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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 政治と宗教のあるべき関係――人…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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2  基本的人権は「信教の自由」の保障から
 池田 なるほど。日本でも長く信教の自由が抑圧されてきた歴史があります。
 エイルウィン 基本的人権は、なによりも信教の自由に裏打ちされるものです。自分の信仰を自由にもてること、そして、自分の信仰の儀式を自由に障害なく実践できること、これが信教の自由です。
 かつてチリにおいて、カトリック教会における結婚以外は無効であり、またカトリックの墓地ばかりでしたから、カトリックを信仰していないで亡くなった人は、お墓を手に入れることが困難でした。
 やがて大きな論争が巻き起こりました。これが、かの有名な世俗の法律制定論争と呼ばれ、一八八〇年代に民事婚姻法ならびに非宗教的墓地法が定められ、婚姻制度と墓地を、カトリックから独立させました。これによって、どんな宗教をもっている人にも開放された、国家が維持する墓地の存在が認可されたのです。
 このプロセスは、チリにおいて一九二五年、憲法の公布をもって終わったのです。この憲法で政教分離がうたわれ、他の宗教を信じることも自由になりました。もちろんそれは、良い習慣、公安を維持できるうえでのことです。
 池田 よく分かりました。ところで、あなたは初めての出会いのとき、言われました。
 「私は、キリスト教徒として、人間は神と人間に奉仕するために生まれたと信じています。この考えを、政治の世界で生かすならば、政治とは人々のため、公益のためにこそあると、私は思います。この信念は、たんにキリスト教をベースにした者のみの政治思想とは思いません。他の宗教的信念をベースにしても、『正しい政治』については、同じ考え方になると信じます」(九二年十一月十九日の会談)
 「対話」と「人権」を徹底して尊重するあなたの政治活動が、確固とした宗教的信念にもとづいていることがよく分かります。私は、一人の信仰者として、生き方の面で深く共鳴をおぼえました。
 エイルウィン 感謝します。私が参加し、長年にわたって指導者を務めてきたキリスト教民主党は、宗派に属した政治組織ではありません。その指針は、キリスト教のヒューマニズムの道義や価値観に着想を得ていますが、党員に宗教的同一性を要求していません。キリスト教民主党の大部分はカトリック教徒ですが、そうでない人も多くいますし、宗教的権力組織とは明確に一線を画して政治的指針を決定します。
 私はこのようなやり方が適切であり、このようでなければならないと考えております。これは、宗教・政治間にある本質的相違に対応しているのです。宗教が人間の精神的尊厳に重大な関心をはらっている一方で、政治は国の統治に専念するのですから。
 キリストはユダヤ人たちがローマ皇帝に税を納めるべきかどうかをたずねられたとき、このような差異についてはっきりと答えています。
 “シーザーのものはシーザーに、そして神のものは神に”と。
 私の考えでは、そのことが政治運営上、宗教的・精神的信念が影響をあたえない、ということを意味していないと思います。これは最終的に社会において支配的で、その社会の文化を構成している思想や価値観の表出なのです。
 国で個人主義、あるいは共同利益、物質主義、あるいは精神性、攻撃性、あるいは平和主義が支配的であるかという事実が、必然的にその国の政治活動に反映されるのです。
3  “人のふるまい”に現れてこそ真実の評価
 池田 政教分離は、近代社会が多大な代償をはらいながら獲得してきた英知であります。これは当然のこととして、宗教をたんに個人の内面的私事として閉じ込めておいたのでは、人間にとっても社会にとっても、生産的ではありません。また、それでは真実の宗教とはとうていいえない。
 ソ連崩壊後のロシアで、今いちばん人気のある哲学者といえばニコライ・ベルジャーエフでしょう。彼は、ますます世俗化を強めつつある近代社会の精神的貧困を嘆きながら、大胆にも「新しい中世」といった、豊饒なる精神性の横溢する時代をも展望しています。
 宗教的雑居性、シンクレティズム(諸教混交)の傾向がいちじるしい日本などは、政治と宗教についての正視眼の思潮がなかなか育ちにくい土壌ですが、あなたはどのようにお考えですか。
 エイルウィン 先ほど述べましたように、現実に照らしあわせて見ますと、政治の質には、その国の国民の精神性、宗教性、およびそれらにともなう道徳性が重要な関連性をもつとの点で、あなたがあげられたラダクリシュナン博士の考えに、私は同意します。
 インドにおいてガンジー自身が行った、かくも豊かで人間性に満ちた刺激をあたえる模範も、おそらく文化的特性が本質的に異なる国においては、同様の成果を生みだすことはなかったでしょう。
 結論を申し上げますと、宗教が人間の精神性の向上をうながして、道徳的克己や人間同士の理解や団結や平和の意義を高めているかぎり、政治の質を向上させることに明らかに貢献しています。反対に現在のイスラム圏のいくつかの国で見受けられるように、狂信的行為や宗教的旧体制保護主義のセクト主義そのものをもたらすならば、文明化された政治的共存を危機的状況におとしいれる脅威となるのです。
 池田 宗教というものは、人のふるまい、現実の行動に現れてこそ、真実の評価をくだせるものです。また、日々の生活態度や人生への取り組みに反映されない宗教は、宗教として機能していないと言えるでしょう。仏典に「釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」というのも、そうした宗教の本質を説いたものです。
 エイルウィン あなたがおっしゃる基準に同感しますし、共感をおぼえます。キリスト教の福音書の中にも「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」、つまり人はその行動によって判断される、とあります。神よ神よ、と言いさえすればよいのではありません。または大げさな身振りをしたり、宗教的な行為あるいは厳粛な言明で十分とするのではなく、本当の宗教性は人のふるまいと、その人が信奉する宗教との間にある首尾一貫性で評価すべきものです。キリスト教の世界では、私たちは信仰心を標榜していても、そのふるまいが、言っていることと首尾一貫していない人のことを、偽善者と呼んでおります。
4  他者への尊厳通し自身の尊厳を深める
 池田 社会に果たすべき宗教の役割は、そうした観点から、ますます厳密に問われていくことでしょう。他者に奉仕することは、自身をも高めることなのです。偉大なヒューマニズムの時代を開かないかぎり、人類の未来は危ういものになりかねません。
 エイルウィン あなたの発言を引用させていただきたいと思います。
 「日蓮大聖人は『一人を手本として一切衆生平等』と仰せですが、それは、一人の人間の生命を、内在的に徹底して掘り下げていったところに立ち現れる透徹した平等観であり、尊厳観なのであります。内在的であるがゆえに、そこからは民族や人種等、一切の差別は取り払われております」(一九八九年一月、第14回「SGIの日」記念提言「新たなるグローバリズムの曙」。本全集第2巻収録)
 カトリックは、個人の生命を変革し、神を想い浮かべ、神に同化するときに、救済の戦いとなります。カトリックの信者は、他人への奉仕のなかに聖性を見いだします。この聖性は、キリストが何がもっとも大切な戒律であるかと問われたとき、「汝悉く神を愛せ。
 そして隣人をわが如くに愛せ」(マルコ伝三十:三十一)と答えたその宣教に投影されています。
 池田 たしかにあなたが指摘されるように、仏教とカトリックという二つの信仰体系の間にも、ある意味で共通する点があると私も思います。
 その一つは、両者が自己の精神的完成をめざす宗教である、という点です。厳密に言うならば、カトリックは「神の心」にかなった生き方をめざし、仏教は「仏の説いた法」にかなった生き方をめざすという意味では微妙に異なるわけですが、自身の生命をより大きなものへと変革しようという志向をもつ点では、一致していると考えられるのです。
 もう一点は、他者への思いやりの心――カトリックで言うところの「愛」であり、仏教で言うところの「慈悲」――を、二つの宗教がともに重視していることでしょう。あなたが引いた「マルコ伝」の一節は、カトリックの説く「隣人愛」の精神の結晶ともいうべき言葉であり、そこにはたんなる他者への“同情”などといった次元を超えた、人間性の輝きが感じとられます。
 仏教の説く「慈悲」には“抜苦与楽(苦しみを抜き、楽を与える)”という意義がこめられており、この「隣人愛」とはやや趣を異にしますが、私はこの二つの精神的営為のなかに共通する、自身の尊厳を通し他者の尊厳に気づき、他者の尊厳を通し自身の尊厳への思いを深めていく――という充溢した魂の往還作業を見いだすのです。
5  閉塞の時代を打開する「宗教間の対話」
 エイルウィン ラテンアメリカでは、カトリックは共同社会に関心をおき、プロテスタントは個人にもとづくという点で、アメリカやヨーロッパの北部とは文化的に異なります。
 ラテンアメリカに併存するカトリックとプロテスタント双方には、類似した教義も多くあります。このカトリックとプロテスタントは、日常生活のなかにそれぞれの宗教性が息づいている二つの宗教的文化であります。
 宗教が過去において人々を分離し、現在において人々を結合させる一つの機会になっているのは、なぜであるとお考えになりますか。
 池田 現代のような、“精神の大空位時代”を迎えて、心ある人々は、自身の存在意義を確かめようと、また人生の意味を問い直そうと、あらゆる思想や宗教についての吟味を始めるようになりました。
 つまり、人間精神の危機が、宗教間の接近、そして「対話」をうながす契機となってきているのです。閉塞した時代を打ち破る鍵となるものを真摯に模索するなかで、「宗教間の対話」も試みられるようになってきたのではないでしょうか。
 宗教が長い歴史のなかで、いつしかわが身をおおうようになったドグマ(教条)を離れ、その原点に脈打つみずみずしい宗教的生命――哲学者デューイのいう“宗教的なもの”――を謙虚にそれぞれが見すえていきながら、たがいに「対話」を重ねていくなかで得られる実りは、決して少なくないと思うのです。
 かつてトインビー博士は、「今から一千年後の歴史家が、この二十世紀について書く時がくれば、自由主義と共産主義の論争などにはほとんど興味をもたず、歴史家が本当に心奪われるのは、人類史上初めてキリスト教と仏教とが相互に深く心を通わせた時、何が起こったか、という問題だろう」と述べております。私は博士の巨視的な見方に意を同じくするとともに、各宗教間の対話、なかんずく仏教とキリスト教の対話が、今日ほど大切な意味をもっているときはない、と考えています。
 また詳論はしませんが、一九九五年(平成七年)に制定した「SGI憲章」においても、こうした「対話」の精神がその重要な骨格をなしており、“人間性の尊厳に対する危機”には宗教間の対話をもとに、宗派を超えて共闘していく方針を明確に打ち出していることも、付言しておきたいと思います。

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