 池田 民族が異なれば、必ずそこに衝突が起こり、紛争になるという決定論には私は与しません。歴史的に見ても、異なる民族同士の共存、共生の事例をあげることは容易であり、むしろ、そのほうが常態であるといっても言いすぎではないからです。
 問題は、自民族を絶対化し、他民族や少数民族を蔑視し、排斥、攻撃することにより紛争になる場合です。その極端な例は世紀末の今も、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」などという忌まわしい事態となって現れております。
 では、なぜ最近まではともかくも共存してきた異民族同士が、これほど激しく血で血を洗う抗争を繰り広げているのか。そこには、冷戦が終結しイデオロギーの重しが取れたからだ、というだけでは説明できないものがあると思います。
4  急激な国際化、奪われる民族の多様性
 エイルウィン 私にとって民族の多様性は、尊重と寛容さという価値にかかっている、という問題だけではないのです。と言いますのは、開発や近代化というものが国の天然資源を破壊してはならないように、開発と近代化はおのおのの民族的資源や文化的資源を破壊したり、壊滅させたりしてはいけないからです。これはこの世紀末を襲ってきている危機の一つです。
 通信や生活様式、消費物資、あらゆる種類の価値のグローバル化(国際化)は、世界中のいたるところで多くの民族の文化に脅威となっていることは疑いえないでしょう。この地球上には、完全な孤立をたもつことのできる奥まった場所など存在しないのです。少数民族は、この現実から逃れることはありませんが、かといってその現実を自分たちの利益にうまく生かすことができるとはかぎりません。このグローバル化の悪い影響に悩まされていることが多々あります。
 こういうことから、それぞれの民族特有の文化を保持する権利や、居住する土地の資源に関する権利、みずからの運命を自決する権利を認めるということは、今や人間にとって必要不可欠なこととなっています。
 もしこれが行われないならば、そして世界の国々が少数民族に差し迫ってくる危険を認識しないならば、私たちはおそらく大規模の民族虐殺を眼前にすることになるでしょう。もし、そうなれば世界の文化的資源は、一元化されてしまうでしょう。つまり、西洋が示してきた産業化した都市の社会という一元的な社会になってしまう、ということです。私たちは西洋文明が獲得したさまざまな利点や強みを知っていますが、またその限界をも知っています。
 選択の余地のある文化が消滅してしまうということは、生活上の異なった視点や基準にもとづいた知識や価値を、人類から奪い去ることになるでしょう。文化や民族の多様性は人類の豊かさの反映であり、私たちが尊重し保護しなければならない遺産なのです。
5  人権文化の育成、教育で差別意識を解決
 池田 私は以前、グローバリズムの時代を開くための方法論ともいうべきものとして、試論的に「内在的普遍」というメルクマール(指標)を示しました。(一九八九年一月、第14回「SGIの日」記念提言。本全集第2巻収録)
 「内在的普遍」とは、人間観に即していえば、「一人の人間の生命を徹底して掘り下げていったところに立ち現れる透徹した平等観であり、尊厳観」と言えます。内在的であるがゆえに、そこからは民族や人種等のいっさいの差別は取り払われております。私は、その裏づけとして「一人を手本として一切衆生平等」という日蓮仏法の哲理を提示いたしました。
 冷戦構造下の対決イデオロギーを背景とした、アメリカのユニバーサリズム(普遍主義)やソ連のメシアニズム(救済主義)は、畢竟、「外在的普遍」もしくは「超越的普遍」にすぎないのであり、人間そのものの尊厳性や個性を捨象することによってなりたつ理念でありました。
 たしかに、「民族」や「国家」の枠を超えているかもしれないが、その超え方そのものが外在的・超越的であった。これに対し、まず個々の人間の内面に肉薄し、そこから人類的な“共通項”を探っていくべきであるというのが、この「内在的普遍」にこめた心です。
 エイルウィン このような認識は、結局のところ、あらゆる人間の本質的な平等という認識の、不可欠かつ当然の結果なのです。あなたが提示されたあらゆる人間の本質的平等に関する日蓮仏法の哲理は、キリスト教の概念といちじるしく一致しております。キリスト教の概念によれば、私たちすべての男女は同じ父から生まれた子どもなのですから。
 正直に申し上げますと、民族主義的現象およびその重大性について、私は十分、熟考したことがありません。おそらくラテンアメリカではあまり重要視されていないからでしょう。ラテンアメリカ諸国では、イベリア人たちが支配する以前、先住民族間の種族や歴史に違いはありましたが、現在ではそのような面での本質的差異はありません。
 私たち全員が、同じ文化に属しています。ポルトガル語を話すブラジルを除いて、その他の人たちはすべてスペイン語を話し、共通あるいは類似した伝統と習慣をもっています。よしんば私たちが近隣諸国と紛争を起こしたとしても、たいていは領域をめぐる争いで、民族主義に原因があるとする根拠はなく、それどころかむしろ、その紛争が敵対者間に民族主義的感情を生みださせていると考えたほうがよいでしょう。
 池田 私は先に、民族意識は後天的なものだと申し上げました。それはある意味では、なにかによって作りあげられた虚偽意識であると言えましょう。多くの場合、近代の民族国家が形成されていく過程で、国民を一つにまとめあげていくための手段、精神的核として民族意識は意識的、意図的に作られたものです。
 したがって、基本的には教育によってその解決は可能だ、というのが私の信念です。もとよりそれは時間のかかる難事ではありますが、決して不可能なことではありません。私がかねてから国連による世界市民教育の推進の必要性を訴えているのも、そうした信念からのものです。
 エイルウィン この意味において、私は楽観的です。私は人間の能力はたえず拡大していけるものであり、人間はそれによってより人間的になれると信じております。自分の両親の時代、あるいは自分の若いころの時代を振り返ってみますと、人類が尊重、解放、寛容という点でより前進してきたことは確かです。今日、多くの人々にとって多様性は脅威というよりは、むしろ刺激となっていると私は確信しています。このような進歩は、民主主義的価値観の伝播や人権文化の育成に、大きな役割を果たしてきたのではないでしょうか。
6  少数民族の文化の尊重、保護が趨勢
 池田 社会正義の追求と、相互の連帯感の推進、そして世界の諸国との友好の絆を強めることを重視されている方の発言だけに重みがあります。
 エイルウィン 人権は、一つの創造的プロセスです。そのプロセスを通して、新しい道や展望が開けていくのです。ここ二十年ほど、居住する国の枠内で、文化や言語や宗教上のアイデンティティーを維持し強化する民族の権利が、ますます定着しつつあります。国際組織も、国家が国内の少数民族をどのようにあつかっているかについて、とくに注意をはらい始めました。
 現在ではすでに、それらの地域における差別や同化ということではなく、文化的アイデンティティーを尊重し保護することが、趨勢になっております。新しい人権として、文化的アイデンティティーを認めるということは、近年、大きな反響を呼びました。その結果、それぞれの少数民族をかかえる国々では、内政法令の修正が行われました。しかもいろいろな国では、直接的な形での法律改革にまでおよんだのです。多くの国の憲法でも、少数民族の人権が認められるようになりました。アメリカ大陸のなかで具体的に国名をあげれば、ブラジル、カナダ、メキシコ、ニカラグアなどをあげることができるでしょう。
 池田 日本においても、先住民であるアイヌの人々の優れた文化を尊重し、後世に残すことが大事であると、認識されてきております。
7  社会を豊かにする先住民との共存
 エイルウィン チリも、そのような流れとは無関係ではありませんでした。私の大統領時代には、チリの先住民族の保護、振興、開発に関する法令を定めて、「先住民開発公社」を創設しました。このようにしてチリ国家は、先住民族のおのおのを特徴づけている固有の文化を認め、それらの文化を保護し、育成し、発展させるための手段を講じたのです。
 国内外のこのような傾向が、私を楽観的にさせるのでしょう。民主主義的価値観や人権文化が普及する度合いに応じて、人類全体、とりわけ国家は自然の事実として民族の多様性を認めていくでしょうし、紛争の原因となるよりも、その社会を豊かにする多元論の要素となるでしょう。
 池田 分かりました。貴国では、スペイン系人種がおよそ七五パーセント、他のヨーロッパ系が二〇パーセント、そして五パーセントの先住民がいる、とうかがっていますが。
 エイルウィン チリについていえば、あなたが示された数字は正しいのですが、スペイン系人種の七五パーセントの大部分、およびヨーロッパ系人種の多数の人々が、先住民族の血をかなり受け継いでいることを明らかにすることが必要だと思われます。チリ国民はおそらく、全ラテンアメリカ諸国のなかでもっとも人種混合を行ってきた民族でしょう。チリ人のほとんどが、十九世紀以前にやってきた移住者たちの子孫であり、なんらかの割合で先住民の血を引いているのです。
 このようなチリの人種混合という現実は、ヨーロッパからの移住者が、長い間、植民地を堅固なものとするために、先住民のアラウカノ族と戦おうとしてやってきた兵士たちであったとの事実を示すことによって、納得いただけるのではないでしょうか。戦闘と平和が繰り返された、長い闘争の時代はほぼ三世紀におよび、その間にスペイン人を父とし、先住民あるいは混合の女性を母とする子どもたちの誕生が一般的となって、かなり同質の種族が新たに生まれることとなったのです。
8  第十五章 教育向上への情熱――青年は可能性と希望の象徴
9  池田 戦後日本の飛躍的な経済発展の要因に、よく教育水準の向上があげられます。経済発展については光と影の部分があり、今後の日本の進むべき方向をどう舵取っていくかには、さまざまな課題があります。
 それはそれとして、教育の重要性はいうまでもありません。貴国もラテンアメリカ諸国で、屈指の教育水準の高さで知られています。ここでは教育観について、体験、エピソードなどを交えお聞きしたいと思います。
 エイルウィン 私が教育問題に関心をいだくようになったのは若いころで、親譲りだと思います。私の父は法律を学ぶ以前、教師をしていました。私が学生だったころ、父は当時住んでいた村の刑務所の囚人たちに、歴史を教えていました。私は大学生になってから、通常の学習を続けることができなかった成人たちに文化を普及させるための、中等教育を行っている夜間学校にかかわりました。
 教育者の職業に就いてからは、チリの中等あるいは中級教育のおもな施設である国立研究所で、大学の講座と同様に政治経済と公教育を講義し、私の大半の時間を教育者としての職務に費やしました。
 あらゆる社会やあらゆる文化のなかには、制度上の表現であれ形式的表現であれ、その社会が望ましいと考える価値観を統合した教育上の理想が存在します。現在も約九〇パーセントの就学率であるチリの公教育は、十七世紀末に起こった西欧の民主主義革命の賜物なのです。教育の大規模な拡大は、市民の育成、主権在民という基礎を形成する必要性に応えたものです。
10  “青年の力”が社会の停滞を打ち破る
 池田 刑務所での歴史教育といい夜間学校といい、尊いご活動ですね。教育の原点は、そうした活動のなかにこそ見いだされるのでしょう。あなたの教育への信念も、少年時代の体験や学問に励んだ経験を通じて、ご自身の人格、人間性のなかに深く育まれてきたものなのでしょう。
 エイルウィン そのように言えるかもしれません。教育を通じて理性を育むことにより、自由の行使、自主・独立の発展、判断能力、自然界や文化に対する理解が可能になってきます。この民主主義の理想は、ギリシャ的理想や、キリスト教、ヒューマニズムから基本原理を取り入れたものです。チリの西欧的な教育の伝統はまた、自然の特徴を知り、自然の変化を可能とする科学技術的知識の進歩とも強く結びついています。したがって私たちの教育は、初期からヒューマニズム的で、科学的な特徴を明確にしています。
 池田 チリは“南米の教育立国”です。あなたは、一九九一年六月、教育制定法発布の式典で述べられました。
 「教育活動は、国家の将来を左右するものである。とくに青年がどう人生に取り組んでいくか、生きていくうえで直面する、さまざまな困難をいかに打開するか、今日、教育はますますその重要性を増している」
 さらに、「諸国民にとって、青年は『可能性』と『希望』の象徴である。青年の力なくしては、社会は停滞の危機にさらされる」
 「将来、より良いチリを望むならば、祖国の人々に奉仕することを望むならば、次の世代が、希望と楽観主義と信念と、成長するための実力をもって人生に直面する条件を整えなければならない」……。
 あなたの、並々ならぬ教育への情熱と決意をこめた言葉は、私の心に深く響くのです。
11  教師は学ぶ大切さを生徒に教え、自ら学べ
 エイルウィン チリでは強力で重要な教育の伝統を有してきました。それはわが国における民主主義の発展と不可分なのです。ラテンアメリカのなかでチリは、つねに高い教育指数を誇ってきました。ヨーロッパの民衆識字教育の普及は、ほぼ四世紀にもおよぶ長い行程を経て達成されました。私たちが一世紀半の間に達成できたことを強調することは、重要だと思われます。そのおかげで今日、私たちが取り組むべき問題は、教育の外面的なものではなく、質や妥当性になっているのです。
 これは、あらゆる国々を悩ましている問題です。教育への投資は未来の鍵であると確信しても、教育システムが今日の知識革命に適応しかねているのです。
 学び方を教えるのではなく“事物”を教える、つまり一種の暗記主義的で百科全書的カリキュラムが、時代遅れの状況になっていることも承知しています。変化の速度に合わせ、今日の学校は“学ぶことを教えること”に、生徒たちは“学ぶことを学ぶこと”に専念すべきです。
 池田 重要なご指摘です。「創価教育学」の創始者・牧口初代会長の信念は、「学校」のために「児童」があるのではない、「児童」のために「学校」がある、でした。ですから、すべてに管理・統制をはかろうとする文部官僚からは、つねに圧力が加えられていましたが、一歩も引きませんでした。
 「教師はまず自分が勉強しなければならない」と繰り返し言われ、教師の「自己教育」の必要性をいつも強調していました。教師こそが、子どもたちにとっての「最大の教育環境」なのです。まずみずからが不断に学び、その姿を通して“学ぶことを教えること”です。そうするならば、生徒たちは“学ぶことを学ぶ”大切さを自得していくことでしょう。教育の大切さは、いくら強調してもしすぎるものではありません。
 エイルウィン そのとおりです。チリではここ数十年に教育の面で、後退してしまっていました。信頼できる調査によると、一九九〇年の教育費が一九六〇年よりも減少している数少ない国の一つがわが国である、と指摘するだけで十分だと思われます。
 私が政権に就いたとき、状況は深刻でした。健全で均衡のとれた公共支出操作の範囲で教育費を増額しなければならないことは十分承知していました。八〇年代におけるわが国の教育費は、国内総生産額の四・四一パーセントから二・六一パーセントへと徐々に落ちていきました。
 私たちはその下降傾向を元に戻して、一九九三年に国内総生産額の三パーセントに引き上げることができました。十分ではありませんでしたが、回復過程の端緒となり、私の後任政権であるフレイ・ルイス・タグレ現大統領が引き継いで最優先課題としました。彼の任期終了時には、国内総生産額の七パーセントにまで教育費を引き上げることを目標にしています。この分野に関して、私たちは日本から多くのことを学ぶことができるでしょう。
12  高い報酬水準と、強い聖業への自覚
 池田 教育への努力は、速効性というより、十年、二十年先に開花するものだけに、強力なリーダーシップが求められるものです。また、長い目で見れば教育に力を傾注することこそ、一国の安定と繁栄を開くための直道です。
 エイルウィン 同感です。教育システムの有効性のためには、教員スタッフが学生や父母たちを主とする社会集団の大きな信望を獲得していることが重要です。それはたんに教員の教育的能力や知識に対する信望だけではなく、学生たちにあたえるモラル的影響力への信望が、とりわけ大切です。
 このためには、教育者たちが上質の教育を受けていることが必要であると同時に、有能な若者たちを教育という教職に就かせ、相応の生活態度をたもつことを可能にするだけの魅力ある報酬水準が必要です。
 私が幼少年期のころ、教師たちは薄給でしたが、社会の信望を得ていて、また影響力を有していました。私が政権に就いた一九九〇年、教師たちの報酬が一般労働者の最低賃金の水準にまで落ち込んでいることが分かりました。私の時代も現政権も、このような条件を優先的に改めてきました。教師たちの給与はかなり上がりましたが、医師やエンジニアや弁護士の給与などより、まだかなり低い状態です。この問題については、まだまだ改善の余地があります。
 池田 教師に対する相応の報酬が必要なことは、そのとおりと思います。一方で、教師には、サラリーマン化をみずから拒否して、教育は聖業であるとの強い自覚に立つことが求められると思います。
 牧口会長は、『創価教育学体系』で、こう述べています。「一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思うと、心は狂せんばかりで、区々(=つまらない)たる毀誉褒貶の如きは余の眼中にはない」(第一巻「緒言」、『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社)――。
 社会が乱れているときは学校が病んでいます。家庭が崩れつつあるのです。社会が本来もつ教育力も弱まっているのです。そのようなときこそ、教師が教育に誇りと自信を取り戻し、教育の現場を生き生きとさせていくことが肝心です。日本でも教育問題が焦点になっています。
13  「全人性」の探究こそ教育の眼目
 エイルウィン チリの教育システムの問題は、たんに財政的なものばかりではありません。教育内容も同様で、初等中等教育段階で国家負担による無償教育援助を確立し、就学人口の大部分に対応しなければなりません。そのためには教育システムの質や公正さを高めるための特別プログラムを組むことが必要となりました。これは現実に発展段階にあるわが国が取り組んでいる最大の挑戦だと思います。もし私たちがチリの子どもや若者たちに、ますます複雑化する国際的状況に対処するだけの教育を行えないなら、わが国は先進世界の一員にはなれないでしょう。
 教育への挑戦はたんに国際市場においてチリの競争力を確実にするということだけではなく、チリ社会における生活の構成や質、民主主義体制の堅固さや有効性にかかわる問題でもあります。
 公教育に関する民主主義的理想は、自由で責任感あふれ、団結心に富み、正義の使命を果たす市民を育成するという意味で十分な効力を発揮することを主張しています。個人主義や競争という価値観が、公共奉仕や団結や正義の遂行を妨げてはなりません。
 池田 よく理解できます。以前、私は教育について提言を行い、「全体性」「創造性」「国際性」という、教育のめざすべき三つの指標を提示しました。
 それらは、人格や人間性のトータルな開花、すなわち「全人性」の探求こそ、教育の眼目であるとの立場から示したものです。
 一つの分野を深く究めることも大事ですが、そのことで他の分野に目がとどかなくなり、トータルに物事を把握できないのでは困ります。つまり絶えず全体に視点を置き、そこから方向性を汲みとれる人であってほしい。また、たんなる知識の切り売りではなく、知識の詰め込みでもなく、知識を生かす創造的な知恵を育む教育が、時代の激変をまえに求められています。さらにグローバル化する時代に、国際性を涵養せずに、教育の使命を果たせたとは言えないでしょう。
 ともあれ一人の「人間」の可能性、一個の「人格」の力が、どれほど偉大であるか。このことを発見し、証明していく「聖業」が、教育です。
14  「所有する」ことより「存在すること」
 エイルウィン もし現代の教育が生産者や消費者だけを形成しており、総合的な人間を形成していないなら、私たちはカオス(混乱)を生みだしているのかもしれません。
 このことについて、私は楽観主義者です。教育の重要性に関しては、文化の人間化や全体的発展、価値観の形成の媒体として世界的に進歩的な意識が存在していると私は思います。ともあれ、資材を自由にあつかえ、快適さや娯楽を享受する力によって人間を序列化する消費文化が日ごとに普及しつつある世界では、人間の本質的尊厳に価値を置き、“所有すること”よりも“存在すること”を優先的に認める文化を広めることが急務と思われます。
 池田 楽観主義でいくことは大切です。楽観主義は、物事を実現しようとの意志の強さ、信念、確信の強さからもたらされるものです。また、“所有すること”よりも“存在すること”を優先的に認める文化を育むためには、おっしゃるとおり、人間の本質的尊厳を絶対の価値として打ち立てる必要があるでしょう。
 私たちの仏法は、まさにそのことに深い関心をはらったものです。たとえば「如我等無異」(法華経一三〇㌻)という仏の崇高な願いがあります。「我が如く等しくして異なること無からしめん」というのが、仏の衆生救済の大願なのです。つまり仏と同じ境涯に立たせようとするのです。
 先ほどふれた全人性ということですが、たとえば他者への思いやりとか、足るを知った者の落ち着きや余裕とか、年配の人を敬うとか、古来、人間が徳と呼んできたものを手にすること、とも言えるでしょう。
 それはまた、物事の奥に敬虔な宇宙の律動を感じとれる人格、行動の是非に道徳的背景を問える人間的な幅ともいえるでしょう。
 私は、ハーバード大学での一回目の講演(一九九一年九月、「ソフト・パワーの時代と哲学」)でも強調したのですが、二十一世紀を切り開く鍵は、なんといっても「ソフト・パワー」(文化や知識)をどのように滋養していくかにかかっていると思います。その最たるソフト・パワーは、人間そのものですし、それも“外発的”というより“内発的”力です。そして、広い意味で、教育こそ、“内発の力”を汲みだしゆく王道と言ってよいでしょう。
15  教育のめざすべき「三つの提言」
 エイルウィン 今日の教育がめざすべきは全体性、創造性、国際性であるという、あなたの提示されるメルクマール(指標)に私は心から同意いたします。その目標を達成するために、あなたはどのような方法を提言されるのでしょうか。
 池田 まず全体性についてですが、先ほども若干ふれましたが、「知識の個別性」が今の教育の欠陥の一つとなっています。一見して物知りのようでありながら、知識の独り歩きや肥大化は、人間の幸福と生きていく価値にはつながりません。必要なのは、「知識の個別性」を「知恵の全体性」へつなげていく努力です。
 そのさいに必要なのは、自分だけよければという、小さなエゴイストではなく、「知恵の全体性」を問いながら、自分の生き方を他者の幸福へと連動させ、大きく人類の運命をも考えていく「全体人間」を育成する教育です。
 次に「創造性」ですが、個性の開花と表裏をなしていると思います。画一的な、一方通行の教育は、個性の開花をもたらさないのみか、創造性さえも枯渇させてしまいます。教育者は、青少年一人一人の可能性を信じ、あたたかく育み、粘り強く励まし続ける以外にありません。そこから「創造性」が育まれるはずです。私がいつも教育者の皆さんに「勇気あるかかわり」「慈愛あふれる励まし」をお願いしているのもその意図からです。
 「国際性」については、やはり「文化立国」をめざすことだと信じます。キッシンジャー博士とも語りあったのですが、史上、「経済大国」が「軍事大国」にならなかった例はないといいます。しかし、これからの人類の進路を展望すれば、「文化立国」しか道がないことは確かでしょう。また「教育立国」とも言えるでしょう。このことをしっかりと念頭に置いた人格こそ、国際人たりうるのです。
 私自身、世界の各国を訪問し、文化・教育の交流を推進するのはそのためです。私は、民間レベルでこそ、おたがいの胸襟を開いた深い次元での国際交流が可能であると思っております。
 私の創立した大学等で、研修などのために海外へ行く機会を提供しているのもそのためです。
16  大学はすべて「学生」のために
 エイルウィン 私が創価大学を訪問(九四年七月)したさい、学生たちの関心の持ち方に、とても深い印象を受けました。全人性の回復という課題に関する、あなたの経験を通しての基本的結論はどのようなものでしょうか?
 池田 あなたの創価大学への訪問と講演は、学生たちに多大な感銘と深い印象をあたえました。あらためて感謝申し上げます。
 大学は「教授」のためにあるのではなく、すべて「学生」のためにあるのです。これを大学運営のいっさいの大前提にしています。
 創価教育の根幹を一言で言えば、「青は藍より出でて藍より青し」です。つまり自分よりもあとに続く人を立派に偉くしていくという決心です。学生諸君は敏感です。反応もまた即座にあります。私自身、学生諸君が喜ぶなら何でもしよう、と行動してきました。学校教育とは学校で学んだすべてを忘れたあとに、なお残るものである――と言われます。人格と人格の打ちあい、触発作業こそ、教育の場における真骨頂ではないでしょうか。
 エイルウィン 池田博士、あなたは創価大学、創価女子短大、創価中学・高校、創価小学校、創価幼稚園、民音、東洋哲学研究所、東京富士美術館等、これまで数多くの文化、および教育施設を創立してきておられます。このことは、あなたが、新しい教育を発展させるために、どれほどの努力をそそがれ、どれほどの決意をかたむけられたか、ということを物語っております。
 出版物を拝見しますと、各施設が果たすべき使命やモットーから、これらの機関で行われる教育は、平和精神を醸成するためのものであることが理解できます。
 池田 ご理解を深く感謝いたします。社会的存在である人間は一般に、自分がいずれかの集団に属しているという「われわれ意識」をもって生活していますが、こうした帰属意識が偏狭な形で極端に限定されることによって引き起こされる悲劇が人種差別であり、民族紛争であると言えるでしょう。
 そこでは本来、人間を豊かにすべき役割を担うはずの「文化」さえ、たんなる“個人の帰属性”の別名と化し、人々を人種や民族といった要素に還元させる道具となりかねません。“外の人々”に対し排他的な行動をとることを正当化させてしまう働きをなすのです。
 そんな人々の心の奥底にひそむ病理を、心理学者のフロイトは“わずかな相違にもとづくナルシシズム(自己陶酔)”と名づけておりますが、人々がまさにその「わずかな相違」にこだわるかぎり、対立が対立を呼ぶという悪循環を断つことは決して容易ではないでしょう。
 エイルウィン あなたは、平和を獲得するためには文化交流により、より緊密なかつ調和のある関係を首尾一貫して推進する共感の弦を奏でゆき、異なる民族の心の深さを獲得すべきであると主張しておられます。
 池田 美しい表現で、私の意図するところを語ってくださり、感謝します。冷戦終結によって、国際社会の行方が不透明になるにつれて、ハンチントン教授による「文明の衝突」論などが脚光をあびました。異なる文化的背景に対する理解の必要性が唱えられているのですが、もう一重深い視点に立って、宿命ともいうべき人類のアポリア(難問)から抜けでる術を見いださねばならないと考えます。
 つまり、たんなる“異質への理解”という段階を超えて、さらにもう一歩深く、同じ「人間存在」という次元に立ち返ったうえでの「他者性の尊重」が確立されるべきでありましょう。
 エイルウィン 世界の民族の間に最善の理解を育むために教育が有すべき特質とはなんであるとお考えでしょうか。
17  “太平洋通りの隣人”意識育てる文化交流
 池田 私は、こうした人類史の悲劇の流転をとどめ、「対立」から「協調」への時流を不可逆的なものにするためには、「教育」の果たすべき役割は非常に大きいと思います。民族といい、文化といい、個別なるもの同士が接触し、より普遍的なるものへと“昇華”していく回路は、やはり、対話を含む広い意味での「教育」による以外にない、というのが私の見解です。
 ハーバード大学のヌール・ヤーマン教授は、私との語らいで「教育によってこそ、人は、背景の違いを超えて、『共通』のものを発見する。何かの“流派”に所属しているだけの状態から脱して、人間という次元で考えられるようになる」(一九九二年三月)と述べておりますが、まさに至言と言えましょう。
 私は、たがいの相違を超えたより深い人間の真理を探究しあう姿勢、そしてその源泉となるヒューマニズムあふれる心根を育んでいくことに、平和に果たす「教育」の使命と責務があると思うのです。またそれがひいては、世界を結ぶ“靭帯”ともいうべき役割を果たしていくはずです。
 エイルウィン これほど隔たった起源をもつ文化とこれほど異なる言語をもつ日本とラテンアメリカは、いかにすれば、もっと接近することができるのでしょうか。
 池田 教育交流や文化交流を積極的に推し進めることで、日本とラテンアメリカの相互理解を深めていくべきでしょう。そして交流を重ねるなかで、“太平洋通りの隣人”として、また同じ“地球社会の住人”としての共通意識を涵養することになります。なによりも戦争を抑止する歯止めとなり、絶え間ない生存競争から抜けだし、必ずや真の共存共栄の世界を築く礎になっていくと私は考えます。理解を深めていくべきでしょう。そして交流を重ねるなかで、“太平洋通りの隣人”として、また同じ“地球社会の住人”としての共通意識を涵養することになります。なによりも戦争を抑止する歯止めとなり、絶え間ない生存競争から抜けだし、必ずや真の共存共栄の世界を築く礎になっていくと私は考えます。     

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