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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 民主化への道――夕暮れにナベ、…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

前後
1  池田 ご多忙のなか、このような対談の機会をもっていただき、感謝にたえません。哲人政治家であられるエイルウィンさんとの対談を、とても楽しみにしておりました。よろしくお願いいたします。
 エイルウィン こちらこそ、よろしくお願いします。池田会長の多角的な業績を、私はよく存じあげております。私も全力で対談に取り組みます。
 池田 恐縮です。幸い私たちは、これまでに三回お会いし、折々に対話をあたためてまいりました。最初は、一九九二年の十一月でした。秋深まる紅葉の時期に来日され、私たちは、初めてとは思えないはずんだ対話を、多岐にわたって交わしました。チリ共和国の元首としては、史上初の来日で、たいへん注目されました。
 エイルウィン マレーシア、中国を歴訪したあとの日本訪問でした。その折の対話はとても印象深いもので、私は、対談の終わりに「決して、これが最後の出会いにならないことを望みます。この次は、ぜひわが国で、大統領府でお会いしたい」と、チリ共和国ご訪問を要請しました。
 池田 翌九三年二月に、貴国を初めて訪問させていただきました。真心の歓迎は、今も忘れません。じつは、私にとりまして、チリは、三十三年前(六〇年十月二日)に、日本の富士山を機中から眺めつつ、初めて世界への旅に発ってから、ちょうど五十カ国目の訪問となり、感慨深いものでした。
 日系の人々は、首都サンティアゴから南へ約千キロメートルの地にそびえるオソルノ山を、「南米の富士山」と呼んで親しんでいると聞いております。私は三十三星霜を振り返って、「富士から始まり 富士に終わりし 五十カ国」と詠みました。
 エイルウィン そうでしたか。大統領府で再会したのは、初めてお会いして、三カ月後でした。じつは東京でお会いしたあと、会長とトインビー博士との対談集を読了させていただき、再会を楽しみにしておりました。(=トインビー博士との対談集は外国語版では『生への選択』、日本語版では『二十一世紀への対話』と題して出版。二〇〇四年五月現在、二十四言語に翻訳出版されている。本全集第3巻収録)
 池田 恐縮です。三度目にお会いしたのは、二度目の来日をされた一九九四年の七月で、大統領職は後進にお譲りになったあとですが、創価大学で名誉教授にご就任いただき、記念講演もしていただきました。
2  日本の位置は「太平洋通り」に面して
 エイルウィン 学生諸君の躍動とともに、大学の若々しい息吹に感銘しました。創価大学の建学の精神は、とても崇高なもので、人々を鼓舞せずにおかない精神です。
 池田 国立チリ大学など二つの大学で教鞭をとっておられた
 前大統領ですが、創価大学の教授であることもお忘れなく(笑い)、これからも、よろしくお願いいたします。
 エイルウィン こちらこそ。とても誇りに思っているのですから。
 池田 貴国チリと日本は、太平洋を隔てた隣国同士であり、日系人もお世話になっておりますが、残念なことに、まだまだおたがいをよく知っているとは言えません。
 チリ地震(一九六〇年五月)のことはよく知られていますが、それとても遠い海の向こうから三陸海岸に津波が押し寄せた、といった程度の記憶です。
 エイルウィン わが国でも日本のことは、あまりよく知られておりません。自動車、電気製品など、断片的には知られてはいますが、奥の深い文化や起伏に富んだ歴史は、ほとんどといっていいぐらい知られていないでしょう。
 池田 たがいをよく知りあう。単純なことですが、これがなかなかできません。太平洋を挟んだ隣国同士だからこそ、相互理解が、未来のためにまず必要です。
 エイルウィン そのとおりですね。
 池田 ところで、私ども創価学会の牧口常三郎初代会長は、自著の『人生地理学』の中で、日本の位置を「太平洋通り」に面していて、それも海洋という非常に便利な通路、唯一の公道の開通によって船による往来が可能になったものであると指摘(『牧口常三郎全集』第一巻、第三文明社)、環太平洋地域の未来性に、早くから注目していました。
 エイルウィン 牧口初代会長の卓見には驚きます。
 日本を公式訪問した折(一九九二年十一月)、当時の宮沢首相と「ラテンアメリカ環太平洋二十一世紀委員会」の設立で合意しておりますが、環太平洋の今後に期待しております。
 池田 私どものアメリカ創価大学では、カリフォルニア州オレンジ郡に新たにキャンパスを開設し(=二〇〇〇年五月三日にオープン)、さらに環太平洋を焦点とした研究に力を入れていきます。
 エイルウィン そうですか。すばらしい構想ですね。
 池田 環太平洋の時代を考えるとき、まずは、この地域の人々が、相互に理解しあうことが大事です。この対談が、その一助になれば幸甚です。
 エイルウィン まったく同感です。
3  20世紀の人類史を変えた民主化への流れ
 池田 チリといえば、一九八八年の国民投票で、エイルウィンさんの優れたリーダーシップのもと、じつに十五年以上も続いた軍政を拒否して、民主化への道をついに開きました。このことは、世界の民衆に大いなる希望をあたえました。
 その後の「ベルリンの壁」の崩壊(一九八九年十二月)や「ビロード革命」に象徴される東欧の民主化とともに、二十世紀の人類史の流れを決定的に変えた出来事にさえなったと思います。世界的に見て、今日、民主化への流れは、紆余曲折はあっても、押しとどめようのない潮流になっていると思います。
 この点で、貴国が果たした役割は、きわめて大きかったといえます。
 エイルウィン 渦中にあると、なかなかそこまでは分からないものです。当事者としては、無我夢中で「あの時」を乗りきったわけです。
 池田 大いなるご謙遜です。すべての出来事のもつ重みは、時間の経過とともに歴史の審判を受けるものです。
 チリにおける民主化のドラマは、時がたてばたつほど光輝を増していくでしょう。その意味で対談では、この劇的な出来事の検証から、鋭意進めてみたいと思います。
 エイルウィン ありがとうございます。二十一世紀を前に、このあたりで来し方を振り返ってみるのも、意味があるでしょう。分かりました。始めましょう。
 池田 まさに時代回天のただなかにおられたわけで、話しにくいことがあるかもしれませんので、私から質問する形で進めさせていただきます。
 エイルウィン  なんなりとどうぞ。事実にのっとってお話ししましょう。ご質問ください。
4  めまぐるしく変わる政権
 池田 ピノチェト将軍に率いられた独裁政治は一九七三年に始まり、じつに十五年以上も続きました。
 エイルウィンさんは、その時代を「悪魔のような経験」と振り返っておられます。そこでまず、どういう背景から軍政が誕生したのか。そこから始めたほうが軍政からの決別がいかに困難な作業だったかが、より理解できると思います。歴史には、本来的に偶然はありませんから。
 エイルウィン ここ数十年のチリの歴史的推移を理解していただくためには、まずそれ以前の歴史からお話ししなければなりません。じつはチリは、ウルグアイとならんで、ラテンアメリカでは、もっとも民主主義的伝統をそなえている国なのです。
 十九世紀の一八三〇年代以降、チリの政治史を特徴づけているのは、体制の安定であると思います。国民によって選挙された共和体制下の大統領が統治し、その任期をまっとうする一方、国民投票で選出された上院、および下院による国会が機能していました。もっとも、こうした状態が中断されたことが、二度ばかりありました。
 一八九一年に起こった内戦は、国を真っ二つに分断し、多くの死者を出すなど苦難を引き起こしました。その後、一九二五年から三二年にかけて軍人たちが政権の座につき、政治的に不安定な時代を過ごしました。けれども、三二年から七三年の九月十一日まで、法治国家は揺らぐことなく続いたのです。
 池田 その日は、ピノチェト将軍によるクーデターが起きた運命の日ですね。
 エイルウィン ええ。なぜクーデターが起きたかというと、チリが強烈なイデオロギーをもつ三極の大きな流れに分裂してしまったことが根本的な原因であったと思います。保守・自由主義的傾向の伝統的右派、明確なマルクス・レーニン主義を標榜する社会・共産主義者の左派、そして中道のキリスト教民主主義です。これら三極が権力を掌握しようと競いあったのです。
 五八年には、右派が勝って、ホルヘ・アレサンドリが大統領に選出されました。次いで六四年には、キリスト教民主主義者のエドワルド・フレイ・モンタルバが大統領に就任しました(在任六四年―七〇年)。モンタルバは、私と理念を共有する忘れえぬ友人で、キリスト教民主党の偉大な指導者でした。彼は「自由のなかの革命」を提唱しました。さらに七〇年には、社会主義者、および共産主義者たちがリーダーシップを
 握る人民連合の候補サルバドル・アジェンデが選出され、民主主義にもとづく「開かれた社会主義」を唱えました。
 池田 六年ごとに、右派、中道、左派と目まぐるしく政権が変わったのですね。日本も、ここ数年で、政権が何回も交代しました。
5  軍事独裁による情け容赦ない迫害
 エイルウィン これら三人の大統領はいずれも、国会の過半数が得られず、歳月の経過とともに、分極化とセクト主義が、ますます強まっていったのです。
 池田 なるほど、そうした背景から、軍事クーデターが起きたのですね。日本でも、アジェンデ大統領の悲劇は、割合よく知られています。たしかピノチェト将軍への降伏を拒否して、銃を手に官邸に立てこもって抵抗し、爆撃を受けて、炎上する官邸で死去されましたね。
 そして、先ほどもふれた「悪魔のような経験」がとめどなく始まる……。
 エイルウィン ピノチェト将軍に率いられた軍事政権は、独裁政治で、その残虐非道さは、際立っていました。とりわけ最初の数年間はひどいものでした。何万もの人々が投獄されたり、左遷されたり亡命を強いられたりしました。というのも、軍事政権側は、マルキシズムという癌を撲滅しよう、との政治綱領のもと共産主義者や社会主義者、あるいはそのシンパ(共鳴者)の疑いがあるものに対して、情け容赦ない迫害を行ったからです。
 池田 権力者は、つねに猜疑心にかられるものです。迫害は、社会主義のシンパというレッテルのもと、みさかいなく拡大したようですね。
 エイルウィン ええ。二千人以上が訴訟行為もなく、軍部による略式裁判の判決で銃殺されました。千人以上が、公然とした形で、行方不明となる。つまり殺害され、その遺体は、海に投げ捨てられたり、人目につかない場所に埋められていたりしたのです。
6  歴史を動かす英雄は名もなき民衆
 池田 十五年を超えた軍事独裁政権のもとで、数多くの名もなき民衆の犠牲があったと聞いています。私は、「歴史を動かす英雄」は民衆である、との確信をもっております。時代の底流を鋭くかぎ分けるのも民衆ですし、不当な迫害に対して最終的に屈しないのも民衆です。民衆を離れていっさいの運動はありえません。これが私どもSGI(創価学会インタナショナル)の信念です。SGIの平和と文化の運動を担ってきたのも、いかなる権力にもよらない気高き世界市民です。
 エイルウィン 全面的に賛同いたします。あの時代、チリでは、恐怖が国民生活全体を支配するようになったのです。このような状況のなかでこそ、数多くの名もなき民衆こそ英雄であるとのご指摘は、意味のあるものになりましょう。実際に多くの人たちが、自由あるいは生命さえも危うくされ、時には奪われたのです。勇気を出してかろうじて抗議したことによって、あるいは安全な場所を求めている友人、仲間、隣人、身内を助けたことによって。
 例としてあげるべき話は、たくさんあります。なかでも忘れられないのは、アルシーナという一人の労働司祭のことです。スペイン国籍のカトリックの聖職者で、首都サンティアゴの病院で働いていましたが、いろいろな才覚を働かせて、いく人かの仲間を救いました。彼はとうとう逮捕され、銃殺されました。
 池田 悲劇的な事態の連続にも、堂々と戦いぬいたチリの人々に、深く敬意を表します。かつてチリの新聞は「彼(エイルウィン前大統領)の外見的な特徴といえば、厳しい現実の試練も消し去れなかった微笑であろう」と報じました。筆舌に尽くせぬ困難のなか、エイルウィンさんが苦悶を笑顔につつんで民主化へのリーダーシップを発揮されたことは、たいへんなことです。
 エイルウィン 軍政側の最初のはっきりとした目的は、いかなる抵抗も根絶させることでした。迫害は、アジェンデ大統領のシンパであるとの疑いをかけられた人物に対し無差別的に行われました。それが時間がたつにしたがって、より組織的かつ選別的になっていき、しだいに社会党、共産党、武装路線をとる左翼過激派の拠点を壊滅しようと目論むようになりました。このような状態が、八〇年代の初めまで、かなりの期間続いたのです。
7  しわ寄せは、つねに弱者に向かう
 池田 経済的にも、ピノチェト時代は、混迷したのでしょうか。
 エイルウィン ご質問のとおり、苦しかったもう一つの局面は、経済の行き詰まりです。軍事政権は、七〇年代中頃から経済調整、および経済の開放を行いました。たしかになんらかの変革は必要でしたが、その極端なやり方が、おびただしい企業を破産や倒産による閉鎖に追い込み、結果として多くの失業者を出すことになりました。なんと労働者の約三〇パーセントもが、失業状態になったのです
 。多くの家庭にとってはたいへんにつらい時代でした。貧しい地域の人たちにとっては、なおさらだったのです。
 池田 十人に三人の失業者とは、たいへんなことですね。しわ寄せは、つねに弱者へと向かうものです。権力の側にいる者には、それが見えない。民衆の塗炭の苦しみなどそっちのけで、権力維持のみに汲々とする。
 民衆はどうかというと、必死になって生き、知恵をしぼり、なんとか未来へ光明を見いだしていく。苦しければ苦しいなりに、つらければつらいなりに、決して負けないたくましさをもっています。
 エイルウィン おっしゃるとおりです。先に申し上げました抑圧や経済改革とその失敗という段階を経て、軍事評議会側は、民主主義的な外見あるいは体裁を、取り始めました。独裁政権を合法と認めさせ、また永続させるための制度改革に着手したのです。一九八〇年憲法の目的がそれで、国民投票にかけられ、残念ながら過半数の支持を得てしまいました。
 私たちは、軍事政府の憲法案に異議を唱え、代案も提起したのですが、国内を自由に移動する手段もありませんでした。私たちの考えや正当性を表明するため、マスコミへ接近することさえ不可能でした。自由で民主的な国民投票ではなかったのです。
 選挙人登録もなく、投票用紙を受け取る机は軍事政権関係者で固められ、人々はおびえていました。
 池田 後世に語り継ぐべき、歴史の証言です。私ども創価学会の戦時中の歴史も、弾圧と迫害でした。治安維持法のもと、会合は特高警察の監視下におかれ、話が戦争におよぶと、警察から「やめ! そこまで」と打ち切られる。ついには、牧口初代会長と戸田城聖第二代会長は投獄され、初代会長は獄死。恩師の戸田会長も命を縮めました。
 こうした学会の歴史に、ローマ・クラブの創立者であるペッチェイ博士、行動的知識人の代表格のアンドレ・マルロー氏など、とくにみずからレジスタンス運動に取り組んだ方々は、深い共感をもたれたようです。
8  見事で独創的な国民抗議運動
 エイルウィン みずからの経験が、そうさせるのだと思います。私も同じ気持ちです。あの時、敗れはしたものの、私たちはくじけませんでした。非合法的なものだとして集会を解散させる。参加者を逮捕する。こうした警察の妨害や威嚇にたえずさらされながらも、一九八三年半ばの独創的な国民抗議運動の開始につながるのです。
 あらかじめ決めてあった日の、陽が落ちた夕暮れ時です。家々の戸口や窓、中庭でナベや釜やヤカンなど、金属の器具を、三十分から一時間ほど、思いきりたたいて大きな騒音を出すのです。
 池田 暮れなずむ町に、にぎやかな金属音。見事な庶民の抵抗であり、知恵ですね。
 エイルウィン ええ。ささやかですが、独創的な抗議方法でした。一回目には少ししか参加者はいなかったのですが、数日後に行ったときには、多くの人たちが加わっていました。これに対する軍事政権の反発は、思いもよらないほどひどいものでした。
 池田 権力の側は、一見強そうで弱い。いつも何かにおびえているものですね。
 エイルウィン そうでしょう。やがて貧しい地区の多くの住民、とくに若者は、彼らの粗末な家から騒音を出すだけでは満足せず、いろんな楽器を弾きながら通りに出ました。タイヤを燃やしてバリケードを作り、交通を遮断したりしました。新たな抗議運動が伝えられると、サンティアゴの町に、一万以上の武装兵士を配置して、デモ参加者たちに徹底的な弾圧を加えました。貧しい地区での弾圧はとくに厳しく、何十人も死傷者が出ました。
 このようないくつかの事件のあと、独裁政権に反対する勢力の間で、二つの見解が浮上しました。あるグループは、弾圧に屈せず抗議運動を続けていけば日ごとに市民の支持を得て、独裁政権を打倒するための全国規模の無期限ストが打てる、と考えました。もう一方のグループは、圧倒的な軍事力や残忍な弾圧をまえに人々はおびえている。抗議運動は衰えていき、政権を倒すほどのゼネストを打つ状況にまでいたらない、と判断しました。そこでサンティアゴ大司教のファン・フランシスコ・フレスノ枢機卿が、国民的和解を求めることを呼びかけたのです。
 池田 なるほど。それが一九八八年の国民投票へとつながっていくわけですね。
9  軍政側の思惑を逆手にとった知恵
 エイルウィン そうなのです。前に述べたように一九八〇年憲法は、ピノチェトが八年間大統領を務めたうえ、八八年十月に、さらにその先の八年間の大統領職に就くことを認めるかどうかの国民投票を行うことを定めていました。選挙人登録を行い、市民たちは、ピノチェトの留任に対して「シー(諾)」か「ノー(否)」の無記名投票が行えることになっていました。いうまでもなくその制度は、マスコミの独占と巨大な権力で、政府が「シー」の勝利を強要できる状態にあると思い込んで制定されたもので、ピノチェトが切望した十六年間の在職を是認させるためのものだったのです。
 池田 つまり軍政側が権力維持のためにつくった一九八〇年憲法で定めた八八年の国民投票を、いわば逆用してピノチェト軍事政権に「ノー」を突きつけようというわけですね。すばらしい知恵の戦いです。混沌の荒野に一筋の道を見いだしたわけですね。
 エイルウィン まさに、そのとおりだったのです。じつは、この国民投票が民主主義回復の道を平和裏に切り開くことになろうと、初めて公に支持したのは、私です。八四年半ば、学術的な研究所が企画したセミナーの席上で、でした。ピノチェトを彼自身の土俵で打ち破ろうと、論じたのです。国民の過半数が、独裁主義を終わらせることを願っているから、私たちの呼びかけに応えてくれるだろうと確信していたのです。
 池田 死中に活を得る――といった、かなり思いきった提案ですから、異論もあったことでしょう。
 エイルウィン 多くの人々は、幻想にすぎないと考え、こう言いました。「国民投票とは独裁者たちがその体制を表面的に整えるための手段である。これまでの歴史で、国民投票に負けた独裁者などいたか。そればかりか国民投票に参加してしまえば、反軍政派は、信頼性のない国民投票そのものから生まれた独裁的憲法まで合法と認めてしまうことになる」と。しかし、私たちは、だからこそ対抗策を練り、反論しました。
 もし国民の過半数が自由を回復したいと熱望しているならば、もし市民の過半数が選挙人名簿に登録したならば、そして選挙手続きが公正に行われたならば……結果はどうなるでしょう。チリの人々はいつも選挙に熱くなりますから、過半数の選挙人名簿への登録は可能なのです。
 また、選挙が公正に行われるために、国際監視団の立ち会いを求めることができるのです。そうすれば、私たちは国民投票に勝てるのです。平和裏に、独裁政権に終止符を打てるのです。
 事実は……そのとおりになったのです。
 池田 すばらしい。そのときのチリのニュースは、日本でも逐一報じられたのを覚えております。
 「チリ 国民投票始まる 反軍政派も独自集計へ」「国民投票、開票遅れる 集計、両派でくい違い」(「朝日新聞」一九八八年十月六日付、朝・夕刊)など、注目を集めました。
10  国民の自由意思で民主主義に復帰
 エイルウィン 光栄にも、私は、「ノー」をめざす政党連合――「ノーのための司令部」の先頭に立つことができました。恐怖と懐疑主義を乗り越えよう、との私たちの呼びかけは、同胞たちに受け入れられました。七百万人以上の人々が、選挙人登録を行ったのです。
 同時に、選挙手続きの公正さを監視するための無党派組織が出現しました。その組織は、国民からきわめて厚い信望を得ている人たちで構成されていたのです。しかも作業は友好関係にある国々の民主団体の積極的支援を得ることとなり、国民投票監視団という重要な代表団を送りだしてくれたのです。
 池田 現在は、すべてがグローバル(地球規模)な連携と位置づけのなかで推移する時代です。小さな村や町も、世界のなかで呼吸し、全世界とつながって、運命を共有している。一国だけの平和や繁栄がいかにナンセンスか。一地域が即地球に通じる。チリの勝利も、世界と同じ、時代の流れですね。
 エイルウィン 勝利への確信は、日に日に強まっていきました。確信は、微動だにしませんでした。国民投票が行われた日の午後、開票結果を知るにつれて、勝利感を味わっていました。しかし、政府が、開票結果の発表を故意に遅らせていることに対して、かなり深刻な不安感をいだきました。
 全国民に対して、結果を発表すべき内務省が、真夜中まで発表を遅らせ、回避し続けたのです。私たちは、危機感をおぼえました。政府はみずからの敗北を認めようとせず、武力で抑えこもうとしているのではないかと、ざわめき、憂慮しました。
 池田 勝利を最終的に確認できたのは、いつですか。その時どこにおられましたか。
 エイルウィン 国民投票が行われた夜(一九八八年十月五日)のことです。テレビ番組に、著名な政府支持者側の指導者で、軍事政権下で内務大臣も務めたことのあるセルヒオ・オノフレ・ハルパ氏と、反政府勢力の第一指導者である私が出演しました。そこで、ハルパ氏の発言は、「ノー」の勝利を認めることから始まったのです。
 その高潔なふるまいが、いかに果敢なものだったか、神のみがご存じです。魂が、私たちの肉体に帰ってきたのです。チリは、民主主義に復帰し始めたのです。平和な手続きで、国民の自由な意思で。

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