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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 “非暴力”の可能性――現実主…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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6  ともに生きることへの信頼と願望
 エイルウィン あなたは非暴力主義の大切な柱の一つとして楽観主義をあげられ、また楽観主義というものが人間に対する絶対的信頼から生まれるものだ、とおっしゃいます。
 私も楽観主義者です。私たちの人間性のもっとも深いところで、傷つけあうことなく、ともに生きることへの信頼と願望が息づいているということをこれまで疑ったことはありません。
 私がキリスト教徒であると認めるのは、伝統的にそうであるというよりもむしろ、私たちは神の子どもである、と絶対的な確信をもっているからです。私は生を受けたことを感謝しておりますし、私を生かしている生を不思議なものだと感じつつ生きています。ここにこそ、人間同士が親しく付き合える鍵があるのでしょう。
 私たちは隣人である――近くにいる――なぜならば、私たちは生という賜物を分かちあっているのであり、その生は私たちすべてに敬意をはらってくれているのですから。そのようにたがいに賛美の気持ちをいだきあうことによって、私たちは尊厳を求めるようになり、たがいに尊敬しあい、たがいに善を行うようになるでしょう。
 池田 そうですね。みずからの信念を放棄してしまわないかぎり、永遠に行き詰まりはなく、限りなき希望の展望と勝利が約束されているといえるでしょう。ですから、非暴力の神髄は、臆病や卑屈による「弱者の非暴力」ではなく、人間の善性の極限、勇気に裏づけられた「強者の非暴力」にある、と強調したいと思います。
 己に立ち返るところから出発するのが、東洋の演繹的な考えですが、そこに思いをいたす時、ガンジーの「非暴力には敗北などというものはない。これに対して、暴力の果てはかならず敗北である」(同前)という言葉が、力をもってくると思うのです。平和は天からの無償の贈り物ではない
 エイルウィン あらゆる文化は、どのような形態であれ、平和への憧れを表しています。
 ヘブライ語のあいさつ――シャローム――は、アラビア人たちがあいさつに用いる“サラム”と同じく、正義と平和の理念を結びつけたものです。私たち西欧文明圏において用いる“平和”という言葉は、ラテン語のパックス(PAX)から派生しています。この語彙は契約、つまり合意と結びついているのです。初期のキリスト教徒たちにとっては、パックスは同じ創造主の子どもとして結びついている、信仰を同じくする信者の共同体の象徴でもありました。
 ヒンドゥー教のアヒンサーという概念は、自分に対しても他人に対しても、また自然に対しても害がない、ということを表しています。それは、ヒンドゥー教徒たちにとっては生命そのものが神聖な性格をもっているからでしょう。おのおのの文化のもっとも根幹をなすところの言語は、人間の本質がいだいている平和への願望を表現しているものです。
 現代における全人類の願望を表しているのは、年ごとに普及している人権の文化でしょう。あらゆる人間は人類の一員として、平等、安全、生活の発展の権利を有しています。すなわち、私たちはだれもが共有する絶対的恩恵を受ける権利を有している、ということです。
 以上述べたことが、人々の間に暴力が存在しているという現実を無視したり、否定したりしていないことはお分かりいただけるでしょう。矛盾していることに、人間の創造性――この不思議なもの――は、私たちを異なるものとさせ、私たちを分離させたり反目させたり敵意をもたせたりする要因をももたらすのです。
 利害や意見や信条の相違は、人々の間の、政党間の、国家間の、宗教間の対立からくるものです。カインとアベルの時代から、私たちの歴史は紛争や戦争、憎悪や破壊や死に満ちているのです。
 池田 なるほど。それでも暴力と恐怖は、一時的、外面的に民衆を抑えつけることはできても、その心まで変えることができないことは、よく歴史の証明するところです。あなたは、社会と世界の変革の武器としての「非暴力」の可能性をどのように考えますか。激動の時代を舵取られたあなたの体験も交え、論じていただければと思います。
 エイルウィン 今日、私たちは平和というものが神様の賜物、あるいは運命のなすところ、とのみ感じたり考えたりすることはできません。私たちは、平和を獲得するために必要な行動をとらずして平和を望むことは不可能でしょう。平和は天から降ってくる無償の贈り物ではなく、日々の努力で勝ち取るものなのです。
 この世界で、これほどまで望まれている平和は達成できるものなのでしょうか? 可能である、と私は固く信じています。
 それは、私たち一人一人の努力にかかっていると思います。
 私たちに多様性を認めながら、共存という当然の条件を受け入れる能力があるならば、また私たちの多様性や紛争を理性によって処理するならば、つねに掲げている理想や価値観や原則を実践するよう努力するならば、正義を求め連帯を実践し、生命を尊重することができるならば、人々の間に平和を建設することは可能であるし、また建設しなければならないでしょう。
 現代史は私たちに、いくつかの例を雄弁に物語っています。ボスニアや世界の他の地域では、最近、たしかに戦争の恐怖を見ました。しかし同時に、知恵と勇気をもっていかに平和が建設されているかも見てきました。南アフリカにおいてアパルトヘイトが終止符を打ち、すべての人種が市民として平等になるというプロセスは、平和を建設するための希望の道を開いてくれる歴史的出来事でした。それはまた、非暴力がいかに効果的であるかを証明するものです。                           

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