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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 “非暴力”の可能性――現実主…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 ところで、あなたは先にふれた国連総会(一九九〇年)の演説の中でチリの外交方針の目標として、「人権擁護を重視し、現実主義的行動を通じ、チリの国際的プレゼンス(影響力のある存在)を回復する」と述べておられます。
 十六年におよぶ軍事独裁政権がもたらした国際的な孤立から脱却しようという、切実な意思にもとづく発言だったと思います。その理想は、米州人権条約への署名など、人権擁護の外交政策にいかんなく発揮されております。
 私があなたの政治姿勢に深く共感するのは、この平和・人権をめざす“理想主義”と、その実現の手段としての“現実主義”の絶妙なバランスなのです。
 エイルウィン あなたは、現実と理想の間のバランスについて提起してくださいました。“理想主義”と“現実主義”について語る場合、それらの理念の哲学的概念のみを論議するのではなく、この思想にかかわってふるまう人の実際の姿勢とか行動にまで踏みこんで言及すべきでしょう。私たちが理想主義者と呼ぶのは、理想が達成できるかどうかは別として、いつも達成できるものと考えて、理想にもとづき人間の生き方は律せられるべきとする人々です。このような前提に立って、理想主義というものは、実際の生活そのものがぶつかる困難が人間の行為を決定する重要な要因である、とする姿勢をさしています。
 理想主義というのは、人間を信頼し、人間は善をなし、さらなる向上を行う能力があると信じることをさしているのです。倫理的価値が人間の行動の規範である、と認めているのです。より良い世界の夢を描いて、可能なかぎり――犠牲をはらってまで――理想を現実のものとするために努力するよう、うながすことです。
 現実主義というのは、事実にもとづくものです。経験を出発点とし、人間が功罪や偉大さとみじめさをあわせもつ、限界のある弱い創造物であると指摘しています。大きな夢を拒むものではありませんが、その夢に惑わされることはさけるのです。現実主義は、困難さと限界を測り、その可能性を検討しますが、不可能と判断するものに危険を冒してまで挑戦することはありません。
 理想主義は楽観的であり、現実主義は懐疑的です。
 理想主義と現実主義は、個人や社会の中で共存しているのです。セルバンテスの偉大な小説はそれを映しだしています。ドン・キホーテは理想主義者であり、従者のサンチョ・パンサは現実主義者です。
 池田 もとより政治は過酷です。力と正義の絶えざる葛藤です。国際政治は依然として、バランス・オブ・パワー(勢力均衡)にもとづくリアリズムの思想が支配的な側面が見られます。
 空想的なユートピア主義に固執することは不毛ですし、そうしたイデオロギーの時代は終焉を迎えました。自己中心的なエスノナショナリズム(民族的国家主義)も、現実を理解していない点では同様でしょう。
2  “政治家はずる賢く強か”との不信感
 エイルウィン 私の政治家としての経験から申し上げれば、人間の活動の重要な分野である政治においても、理想主義と現実主義は共存しているのです。おそらく他の分野におけるよりも、はるかに共存度は強いと思われます。しかしながら、政治における理想主義と現実主義の間にあるべきバランスについて、私の意見を申し上げるまえに、政治家に対して広くいきわたっている偏見を打破しなければならないでしょう。
 政治は、あまり良い評価を受けていない活動です。一般の人々は、政治を疑いの目や不信の目で見ています。政治家というものはかなりずる賢く、なかなか強かである、と受けとめています。政治活動のなかにはなにか悪辣なものがあるのだ、と思われがちです。
 マキャベリは、君主に――良くない人になることを学びなさい――と助言しました。この助言のおかげで、人々の政治活動に対する倫理的不信を誘発したり、あるいは正当化するようになったのかもしれません。あるいは、このような現状は古くからよく知られているあのアクトン卿の格言――権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する――と関係があるのかもしれません。
 政治や政治家の歴史は、一般に権力の行使と結びついています。権力は誘惑し、人々は権力を手に入れたり維持するために、多くの場合、理想を犠牲にしがちで、乱用することもしばしばです。おそらくこういうことから、一般に政治活動に対する不信感が存在するのでしょうが、私の考えではやはり不当なものと思われます。
 政治には道徳が欠落している、というのは本当でしょうか? 政治家というのは権力欲にのみ動かされているのでしょうか? そうであるならば、私のような政治家に理想主義と現実主義との間のジレンマについて問題提起することは意味のないことでしょう。
 政治に対するマキャベリ的解釈はその根本の過ち――政治活動の目的は権力である。権力を手に入れ、行使し、維持することである――に由来しているのだ、と私は考えます。実際のところ、これは硬貨の一面にすぎません。政治はなによりもまず、人間の活動、個人によって行われる活動であり、したがって、人間の行動を善と悪によって規制する道徳に左右されているのです。
 それ以上に、権力と権限は同義語ではありません。権力は、他の人々を従わせるための力です。権限はその反対に、道徳的な概念で指揮し、従わせる権利なのです。権限は、その社会がそれを受け入れて支援することを意味しており、政府と国民との間の信頼関係をともなっています。政府は、国民の信頼という支援の度合いに応じてのみ真の権限をもつこととなりますし、その信頼関係は道徳的基盤のうえにのみ築かれることは明らかです。政治家が権限を得ることができるかどうかは、自分の価値観や理想と、自分を信頼してくれている人々の価値観や理想との調和にかかっているのです。
 池田 一国の大統領として、困難な時期を見事に担われた経験からくる鋭い分析と見方です。
3  「政治は可能なことの芸術である」
 エイルウィン 政治家を奮いたたせる理想と、自分が行動すべき現実との間の関係は、どうあるべきでしょうか?
 私は長年の公的生活から、政治家の行動はみずからめざす理想や価値観や目標と、自分を制限する現実の状況そのものとの兼ねあいの結果である、ということを学びました。ですから統治するということは、やりたいことをやるということではなくて、やりたいことのなかからやれることをやるということなのです。
 昔から言われているように、「政治は可能なことの芸術である」ということです。場合によっては、自分が望むような選択がまったくできないような状況や、自分が良いとは思わない、あるいはまずまず良しとしなければならないものの間から、選択しなければならない状況に置かれることもあります。そのようなとき、正しいこと、そして勇気あることは、そのなかで最良のものと思われるもの、あるいは最小の悪を選択することです。
 完全で理想的な解決でも、現実には不可能なことを犠牲をはらってまで行おうとしてはいけませんし、両手をあげて投降してしまうのもいけないことです。このような試練のときこそ、慎重さが必要とされます。統治者や政治家は理想とするもの、信じるもののために戦う度胸と勇気、大胆さをもたねばなりません。しかしその一方で、より悪い状況や破滅に導くような道をとったり、冒険を試みたりすることのないよう、慎重さをもたなければならないのです。
 政治家にとって勇気ある行動とは、ユートピアの建設を諦めざるをえなかったとしても、理想やより良い世界を築こうという夢を捨てないことです。“理想主義者たれ”といいながら、“不可能なことを要求すべし”と叫んでいる人々には、質の異なる理想主義が必要でありましょう。現実を出発点とし、あらゆる個人的で実りのない願望は放棄し、現実を変革する作業に熱意をもって取り組むのが望ましい理想主義なのです。
4  絶対的正義の主張は無用の犠牲を生むか
 池田 分かりました。さて、政治上の「正義」「理想主義」について思いをめぐらす時、私が思い起こすのは、全体主義の脅威から民主主義を擁護しぬいたオーストリアの法哲学者H・ケルゼンの、次のような警告です。
 「絶対的正義の理念は幻想であり、存在するのは利益・利益衝突・闘争や妥協によるその解決のみである。合理性の領域に存在するのは正義でなく平和である。しかしたんなる妥協・たんなる平和に尽きない正義への希求・憧憬、高次の、至高の、絶対的な価値への信仰は、合理的思惟が動揺させうるにはあまりにも強力なものであり、それを覆すことがおよそ不可能であることは歴史の示すところである。この信仰が幻想であるとすれば、幻想は現実より強いのである。多くの人間、否全人類にとって、問題解決とは問題の概念的・言語的・理性的解決ではないからである。かくて人類はおそらく未来永劫ソフィストの解答に満足せず、プラトンの辿った道を、血と涙に濡れつつも、辿り続けるであろう。この道こそ宗教への道である」(『神と国家』長尾龍一訳、有斐閣)
 私は、必ずしもケルゼンのイデオロギー批判、宗教批判に与するものではありませんが、彼の激しい舌鋒も、理解できるような気がします。中世のキリスト教世界の「義戦論」から、近年の中東世界における「ジハード」(聖戦)にいたるまで、絶対的正義の主張、固執は、じつにおびただしい「血と涙に濡れた」無用の犠牲を生んできたからです。宗教にかぎらず、とくに二十世紀は、排他的かつ狂信的なイデオロギーによって、人類史上かつてない累々屍におおわれているだけに、人々が「絶対的正義」なるものに懐疑的になり、眉に唾をつけたくなるのも当然でしょう。
 しかし、同時に、ケルゼンも認めているように、正義によって立ち、正義に生きることに生きがいの依拠(よりどころ)を求めざるをえないことも、人間という生き物の通性であります。
 では、われわれは、このジレンマ――人類が、これほどの人柱の上に生きながら、なおかつ解決の方途を見いだしていないジレンマから逃れる道はないのでしょうか。
 一つの証言を紹介させていただきましょう。一九九二年四月五日、私は東京で、世界的なバイオリニストであり、人権活動家でもあるユーディー・メニューイン氏とお会いしました。
 音楽をはじめ、さまざまな話題に花が咲きましたが、私の印象に残っている氏の言葉に「キリスト教は『人間の苦悩』に焦点をあてた宗教です。そこから時として、(苦悩する人への)慈愛の心をもたらすこともある。
 しかし、キリスト教など西洋の宗教は、仏教とくらべて人間の『善性』と『悪性』を明確に“分けて”とらえようとする傾向が強いようです」というのがあります。それに対し、仏教は「対立の解決」と「安穏の成就」を目的とした「哲学的宗教」である、とも。
 私は、仏教にかぎらず、メニューイン氏の言うように、「善性」と「悪性」、「善」と「悪」とを分けてとらえるよりも、両者を結合、融合の方向でとらえる方が、先にあげたジレンマの克服に効果的であり、それはまた、理想主義が玉砕主義に暴走せず、現実とのほど良いバランスを可能ならしめると思うのですが、いかがでしょうか。
5  不壊の信念としての楽観主義
 エイルウィン あなたが、ケルゼンとメニューインの言葉を引用されながら提起されている問題に関して申し上げます。理想、あるいは彼らが善や真実と認めるものの名において、いかなる手段を用いても押しつけようとすることをためらわないファナティシズム(狂信)を、あなた方が拒んでおられるのは、もっともなことだと思います。このファナティシズムは、政治の全体主義や宗教の統合主義において起こりがちです。
 このような行動を、あなたが拒絶されるのは当然のことでしょう。しかし私は、このような行動は、過剰な理想主義によるものとは思いませんし、善と悪、または真実なるものと虚偽なるものとを区別した結果であるとも思いません。私はむしろ、狂信的な人々――彼らのなかには全体主義者も統合主義者も含まれます――は、理想主義者というよりも自分たちにのみ善や真実を強制することを要請されているのだ、とうぬぼれたり傲慢になっている人々です。
 私としては、自分が真実と信じているものを真実であると立証し、また善とみなすもののために戦うことは正当であるのみでなく、おのおのの人の義務であり、とくに公人として必要なことであると考えます。
 もちろん、いかなる人も真実や善というものを独占できない、ということを前提としています。この点においては寛容さというものがとても大切になってくるのです。寛容は、あらゆる平和的共存にとって、欠くことのできない基本でしょう。
 池田 私はかつて、インドのガンジー記念館で、「不戦世界を目指して――ガンジー主義と現代」という講演(一九九二年二月。本全集第2巻収録)をしました。
 ガンジーは、けれん味なく語っております。
 「私はどこまでも楽観主義者である。正義が栄えるという証拠を示し得るというのではなく、究極においては正義が栄えるに違いないという断固たる信仰を抱いているからである」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな――ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 また、こう言いきります。「わたしは手に負えないオプティミストです。わたしのオプティミズムは、非暴力を発揮しうる個人の能力の、無限の可能性への信念にもとづいています」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)
 見通しを読んだり、客観情勢を分析した結果の相対的な楽観主義ではありません。正義や非暴力について、徹底した自己洞察の結果、無条件に己が心中に打ち立てられた人間への絶対的な信頼であり、死をもってしても奪い取ることのできない不壊の信念からくるものです。
6  ともに生きることへの信頼と願望
 エイルウィン あなたは非暴力主義の大切な柱の一つとして楽観主義をあげられ、また楽観主義というものが人間に対する絶対的信頼から生まれるものだ、とおっしゃいます。
 私も楽観主義者です。私たちの人間性のもっとも深いところで、傷つけあうことなく、ともに生きることへの信頼と願望が息づいているということをこれまで疑ったことはありません。
 私がキリスト教徒であると認めるのは、伝統的にそうであるというよりもむしろ、私たちは神の子どもである、と絶対的な確信をもっているからです。私は生を受けたことを感謝しておりますし、私を生かしている生を不思議なものだと感じつつ生きています。ここにこそ、人間同士が親しく付き合える鍵があるのでしょう。
 私たちは隣人である――近くにいる――なぜならば、私たちは生という賜物を分かちあっているのであり、その生は私たちすべてに敬意をはらってくれているのですから。そのようにたがいに賛美の気持ちをいだきあうことによって、私たちは尊厳を求めるようになり、たがいに尊敬しあい、たがいに善を行うようになるでしょう。
 池田 そうですね。みずからの信念を放棄してしまわないかぎり、永遠に行き詰まりはなく、限りなき希望の展望と勝利が約束されているといえるでしょう。ですから、非暴力の神髄は、臆病や卑屈による「弱者の非暴力」ではなく、人間の善性の極限、勇気に裏づけられた「強者の非暴力」にある、と強調したいと思います。
 己に立ち返るところから出発するのが、東洋の演繹的な考えですが、そこに思いをいたす時、ガンジーの「非暴力には敗北などというものはない。これに対して、暴力の果てはかならず敗北である」(同前)という言葉が、力をもってくると思うのです。平和は天からの無償の贈り物ではない
 エイルウィン あらゆる文化は、どのような形態であれ、平和への憧れを表しています。
 ヘブライ語のあいさつ――シャローム――は、アラビア人たちがあいさつに用いる“サラム”と同じく、正義と平和の理念を結びつけたものです。私たち西欧文明圏において用いる“平和”という言葉は、ラテン語のパックス(PAX)から派生しています。この語彙は契約、つまり合意と結びついているのです。初期のキリスト教徒たちにとっては、パックスは同じ創造主の子どもとして結びついている、信仰を同じくする信者の共同体の象徴でもありました。
 ヒンドゥー教のアヒンサーという概念は、自分に対しても他人に対しても、また自然に対しても害がない、ということを表しています。それは、ヒンドゥー教徒たちにとっては生命そのものが神聖な性格をもっているからでしょう。おのおのの文化のもっとも根幹をなすところの言語は、人間の本質がいだいている平和への願望を表現しているものです。
 現代における全人類の願望を表しているのは、年ごとに普及している人権の文化でしょう。あらゆる人間は人類の一員として、平等、安全、生活の発展の権利を有しています。すなわち、私たちはだれもが共有する絶対的恩恵を受ける権利を有している、ということです。
 以上述べたことが、人々の間に暴力が存在しているという現実を無視したり、否定したりしていないことはお分かりいただけるでしょう。矛盾していることに、人間の創造性――この不思議なもの――は、私たちを異なるものとさせ、私たちを分離させたり反目させたり敵意をもたせたりする要因をももたらすのです。
 利害や意見や信条の相違は、人々の間の、政党間の、国家間の、宗教間の対立からくるものです。カインとアベルの時代から、私たちの歴史は紛争や戦争、憎悪や破壊や死に満ちているのです。
 池田 なるほど。それでも暴力と恐怖は、一時的、外面的に民衆を抑えつけることはできても、その心まで変えることができないことは、よく歴史の証明するところです。あなたは、社会と世界の変革の武器としての「非暴力」の可能性をどのように考えますか。激動の時代を舵取られたあなたの体験も交え、論じていただければと思います。
 エイルウィン 今日、私たちは平和というものが神様の賜物、あるいは運命のなすところ、とのみ感じたり考えたりすることはできません。私たちは、平和を獲得するために必要な行動をとらずして平和を望むことは不可能でしょう。平和は天から降ってくる無償の贈り物ではなく、日々の努力で勝ち取るものなのです。
 この世界で、これほどまで望まれている平和は達成できるものなのでしょうか? 可能である、と私は固く信じています。
 それは、私たち一人一人の努力にかかっていると思います。
 私たちに多様性を認めながら、共存という当然の条件を受け入れる能力があるならば、また私たちの多様性や紛争を理性によって処理するならば、つねに掲げている理想や価値観や原則を実践するよう努力するならば、正義を求め連帯を実践し、生命を尊重することができるならば、人々の間に平和を建設することは可能であるし、また建設しなければならないでしょう。
 現代史は私たちに、いくつかの例を雄弁に物語っています。ボスニアや世界の他の地域では、最近、たしかに戦争の恐怖を見ました。しかし同時に、知恵と勇気をもっていかに平和が建設されているかも見てきました。南アフリカにおいてアパルトヘイトが終止符を打ち、すべての人種が市民として平等になるというプロセスは、平和を建設するための希望の道を開いてくれる歴史的出来事でした。それはまた、非暴力がいかに効果的であるかを証明するものです。                           

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