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日蓮大聖人・池田大作

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第十三章 核廃絶と平和への道――ラテン…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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6  “すぐ信じ”“すぐに疑う”現代人の病理
 池田 たがいに理解しあうために、私は二十世紀精神の末路として根底的に問題にしなければならないのは、「言葉」に対する過信、そして不信だと考えています。
 フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは、こう述べています。
 「プルードン(Proud’hon)は『知識人らは軽薄だ』といったが、それは悲しいことに、おそろしく真実をうがった言葉である。そこには深い理由があるのであって、知識人は労働者や農夫のように抵抗のある現実と取組むかわりに言葉で働くのであり、紙はすべてを受けつけてくれるからである。哲学者はこの危険を絶えず意識しなければならない。プルードンは『人民はまじめだ』と附言した。これは不幸にして、今日ではもはや真実ではない。――新聞やラジオがほとんど不可避的に人々を頽廃せしめているからである」(『人間、この問われるもの』訳者代表・小島威彦、『マルセル著作集』6、春秋社)
 「抵抗ある現実」に向きあおうとしない知識人の“軽信”は、「信」としての内実の乏しさゆえに、つねに「狂信」への危険性をはらみます。この“軽信”が、マスメディアの発達によって広く人々の心をおおう現代的な病理となってしまいました。なにごとも“すぐに信じ”“すぐに疑う”――故郷を喪失して彷徨する現代人の姿です。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、こうした大衆社会の病理について、『大衆の反逆』で、こう述べています。
 「自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であるという(中略)この自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使せしめる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう」(神吉敬三訳、角川文庫)
 現代の大衆社会とは、要するに「軽信」「慢心」「自己中心性」「非寛容」が蔓延する分断された「閉じた心」の社会であるのです。マルセル、オルテガの洞察は、この「閉じた心」が、他者との対話の場を奪い去り、それが深い文明の病理となっていることへの憂慮の表明です。
  
 対話は共存関係を築くかけがえのない手段
 エイルウィン おっしゃることは、よく理解できます。チリはここ三十年ほどの間に、戦争と平和の論理という二つの行程を経験しました。チリの人々は三つのグループに分かれ、おのおのが独自の国家プロジェクトや極端なイデオロギーや非妥協性や暴力主義を掲げて、徐々に共存を圧倒するようになり、私たちの諸制度を破壊するにいたったのです。当時、チリ政治は途方もないほど先鋭化してしまい、一人一人は自分の視点を守ることにのみ心を奪われ、仮想の敵と理解しあったり、合意するためのあらゆる可能性を阻んでいたのです。
 このように痛ましい経験を経て、私たちチリ人はかたくなな姿勢に閉じこもることなく、いかなる暴力も放棄し、理性にもとづいて行動し、合意を求めるという態度を育成してきました。統治者としての私の大きな熱望は、チリがふたたびチリ人すべてのための国になることでした。この私の熱望は、わが国民の圧倒的大多数に支援されたと私は信じています。そしてこれは私たちすべてのチリ人にとって誇るべき、かつ満足すべきことであると思っています。
 チリは今日、さまざまな体制やイデオロギー、政党、社会組織などが共存している、多様な社会です。おのおのの権利が尊重され、自由に展開されるためには、共存の基本的原則に関する総合的理解が必要とされます。それは社会を平均化することを意味していません。
 その反対に、当然の意見の相違やさまざまな理想や利益の当然の競いあいが、人間同士の排除あるいは支配に導くことのないような合意を見いだすことを意味しているのです。人々の自由や創造性を制限することではないのです。自由と創造性を全国民の財産として、つまり私たち全員を保護し、大切にあつかわなければならないもののように受け入れることを意味します。そのためには、人々の間から戦争の論理を排除しなければならないのです。
 近代国家の重要な課題はまさしく、人間の平和的共存のための合意を社会的につくりだすことであると、私は政治家の立場から考えております。国家はさまざまな分野の市民に働きかけて、彼らの不確定な意見の相違や問題について討論させ、その討論の結果として生ずる協議や合意を合法化しなければなりません。つまり、国家は人間の創造性や自由や平和に対するチューター(助言者)的役割を遂行すべきである、と私は考えているのです。
 あなたは、私がどれほど意見の交換や対話を信頼しているのか、ということを質問なさいました。私ははっきり申し上げたいと思います。対話は人間同士のあいだに創造的かつ平和な共存関係を築くためにかけがえのない手段である――と。
 池田 心から賛同いたします。私が先に述べた「対話」とは、もちろん、たんなる「話しあい」を意味するのではありません。たがいの存在を賭けた信念と信念の応酬であり、死をも覚悟した精神と精神のぶつかりあいであります。
 人間とは、対話のなかで初めて自己を知り、他者を知る「人間」へと鍛えられていくのです。二十世紀のアメリカ最大のジャーナリストと言われるW・リップマンが、より良き世論形成のため「ソクラテス流の対話」「ソクラテス的人間」の必要を再三、論じたことを思い起こします。
 私は、時として対立を生み、差異を際立たせたとしても、対話こそ「閉じた心」を開かせ、人々の心を結んでいく唯一の手段であると考えています。                    

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