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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 権力の腐敗を正すものは何か――…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

前後
1  池田 政治の世界に倫理やモラルを盛り込むということは、あなたの年来の主張でもあります。東京での初めての会談(一九九二年十一月)でも、あなたは言われました。
 「権力には『倫理』がともなう必要があります。権力は人々を『善』に近づけるためにあります。『悪』に近づけるためではありません。その(正しい)目的のための『手段』にもまた『倫理』と『道徳』がともなわねばならないと思います」
 まさにご指摘のとおり、「権力」は民衆に奉仕するためのたんなる「道具」でなければならない、ということでしょう。「絶対的権力は絶対的に腐敗する」とは、アクトン卿の言葉です。これは、歴史と社会を貫く一つの法則かもしれません。
 エイルウィン どのような活動も同様だと思うのですが、政治も人間性が本来かかえもつ欠点に苦しみます。人間は弱き生き物で、愚かで罪深く、しばしば聖パウロのように望む善行はできず、望みもしなかった過ちを犯してしまうものなのです。このようなことは、人間生活のあらゆる面で起こりますが、当然のことながら、政治の世界においても例外であろうはずがありません。
 政治家の仕事をこなす能力、知性、知識、奉仕者としての使命感、公にするところの価値観や方針や理想に対する強い責任感、気質、人々との交際の才能などが、行動の結果を明確に左右する要因です。政治家の場合、このような要因のうえに、さらに求められるものがあります。それは、権力に対する感受性とでも言えましょうか。
 池田 権力に対する感受性とは、権力を行使する側は、つねに権力の行使がどのような影響と結果をもたらすかを、行使される側の立場に立って考慮しなければならないということですね。
 エイルウィン そのとおりです。もちろん、権力というものは、政治のみに特有な現象ではありません。他の分野でも、同様にあります。企業や社会的組織、官僚組織、軍隊、宗教団体の内部においても。しかし、いずれにおいても、政治における体制に結びついた機能行使のような重要性はありません。
 政治家の仕事は当然のことながら、政治への従事ですが、国家や県のレベル、あるいは市町村レベルにおいても政治的機能に直接、関連した介入を必要とする任務を引き受けたとき、たとえば国民投票や任命などで権力の行使にくわわることとなるのです。そのことは、そのような状況下にいる人たちの生活や人格に圧力をかけて、ある程度、地位を押しつけることになります。
2  なぜ、絶対的権力は絶対的に腐敗するのか
 池田 そうですね。だからこそ、権力を行使する立場にある人には、自己を厳しく律することが求められます。
 エイルウィン 望む、望まないにかかわらず、権力は、特権をあたえます。権力を行使する者は、“閣下”とか“猊下”と呼ばれたり、“高潔な”というような敬称をつけられて、特別あつかいを受けます。日常生活においては、いちばん良い位置を占め、特別なサービスや恩恵を受けて多くの人がもてはやしてくれます。一方で、不利な状況にあることや対立している事柄に関する情報は隠されたり、歪曲されて伝えられたりします。このような行為によって自尊心をくすぐられたり、虚栄心をあおられたりするのです。
 もし政治家が人間としての謙虚さや人格的な強さをもっていないときには、このような環境におかれることにより、本来の大きな理想をなおざりにしたり、忘れてしまったり、また確固たる信念を揺るがしかねないのです。
 池田 日本の政治家にも、よくいます(笑い)。いや、もっとひどいかもしれません。
 エイルウィン あなたは先に、アクトン卿の言葉、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」をよく思い起こしてくださいました。ここからモンテスキューは、その学識の深さで、“権力が権力を抑止する”ように、異なる機関に権力を分配することの必要性を指摘したのです。
 近代の民主主義国家では、公権力の分散、行政手続きの管理、公共事業の広報や監査の仕組み、あるいは世論やマスメディアなどの監視を受けることによって、権力の乱用を抑え、国家の腐敗を防いでいるのです。
 もっとも社会全体が明白な形で、あるいは暗黙のうちに、権力の乱用の過ちを受け入れていないかぎりにおいてですが。
 池田 権力を監視するという、社会全体の明確な意思表示は、権力の乱用を防ぐために必要不可欠です。私が青年時代に師事した恩師の戸田先生は、「青年よ、心して政治を監視せよ」と言いました。日本人は、言いたいことも言わずに、なあなあで事をすます傾向があります。万事に右へならえで、他人の眼を気にする一方、お上には逆らうな、という抜きがたい姿勢がみられます。
 ですから日本では、たえず体制側を擁護する宗教、思想なり信条が重要視され、それ以外は軽く見られ否定されてきました。その結果、国家主義の横暴に歯止めがかからず、戦前の国家神道と結びついた軍部政府の暴走を生み、一国の敗戦のみか、アジアの人々に戦争の惨禍をもたらしてしまいました。
3  権力は国民に奉仕するための手段
 エイルウィン 権力がはらむ最大の危険は、政治を目的化してしまうことです。マキャベリの考え方そのもので、彼は権力を獲得し、維持し、増強させるために、たとえ悪辣で犯罪的であろうとも、あらゆる手段を用いるよう王子に勧めました。これを受け入れた瞬間から理想は忘れられ、信条は捨てられて、政治はたんなる権力闘争となってしまうのです。それが、政治の退廃です。本来、政治の目的とは公共の福祉であり、権力とはそれを達成するための一手段にすぎなかったのですが……。
 池田 おっしゃるとおりです。崇高な目標に向かう場合には、手段もまた崇高でなくてはなりません。目的の前に、手段を堕落させてはならないのです。
  目的を忘れ手段を独り歩きさせてもいけません。
 エイルウィン 政治の世界は、成功したかどうかによって評価されます。成功の度合いは、権力の保持の程度によって測られます。政治的勝利とは権力を獲得し、保持することです。もし、権力を失えば、どのようにして国民に奉仕することができるでしょうか。でも、国民に奉仕するのでなければ、権力が私にとって何の役に立つのでしょうか。
 この矛盾を解決しようとするならば、あらゆる人間の活動と同様に、政治は人間が本来的に有している善や悪と連動しており、道徳に左右される、ということを思い出すべきです。また同様に、国家の生命は人間の生命を超えて時間的広がりを有しています。ですから、歴史的展望のなかで出来事の善し悪しの判断をせざるをえない、ということも思い出すべきでしょう。
 池田 今おっしゃった人間が本来的に有している善性と悪性、ということについてですが、じつは仏法の洞察は、その一点から出発しています。
 あなたが言われるように、政治においても人間は、善と悪をあわせもつ存在であることを、深く考えていくことが大事だと思うのです。
 エイルウィン 国民を不幸な状態にしながら、力ずくで権力を維持しているような統治者が成功したと言えるでしょうか? 権力を失ってしまったけれども、国民の生活環境が向上した場合は? 権力を保持することができても、国民を反目させ、憎悪や暴力に駆りたててしまったならば? 国民の団結を守り、社会的平穏を得るのと引き換えに、敵対者に道を譲ることを選ぶのは、成功といえるでしょうか?
 私としては、次のように考えております。政権の真の成功というのは、その政策と実施が国民の基本的要望を満たすときに平和で正義があり、自由で快適な生活を可能にさせ、また祖国の独立や発展、信望が重要視されるようになるのだということです。このようなことは、一つの国家にとって本当に大切なことですが、政権を維持する者にとって、ということではないのです。
 成功は権力のなかにあるのではなく、また権力が政治の目的でもありません。権力は、あらゆる優れた政治の真の目標である公共の利益を獲得するための、一手段にすぎないのです。
4  権力の横暴に勝つ人間の内発の力
 池田 横暴な権力に打ち勝つには、民衆自身が強く、賢明にならなければなりません。圧制と戦い、勝利したご経験から、あなたは民衆による権力の監視、コントロールなど、新たな民衆運動を進めるうえで何が必要と考えますか。
 エイルウィン もし、ある共同体の統治者や官僚たちが公共の利益を展望し、誠意をもって論じ、維持するとしたならば、その共同体は進歩することでしょう。不幸にも、権力というものは必然的におごりや堕落、権威主義をもたらすものなのです。あなたが適切におっしゃっているように、民衆自身が強く賢明にならねばなりません。この特性に私は、もう一つだけつけくわえたいと思います。それは各人が、一人一人がかかわっている事柄へ大いなる関心をもち参加することです。
 このような特性は、グループや政党や宗教団体の運動のみの成果ではありません。社会的ネットワークを形成した多くの組織の一つ一つの中においても、指導者が権力を得たことに思いあがり、指揮していくうえでの展望をなくしてしまう危険があります。あらゆる共同体は、私が以前に民主的文化と名づけたものに似通った、各分野からなる多彩な組織を備えるべきです。
 アブラハム・リンカーンが述べたように、民主主義は、さらに民主化されることによって、改良されるのです。この意味で社会は、参加請求が叶えられるような、市民権を行使できる個人の組織を備えていなければなりません。
 池田 同感です。参加と関心も、人間の側から“内発の力”を汲みだすのだと思います。さまざまな内なる苦悩や葛藤、逡巡を最終的に乗り越えるものは“内発の力”です。信仰や良心の叫びといわれるものも、そうでありましょう。
 宗教を含め、あらゆる制度・システムがおちいってきた問題は、制度的な側面が硬直化することによって制度が逆に人間を拘束して、この外発的な力が内発的な力を抑えこんでしまうことです。
 民主主義とはある次元からいえば、内発的なものを粘り強く育んでいく営為といえるでしょう。
5  政治に不参加の社会には不正義が横行
 エイルウィン そのとおりですね。民主主義を保障することは、正義、真実、倫理、道徳的価値観を保障することに通じます。民主的社会とは、公共の利益獲得を計画・準備する、自由で平等な団結した男女の共同体です。民主国家とは、自分自身の生活およびその生活の一部を形成している集団生活を活性化することができる自由や意志、知性をそなえた人間社会であるということです。
 私たちには人間の本質としてつねに差異があり、異なった視点があります。古い格言に「見つめる眼鏡のガラスの色による」とあります。客観的とはいえ、事実も時と場による、というようなことがしばしばあります。
 似通った者同士が自然に集まってしまったりしますが、私たちはイデオロギーや信条、政治あるいは哲学的概念がいかなるものであれ、公共の利益を求めていこうという願いを共有することで、一致すべきなのです。
 池田 仏法には「世間の相常住なり」と説かれております。世間の相とは、社会におけるさまざまな差異のことです。民族、人種、性別の差や、個人の特性を意味します。
 それらは、おっしゃるとおり、「見つめる眼鏡のガラスの色による」のです。そのうえで、すべての人々が本来的な特質、才能、個性をつねに最大限に発揮していく社会を理想とするということです。
 くわえて申しますと、仏法では「出世間」とも説きます。これは、利害や愛憎といった個別の執着を打破し、さまざまな差異を超えることをめざすのです。
 そのためには、力強い主体性の確立がなければなりません。自己を統御する意思、とも言えるでしょう。民主主義を担う民衆が、鏡にみずからを映すように、利害を超えて公共の利益を映しだしていかなければなりません。
 エイルウィン 統治者たちが本来の任務から逸脱したり、特権乱用の誘惑におちいってしまうのも、社会が政治に積極的に参加していないことに原因があります。
 前にも述べましたように、チリでは一九七三年から一九九〇年まで軍事政権が統治を行い、嘆かわしく苦しい日々を過ごしました。この間、数えきれないほどの人権蹂躙が行われたのですが、政府がマスメディアをコントロールしていたり、検閲を行ったりしていたため実情が広く伝わらず、世論の知るところにはいたりませんでした。
 このような不正義がまかり通り、人権が侵されている状態は、軍事政権に反対する勢力や犠牲者たちを擁護する弁護士たちから告発されているにもかかわらず、大多数の市民は目を向けようともしませんでしたし、司法機関も調査をしませんでした。
 また政府のコントロールという基本的要素についても考えざるをえません。もし政府のコントロールがあるとすれば、それは、マスメディアが統治者たちの活動を社会に報告することが可能であるようにするのが唯一の役割なのです。
6  民主主義に不可欠な自由なジャーナリズム
 池田 自由なジャーナリズムの存在が、民主主義の生命線であるということですね。
 エイルウィン ええ。自由なジャーナリズムの存在が、民主主義を実践していくうえで、不可欠な条件なのです。実際のところ、民主主義というものは政治権力が統治されている住民自身の意思に由来していて、社会集団の意思を反映して、公共の利益を実現しようとする任務をおびている社会共同体の一形態です。
 そして民主主義が機能していくためには、社会集団や統治される人たちの共同体が、社会で起こっていることや被害をあたえている問題、政府の課題やさまざまな権利について、たえず正しく信頼にたる情報を得ていることが不可欠なのです。
 池田 残念ながら、意図的なメディア・コントロールというものは、いつの時代にもあるようです。釈尊の時代、仏を誹謗中傷する輩のデマに対して、仏は「それは自分自身の口を汚していることにほかならない」と言ったと、律蔵に説かれています。阿含経に、「もし人、故なくして、悪語をはなち、怒罵をあびせ、清浄無垢なる者を汚さんとなさば、その悪かえっておのれに帰せん。たとえば、土をとってその人に投ずれば、風にさかろうてかえってみずからを汚すがごとし」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)とあります。
 悪意の言動、誤った行動は、やがて必ずその人自身に帰ってくる――との仏法の達観です。ですから、私どももいわれなき非難、中傷をされてきましたが、私は歯牙にもかけておりませんし、明鏡止水の澄みきった心境でおります。
 大きく成長し、伸びゆく民衆の団体には、つねに嫉妬、流言蜚語の類があるものです。
 エイルウィン もって銘ずべしで、胸に入るお話です。しかるべき正しい情報を得て初めて、国民は裁決を迫られたり統治者を選んだりするときに、思考をめぐらし決断できるようになります。社会制度のかかえる問題のあり方について、国民自身の参加が可能となり、態度を明らかにすることができるのです。
 決断し参加するためには、国民は十分な情報を受けていなければなりません。正しく信頼にたる情報を。そして、それがマスメディアの役割です。共同体が正確で信頼にたる情報を得ていくことにより、“世論”というものが形成され、権力を監視しコントロールしていくための、より効果的な仕組みができあがるのです。
 池田 軍事政権時代を経験されただけに、重みをもった一言、一言です。第二次世界大戦中、創価学会が軍部権力の弾圧を受けたときも、情報は権力によって一方的にコントロールされました。信教の自由が決定的に侵害されていることなど、国民は知るよしもなかったのです。
 エイルウィン ですから、情報や情報源の利用は、ジャーナリズムの権利であると同時に、情報の受け手である社会の権利としても重要なのです。共同体は、真実を、あらゆる真実を、そして真実のみを知る権利をもっています。
 その意味では、どのような視点であれ、眼鏡のガラスの色であれ、報道する者の主観的な見解であれ、ジャーナリズムには、起こったことの真相を伝えるために可能なかぎり客観的であろうとする責任が、道徳的かつ不可欠なものとして要求されます。
 要するに、社会統治とは先人たちが呼んでいた“公共物”と言うべきものであり、統治者や権力機構は、完全に社会に属する“公共物”の管理者のようなものであり、日の光の下で、その管理を行う義務を負っているのです。彼らは社会に対し、情報を公開する義務を負っており、社会はその情報を要求する権利と義務を有しているのです。
 池田 日の光の下で――とは、すばらしい表現ですね。リーダーは日の光に照らして曇りなく、ということですね。また、日の光の下でとは自由なジャーナリズムの下で、ということでもあるでしょう。
 さらに一言申し上げれば現在においては、ジャーナリズムは第三の権力と言われるほど、それ自体、巨大な存在になっています。マスコミとして、適正な報道を行うために、報道内容をチェックするオンブズマン(行政監査専門員)のような機能をもつことも必要になってくるでしょう。
7  よい政治家とは、すべてに奉仕する存在
 池田 ところで、「権力と哲人政治」に関してですが、ソクラテスやプラトンが追求したテーマがこれでした。プラトンは、アテネの衆愚政治が権力の行使を過ち、ソクラテスを殺したことから、この“権力と正義”の問題に深い思索を巡らせた。そして、晩年の大作『国家』において、次のように論じたのです。
 「正しく真実に哲学するものが、政治的指導者になるのでなければ、人類の不幸は止むことがないだろう」(藤沢令夫訳、『プラトン全集』11、岩波書店、参照)
 「哲人政治」こそプラトンの結論でありました。権力をコントロールする「倫理」「道徳」を、みずからのうちにもつ政治。それはやはりプラトンの説くように傑出した指導者の出現なくして、ありえないのでしょうか。
 エイルウィン 私はとてもプラトンを尊敬していますが、国の統治は、政治家の仕事であり、哲学者の仕事ではないと考えます。
 その一方で、良き政治家は行動の着想を得たり、方向づけするための明確な知的・道徳的概念を有していなければならない、と私は考えています。
 統治の術策というものは、たいへん複雑な作業です。たんに知識のみ(国内外の現実、その問題と可能性、人間性や歴史、経済、社会学や心理などに関する)では務まるものではなく、統治者の行為を導く揺るぎない方針や、明確に定義づけられた概念をもっていなければなりません。
 池田 私が強調したいことは、政治家は確固たる哲学をもってもらいたいということです。現代の政治家は、根本のその点が、もう一歩であると感じられてならないのです。
 エイルウィン 統治活動の目的は、公共の利益を獲得することです。それは持続的な作業で、日々変化しゆくものであり、決して終わりはないのです。その目的達成のためには、国がなにを必要としていて、何が可能であるかについての明確な考え、意思統合の能力、毅然とした性格、とりわけ公共奉仕の精神をもっているべきでしょう。政治家たる者は、何が公共奉仕であるかを理解していなければなりません。“奉仕するための存在”で“奉仕される立場”にはないのです。
 そして政治家にかぎらず、すべての人はみずからに一つの問いかけをしなければなりません。自分の人生は、何のためにあるのか? 私たちがここにいるのは、エンジョイするためにいるのか、自分たちの欲望を満たすためにいるのか。それとも人々に奉仕するためにいるのか――。
 私の答えは、明快です。――私たちは“仕えてもらうため”にいるのではなく、“仕えるため”にいるのです。ですから、若者に贈る人生のモットーをたずねられたら、先のことを要約して、「人生を奉仕の仕事としてとらえ、他者に対して、人類に対して、奉仕作業としてとらえねばならない」と答えます。
 池田 「人生を奉仕の仕事としてとらえる」とのモットーに、心から賛同いたします。私自身、若き日に仏法の道に入って半世紀、人々への奉仕を心がけ、その幸福のために行動してきたつもりです。創価学会が今日あるのは、リーダーが会員奉仕に徹し、人々の不幸を決して等閑視してこなかったからです。
8  民主主義を選択する理由
 エイルウィン 結局のところ、任務を遂行するための政治家の能力、知性、知識、奉仕者としての資質、みずからが宣言する理想や行動原理や価値観に対する大きな使命感などが、政治家の行動結果に決定的な影響をおよぼす要因なのです。
 率直に申しますと、私は無分別な大衆に追従されている指導者や偉大な統率者が、自分の意思を国民に押しつけているのを、あまり歓迎しません。
 歴史を見ると、多くのカリスマ的指導者が、国を統治して偉大な事柄を達成していても、ほとんどつねにその統率者がその権力を乱用しがちであったことが分かってきます。私は偉大な統治者というものは、公共の課題や構想に関して意思を統合できる人たちであると思います。
 だからこそ私は、民主主義を選択します。フランスのジョルジュ・ブルドー先生がおっしゃったように“政治秩序の基本として自由な人間の尊厳を提唱している”のが、唯一の統治の形態だからです。そのような形態のなかでは、統治者の権限は、統治される人々の意思にもとづいているのです。
 池田 よく理解できます。私も同じ考えです。当然、一人の卓越した統治者による政治よりも、多数決原理と制度的な調整能力を背景とする民主主義のほうを信頼する立場をとります。
 “民主政治は大きな善はなしえないが、少なくとも独裁のような大きな悪のないことをもって満足すべきである”と説くトクヴィルなど、その典型でしょう。
 民主主義は何事も“中ぐらい”で我慢せよ、というわけです。ハンス・ケルゼンやカール・ポパーなども、トクヴィルと同様の意見のようです。
 エイルウィン アメリカの民主主義に関するトクヴィルのすばらしい研究は、さまざまな真実を私たちに教えてくれます。そのなかでも、民主主義制度が最良の政府を保障するものではない、ということは印象的でした。
 私は同様に他のどのような政治体制も、最良の政府を保障していないと考えます。民主主義は、政府が質的に並以下になったり腐敗したりしてしまう危険性に対して、人々の自由や野党の活動、定期的に行われる選挙などを保障することによって、むしろ対抗したり変革したりすることを可能とする制度なのです。
 池田 私はトクヴィルらの説とプラトンの説を、必ずしも二者択一的にとらえる必要はないと思っています。
 むしろプラトンの「哲人政治」の理想を、政治における道義性、精神性の問題として位置づけたいのです。
 そうすれば、ペレストロイカ(改革、再建)を「政治と文化の同盟」(クレムリンでの私との対談のさいの言葉です)としたゴルバチョフ氏らの試みとも、深く通底しているはずです。ゴルバチョフ氏は、その後、モスクワでお会いしたときも、「政治の世界は、自分が考えていた以上に非道徳的な世界であった」と述懐していました。
 あなたは、政治の世界に道義性、精神性を復活させるために、どのような方途が可能であり、有効であるとお考えですか。
9  時代は一人一人の内面の改革を要請
 エイルウィン ゴルバチョフ元大統領が政治の世界における純粋性や道徳性の欠如に関して、あなたに述べた意見には、その歴史的課題は最大の評価に値するものの、同意しかねる面があります。もっとも旧ソビエト連邦の諸国で起こったことに関して意見を述べるほど、事情に明るいわけではありません。しかし先に述べたような意味で、それを普遍化することは不可能だと私は考えます。
 私はみずからの経験を通して、民衆の道徳性はその社会の一般的道徳性のたんなる反映にすぎず、それ以上でも以下でもないと受けとめています。人間が行うさまざまな職務のなかで、政治の世界は他の分野と比較して、不正や腐敗に対する倫理的非難を、より繁雑に受けていることは確かです。このことは、私の判断では、以下の二つの事情によって説明がつくかと思われます。
 一つは政治活動というものは、その性質上、公的で集団の利害にかかわっているため、あらゆる目がそそがれており、いかなる間違いや過失もただちに発見され、告発されやすいこと。もう一つは、政治活動が探求するところの公共の利益という目的を実現するために、必要な手段である権力とかかわっており、権力は一般的に大きな情熱や野心、嫉妬や誘惑や不安、乱用や譴責を引き起こすからだと思います。
 池田 民衆の道徳性は、その社会の一般的道徳性のたんなる反映にすぎず、それ以上でも以下でもない、ということは分かります。
 社会を構成する一人一人が、いかにレベル・アップしてみずからを高めゆくか。民衆の自発の運動が求められるゆえんです。また、社会や時代の道徳性の指標となるものを、だれが掲げていくかが問われると思います。道徳性は、知的・心理的成熟ともいえるでしょう。
 振り返って見ますと、この二十世紀、人々は外側のみの変化や豊かさを求めてきました。いや、狂奔してきたといってよいでしょう。人々は気づき始めました。一見したところ豊かになったように見えて、じつは精神は貧しくすさんでいるのです。外側の改革だけでは、完全に行き詰まってしまいました。環境問題が、その良い例です。
 私は、真の豊かさを求めるには、人間の内側からの改革が要請されると、力説したいのです。そろそろ人類は、外側から内側へ、無限の可能性を求めて、探求の旅に出るべきではないでしょうか。そして崩れない道徳性の確立をめざし、内側から変革の力を汲みだすべきでしょう。                 

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