Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第十三章 核廃絶と平和への道――ラテン…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

前後
2  ラテンアメリカでの核兵器の追放
 エイルウィン ラテンアメリカはこの意味で、世界中でもっとも進んでいる地域と言えましょう。あらゆる核兵器の追放は、この圏内において一つの現実となっています。
 この現実は、核兵器の使用が絶対悪であるとの認識からのみ生まれたのではなくて、むしろラテンアメリカで人々の心に深く根を下ろしている感情、つまり共同の運命を担う国民であるということ、そしておのおのの国の連帯のみが進歩への道を保証するものであるとの確信によるものなのです。ラテンアメリカの非核化はいかなる国も、この地域内の他国によって主権が侵される恐れがないと感じていることの帰結です。
 私の考えでは、平和と安全は国民が連帯感をいだき始めたときに到達できるものであり、それはまた共同の未来を有しているとの認識にもとづいているものでもあります。核兵器の廃棄というものは、諸国民の間に漂っている不安や恐れが消滅したとき、つまり、政府間における不安や恐れが消滅したときに始まるのです。
 池田 おっしゃるとおり、ラテンアメリカは、あらゆる核兵器の追放では、もっとも進んでいる地域です。またコスタリカのように軍備を廃止した国さえあることは、「戦争のない世界」という今後の国際社会の方向性を考えるうえで、きわめて示唆に満ちたものがあると言えましょう。
 エイルウィン 私は、あなたの平和に対する戦いに共感しますし、また敬意をいだいております。平和の推進はあなたの最大の関心であり、ご心労の一つであり、青年が新しい秩序の糧になりうるという期待をいだいておられます。
 それは、あなたの言葉、“私どもの組織は、戦争のない世界を構築し、同時に、世界の有能な青年に新しい秩序の創造をゆだねるために、戦い続けていくのである。
 この時にあたり、私どもは、世界の民が長い間、憧憬してきた目的をもって、恒久平和に向かって勇気ある第一歩を踏みだすべきであります”と雄弁に述べておられますね。
 貴国日本は、米国、旧ソ連、欧州と同様に、近年の世界大戦に関して、いまだに鮮明な思い出をもっておられます。ラテンアメリカは、これらの紛争に積極的にはかかわってきておりません。私どもの紛争も焦点をあてられはしましたが、短期間でした。チリは、近隣諸国と百年以上も平和な状態をたもっております。
3  平和創造への二つのポイント
 池田 ラテンアメリカ諸国は、二十世紀に行われた二度の世界大戦について、他の地域でみられるほどの深い関与はしませんでした。それだけではなく、貴国のように長く周囲と平和な状態をたもっている国々が存在することは、特筆すべきことです。
 そこで、今日の世界において「平和」の問題を論ずるにあたって、ふまえておくべき二つのポイントを述べさせていただきたいと思います。
 一つは、「平和」といっても、たんに国家間の戦争に限定されるものではなく、環境破壊や貧困、人権侵害や難民といった、より広義の意味で考えていくべきであるということです。いうなれば、「ヒューマン・セキュリティー(人間の安全保障)」という観点から、平和創造の途を模索すべき時代に入ってきているという点です。
 もう一点は、その平和創造に取り組むにあたって、従来のように国家が第一義的な役割を果たすだけですむ段階は終わったと思います。NGO(非政府組織)をはじめとする市民がより積極的な役割を担う段階へ、つまり、民衆が時代変革の主導権をもつべきとの意識が世界的に高まりをみせているということです。
 エイルウィン そうですね。一方で、わが国のもっとも痛ましい紛争は、同一祖国の同胞の間で紛争が起こり、共同体として、共通の視野を喪失し、力が支配する武力体制に屈従してしまったことです。私どもの反発は国家支配に対抗するものであり、人権が侵害された近年の過去を明確に意識しております。
 大規模な戦争経験のないラテンアメリカの青年に対して、あなたはどのようなメッセージを贈られますでしょうか。
4  「人間の尊厳の危機」には連帯して戦え!
 池田 青年の果たすべき役割を考えるうえで、“戦争経験がない”ということ自体は利点であろうと思います。むしろ私は、貴国チリのように、軍事独裁政権のもとで弾圧に屈することなく、また武力的手段に訴えることなく、あなたの優れたリーダーシップのもと、軍政から民政への移行を勝ち取ったというプロセスこそ重要であり、広義の意味での「平和」という問題を考えるにあたって、肝要となるポイントではないかと考えるのです。
 断じて悪を許すな! 断じて傍観者になるな! すべてはそこから始まる――「戦争と暴力の世紀」から人類が決別し、あらゆる人々が光り輝く「平和と人道の二十一世紀」を開いていくためには、とくに次代を担う青年たちが、こうした強い自覚をもつことが大切であると思います。
 この点、今は亡きポーリング博士が、私との会談の席上、「民衆を苦しめる戦争を防止するのは、全人類一人一人の課題である。ほかのだれの責任でもない。ゆえに、とりわけ青年に対し、“地上から戦争を追放することを自身の責務とせよ”と呼びかけたい」(一九九〇年二月)と強調されていたことを、私は思い起こします。
 私は、このポーリング博士が訴えた言葉の意味を、より掘り下げて、愛するラテンアメリカの青年たちに、“「人間の尊厳の危機」には連帯して戦え!”と訴えたいと思います。
 そして、「座して地球の危機を看過するのではなく、志を同じくする人々が連帯の輪を広げながら、人間がもつ『勇気』と『英知』は何ものにも屈しないことを歴史に示そうではないか」と呼びかけたいのです。
 さて、東西を分かつ壁が崩れ去り、マルクス主義というドグマに閉ざされていた世界が解放されてから、もう七年の歳月が流れました。冷戦終結後の世界は、なにも隔つものがない「自由の空間」のはずでした。しかし、イデオロギーに代わって、人種・民族・宗教等の差異が人類を分断しはじめ、世界の新しい秩序の展望はまったくといっていいほど開けていません。
 旧ユーゴスラビアやアフリカの諸問題も、国連の介入にもかかわらず、依然、解決のきざしも見えないままです。かつて、解放に沸いた東欧では、経済の失敗からでしょうが、旧共産党系の政権が復活するなど、閉ざされていた過去への郷愁も散見されます。一部先進国においてもヨーロッパのネオナチの台頭等、新たな問題が暗い影を投げかけております。
5  生きることは共存すること
 エイルウィン そうですね。ですから私は、生きることは共存することである、といつも繰り返し主張しています。人間の本質は共同体的なのです。親子関係として、学生として、労働者として、市民として、私たちはつねに他との関係において存在しています。隣人というキリスト教の重要な概念の一つは、私たち人類の特徴をよく物語っています。私たちは、私たちの時間と空間を共有する人たちの近くで生きているのです。
 しかし、人類の本質は共同体的であるのみではなく、創造的でもあるのです。私たちにはさまざまな形で欲したり、感じたり、考えたりする能力があたえられています。この創造性は、私たちの個人的自由の基礎でありますが、私たちに一つのジレンマを提起しています。さけることのできない差異と、さけることのできない近隣性を、私たちはどのように調和させていくことができるのでしょうか?
 自分の利益と理想のみが真実であり、正当なものである、とする極端な考えにいたったとき、自分自身に閉じこもることになるでしょう。そのとき、他人は自身の意志を妨げる手段や障害となってしまいます。それは戦争の論理です。私に味方して私に従うか、そうでなければ敵となるか、この考えは自分の理想や利益に一致しないすべての人を支配し、排除し、滅ぼそうとするもくろみに行き着くことでしょう。私たちの差異を解決するためのこのような方法は、憎悪や苦悩や挫折に導くということを歴史が証明しています。
 しかし一方では、たがいに理解しあうという可能性もあります。それは人間の本質的な意見の相違を尊重し、受け入れて、理性のもとで合意にいたり差異を克服しようとする平和の論理です。私たちの自由は、傲慢さや教条主義におちいることなく、暴力という破壊的な手段に訴えることなく、他の人々との近隣性に対応していくことと一体となっているのです。
6  “すぐ信じ”“すぐに疑う”現代人の病理
 池田 たがいに理解しあうために、私は二十世紀精神の末路として根底的に問題にしなければならないのは、「言葉」に対する過信、そして不信だと考えています。
 フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは、こう述べています。
 「プルードン(Proud’hon)は『知識人らは軽薄だ』といったが、それは悲しいことに、おそろしく真実をうがった言葉である。そこには深い理由があるのであって、知識人は労働者や農夫のように抵抗のある現実と取組むかわりに言葉で働くのであり、紙はすべてを受けつけてくれるからである。哲学者はこの危険を絶えず意識しなければならない。プルードンは『人民はまじめだ』と附言した。これは不幸にして、今日ではもはや真実ではない。――新聞やラジオがほとんど不可避的に人々を頽廃せしめているからである」(『人間、この問われるもの』訳者代表・小島威彦、『マルセル著作集』6、春秋社)
 「抵抗ある現実」に向きあおうとしない知識人の“軽信”は、「信」としての内実の乏しさゆえに、つねに「狂信」への危険性をはらみます。この“軽信”が、マスメディアの発達によって広く人々の心をおおう現代的な病理となってしまいました。なにごとも“すぐに信じ”“すぐに疑う”――故郷を喪失して彷徨する現代人の姿です。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、こうした大衆社会の病理について、『大衆の反逆』で、こう述べています。
 「自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であるという(中略)この自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使せしめる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう」(神吉敬三訳、角川文庫)
 現代の大衆社会とは、要するに「軽信」「慢心」「自己中心性」「非寛容」が蔓延する分断された「閉じた心」の社会であるのです。マルセル、オルテガの洞察は、この「閉じた心」が、他者との対話の場を奪い去り、それが深い文明の病理となっていることへの憂慮の表明です。
  
 対話は共存関係を築くかけがえのない手段
 エイルウィン おっしゃることは、よく理解できます。チリはここ三十年ほどの間に、戦争と平和の論理という二つの行程を経験しました。チリの人々は三つのグループに分かれ、おのおのが独自の国家プロジェクトや極端なイデオロギーや非妥協性や暴力主義を掲げて、徐々に共存を圧倒するようになり、私たちの諸制度を破壊するにいたったのです。当時、チリ政治は途方もないほど先鋭化してしまい、一人一人は自分の視点を守ることにのみ心を奪われ、仮想の敵と理解しあったり、合意するためのあらゆる可能性を阻んでいたのです。
 このように痛ましい経験を経て、私たちチリ人はかたくなな姿勢に閉じこもることなく、いかなる暴力も放棄し、理性にもとづいて行動し、合意を求めるという態度を育成してきました。統治者としての私の大きな熱望は、チリがふたたびチリ人すべてのための国になることでした。この私の熱望は、わが国民の圧倒的大多数に支援されたと私は信じています。そしてこれは私たちすべてのチリ人にとって誇るべき、かつ満足すべきことであると思っています。
 チリは今日、さまざまな体制やイデオロギー、政党、社会組織などが共存している、多様な社会です。おのおのの権利が尊重され、自由に展開されるためには、共存の基本的原則に関する総合的理解が必要とされます。それは社会を平均化することを意味していません。
 その反対に、当然の意見の相違やさまざまな理想や利益の当然の競いあいが、人間同士の排除あるいは支配に導くことのないような合意を見いだすことを意味しているのです。人々の自由や創造性を制限することではないのです。自由と創造性を全国民の財産として、つまり私たち全員を保護し、大切にあつかわなければならないもののように受け入れることを意味します。そのためには、人々の間から戦争の論理を排除しなければならないのです。
 近代国家の重要な課題はまさしく、人間の平和的共存のための合意を社会的につくりだすことであると、私は政治家の立場から考えております。国家はさまざまな分野の市民に働きかけて、彼らの不確定な意見の相違や問題について討論させ、その討論の結果として生ずる協議や合意を合法化しなければなりません。つまり、国家は人間の創造性や自由や平和に対するチューター(助言者)的役割を遂行すべきである、と私は考えているのです。
 あなたは、私がどれほど意見の交換や対話を信頼しているのか、ということを質問なさいました。私ははっきり申し上げたいと思います。対話は人間同士のあいだに創造的かつ平和な共存関係を築くためにかけがえのない手段である――と。
 池田 心から賛同いたします。私が先に述べた「対話」とは、もちろん、たんなる「話しあい」を意味するのではありません。たがいの存在を賭けた信念と信念の応酬であり、死をも覚悟した精神と精神のぶつかりあいであります。
 人間とは、対話のなかで初めて自己を知り、他者を知る「人間」へと鍛えられていくのです。二十世紀のアメリカ最大のジャーナリストと言われるW・リップマンが、より良き世論形成のため「ソクラテス流の対話」「ソクラテス的人間」の必要を再三、論じたことを思い起こします。
 私は、時として対立を生み、差異を際立たせたとしても、対話こそ「閉じた心」を開かせ、人々の心を結んでいく唯一の手段であると考えています。                    

1
2