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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 大統領官邸の石炭の彫刻――「誠…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 チリの民主政権の誕生は、「紙と鉛筆(投票)」、それと「歌(音楽と詩)と握手(立場を超えた民主勢力の連帯)」の勝利とも評されていますね。
 エイルウィン ええ。チリは民主主義的立憲国家を再現して、私たちを分裂と憎しみへと向かわせた教条主義の痕跡をとどめる長い歳月を、後にしつつあります。
 私たちは、新しい時代が私たちにあたえてくれる大胆な挑戦に、手際よく取り組んでいきたいとの共通の願いをもっております。対話や国民参加を通して、あらゆる社会に存在しているしごく当然な意見の相違に、節度をもって接することができるような社会平和の風潮をつくりたい、と。
 そして独裁政権から脱するためには、イデオロギー的な議論に打ち勝ち、民主的価値観に対する一般的支持を取りつけ、その支持を旗印とする同盟関係を定着させることが必要でした。
 池田 暴力と恐怖は一時的、そして外面的に民衆を抑えつけることができても、その心まで変えることはできない。また、支配も永続的ではない。
 開かれた「対話」こそ、不信を信頼に、憎悪を友情に変えるものです。社会と時代を真に変革する武器です。
 エイルウィン チリにおいても、「対話」が力でした。私たちは、自由を取り戻すために団結することができました。現在は、今後、直面するであろう大きな課題に、効率よく取り組まざるをえない状況になっています。それは民主主義体制を盤石にし、社会正義をともなった経済成長の促進です。
 二十一世紀に向けた新たな国際的現実が私たちに絶対的責務として提起しているのは、チリの国民の発展のために、協調と統合の道を前進していくことなのです。
 池田 エイルウィン政権は、経済面でも大きな成果を収めましたね。在任中の一九九三年の国内総生産の伸びを見ると、アジア太平洋経済協力会議加盟の各国・地域のなかで、チリは成長率で六位。アメリカが十二位、日本が十五位と低迷するなかで、韓国の八位、台湾の七位を抜いています。すばらしい前進です。
2  高潔な精神で議論、討論を
 エイルウィン 私の大統領としての大きな満足は、チリが、アジア太平洋経済協力会議に加盟したことです。これは歴史的なことで、チリが、もう一歩、太平洋に開いていくための起点となりました。
 ところで、近年の歴史は、社会制度の確立があらゆる国民の権利遵守のための基本的要件であるとの教訓を、私たちにあたえてくれました。このことから、手段と目的は決して切り離すことはできないことが、明らかです。暴力は、平和への道ではありません。教条主義は、対話への道ではありません。対立は、紛争をなくすための道ではないのです。
 独裁政治の年月を経て、私たちは交渉と合意による民主的共生を保障し、また、かつて民主主義を崩壊にいたらしめたような対立が常態化することのないような政治スタイルを、ふたたび創造しました。特定の利益のための特別あつかいは、許されないことです。
 池田 おっしゃるとおりです。およそ政治家たるもの、特定の利益のために働くことがあってはなりません。また政治家が特別あつかいされることなど、絶対にあってはならない。
 エイルウィン どこの国でも今後の大きな課題でしょう。なにが公共か、という境界を限定することは困難がともなうかもしれません。しかし、公共の利益というものが存在すること、そして不公正な利益擁護を排するため合意にもとづいているもの以外は実現の余地がない、との確信を揺るがしてはならないのです。
 多様な意見が表明されること、そして議論があるということは、民主主義本来のものです。国のために、より良い解決法を求めて討論したり、議論すべきです。ただし討論や議論をする場合には、侮辱したり信用を傷つけたり、さもしい行為におちいらないようにして、社会制度を危うくしないように心がけなければなりません。
 池田 全面的に賛成です。それが、指導者の指導者たるゆえんです。
 エイルウィン 意見が異なるということは、敵対することではないのです。みずからの信念を毅然と維持することは、正当な権利です。
 しかし、国に対するより大きな関心と私たち民主主義者としての本来の立場が偏見を克服し、また激情のままにならないように戒めて、高潔な精神で議論し、討論することを求めることでしょう。公共の利益を確保するには、憎悪をぬぐい去り、相互に信頼しあい、理解するよう努めなければなりませんが、つねに意見を一致させなければいけない、ということではないのです。
 池田 おっしゃるとおり、「対話」とは、人格と人格、精神と精神の交流であり、それを通してたがいに深い次元で認識していくものです。いわば、開かれた対話は、人間と人間の真剣な打ちあいといってよい。
 モンテーニュは、その著『エセー』の中で「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うこと」であり、それは「人生の他のどの行為よりも楽しいもの」(原二郎訳、岩波文庫)であると述べています。宗教動乱のなかで、人間が狂信に走り、たがいを殺戮しあう歴史を見続けたモンテーニュならではの言葉です。
 太平洋を挟んだあなたと私が、こうしてたがいを理解しあえるのも、対話のおかげです。(笑い) 
3  徹底した話しあいから芽生える信頼感
 エイルウィン 本当に、対話以外にありませんね。個人においても、双方の意見が一致しなくても対話は十分に結実するものです。もしすべての意見が一致しなければならないとすれば、少数者の拒否権も容認せざるをえず、ひいては国家の機能すら麻痺する事態をまねきかねません。実際、ほんの少数の人々が決定を阻もうと反対すればいいことになってしまいます。
 したがって、民主主義者たちは、どのような場合においても、より大きくて堅実で可能性のあるコンセンサスに到達できるように、寛容さと創造力あふれる知性を最大限に活用しなければなりません。
 民主主義の原理である自由な活動の範囲内で、異なる分野における当然の意見の相違を超えたところで、国家レベルの大きな諸問題については意見の一致を求めるべきです。我を張り続けたり、分別をなくして、閉鎖的になることのないよう努めねばなりません。あらゆる暴力を放棄し、合理的にふるまわなければなりません。
 池田 まったく同感です。これは国際間の対話ですが、私は、東西冷戦のただなか、中国と旧ソ連を、いくどか訪ねました。米ソは軍拡競争に明け暮れ、ソ連では、核戦争に備えて地中深くつくられた地下鉄のホームで、避難訓練を行っていました。中ソの関係も険悪になっていました。
 私は一民間人でありましたが、ソ連の最高指導者とお会いして(一九七四年九月、コスイギン首相と)、こう力説しました。ともかく対話しかない。世界の指導者が一堂に会し、徹底して話しあうべきである。時間は、どんなにかけてもいい。たがいの信頼感が必ず芽生えるはずだ。まず米ソのトップ同士が会うべきである、不信を解消すべきである――と。
 一民間人だからこそ、さまざまなしがらみにとらわれずに、直截に話せたのかもしれません。また、偏狭な国家利益にとらわれず、当たり前のことを当たり前に言えたのでしょう。なぜなら、人類益にまさる国家益はないのですから。
 多くの人々が、対話実現へ努力しました。あの時から十年を経ずして、米ソの指導者がスイスのレマン湖のほとりで会談し、やがて戦略核兵器の削減という歴史的条約調印(一九九一年七月、第一次の削減条約〈STALTI〉)へと進みました。
 また中ソ対立がいわれるなか、私は双方の国家首脳と直接会見し、ともに和解を願っていることを感じていました。ソ連首脳の考えを、そのまま中国側に伝えたこともありました。それはともかく、やがて両国は対話を開始しました。国交は以前にもまして緊密になりました。要するに、ここで私が言いたいのは率直な対話の力なのです。
 エイルウィン よく分かります。おっしゃるとおりです。
4  “範を垂れ”て言葉の“真実”を示す
 池田 ところで、あなたは、こう民衆に語りかけたといいます。「一国を治めるということは、一家のやりくりをすることに似ていると気がついたのです。……子どもに自転車か、いいキッチン・コンロを買ってあげたいと思いますが、家計にはかぎりがあると思い知らされます。同様のことが、国をやりくりするうえで起こるのです。こうなると、優先順位を決めねばなりません」。分かりやすい言葉で、直接民衆と対話をなさった姿勢は高く評価されましょう。
 エイルウィン その言葉は、私のなかに深く根ざした考え方を表すものであり、就任演説のときのものです。このとき私は、国民に向かって私の政治の骨格を語りました。この機会に、私は私の同胞たちに対して、これからどのような期待を私にいだいてもらえるのか、ということについて話しました。
 “私の良心の命ずるところに従い、つねに公共の利益を求めて名声を欲することなく、また自己犠牲を嫌うことなく、私にゆだねられた権力を誠実かつ献身的に行使します”
 “法から外れることなく、誠心誠意、正義を求め、つねに真実を話します”
 “民主主義の価値観に忠実であるとともに、光栄にも私を支持してくれたチリ国民に対して、公約した綱領にもとづく範囲内で、忠実であることを誓います”
 “すべての人を、また異なる意見を尊重します。つねに理解と合意を得ようと努め、すべての人の意見に耳をかたむけようと試みます。しかし、私の厳正な判断にもとづき、ためらうことなく国の重要な利益を求める決断を行います”
 “家庭の良き父親のように、全国民に対して接していきたい。人々の幸福と豊かさを築くため、勤勉に献身的に働き、とりわけ幸福や豊かさを必要とする子どもたち、とくに極貧層の子どもたちのことに心をくだいていきます”
 池田 格調高いなかにも、分かりやすい語り口ですね。近年、日本では政治家や公務員の倫理観の欠如が問題になっています。これらは“人生の真の価値とは”とか、“人間いかに生きるべきか”といった根源的な問いかけが軽視され、等閑に付されてきたことと無関係ではありません。
 学歴至上主義がはびこり、良い成績を収め、良い大学へ進み、良い企業へ就職することが目的になってしまう。知識はあっても、知恵と人格を磨くことが忘れられ、人間の総合的完成がなおざりにされています。
 こうしたなかで、人生の価値を人々への奉仕に見いだしていく生き方が求められるでしょうか。いや、真の人生は、などという問いかけそのものが無意味にさえ思われているのです。
 エイルウィン 私が思いますには、基本的なことは言葉が真実であるだけでなく、言うことと行うこととの一貫性も大切なのです。古い格言が言及しているように“範を垂れ”なければなりません。
 これが、最善の国民とのコミュニケーションでしょう。一家の父親が、その家の家族のためにどのようにふるまっているかを示す以上の、良い例証があるでしょうか。
 池田 分かります。家庭においても、あらゆる団体、組織体にもいえることです。国家においても、もちろんです。仏法においては「釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と、きわめて明快に、人のふるまいが釈尊の出世の本懐である、つまり人のふるまいのなかにしか法の真実は示されない、と説いているのです。
 残念ながら日本の政治家の言葉は、言行不一致が多すぎますが。(笑い) 
5  嘘は不信をまねき、やがては暴力をまねく
 エイルウィン 友好的な集団共存のために「不可欠」な条件は、統治者たちの主導のもとでの、真実の尊重です。嘘がまかり通っているところには、家庭においても、国内でも、国際共同体においても、友好的な共存は存在しないのです。嘘は不信をまねきます。嘘をついていることを見破られた人はもはや信じられず、疑われます。不信感は憎悪をまねき、憎悪は暴力をまねくことになります。
 ソルジェニーツィンは、ノーベル文学賞の受賞を感謝してストックホルムのアカデミーに宛てた手紙の中で、次のように述べています。“嘘と暴力は歴史のなかで確固としたつながりをもっている”と。友好の共存関係を求め、信頼を求めるならば、全員が真実のなかで生きようと心がけることが必要です。統治者はつねに誠意をもって真実を語るべきです。また対立する勢力は政府を攻撃しようとするあまり、真実をないがしろにすべきではありません。
 国民の信頼を得るためのもう一つの要素は、誠実さです。“シーザーの女はシーザーの女であるのみではなく、彼の女のようにふるまわなければならない”というローマ人たちの警句を思い起こせば十分でしょう。権力を行使するために不可欠な信頼を得るためには、実直であろうとすることが、公的生活における基本です。
 池田 一九九六年に中米のコスタリカを訪問しましたが、東西冷戦が終わり軍縮の流れが進む現在でも、同国はきわめて特異な国です。ご承知でしょうが、コスタリカは「軍隊のない国」です。現大統領の父君のホセ・フィゲレス大統領の英断でした。
 (初めて大統領に選出〈在任一九五三年―五八年〉される前の革命評議会議長の時代〈四九年〉に、新憲法を制定し常備軍を廃止する。七〇年に大統領に再選〈在任―七四年〉される)
 軍隊のない国が「特異な国」ではなく「普通の国」になったとき、フィゲレス大統領は、傑出した先見の人として、人類史に記されるでしょう。
 現ホセ・マリア・フィゲレス大統領(在任一九九四年―九八年)は、私どもが催した核の脅威展の開幕式に出席し、スピーチをされました。そのなかで大統領は、平和は「大砲の力」ではなく「畑を耕す鋤」の“のどかさ”にもとづくべきである。平和は、軍部権力の“傲慢さ”に支えられるのではなく、農民の“人なつこさ”に支えられるべきである――と語っておられました。
 言わんとするところは、農民の正直さや誠実さや、庶民が本来もつ、嘘のない人間性に期待されたのでしょう。そこには、本質的に、嘘や暴力はありません。
6  百年以上続いた炭鉱の閉鎖に理解求めて
 エイルウィン よく分かります。ここで私が政権に就いたときの忘れられない出来事の一つを、今回のテーマとかかわりがあると思われるので、お話しさせていただきたいと思います。
 チリでは、炭鉱地帯はもっとも貧しい地域の一つです。炭鉱は地下にあり、労働者たちは千五百メートルも地下に降り、七キロメートルも海の下にあるトンネルを進んでいかなければなりません。このような鉱山業は採算がとれないので炭鉱を閉鎖すべきだ、とそこの人々に言うために私はその地方に出かけることになりました。
 講堂には、妻や子どもを連れた千人以上の炭鉱労働者が集まっていました。そこで私は、彼らの父親や祖父、曾祖父の時代から続けてきた仕事をやめなければならないこと、そして炭鉱労働者の仕事しか知らない彼らが他の仕事を探さなければならないこと、そのためには熟慮しなければならない、と話さなければならなかったのです。
 私は、できるだけ分かりやすい言葉を探しました。炭鉱は人間の生命のようなものであり、生まれ、成長し、大きな生産性をもつ時期もあるが、成熟した歳になると衰え始めて、老年に達するとあらゆる生産能力を失い、最終的に生命は消えてしまうのだ、と話しました。
 同様に、時を過ごした炭鉱は、生産力が多くの豊かさをもたらした時期もあったが、今は人生の冬にさしかかっており、閉鎖しなければならないのだ、と。
 池田 なるほど。そのときのシーンが目に浮かぶようです。
 エイルウィン 私は、彼らに話しかけながら、彼らの顔を眺めました。貧しさと労苦がしみついた一人一人の顔が、みずからの人生を炭鉱に託すことになった、百年以上も続いた家族の伝統の鎖の最後の環が消えていくのを見つめていました。静かに私の話に耳をかたむけてくれたあとで、最後に炭鉱労働者の指導者たちが、私の言葉の誠実さに感謝したうえで、その信頼感にもとづいて、彼らの再訓練計画を支援してほしい、と私に求めたのです。
 私の任務が終わろうとするころ、炭鉱労働者のおもな指導者たちがそろって大統領官邸のモネダ宮に私を訪ねて、石炭の彫刻を贈ってくれました。それは私の任務と、石炭問題に対して誠意をもって取り組んできた私の政権に対する敬意のシンボルだったのです。
7  指導者は「詩心」をもたなければならない
 池田 心にしみいるお話です。石炭の彫刻は、為政者がいかにあるべきか、のモニュメントですね。
 初めてエイルウィンさんと日本でお会いしたさい、あなたは民衆に奉仕するリーダー像の確立には、政治の次元を超えたテーマにふれる必要がある、と指摘されましたね。私はまったく同感なのです。
 思うに、指導者の堕落とは? 人間いかに生きるべきか? 人間の存在意義は? など哲学的な問いかけを真摯に行ってこなかったことと関連があるようです。そうした根源的な問題を問えば、人間存在の不可思議さや、人間の尊厳、個々の人生の重みに対して決して軽々としてはおれないはずです。
 エイルウィン 本当ですね。奉仕には、社会感覚や社会正義の精神も必要とされます。それは、人間の平等を信じること、特権を廃止すること、そしてより貧しい人に対して配慮することです。公共の仕事に就いている人たちは、とくに恵まれない人々を助けて、あらゆる人々が幸福であるように心がけなければいけません。
 また、より貧困状態におかれている人々の境遇を改善し、全員の生活が向上していくような平等な環境を整える努力が求められます。
 そのために民主的な指導者は、詩人・思想家的要素をもつとともに、行動の人でなければならないと思います。詩人のごとく力に満ちた言葉で、コミュニケーションをはからなければなりません。
 池田 全面的に賛同します。詩人には、民衆の痛みをわが痛みとする感性があります。詩人には、人と人を結びつける叫びがあります。みずからの理想に殉ずる潔さがあります。行動の起爆となる力強さがあります。思想を、火のごとく、矢のごとく、平易な言葉で分かりやすく、諄々と訴えかける力があります。
 現代の不幸は、詩人が権力や財力といった目に見える薄っぺらな価値のまえに沈黙し、あるいは沈黙を強いられていることです。
 そのような時代には、詩人は、豊饒なる精神の泉を取り戻すべき存在です。詩人は、宇宙の律動をわが身に感じつつ、思いのたけを山々にぶつけ、大地を踏まえ大きく息を吸い、太陽とあいさつを交わす。一個の人間の内面に秘められた可能性をしっかりと見て、万人を結ぶのです。「人間」と「社会」と「宇宙」を結ぶのが「詩心」なのです。
 指導者は、そうした「詩心」、言い換えれば、あたたかく力強い励ましの心と言葉をもつべきです。この詩人たる要素が、世のリーダーには、不可欠でしょう。
8  “指導者は理想実現に生涯を捧げる闘士”
 エイルウィン おっしゃるとおりです。池田さん、あなたと私は本当に一致します。私の言いたいことを、より鮮明に掘り下げていただきました。
 指導者はまた思想家のごとく勉強家で、自国の現実の問題、必要不可欠な事柄を熟知していなければなりません。近代的視点で、信奉する価値観から着想を汲み取り、祖国の諸問題の解決法を示すことも必要です。
 しかし、何にもまして求められるのは、みずからの信ずる理想を現実のものとするために、みずからの生涯を捧げる闘士であることです。真摯に戦うこと、名誉や権力を得ることを超越していること、そして何にもまして、みずからの信条に忠実であることです。
 池田 残念ながら日本には、そうした高潔な精神の指導者がいなくなっています。
 エイルウィン 政治的指導者は、国民たちが本当のところ心の中で何を欲しているのかを見抜くことができなければなりません。その政治は、真実から遊離してはならず、もっとも奥深いところでみずからの信念を形成している基本的価値観をないがしろにしてはなりません。真実や個人の尊厳の尊重、自由と正義の追求、団結の精神、国民への愛情、これらがたえず行動の源流になっていることが必要です。
 人の意見に耳をかたむけることができて、思慮深く、一貫性をたもちながら、必要とあらば勇気をもって決断できることです。
 池田 さすがです。内奥からの真実の言葉です。しょせん、外発的な力によるものは、永続性を欠きます。
 仏教は、もともと、人間の内側に光をあて、可能性を引き出していこうとしたものなのです。民主主義を真に根づかせるのも、一人一人の内発性を開発しあうことが大事でしょう。
 エイルウィン 理想と現実を調和させることが必要です。政治家の行動は、一方では着想をあたえてくれる高潔な大志、信じかつ実現しようとするところの価値観で成立しています。もう一方では法的手立てや経済機関、国民的コンセンサス(合意)や、その他もろもろの要因による制限を受けなければなりません。したがって、国を治めるということは、やりたいことをするというのではなくて、やりたいことのなかから、可能なことをするということなのです。
 やりたいことがすべて実現可能というわけではありません。さまざまな状況により、やりたいことができなかったりします。その状況によって“できること”を決めるのです。
 池田 中国の言葉に「盛衰の理は、天命と曰うと雖も、豈人事に非ざらんや」(『五代史記』伶官伝)とあります。
 世の栄枯盛衰も、やむをえない天命だというが、人がまねく結果ではないか――というのです。結局、人間に帰します。
 エイルウィン そのとおりです。政治家としての場においても、また個人的生活においても、私たちの行動は現実による制約を受けています。望んでいることが、そっくりそのまま実現できそうもなかったり、十分納得できないけれども、妥協せざるをえないということが起こりがちです。
 このような場合に、思慮深さが求められます。政治家の言行の一貫性をたもつためには、信奉するもののために戦う勇気と気力と大胆さを、身につけていなければなりません。
 しかし同時に、失敗や惨事や最悪の事態をももたらすような、きわどいやり方をさける思慮深さが必要なのです。このようなことを考えますと、「政治とは可能性の芸術である」との言葉は的を射ていると思わざるをえません。
9  助けを必要としている人々に心をくだく
 池田 そうした指導者の責任の重さは、担った者にしか分からないと思います。民衆のために、呻吟に呻吟を重ねるところから、どう行動すべきかという知恵がわいてくる。そうしたリーダーを民衆は賢明に支持するはずです。
 エイルウィン ええ。民主的指導者は、権力の行使に思いあがってはいけません。家族のなかの父親のように勤勉に、献身的に、そして威厳をもって幸福で豊かな国を築くために働くように努めるべきです。とりわけ極貧層の人々、もっとも助けを必要としている人々に心をくだくことです。協力者たちと、チームワークを組んで仕事をこなせることも必要です。
 国を統治する者の仕事は、オーケストラの指揮者のようなもので、自分のグループが行っている作業の方向づけをしたり、バランスをとったりすることなのです。
 池田 重みのある言葉です。
 エイルウィン 真実、誠実さ、正義、連帯は、倫理的性格をもった礎石で、この礎石の上に政治的活動が成立しています。妥協しなければならないこともあるでしょう。譲るとは、理想を損なうことではありません。個人的利益や党、あるいはイデオロギー的利益を損なうことなのです。つまり、政治活動の指針である共同体の利益が、これらすべてに優先しているのです。
 民主的指導者は、つねに責任をもたなければなりません。国民に対して、そして歴史に対して、みずからの決断と行動に由来する善と悪の責任を……。
   

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