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第八章 第三世代の人権――内部にひそむ…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 現代世界の急速な変貌にともない、人権についても新しい概念が提唱されてきています。それはご存じのように「第三世代の人権」といわれるものです。
 すなわち、「信教の自由」や「表現の自由」など、十八世紀ヨーロッパの市民革命にともなって主張された自由権的基本権を「第一世代の人権」、また、労働基本権など二十世紀になって認められた社会経済的基本権を「第二世代の人権」というのに対し、第二次世界大戦後に主張されている、新しいタイプの人権が「第三世代の人権」といわれます。
 その中身は、まだ十分に確定したわけではありませんが、一九八六年の国連総会で採択された「発展の権利に関する宣言」が示すように、その中核をなす権利として、いわゆる、「発展の権利」が認められつつあります。
 この「発展の権利」が主張されるようになった背景には、いうまでもなく、発展途上諸国の深刻な貧困があります。多くの地域で、今なお人間が人間らしい生活を送るための最低限度の環境すらあたえられていない、という状況があります。
 そのような状況に置かれている人々にとっては、第一世代、第二世代の人権が憲法や法律にうたわれていたとしても、実際には絵空事のようなものでしかないでしょう。人権はたんに法律の条文上に掲げられているだけの「絵に描いた餅」であってはなりません。万人に対して人権をあくまでも実質的に保障すべきであるという主張が出てくるのは、むしろ当然のことでしょう。
2  人類は生きのびる権利を保障できるか
 エイルウィン あなたが言っておられることは、まったくそのとおりであると、私は思います。人権とは礎石であり、その基盤の上に国民と国家が共生を築くべきなのです。全員が文化的に平和的に共存していくためには、人権が守られていることが不可欠な条件、あるいは要件でしょう。これはしだいに拡張され、普及されてきた考えであり、その意味でその有効性と遵守をだれに求めるべきか、それを見きわめるための真剣な努力が必要とされます。
 厳密に司法上の観点から見て、私は権利というものを、あえて個人と国民、あるいは人間共同体のものとに区別しています。また、個人のものであっても、その有効性や現実の行使を、行政あるいは司法の裁定によって国が保障するものと、その行使を国が許可しても保障しないものとに区別できます。
 これらの違いを理解するためには、いくつかの事例が役に立つでしょう。私たちが公民権や政治的権利にふれるとき、日常生活上の権利はさておき、個人の自由についての権利とか公的事柄に参加する権利といったものを考えます。これらの権利が守られ、その行使が保障されているのは、法的にそう定めているからで、司法機関を通じて国家が全国民に保障しているのです。個人が一方的にその権利を奪われてしまえば、裁判所に出向き、人権保護法に訴えるという、訴えの自由に庇護を求めるか、あるいはその自由が奪われているならば回復させることでしょう。
 法律は全国民に選挙に参加する権利を、制度として認めています。しかし、経済的・社会的権利は同様ではないのです。
 たとえば、労働者の組合結成の権利や最低賃金、労働時間の基準をなんらかの業務に関して法律上の制度を国が定めたとしても、国が全員に働く権利を保障する、あるいは労働者自身やその家族に対して一定水準の生活を保障するための有効な方策を有しているわけではありません。発展途上国のみならず、先進諸国でさえ数百万人もの失業者がいるということは、このことの証でしょう。私たちが生活するこんなにも豊かな世界に、十二億人ものかろうじて生きのびているだけの人々がいることを、どのように説明したらいいのでしょう!
 池田 まったく、おっしゃるとおりです。第一、第二の人権が国家に対する権利であったのに対し、第三世代の人権は国家を超えた国際社会に対して主張されているところに大きな特徴があるとされています。
 このことは人権が、もはや主権国家というこれまでの枠組みを超えて、人類社会全体として取り組むべき課題であることを示しているように思います。第三世代の人権の登場は国際社会が質的に変化しつつあることを示すものとして、きわめて重要であると言えましょう。
  
 “貧困からの脱却”、だれが推進するのか
 エイルウィン 私たちが自由に採択する権利、発展の権利といった国民の権利について言及する場合、その遵守や実効性を国家の法令によって保障することは不可能です。なぜならばこれらの権利の実際的な具体化は、しばしば国家の決定権限を超えた要因によって左右されるからです。
 完全にというわけではなく、あくまでもある程度ということですが、そのような権利の実現は、国際社会の状況しだいであり、少なくとも現在までのところ、あらゆる民族に対して、これらの権利の実現を保障するための有効な手立ては見つかっておりません。
 あなたがいみじくもおっしゃっているように、“第三世代の”と呼ばれている人権は、主権国家の枠を超えて人類全体の問題となってきているのです。しかし、それでは、いったいだれがその権利の主張を受けとめる責任者となっているのでしょうか?
 あらゆる権利には、それに応じた義務をともなっています。したがって、義務を主張することのできる法的主体が必要です。しかし、現在のところ、“国際共同体”は、そうした性格を有してはいません。またそこに加盟している主権国家が、より上位に立つそのような権力を喜んで受け入れようとはしていません。また大国が国民総生産のわずかなパーセンテージを、発展途上国の援助のために拠出することを任意で取り決めても、実際には果たしていないのです。
 池田 残念ながら、そのとおりのようです。そうしたなか、あなたは、一九九五年三月にデンマークのコペンハーゲンで開催された国連「社会開発サミット」で、“発展の権利”について広範な討議を主宰され、国際的なコンセンサス(合意)をまとめあげられました。画期的な労作業でした。
 エイルウィン サミットの掉尾を飾った社会発展宣言では、可能なかぎり多くの人々に“発展の権利”が達成できる道を切り開きながら、貧困の追放、雇用機会の創出、社会の統一の促進をはかるための行動に関する十項目の合意と数項目の代替案が発表されました。もしこれらの合意が遂行され、このサミットで提示された行動計画が実行されるならば、人類は“発展の権利”を実現する過程で、大いなる前進をするであろう、と私は確信しております。
 池田 貧困問題の解決のために多年にわたって続けてこられたご努力に、最大の敬意を表します。あなたが創立された「正義と民主主義」財団の掲げる崇高なテーマの一つが、「貧困への挑戦」であることもよく存じております。
 エイルウィン 世界の総人口の五分の一が余儀なくされている悲惨こそ、平和に対する絶え間のない脅威です。
 であるならば、この貧困という災難を終結させるために、人類がとるべき必要な措置はなんであるとお考えですか。
3  ともに地球に生きる隣人としての自覚
 池田 近年は「人間の安全保障」という概念にもとづいて平和の問題をとらえ直そうという動きが高まりつつあり、あなたがご指摘の「貧困」という問題も、大きなウエートを占めるテーマとなってきております。
 その解決をはかるうえで私が重要だと思うポイントは、まさに的確なご質問のなかに、見事に言い表されていると言えましょう。一つは、「貧困という災難」という言葉です。世界の人口の五分の一にあたる人々が余儀なくされている「貧困という災難」は、はたして自然災害によるのか、それとも“人災”によるものなのか――まず、この視点に立って、問題の真の所在を分析していく作業が、解決の糸口を探るうえで欠かせない前提になっていくと思われます。
 もちろん、自然災害が貧困問題を引き起こす直接的な原因となっているケースは少なくないでしょうが、それだけが「貧困という災難」を恒常的な存在へと固定化させている元凶でないことは、また事実であります。
 UNDP(国連開発計画)は昨年発表した年次報告「人間開発報告書一九九六」の中で、いわゆる南北格差について、「もし現在の傾向が続けば、先進国と途上国の経済格差は不公平どころか非人道的なものになるだろう」と警告し、二極化の動きに注意を喚起しております。貧困問題を、国際社会の構造的な問題としてとらえる必要がありましょう。
 エイルウィン おっしゃるとおりです。
 池田 もう一つの重要なポイントは、「人類がとるべき必要な措置」という言葉にあります。この点は先の“人災”という問題とも関連しますが、貧困問題を解決していくうえでは、運命を共有する“地球社会の隣人”としての自覚と責任が一人一人に強く求められてくるのではないでしょうか。
 国連の「第一次貧困撲滅の十年」が本年(九七年)スタートをみましたが、その成否はまさに、国際社会の一致した取り組み、いうなれば“人類共闘”の枠組みを確立できるかどうかにかかっているのです。
 こうした取り組みを進めるうえで、私がなによりも第一に訴えたいのは、一人一人の人間に本来そなわる「潜在的な力」を十分に引き出すことのできる環境づくりを眼目としなければならない、という点です。
 貧困の撲滅といっても、たんに物的・資金的な援助という“応急処置”だけで対処できるものではなく、むしろ長期的な視野に立ったエンパワーメント――すなわち、一人一人がその能力を十全に発現させていく環境づくり、自助努力のための条件を整えていく作業こそが肝要と思うのです。
 人々に「自立」をうながす「人間開発」がひとたび軌道に乗るならば、その社会や国家はしだいに安定していくはずであり、その意味からも、いわゆる“参加型の開発”への発想の転換が必要ではないでしょうか。一人一人にそなわる「潜在的な力」という、再生も拡大も可能な資源を十分に「開発」する環境づくりを、国際社会が一致して推し進めていくことが、紛争を未然に防止し、あまりにも悲惨な“悪循環”を断つことにつながるはずです。
 これはまた、いみじくもあなたが創価大学での講演(一九九四年七月)の中で強調された、社会の全階層をうるおす「公平なる成長」という方向性と軌を一にする考え方ではないでしょうか。
 人権という観念が生まれてから二百年以上を経過した今日でも、貧困という現実上の困難のゆえに、多くの人々にとって人権の理想は、まだ実現していないというのが現状です。また、貧困だけでなく、旧ユーゴスラビアをはじめとして、世界の各地にはまだまだ戦乱と紛争が続き、多くの民衆が今なお恐怖に苦しめられていることも見のがすことはできません。
 今日の困難な人権状況を見るとき、これからの人類が実際に、人権の理想を実現していくためには、なにが必要か、もう少し掘り下げていきたいと思います。
4  人間の内奥にひそむ「悪」の解明を
 エイルウィン 同感です。私が、いつも痛感し、考えていることです。
 池田 そこで、「人間の平等」「人間の尊厳」という理念についてですが、古典的な人権思想からすれば、人間は等しく理性を有しているから平等であり、尊厳であるという答えが出されるのですが、それでは理性的存在であるはずの人間が、なぜ戦争や虐殺などの「狂気」と「憎悪」の歴史を繰り返すのか、という問題に直面せざるをえません。
 この狂気と憎悪という人間の悪に対して、古典的な人権思想は、ほとんど対抗する力をもっていません。このことは、すでに一世紀以上も前にレフ・トルストイが鋭く見破っていたところです。実際、トルストイの時代のセルビア問題と現在の旧ユーゴスラビアの紛争を重ねてみると、トルストイの近代文明批判の深さと鋭さに、一驚せざるをえません。また、理性への楽観的な見方がいかにもろいものであるかは、二十世紀における二度の世界大戦の歴史を見ても明らかでしょう。
 そのように考えてくると、人権の確立という課題についても、結局のところ、人間存在をどのようにとらえるか、という哲学の問題に帰着すると思われます。現代と未来に対応する新たな人権の理念は、人間の暗部も含めて、人間の存在を根底から解明した哲学に裏づけられ、支えられることが要請されます。人間の内奥にひそむ「悪」を見つめ、その悪を克服していく方法が示されなければなりません。
5  いくら規範や宣言を作っても
 エイルウィン あなたの懸念に、私も同感するばかりです。現実における過酷な体験は、精神的支えがなければ、どのような理性的命令でも、法的強制であっても、人間の行為を完全にコントロールすることはできないという結論にいやおうなく導きます。異教徒の伝道にあたった聖パウロは、『新約聖書』の使徒行伝の中でこう嘆いています――わたしが欲するところの善はこれを為さず、欲せぬところの悪がこれを為す――と。
 これは、人間の弱さと不完全さの認識です。私たちは自分たちの主義主張を宣言として表明したり、自分たちが従うべき規範を作成しますが、往々にして反対のことを行ったり、守らなかったりという過ちを犯します。それがあなたのおっしゃる“人間の内奥にひそむ悪”なのです。
 私は悪に対して弱い人間を救済するためには、精神的な支えを確立するしかない、とするあなたの所信に同意します。
 池田 私は仏教を実践する一人として、仏教の思想のなかにこの要請に応える鍵が示されていると考えています。釈尊が生老病死という人間の根源的苦悩と正面から取り組んだところから生まれた仏教は、いわばその出発点から人間存在とは何かというテーマを探求してきたのです。
 その仏教の英知は結論として、人間に限らずすべての存在に他者への慈愛に貫かれた広大な生命(仏)が内在している、と洞察しています。あらゆる人間生命に仏が内在しているというこの仏教の英知こそ「人間の尊厳」を裏づける新たな力になり、人間内部にひそむ悪を克服していけると私は確信しています。
6  自由は人間の醜悪な部分をも反映
 エイルウィン あなたは仏教の実践者として、仏教の教えのなかに“人間の破壊的衝動を支配”するための“倫理的哲学的観点”を見いだしておられます。私もカトリック教の実践者として、そのようなものを求め、キリスト教のなかに見いだしております。キリストが私たちに対して“天にまします父なる神の完全であるごとく完全であれ”と勧め、また“汝自らのごとく隣人を愛せよ”と命ずるとき、悪を克服する道を私たちに示してくださっているのです。
 もし私たち全員がこの命令に忠実で、たがいに寛容さをもって愛しあうならば、すべての人間に完全に人権が保障されて、犯罪も大量虐殺も戦争もなくなるでしょう。
 キリスト教と同じように、仏教でも、その精神的英知の優位性を認めることこそ、人間の尊厳を裏づけることだと述べております。“・仏性”あるいは“ブッダの本質”というものは、私たちキリスト教徒が“聖性(高潔清浄な心)”と呼んでいるものと同じです。おのおの一人一人が悪を遠ざける徳を有し、完璧をめざして努力することです。
 人間の傲慢と諦観に関して、あなたは次のように述べていますね。
 「人間が本然的にただ『生きる』だけでなく『よく生きる』こと、すなわち、『何のため……』という『意味への飢え』をいだき続ける存在であるかぎり『長く退屈な時代』に耐えることなど、とうていできないと思っております」(一九九〇年一月、第15回「SGIの日」記念提言「希望の世紀へ『民主』の凱歌」。本全集第2巻収録)
 そしてプラトンの民主制を分析するにあたり、「自由の背理」に関して、あなたは次のように言及されております。
 「自由のあくなき追求のあまり『欲望の大群』を生みだし、それによって『青年の魂の城塞』は、徐々に占領されていく。そこから、しだいにはき違えが生じてくる。『慎みをお人好しと名づけて』『思慮を女々しさと呼んで』『ほどのよさやしまりのある金の使い方を、やぼったいとか自由人らしくないとか理由をつけて』それらの美徳を追放してしまう」(同前)
 あなたが的確に述べておられるとおり、最終的に、『国家』において、プラトンは、魂の健康と調和に関係する場合の、自由と民主主義についての解釈をしておりますね。
 池田 ええ。プラトンは、その大著『国家』で、民主主義社会がその自由をあつかいあぐね、はき違えてしまった結果、「僭主政」という圧政におちいってしまうという“逆説”を、なまなましく浮かびあがらせております。
 つまり、過度の自由が「民主政治」を「衆愚政治」へと堕落させる危険性を難じています。“自由は良い面をもたらすだけでなく人間性の醜悪な部分をも反映する”という背理をともなうことを、プラトンは論じました。
 自由というものが、いかに危ういものであるか。人間が真に自由であることが、いかに困難であるか――。私は『国家』を精読するたびに、まるで現代のわれわれの社会を論じているような気がしてならず、プラトンの提示した人間の“業”ともいうべきものがもつ、闇の深さを感ぜずにはいられません。
7  自由が堕落の誘因にならないためには
 エイルウィン 私どもの近代社会は、個人が自由を行使することによって、個人を変形し、放縦な行動に走らせてしまっています。
 私は、われわれの文明はその魂が病んでおり、調和の回復が必要である、というように懸念しています。
 池田 世界の心ある人々は一様に、あなたが提示された「政治的自由と経済的自由が、堕落の誘因とならずに、人類の発展にとっての一つのシステムとなる」ための道筋を見いだそうと、真摯に模索しています。
 私はその手がかりとして、現代人の精神の危機を端的に「自分自身の状況の主人になれない」と断じたチェコ大統領のハベル氏の言葉に注目したいと思います。
 氏は、欲望のままに動き、みずからのアイデンティティー(主体性、自己同一性)を維持できずに、自分が何者かも分からなくなってしまった人間――氏の言葉でいうならば、「家畜に似てしまった」人間――が、全地球的規模で広がりをみせていることに対し、強く警告を発しています。
 そして、「伝統的な議会制民主主義が、技術文明と産業・消費社会の『自己運動』に原理的に対抗する方法を提供しているようには思えない」(ハベル氏の言葉の引用は石川達夫『マサリクとチェコの精神』〈成文社〉から)と指摘したうえで、氏はその根本的解決をはかるために、たんに政治体制のあり方を論じるだけでなく、人間の精神を「生命」と「自律性」に向けて突き動かす努力こそが求められる、と訴えているのです。
 社会の変革の基礎を、まず人間の内面の変革に求める――こうしたハべル氏の視座は、まさに私どもSGI(創価学会インタナショナル)が提唱している「人間革命」の理念にも気脈を通じるものであると言えましょう。
 エイルウィン 政治的自由と経済的自由が、人類の発展にとって一つのシステムとなり、人類が堕落するシステムとならないために、あなたは、どのような提案をなされますか。
8  人間に対する尊敬を忘れてはならない
9  池田 一九九七年一月に発表した第二十二回「SGIの日」記念提言、「『地球文明』への新たなる地平」の中で、「『自由』といい、『民主主義』といっても、あるいは『平和』といい、『人権』といっても、それらが法的、制度的に保障されることは、人間の尊厳にとって必要条件であっても、決して十分条件ではありません」と強調いたしました。
 「自由」や「民主主義」といった理念を生かすも殺すも、究極的には、社会を支える人間の心にかかっていると思います。
 その意味で、あなたが以前に指摘されていたように、「世界の大多数の民主国家のなかに、民主主義の正当性を評価する良識が薄れてきている」(一九九四年七月の会談)状態を見過ごすことは、デメリット(不利益)こそあれ、なんら益するところはないというのが私の結論です。
 むしろ世界は、「『民主主義』には、人間に対する尊敬が必要であり、それを忘れると民主主義への人々の関心が薄れる。そこには全体主義的な社会へと後退する危険がある」(同会談)とのあなたの主張に真剣に耳をかたむける必要があるのではないでしょうか。
 一人一人の人間がみずからの足場である社会への責任感を放棄せず、時代を切り開く主人公であるとの使命感を充溢させながら、よりよき世界をめざし連帯していく――私は、そうした人間精神の自律性を回復させていくことが、このアポリア(難問)から抜けだす大前提となると考えるのです。
 エイルウィン そのことに関連しますが、表現の自由がなければ、民主主義はありえないでしょう。あらゆる民主主義国では、政府は国民みずからの意思によって樹立されており、国民すなわちこの政府によって治められている人々が、自由にその意見を表現でき、公益に関するあらゆる情報を十分に得ることができなければなりません。そのための制度が機能していることが、根本的な条件です。
10  不可欠な表現の自由とその危険性
 池田 おっしゃるとおり、人権を擁護し、民主主義を機能させるには、表現の自由が不可欠です。ですから、あなたは大統領に就任されるや、軍政のもとで抑圧されていた表現の自由を、完全に保障されました。表現の自由をただちに保障されたことは、チリ社会が民主主義に復帰したことを広く示すものとなりました。
 さまざまな形の抑圧によって、各人の意見を自由に発表しえない状況下では、国民は当局にとってつごうのよい情報しか与えられず、主体的な判断をすることができないことは、いうまでもありません。
 エイルウィン 表現の自由は、人間の基本的権利の一つです。そこでまず、「世界人権宣言」の第十九条の内容を思い出すのもよろしいかと思います。
 そこには「何人も、意見および発表の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉をうけることなく自己の意見をいだく自由、および、あらゆる手段によりかつ国境にかかわりなく、情報および思想を求め、うけかつ伝える自由を含む」(前掲『人権宣言集』所収)とあります。表現の自由は、民主主義が本来的にもつ固有の権利なのです。
 池田 そのとおりです。世界的な民主化の潮流のもとで、表現の自由が、実質的に保障される国家・地域がふえてきました。それ自体は、喜ぶべき現象であることは、いうまでもありません。しかし、大きな影響力をもつにいたったジャーナリズムだけに、本来の使命をもう一度しっかりと胸に刻み、発揮していくことが求められるでしょう。
 エイルウィン そうですね。すでに、いにしえの時代、アテネの人々は、表現の自由という権利の行使を、公共の場で実践していました。アテネに民主主義的政治制度が生まれた時から、クラブや講義室、説教壇、議会、公的集会などにおいて、口頭で行使されてきましたし、本や定期刊行物を通じて書かれたものとしても、行使されてきました。
 私たちの時代にあっては、それは基本的には新聞、ラジオ、テレビ、インターネットのような情報手段を通して実践されていますが、ここ半世紀ほどの先端技術の驚異的発展によって、ますますこのようなものへの依存度を増すようになっています。こうしたことから、現代社会において、メディアが巨大な力をもつにいたったのです。
11  「表現の自由」の乱用止める倫理の向上を
 池田 その巨大な力を過信し、一方で表現の自由に慣れ、その自由に安住して、貴重な人権を行使するという意義を忘却しているような姿が、見受けられます。具体的には、商業目的を追求するあまり、他人のプライバシーや人格を無視してまでも、無責任なセンセーショナリズムをやめようとしないマスコミのあり方が、しばしば指摘されます。みずからの利益のために他を傷つけて顧みないジャーナリズムの存在は、まさに現代が直面している倫理上の危機を象徴していると見ることもできます。
 エイルウィン 同感です。巨大な力をもつジャーナリズムは、それなりの責任を負わなければなりません。まずなによりも真実、ということです。人々がメディアに期待し、また人々がメディアに対して有するのは、現に起こっていることについての真の情報と、その理解を助ける解説を受ける権利です。
 ここでは、裁判の証言を規定しているものと同じ原理、すなわち“真実、すべて真実であり、真実以外のものはいっさいなし”という原理が、支配していなければなりません。虚偽や歪曲された情報が流されたり、世論が知らなければならない事実が隠されていたり、それに関する発言が禁じられたりすれば、この義務に違反することになります。
 真実にくわえて、情報の自由の行使が個人生活のプライバシーを守る権利や人々の名誉を損なうことが
 あることも、はっきりしています。無責任なセンセーショナリズムを排するというあなたのご意見には、まったく同感です。そのようなセンセーショナリズムは世論を混乱させ、卑しい感情をあおるだけです。残念なことに、それはまさに売らんがための方策なのです。
 池田 そのとおりです。人権が保障されればされるほど、社会全体がその権利に相応するだけの倫理水準を獲得していかなければ、民主主義も無関心とエゴイズムが支配する衆愚政治に堕落しかねません。権利の乱用は、その権利自体を失う事態をまねきかねません。
 人権がその意義にそって行使され、社会に価値をもたらすことができるかどうかは、結局、各人の生き方を支える哲学、思想の問題に帰着すると思われます。
 エイルウィン 思想や表現の自由も、他のすべての権利同様、制限があります。その制限を侵す者は、権利を乱用しているのです。私は、絶対的な権利というものは存在しない、と考えている人間です。共存のための道徳的原則、ジャーナリズム団体が定める自主規制の規範、そして法律そのものも、それらに盛られている基本的自由の行使について規制できると思っています。そして、実際、規制すべきだと考えます。
12  第九章 人権と文化――自由の風土こそ花を咲かせる
13  池田 チリの社会で表現の自由が保障され、その結果、文学・映画・美術・演劇などの分野で、目覚ましい開花が見られたことは、よく知られています。エイルウィンさんご自身も「文化と芸術の発展のための基金」あるいは「地域文化提唱援助基金」などをつくられ、文化の交流に尽力してこられました。
 まことに表現の自由をはじめとする人権保障は、その国の文化状況に密接にかかわっています。人権が抑圧されているところでは文化も開花を見ることができません。文化状況を見れば、その国の人権保障の水準を知ることができると言えるでしょう。
 あなたが文化の興隆に尽力され、目覚ましい成果をあげられましたことは、貴国が「民主国家」として完全に再生したことを内外に示す偉業であったと敬意を表します。
 長い期間にわたって人権と文化の抑圧を体験され、それを民衆の力によってついに克服されました。その歩みは、世界の人権史のうえからも特筆されるべき重要な意義をもつと思います。
14  人権の抑圧者は文化を嫌悪する
 エイルウィン ありがとうございます。あなたが提起された問題点について、端的に申し上げるならば、文化というものは、自由の風土でこそ、より良い花を咲かせ、また実を結ぶのは、明らかだということです。歴史は、とりわけ古代では、圧制のもとでも優れた文化が発展していたことを示してはいますが、やはり圧制が文化普及のために決して良い状態ではないことは、明白です。
 自由の欠如が一種の刺激となって、インスピレーションを得た作者が天才的な創作を生みだした、というようなことは、これまでにもたくさんの例があります。
 しかし、その自由のなさによってせっかくの作品が世に出ることなく、社会を豊かにすることもなく、人々が知ることもできないのです。多くの天才の作品が後世の人によってのみ知られ、称賛され、受け入れられるというのは、まさにこうしたことによるからです。
 私の考えでは、文化の創造と普及にとって必要不可欠の環境は何かといえば、それは自由であるということ。これは明々白々なことである、と断言することができます。
 池田 そうですね。また、文化を通して世界の人々が相互に理解を深めていくことは、長い目で見れば、世界的レベルでの人権の向上と平和の進展につながっていると確信します。
 世界の多様な文化に心を開いていくことによって、自国だけに閉ざされた偏狭な精神を変革し、人類社会という共通の基盤に立つ「世界市民」ともいうべき意識を育てていきたい――私が世界の文化交流に微力ながら努力しようと決意しているのも、そのような発想からです。
 エイルウィン 私は、創価学会とあなたがみずから世界に文化を広げるという偉大な仕事をなされていることに、深い敬意を表したいと思います。あなたの行っている知的芸術的交流は、たんに私たちの時代の文化に対する計り知れない貢献を行っているだけではなく、世界平和に対する重要な貢献を行っているのです。私は心からその快挙をたたえたく思います。
 いろいろな思想や芸術を多くの国々の人に知ってもらうことにより、それぞれの国の社会を豊かにしているのですが、あなたもおっしゃっているように、それでこそ、さまざまな国や国民の間に、風俗習慣、伝統、歴史、生活や生き方の多様性が生まれ、それをおたがいに影響しあうことによって、おたがいが豊かになれるのです。
 このようにして世界文化が生まれていき、それを皆で分かちあい、おのおのの主体性が尊重されるようになるのです。しかし、こうしたことも、すべての人の基本的尊厳が真に認められ、評価され、人権が尊重されている世界でのみ見られることです。
 池田 あのナチス・ドイツが多くの芸術家を迫害した例が端的に示すように、人権の抑圧者は文化を嫌悪します。文化は国家や民族を超えて人間と人間を結びつけ、人間としての共通の基盤の存在を自覚させる普遍性をもちます。これに対して、人権を抑圧する独裁者たちは、多くの場合、みずからの国家や民族を至上のものとして、他を排斥する独善性に閉じこもってしまうからです。
 文化の力は、人間の多様性と共通性を同時に教えてくれます。
 世界の人々の多様な生活様式や伝統文化をたがいに尊重しつつ、たがいに人間としての共通の基盤に立つことを自覚していく――この精神は、人権を擁護していこうとする行き方と、完全に合致しています。
 エイルウィン その意味からいえば、この世紀末に人類はこれまでに前例のない時代を生きているのだと思います。全体主義体制――右翼、左翼にかかわらず――崩壊後、大部分の国では人権を尊重する政権――少なくとも形式上は――のもとで生活しています。もちろん、人権が完全に機能するためには、多くのものが不足しているでしょう。とりわけ社会経済面や国民の発展の権利においては。しかし、いくつかの悲惨な例外はあるとしても、数十年前の状況にくらべてたいへんな進歩を見せたことも確かです。
 こうした現象は、経済の国際的な規模の拡大と電気通信・情報技術の驚異的発展によってもたらされたグローバリゼーション(地球一体化)の過程と結びついて、文化の普及をうながしているのです。世界中のあらゆる所で、人々はテレビにより同じ出来事や光景を目にするようになってきています。当然のことながら、このようなことは差異を縮め、不信を減らし、他の人々がもつ多様性を評価することにつながっており、同時にそれはまた、好みや評価さえ共有することにも貢献しています。
 そのようなプロセスを見ておりますと、私のような年齢でも、驚きと感動を禁じえません。人類の驚くべき飛躍であると私の目には映るのです。しかし、同時にそれは精神的なものの価値をないがしろにする、消費至上主義による個人主義拡大という憂慮すべき事態のようにも思えて心配になり、悲しくなるのです。
  
 文化の中心としての大学の使命
 池田 私もまったく同じ気持ちです。ところで、あなたは大学で教鞭を執られた経験をおもちであり、大学の重要性を強調しておられます。とくに「大学は指導的役割を担う文化の中心地であり、社会からかけ離れた象牙の塔ではない」との発言は、大学のあり方を考えるうえでの重要な示唆であると思います。大学の使命は、今後、いやましていると思います。
 エイルウィン 実際に私は長い間、若いころから自分の使命だと思ってきた大学教育にたずさわり、チリ・カトリック大学やチリ大学の法学部で使命感に燃えて仕事をしてきました。
 私は、自分の政治的な仕事をするために大学の仕事を辞めたのではないことを、申し上げたく思います。私を大学教育の世界へ、法曹界へ、混迷した政治の世界へと導いたものは、すべて同じ精神的な希求心、倫理的信念、正義感でした。たしかにそれぞれの分野の役割は、おのおのの論理性や必要性から見れば異なるでしょう。しかし、真実と公共の利益の追求という点から見れば、本質的には同じものです。そのなかには、大学と社会の間の、つねに変化して、つねに緊密でありながら、多くの場合、対立する基本的な対話があると思います。
 池田 私は、牧口初代会長、戸田第二代会長の構想を受けて、一九七一年(昭和四十六年)に創価大学を創立いたしました。この大学に、あなたをお迎えし、講演をしていただけたことは、光栄でありました。
 創価大学は「①人間教育の最高学府たれ ②新しき大文化建設の揺籃たれ ③人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」をモットーにしております。ここに示されているように、私も文化を育み、社会の平和に寄与していくところに大学の使命があると考えております。
 エイルウィン 私は、創価大学の根本理念に深く共鳴する者です。その根本的理念には、学問の府として大学が本来もつ、もっとも高潔な伝統が集約されていると思われます。
15  なんのための学問か
 池田 ありがとうございます。
 ところで、大学の重要性については、今日、広く認識されておりますが、現実の大学教育は数多くの問題に直面しています。それを要約していえば、大学そのものが現代という時代に適応できていないのではないか、という問題であると思われます。
 それは、あなたも指摘されているように、大学が社会の現実からかけ離れた「象牙の塔」になってはいないか、という問題ですが……。
 エイルウィン この二十世紀の歴史を振り返ってみますと、思想、科学、技術において、もっとも重要な創造の場の中心となったのは大学でした。しかし、今日では、この創造ということが一方では企業活動に、またもう一方では報道のメディアにその大半を依存しています。一九七〇年代に世界中で大学は常軌を逸した形で大きくなってしまい、今日では財政問題や変化を受けつけようとしない硬直化した官僚主義をかかえて、多くの要求を受け入れざるをえない機関となっています。
 このように大学ほど、いっときに多くのさまざまな要求に脅かされている機関は、今日ないと思います。大学に求められていることは、人類の英知という伝統を保持していくと同時に、革新のリーダーとなることです。現在、大学は社会からますます多くの要求を突きつけられてとまどっていますが、それにもかかわらず、社会はその結果について疑念をいだいているように思えます。
 一方では、学者たちは学問の起源を辱めないようにと象牙の塔にこもり、正当に評価されないことを非難しており、また一方では学生たちは大学の機能にますます期待は寄せはするものの、夢はますますしぼむばかり、という状況です。
 池田 現代の学問は、それぞれの分野で高度に発展をとげ、細分化・専門化の度を増す一方です。研究者はみずからの「業績」をあげようとして、極端にいえば一国でも数人の人にしか関心をもたれない議論に終始して、それが真の学者の道であるかのように考えています。
 私は、学問はそれ自体を自己目的化すべきではないと考えます。なんのための学問であり、研究であるのか――その目的観を忘れた学問は、たんなる研究者の名誉欲と好奇心を満たすための道具に堕落してしまいます。
16  大学と社会の断絶を超えて対話へ
 エイルウィン その意味では、私たちは困難な緊張の時代を生きているのでしょう。たしかに自然科学同様、人文科学も進歩し、専門化と細分化をすすめていく必要があります。
 その一方では、専門化や細分化をした場合、さまざまな研究課題や研究計画の決定において完全な自由を必要とする純粋な知識の進歩は不可能となってしまいます。科学を研究する大学は、同時にまた、教育を行う大学でなければなりません。そこを通して知識が広げられ、応用されていくのが、自然の流れだからです。
 専門化の必要性という点から望ましくないのは、大学と社会の断絶ですが、しかし、私の受けとめ方では、ここ数十年間にこの断絶の溝は深まってきているように思われます。
 このような奇妙な現実を見ていますと、大学と社会の対話は危機と変革の時代にきているのではないか、と私は思います。私たちは知識の社会を構築する一方で、歴史的にかつて一度もそのような任務を負ったことのない機関に、まったく経験のないような重大なテストを受けさせているという奇妙な、矛盾した事態に立ち会っているように思えるのです。
 池田 真の意味で優れた学者は、学問の専門性に閉じこもるのではなく、広く社会に目を向け、社会に対して行動を起こしています。大学が若者にあたえるのも、たんに細分化された知識の断片ではなくして、人間と社会を全体的にとらえ、みずからの意思と責任のもとに、社会になんらかの貢献をなしていこうとする態度ではないでしょうか。
 かつてアメリカで大反響を呼んだ『アメリカン・マインドの終焉』の中でアラン・ブルームは、現代の大学にもっとも必要とされるメッセージを「僕は、全体としての人間だ。僕が全体として自己形成をするのを助け、僕のほんとうの潜在能力を発揮させてほしい」(菅野盾樹訳、みすず書房)との学生の訴えに要約していました。こうした「全体人間」の育成こそ、人権を内実化させるうえからも、大学教育に課せられた急務といえるのではないでしょうか。
 エイルウィン 大学は、その長い歴史を通じて、大学にしかできないことを、時代に合わせてあたえ続けるための適応能力があることを証明してきました。それは、人間と自然についての深い思索、および人類がその歴史のなかで数千年にわたって蓄積してきた伝統と遺産の保存です。いかなる場合も、大学の課題は理性と論理性にもとづく文化の土台づくりでしょう。
 しかし、私はきたるべき時代に、社会でこれほど必要とされている対話が、どのように確立されているのか、ということを懸念しております。主として、私にもっとも身近で好きな分野のなかでいえば、大学で研究する思想と政治との間の関係です。
 さらにはっきり申し上げれば、私はポスト冷戦時代の世界的なイデオロギーの危機と衰弱によって、政治がこれまでの思想的遺産を刷新できなくなってしまい、せいぜいよくても権力に操られる実用主義か、悪くすれば権力の乱用という事態におちいってしまうのではないか、ということを非常に恐れているのです。政治を行うには、その価値観の根底をなしている政治哲学から遊離してはなりませんし、目前にある社会を理解し、解釈する手助けをしてくれるその他の学問を無視してはならないのです。
 その対話は、学生たちの置かれている世界の普遍性を彼らに心得させながら、教育していくことから始まります。この対話を強固なものにしていくことは、教育者のみならず政治家の責任でもあります。そうすることが新しい文化の創造にも寄与しますし、かつてない速度で刻々と変化する世界のなかで、現に創出されている新しい文化を理解することにも寄与するでしょう。
 私はそのような対話が、創価大学の理念が示している世界人類の平和の確立に、きわめて効果があると信じております。この点はあなたの見識にまったく合致しております。
17  民主主義が共存のための唯一のシステム
 池田 あなたは、一九九四年三月、多くの人に惜しまれながら、四年間におよぶ大統領の任期を終えられ、退任されました。退任後は、「正義と民主主義」財団で活躍されていますね。
 エイルウィン おっしゃるとおり、私たちは「正義と民主主義」という名の団体を設立しました。多くの友人や協力者とともに、ここに掲げた二つの理念と根本的に結びついている共通の理想のために、役立ちたいと願っています。私たちの目的は、チリおよびラテンアメリカにおいて、堅固な民主主義が根づくように鍛えること、そして正義がよりいっそう実現されるよう努めることです。
 池田 チリのいっそうの民主化と発展のため、ご成功をお祈りいたします。今後の活動の目標、ビジョンについてお聞かせください。
 エイルウィン 民主主義について申し上げますと、揺るぎない信念をもたない人たちは、民主主義というものを権力および権力行使の闘争を統制するための、たんなる仕組みのように受けとめがちです。このような見方は、政治の質を低下させる危険性をはらんでいます。
 ラテンアメリカや世界の他の地域で起こったように、さまざまな願望が満たされない状況のもとで、非民主的で全体主義的な、あるいはポピュリスト(人民主義)的な解決策に訴えて、諸問題を解決しようとの誘惑におちいってしまうからです。
 池田 重要なポイントです。
 エイルウィン このような危険にそなえるためには、国民、とくに政治に距離をおいたり無関心でありがちな若い世代が、民主主義が統治と集団共存のための唯一のシステムである、との確信をもつことが必要だと思います。この集団共存とは、男女の本質的な平等、および人間の尊厳を認め、尊重することを基盤に成立しております。したがって寛容の精神をもち、全員が参加するという前提のもと、集団共存とは、あらゆる人の自由と人権が保障されている状態をさしています。
 池田 民主主義が集団共存のための唯一のシステムであることは、論をまちません。そして社会の不正に鋭敏な青年たちが政治に関心を深めていくべきだ、というご意見に賛成です。事情は、日本も同じです。
18  不平等をもたらさない健全な成長とは
 エイルウィン 正義なくして、平和はありません。今日の社会、とりわけ発展途上地域において見受けられる唖然とするばかりの不平等は、明らかに公正さを欠いております。客観的に見ても、理にかないません。発展を阻む要素となっているうえ、社会の安定にとって脅威となっているのです。個人的利害関係という、統制を受けない投機にのみ支えられた発展パターンが、いかに社会的不平等を永続化させ、深刻化させているかは、これまでの経験で明らかです。
 同様に貧困を克服するために、順調な成長率が不可欠であるならば、これまで軽視されてきた階層の人々のために、可能性を広げるだけでは、不十分なのです。公正さをたもつことのできる成長をとげつつ、社会的結びつきのなかで正義を守ることのできる方法を早急に見いだすことが、さらに必要とされています。
 池田 まったく同感です。市場経済に移行するなど、急激な改革を進めた国々が直面しているテーマは、社会的不平等をもたらさないでいかに健全な成長をはかるかです。この課題には、社会制度の面での対応が必要不可欠です。その意味でも指導者の責任は重大です。
 エイルウィン 私に残された力を最大限ふりしぼって、お役に立ちたいと望んでいます。いろいろな活動のほかに、とくに若者たちを対象として民主主義の重要性を認識させ、普及させる計画に力をそそいでおります。そして、ラテンアメリカ・カリブ海域社会開発委員会の委員として、同地域の貧困問題を研究し、問題解決のための最良の方法を模索しているのです。
 池田 大統領を辞した後になお、最大限に力をふりしぼって……と言われる。まさに人生に引退はない、という尊いお姿です。
 ところで、私はいつも、他人の不幸のうえに、みずからの幸福を築くことがあってはならない――と、私が創立した学園をはじめ、青少年たちに強調しています。
 仏法の考え方は、他者の苦しみに積極的に同苦していく、というものです。やはりモラルを支える宗教的信念こそが必要でしょう。日本の戦後は、宗教的なものをいっさい切り取ってきた歩みでもありました。その結果として、人々の心の荒廃は、目に見えて顕著になってきています。この期におよんでも、対症的な療法しか考えられない精神状況にすらあります。私たちの運動が、時代、社会の要請になっているゆえんです。
19  “青年の国チリ”の秘められたエネルギー
 池田 さて次に、あなたの大統領の任期期間はもちろん、その後も、チリは「ラテンアメリカの優等生」と呼ばれるほど、順調な経済成長の道を歩んでいます。その成功の要因は、どこにあるのでしょう。
 エイルウィン チリは、この十数年、毎年平均して六パーセントの成長をとげています。これは、多種多様の要因の産物だと思われますが、ごく手短に申しますと、次の五点に要約することができるでしょう。
 (1)地理的気候的環境からいえば、採掘などの面で難点があるものの、チリの領土および海域には多彩で大量の天然資源があります。そして、私たちは同民族から構成されており、その大多数がより良い生活を望み、働くことのできる若者です。
 (2)チリは、その歴史を通して国民の自由な精神を高揚させ、その結果、人間に対する敬意を誘発する力をそなえていることを示してきました。また法律好きな性向に表れているように、秩序と規律を重要視することも明らかです。私たちのチリは原理原則を大切にする、いわば法律尊重主義者の国なのです。このような特質は、国民の共同生活安定に寄与することでしょう。
 (3)チリは、衛生ならびに治安面に優れており、近代化の過程にありますが、職務に忠実で、かなり有能な行政機構と国家を有しております。
 (4)発展途上の他の諸国と比較して、新しい生産活動に着手するための十分な電力エネルギー、都市、港湾、交通面での基盤に恵まれています。
 (5)ここ数年間、採用された対外経済活動の着手、経済環境の安定の重要視、均衡をたもった成長などの政策が、貯蓄ならびに投資をうながしつつあります。
 池田 的確な分析とともに、その底に脈打つ並々ならぬ愛国心を感じます。チリは、東側のアンデスを背に南北に細長く、四千二百キロメートルも延びた国土です。北部は砂漠で、中央部は温暖、南部はパタゴニア台地につながり、じつに多様な景観を見せています。貴国訪問の折、機中からアンデスの峰々を眼下に望み、美しい国土を見ることができました。
 貴国は自然に恵まれ、しかも人口の約七割が三十五歳以下という若者の多い国です。いわば「青年の国」ともいえるでしょう。その秘められたエネルギーは大変なものです。そこで、大いなる可能性を引き出すために、何がもっとも必要とお考えですか。
 エイルウィン わが国へのご期待、うれしく思います。おっしゃるとおり、私たちが大胆なチャレンジ精神をもって取り組んでいるのが、若い世代の養成です。わが国は、比較的就学率が高く、十歳以上の国民の九五パーセントが、読み書きができるのです。しかし、その教育制度は、これまでも国の誇りでしたが、私たちの時代の要請を満たさなくなっています。実際のところ、これがチリ政府および社会の最大の関心事です。
 わが国の教育制度、とりわけ初等中等教育レベルにおいて、現代化が必要であると自覚しております。子どもたちや若者たちに、現代的な生活環境を首尾よく整えるために必要な能力、創造的な分野での才能を身につけてほしいと願っています。個人的創造性や適性面で成長をうながす一方で、チームワーク感覚や連帯感をあわせもつような教育方法を見つけださなければなりません。
 池田 まさにおっしゃるとおり、教育こそ真に未来を決定づけます。国家百年の大計のためには、いうまでもありません。さらに、人類百年の大計に立って、国際的な視野を広げる教育が今こそ求められています。
 私ども創価大学が世界各国の大学と教育交流を推進するのも、この信念からです。教育こそ私の終生の事業と決めております。
 エイルウィン とても尊いことです。その教育という事業にかたむけるご尽力は、注目と称賛に値するものであり、教育のあるべき姿に偉大な模範を示しておられます。    

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