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第七章 二十一世紀は人権の世紀――洋の…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 この章のテーマは、人権です。あなたは、大統領への就任(一九九〇年三月)にあたって、軍政期の人権蹂躙は「国家精神に大きな口を開けた傷であり、われわれが誠意と正義という基本のもとに進むとき、初めて癒せるものである」と語られました。
 また、来日の折、「チリの民主主義は、人権の保護を基礎として成立している。すべての人間の尊厳が尊重されることが、国民の活動目標となるよう努めている」(九二年十一月、早稲田大学での講演)と述べ、民主主義の土台となるのは、人権思想であることを強調されています。
 まず、このような発言にこめられた、率直な感慨をお聞きしたいと思います。
 エイルウィン 私は人間性の本質的尊厳を信じます。それゆえ、私はヒューマニスト(人道主義者)なのですが……。また、人民はみずからを、みずからの力で統治できることを信じています。それゆえ、私は民主主義者なのです。
 ヒューマニズム(人間主義)の基本的原則は、いかなる精神的、あるいは哲学的着想であれ、人間の尊厳の重視です。また、政治制度の根底に自立した人間の尊厳をすえた唯一の組織形式が民主主義です。これらは、いずれも分離不可能な本質なのです。
 まず、確認したいことは、民主的社会でのみ、ヒューマニズム的理想は芽生え、実を結ぶことができるということです。このような理想を育むのが、民主的生活を培っているかけがえのない栄養物なのです。
 民主主義を強固にし、改良していくことは、ヒューマニズムが花咲くように土壌を整えることなのです。ヒューマニズムの価値観を唱え、実践することは、民主主義の内容を深め、存在理由を完成していくことです。
 池田 チリの民衆の怒りをみずからの怒りとし、民衆の涙をみずからの涙として、祖国の復興への道を歩まれたエイルウィンさんの、民主主義に寄せる深い思いと受けとめます。
 チリにかぎらず、人権と民主化へ向かう流れは、紆余曲折が予想されるものの、パレスチナとイスラエルの和平成立(一九九三年九月)、南アフリカのアパルトヘイトの廃止などの事例が示すように、何人も押しとどめようのない時代の流れになっています。人類は人権が無視され、侵害され続けた二十世紀に、今こそ決別しなければなりません。
2  二十一世紀には新たな人権闘争を
 エイルウィン 歴史を実験室のように想定し、人間を権力が設計した実験のための便利な部品のように考えていた全体主義思想は、二十世紀末に瓦解の道に入っていきました。それは、人間的なものを科学的な
 ものとして見なす考え方です。
 一方で、今日のヒューマニズムの活動は、二十一世紀に向けて、過去においてより、はるかに大きな敵をかかえております。その闘争相手は、これまでと違って、ファシズムやナチズム、あるいは共産主義という全体主義的なイデオロギーではないのです。
 戦うべき相手は、思想の空白、純然たるプラグマティズム(実用主義)、富だけの満足、貧の苦痛です。これらに真剣に取り組むことは、人間性の特質としてそなえるべき意識や尊厳を求めている人々の心を受けとめ、応えていくことになるのです。個人の尊厳が全面的に認められ、その結果、基本的人権が認められている本当に人間的な世の中でこそ、自由と正義が効果的な力を発揮するようになるのです。
 池田 たしかに、豊かさゆえの人間の退廃があります。麻薬や覚醒剤による汚染や、生きる意味を失ってみずからの命を絶つ悲劇などが見受けられます。
 また、日本では、教育の荒廃がめだっています。一見したところ豊かな社会ですが、偏差値を目安に競争に追い立てられ、人に勝ち、蹴落とすことが結果として教えられる。競争、競争、競争で、いつしか仲間を思いやる心も失われていく。勝った者は次の重圧に苦しみ、敗れた者は挫折感にさいなまれる。子どものころから、将来が見え、決められ、人生の夢や可能性が見えてこない。豊かさとは裏腹の、精神の貧しさが顕著です。
 こうした事態を根底から解決していくことが、人権を守ることにつながっていくと思います。いかなる社会であれ、人間の尊厳をいかに守るかが、その社会の最大のテーマになってきています。
3  新しいヒューマニズムの創造
 エイルウィン そうですね。人間というものはすべて、所属する社会、宗教、人種、イデオロギーのいかんにかかわらず、存在理由を見つけださなければなりません。
 “国家の偉大さ”とか“階級のない社会の建設”とか“経済繁栄”といった、より緊急性を要すると考えられるものの達成……これらを優先させる必要があるとの口実のもと、人間の尊厳に関する基本的人権の遵守を犠牲にすることは許されないのです。
 共産主義の原型は、平等な社会の建設にありました。しかし、その絶対の正義を熱望するあまり、自由を犠牲にしてしまいました。その結果、全体主義的な非人間化が起こりました。資本主義的個人主義は市場の自由を熱望するあまり、正義を犠牲にしてしまったのです。その結果、消費社会の利己主義的な非人間化が起こりました。
 池田 それが現実です。科学技術一辺倒になり、豊かな消費世界をひたすらめざすという考えに支配されつつあります。だからこそ、人間の尊厳をしっかりと見すえた、哲学的な基盤をもった“新しいヒューマニズム”が求められます。
 エイルウィン おっしゃるとおりです。ヒューマニズムは、その着想が精神的なものであれ、哲学的なものであれ、二十一世紀にさしかかるにあたって、相互尊重と平和を達成するための、もっとも可能性に富んだ様式でしょう。
 ヒューマニズムは、さまざまな条件や信念や理想、希望を有する男女が共存している近代社会の複雑性そのものを尊重しています。そこで、寛容という精神が鍛えられることとなりましょう。
 ヒューマニズムは美徳と真実を求めます。しかし、人間とは不完全な被造物ですから、麦と毒麦のように、その存在のなかに真実とともに過ちを、美徳とともに悪徳をあわせもって生きており、美徳や真実を求めて精いっぱい戦いますが、過ちを犯した人を蔑まず、罪深い人を許すことも可能です。
 ヒューマニズムは力よりも理性を求め、かつ優先させます。したがって、暴力とは人間の尊厳とは相いれないものであることを理解し、暴力に訴えることを放棄し、また禁止しなければなりません。
 ヒューマニズムは、理性を信じ、納得させるよう努める理論を通して、真実に到達することを求めます。しかし、どのような人間も真実を絶対的かつ独占的に所有しているわけではありませんから、対話を行い、一致や同意を求めるのがより良い共存方法でしょう。
 池田 あたたかい眼で人間の機微にふれつつ、人間の内面に深く根ざしたヒューマニズム論を展開してくださいました。
 仏法の時代を超えたメッセージは、縁起論に象徴されるように、いっさいが縁起、縁って起こっている、すなわちたがいに支えあった存在であると説いているのです。
 つまり、そこにはなにひとつ不要で、むだなものはないのです。こう見ると、宇宙が慈悲の当体そのものであり、慈悲を顕在化させた創造的生命体といえるのです。
 仏法の慈悲論は、生きる意味を見失いつつある人々に、人類に、宇宙から託された使命を教えるにちがいありません。宇宙の慈悲のいとなみに参画し、生きとし生けるものを育みゆく。これこそ生きる意味なのです。私たちSGI(創価学会インタナショナル)が、世界市民の人権擁護の運動を展開するのは、人権を裏づける理念、思想からして、当然の帰結なのです。
4  相手の尊貴を疑わず、敬う心を捨てない
 エイルウィン よく存じあげております。ヒューマニズムは理想と現実の距離について、また同様に、望むものを手に入れようとするときの人間の本性の限界について理解しています。それゆえ、謙虚であることを勧め、思慮深い行動を励行するのです。
 ヒューマニズムは、人間の運命とは、ただたんに自分自身によって決まるのではなく、また、自分たちが構成している社会やその社会をともに組織し共存している他の人々によっても大いに左右されることを理解しています。だからこそ団結が提唱され、支持されるのです。
 ヒューマニズムは、人間の本質的な最大の希望は平和であることを確認しています。しかし同時にまた、平和が真実と正義という基盤のうえでのみ、しっかりと構築できることを理解しています。だからこそ真実が重視され、正義を実現しようとする熟慮が生まれるのです。
 池田 仏法では、「一切衆生の恩」と説きます。つまり今、自分がこうして、ここにあるのは無数の人々のおかげである。こう感謝していく人格があれば、人々のために尽くそうという人間性の精緻をふまえた生き方ができると思います。
 法華経には、不軽菩薩という、ひときわ傑出した人格が説かれます。不軽菩薩は「軽んじない」の名のごとく、みずからを迫害する人にさえ尊敬をこめて、こう呼びかけます。
 「私は深く、あなた方を敬います。あえて軽んじたり、侮ったりはしません。それは、あなた方は、皆、仏になることができる人たちだからです」(法華経五六七㌻、参照)――。
 ここに、ヒューマニズムの、一つの姿があると思います。たとえ迫害を受けても、相手の尊貴を疑わず、敬う心を捨てない。ぎりぎりのところでの、自己との戦いです。かのガンジーは非暴力を貫きましたが、インドの豊饒な精神的伝統を受け継いでいるのでしょう。
 他者を敬意をもって認められない、異質なものを許容できない、すべてを競争関係でしかとらえられない……。世界中に、こうした風潮が蔓延する時代だからこそ、不軽菩薩の存在と行動が、教訓的ですし、貴重です。
5  「人権」が人類社会を救うキーワード
 エイルウィン おっしゃられることは、よく理解できます。
 もし私たちが日常的な事柄の表層にとどまることなく、私たちの世界をじっくりと見つめたとしましょう。そこに暮らす人々は愛しあったりいがみあったり、また苦しんだり喜んだり、精いっぱい頑張ったり、諦めて流されたりしながら生活しています。
 無名ではあるけれども、英雄的気質に富んでいると同時に、浅ましい罪を犯す可能性をあわせもつ大勢の男たち女たちです。その日々の生活や希望や挫折、感情を理解しようと試みたならば、人間というものは、崇高でゆるぎない指導を必要としていることが分かります。
 あなたや私のような、ヒューマニストで民主主義者たろうとしている者たちは、このような希望に応える必要があります。
 仏教とキリスト教という文化的な大きな差異、哲学や政治における活動の違い、日本とチリという距離的に遠く離れている二国、また一方は先進国、もう一方は発展途上国というかけ離れた両国の現実にもかかわらず、あなたが私と同じ目標や価値観をおもちであることに、私は、心底、驚いています。
 この事実は、世界のすべてのすみずみに、著名な人物であれ、無名の人物であれ、人権が真に尊重される平和な世界を実現したいという、私たちの心からの望みを共有する人たちがともにいるのだ、という期待をさらにふくらませるのです。
 池田 私も、まったく同感です。それは、お会いしてすぐに感じたことでもありました。このような対談を通して、私の考えはさらに揺るぎないものになりました。未来の平和への確信は深まりました。
 先ほど申し上げた菩薩とは、人間すべての生命のなかに、かけがえのない価値を見いだし、潜在している善性を引き出していこうとする人格のことと言えます。仏教の出発時にめざしたコスモポリタニズム(世界主義)の理想は、大乗仏教の菩薩道となって開花しているのです。
 ですからエイルウィンさん、めざしているものは、洋の東西を問わず、同じ方向と確信するのです。
 エイルウィン 本当に、そのとおりです。
 池田 ところで、人権を守るという観点から、看過できない事実は、発展途上国と先進国との経済格差が広がっていることです。ここわずかの間に、格差は十一倍から十七倍になったという統計調査の結果があります。
 あなたがおっしゃるとおり、貧富の差をなくし、平等な発展が、社会正義にもとづく安定をもたらすことは、いうまでもないと思います。
 エイルウィン 今や人権は、一つの国家の枠を超え、国際社会が人類全体として取り組むべき課題であることは、おっしゃるとおりです。
 池田 まさしく、「人権」は、今後の人類社会の行く手をさし示すキーワードの一つです。私どもが人権問題にとりわけ高い関心をいだくのは、創価学会の歴史そのものに淵源があるからです。前にも申し上げたように、創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長は第二次世界大戦中、その信仰のゆえに軍部権力によって投獄されました。半世紀以上も前の一九四四年、優れた教育学者でもあった初代会長は、迫害を受けながらも最後までみずからの信念を貫き、牢獄の中で生涯を閉じました。初代、二代会長が生命を賭して信教の自由を守るために戦ったことは、創価学会の原点になっています。
6  「人権」が正しく行使されてこそ人類は発展
 エイルウィン 創価学会の創始者である牧口先生、その後継者である戸田先生が、信念とする価値観や道義のために生命を賭して戦ってこられたとのお話を聞くたびに、私は尊敬の念を深くいたします。『人間革命』――あなたが書かれたすばらしい著書――を拝読し、生命が危険にさらされる、あるいは犠牲になるかもしれないにもかかわらず、みずからの信ずる価値、真実、あるいは理想のために、その生涯を捧げようとしている人々が出現しているのは、あなたの信仰と強い信念に駆りたてられてのことであると知って、深く感動いたしました。
 「世界人権宣言」の前文でも述べられているように、「人類社会のすべての構成員の、固有の尊厳と平等にして譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由と正義と平和との基礎である」(高野雄一訳、『人権宣言集』所収、岩波文庫)のです。
 弱者や貧者、あるいは寄る辺なき人であれ、男女を問わず、その“固有の権利”は認められなければなりませんし、その自由は尊重されなければなりません。
 人類はその歴史を通じて、みずからの信念が真実であることを明らかにしようとして、あるいはその信念の実現のために、生涯を捧げたり、生命の危険にさらされてきた人々に敬意を表してきました。これらの人々は“英雄”とか“聖人”とか呼ばれています。
 歴史は自由を守るために生命を危険にさらしたり、犠牲になったりした人々――創価学会の創設者のような――の注目すべき、そして教訓的な事例を私たちに示していますが、それらは裏返していえば、私たちが非難するところの野蛮性あるいは残虐性の表出であり、多くの場合、権力の乱用が犠牲者を生みだすということを示していると思われます。
 池田 深きご理解に感謝します。創価学会の歴史自体が、人権闘争の歴史であるともいえるのです。その歴史のうえから私どもは、二十一世紀という時代を人権の保障が法律の条文のうえだけではなく、民衆の現実のうえで実現される「人権の世紀」としていかなければならないと主張しています。この地球のどこの地でも、人権が正しく行使され、守られてこそ、人類の発展があるのです。
7  世界はまだ人権後退の危険性のなかに
 エイルウィン 人類発展のためには、“人権”の観念と、社会生活におけるその行使が可能でなければならない、とするあなたの意見に、私は全面的に同意いたします。たとえどのように卑しい身分の者であっても、人間は人間としての本質的な尊厳をもつ存在として尊敬されるべきである、とする全人類の信念は、人々の良心として定着しております。
 私があえて申し上げたいことは、その人類の一人一人がもつ本質的な尊厳というものは、人類の進歩に深くかかわっており、それがどれほど認められ尊重されているかで、人類の進歩の度合いを測ることができる、ということです。
 しかし、現在、私たちはこのことに関して勝利に酔いしれているような状況にないことは明白です。世界には、まだ人権が認められていなかったり、蹂躙されているところがたくさんあり、いずれの国民も人権の後退という危険性と無縁ではないのです。
 池田 私も、同じ認識です。貴国チリの歴史もまた、近年まで数多くの尊い犠牲をはらってなされてきた人権闘争の歴史でありました。
 エイルウィン チリ国民は、自国が法治国家としての伝統を守ってきたことを、誇りにしております。百五十年にわたり、法治国家としての伝統を、ほぼ継続して守ってきました。それによって全国民に自由が保障されてきたと信じています。ですから民主主義が崩壊して、独裁政権が犯した無残な人権侵害は、私たちの国民としての自尊心に、大きなトラウマ(心的外傷)を残してしまいました。
 そうしたことから、チリでは民主主義を回復する過程において、人権侵害というテーマが、もっとも重要な課題として取り上げられました。真実を明らかにし、可能になった段階で、ただちに裁きを行うことが、国民相互の和解に達するための、重要で道義的かつ緊急の課題でした。そのために光栄にも先頭に立つことができた私の政権時代は、民主主義の再建をめざして、何よりもまず第一に人権問題に取り組んだのです。
8  「世界人権宣言」に根ざした司法制度を
 池田 その尊い経験のうえから、二十一世紀を「人権の世紀」としていくために、何を根本の機軸としていくべきか、また、具体的にどのような行動が有効であるとお考えですか。
 エイルウィン どうすれば世界各国および各地で人権をしっかり根づかせることができるのでしょうか? また、どのようにすれば、人権をより確固たるものにすることができて、後退させずにすむのでしょうか?
 このことに関して、絶対確実な方法があるとは、私には思えません。第二次世界大戦が終結して一九四八年十二月には、「世界人権宣言」が国連総会で採択されましたが、それ以降、ここ数十年の間に、この宣言は世界中で効力を発揮するようになりました。今日、法治国家はかなりの数となり、そこでは基本的人権が守られております。しかし、それが完全かつ撤回不可能な勝利でなければ、私たちにとっては凱歌をあげるわけにはいきません。
 人権を強化し、その効力を確実なものとして後退を許さないための基本は、国民生活での、また国際間での平和を確保することが、なによりも大切であるとの共通認識が強められることだと思います。この共通認識という点について、具体的に申し上げますと、人権を守るために法律学が作りあげた司法制度を普及し、それをより完全にしていくことが不可欠なのです。
 池田 第二次世界大戦への痛恨の思い、なぜかくも悲惨な戦争が起きたのか――それは国家が個人の人権を軽んじ、いとも簡単にないがしろにした結果である。そうした反省から、「世界人権宣言」が国連総会で採択されました。この起草作業にブラジル代表としてあたり、尽力されたブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁とは親しい友人でした。
 いわば「人類の憲法」の序文ともいうべき宣言は、体制や文化、思想、宗教の違いを超えて、人類の普遍的な価値をうたい制定されるものだけに、作業は大いに難航したと聞きました。同じく制定に尽力した一人が、ルーズベルト元米大統領夫人で、アメリカでもっとも尊敬されている女性といわれるのも、分かります。
 エイルウィン アタイデ博士は、私もよく存じあげておりますが、とても高潔な言論の雄でした。
 池田 アタイデさんは、議決の国連総会で「この席上において、すべての民族がその良識の証としてこの宣言を可決すべきだ」と熱弁をふるいました。アタイデさんは、作業を振り返って、しみじみと話しておられた。論争が紛糾して、拳を固め机を叩き、獅子のたてがみのような髪を振り乱して声をからして責めたてた東側と西側の者同士が、驚くべきことに討議が終わるとバーでにこやかに談笑したのです――と。やはり人類の崇高な歴史を刻みゆこうとする共通の熱意と、とにかく一堂に会して粘り強く語りあう大切さをいったものです。
 ともかく三十カ条にまとめられた「世界人権宣言」は、非常に深い内容で、現在の視点で見ても、何かをつけくわえたり、削除したりする必要のないものです。
 エイルウィン イタリアのノルベルト・ボルビオが言っていますように“人権に関する諸権利というものは、それが何で、どのくらいのものなのか、その本質、根拠が何であるのか、自然にそなわったものなのか、それとも歴史的なものなのか、絶対的か、それとも相対的か、などということはあまり問題ではなくして、それらがしばしば侵害されないためには、確実なものとして保障されるためには――宣言文の重々しい文言にもかかわらず――どのようなより良いやり方があるのかが大切である”のです。
 そのためには人身保護法や、その他の保護手段、すなわち憲法や人々の自由を保障するための法律を定め、基本的人権が侵害されたり、蹂躙されている人々を保護する権限を司法裁判所にあたえるやり方がとられるべきでしょう。いくつかの国々では、このような目的でオンブズマン制度が作られて、日常生活における人権の保護をさかんに奨励しております。
 池田 “どのような良いやり方があるのかが大切である”――実際的に、どう機能させていくかが、大事ですね。
9  国連は超国家的な人権審査会の創設を
 エイルウィン こうした司法制度は、これまでの経験から申し上げますと、法治国家としての機能がいったん崩壊してしまうと無力なもので、独裁あるいは
 専制国家が突然、出現してしまいます。もし、人権というものがその本質からして万国共通なものであるからには、その権利――国家の権利より優先的で大きなものである人間の権利――の国際的な保護が認められ、強化されることが不可欠でしょう。そのためには、その有効性を監視する国際的な、あるいは超国家的な機構を創設し、改良していくことが必要です。
 たとえば、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ人権委員会といったもの、とりわけヨーロッパ、アメリカ人権審査会といったものが必要ではないでしょうか。私の国の経験から考えますと、国連加盟国のいずれかで人権侵害の可能性があるならば、それを調査して、その被害者を保護するための特別委員会を国連が設置し、人権を回復するような具体策をとることが大切です。

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