Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 「母性」のあり方  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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2  児童虐待の現実を見つめて
 リハーノフ ロシアの母親像について考えるとき、あなたが語られた日本の母親たちの姿と、完全に一致しているように思われます。
 あなたは、子どもの虐待について述べられました。残念ながら、ロシアでも同じことが起こっています。医師の研究によれば、モスクワの場合、児童を虐待する程度においては、母親のほうが父親たちより、さらに残酷性が大きいということです。
 一九八三年ころ、小児科医であったある有名な医学者が、母親によって傷つけられる子どもたちの写真を何百枚も示して、児童虐待症候群についての報告を社会に発表しました。
 私たちは、近所の出来事や、一部の新聞記事などを通して、断片的にはそのようなことを知っていました。しかし、医学者が数百の実例を挙げて語るとき、それは想像を絶するものであり、なべて母性は善なるものであるという感情に、疑いを抱かざるをえなくなります。むろん、すべてがそうでないことはわかっていてもです。
 池田 たしかに、一方的に母性を美化することはできません。仏法でも「母の子を思う慈悲の如し」と、仏の精神の精髄ともいうべき慈悲を、母親の子どもを慈しむ情になぞらえている一方、「貪愛」と言って、わが子を自分の思いどおりにしようとする剥き出しのエゴイズムという“悪”と“醜”の面からも目を離しておりません。
 リハーノフ なるほど。この問題については、第一に法的側面について考えざるをえません。
 じつは、自分の母親によって怪我を負わされ、病院に運ばれてくる子どもは、ふつう、その事実を告白しようとしません。後のことを恐れて、うそをつきます。ただし年齢が低い場合、お母さんがいないところで打ち明けたりします。
 これは何を意味するのでしょうか。母親の子どもに対する虐待は、事実上、罪に問われることはなく、だれも止めることができないのです。
 たとえば、隣の家庭から子どもの悲鳴が上がったとします。だれか、その家に踏み込んでいく権利を持つ人間がいるでしょうか。近所の一一〇番を受けて警察が行く以外ありません。
 しかし、一一〇番するような近所の人はほとんどいないのです。子どもが虐待されているという確信を一〇〇パーセント持っていない限り、近所の人も一一〇番するのをためらうからです。そうした確証を得ることは容易ではありません。
 少なくとも、私自身は、母親が自分の子どもを虐待した罪に問われたという事例に、一度も出合ったことがありません。そして、罪を問われないことで、このような母親の行動はエスカレートしていくのではないでしょうか。
 池田 日本でも、母親が子どもに食事を与えず餓死させたり、折檻死させたりする事件がまれに起こります。しかし、それはまだ極端なケースです。
 しかし、おっしゃるとおり、子どもへの虐待は、子どもの親に対する暴力と同様、家庭という一種の密室、本来、信頼関係によってのみ秩序が保たれる場で生じるものだけに、法の目が届きにくく――元来、法による規制とは、本質的になじみにくい性格のものです――それだけに陰惨なものになりがちです。
3  自分の不幸を子にぶつける精神的不安定
 リハーノフ いずれにしても、この虐待という行動は、一つの結果であり、そこには、そのような行動をとる原因があるはずです。残虐性の奥底には何があるのでしょうか? はたして、人間のエゴなのか。女性としての不幸なのか。それとも、道徳的な歯止めの欠如なのか。
 人生、だれでも何らかの不幸に遭遇するものです。ある人は貧乏で悩み、ある女性は、酒癖の悪い男性に苦しみ、または、思いやりのなさや裏切りにあい、悲しい思いをします。
 そういう時、ある女性たちは自分の不幸を周囲から隠して、みずからの愛情を一心に子どもに注ぐことで悲しみを癒そうとします。
 ところが、まったく正反対の行動に出る場合があります。本人の性格によるところも大きいと思われますが、思うようにならない人生、周囲への鬱憤を、すべて子どもにぶつけてしまうのです。そして、子どもたちが苦しまなければならないのです。
 池田 そうした行動は、結局、かえって自分を傷つけてしまうだけです。
 リハーノフ そのとおりです。またこれは、精神科が取り上げるべき問題だとも言われています。
 たしかにそのとおりかもしれません。子どもに対する残虐な行動は、それが自分の子であれ、他人の子どもに対してであれ、精神的抑制力に欠陥があることの証拠です。それが事実だとすれば、そのような行動をとる母親は、子どもから引き離してでも徹底的に治療されなければならないはずです。
 先ほどの医学者に見せていただいた写真で、五、六歳の男の子のものがありました。その子は、身体の半分以上が青あざだらけでした。子どもが母親の思ったようにしないと、彼女はその子を何かにつけてひどくつねったのだそうです。この子どもの場合は、医療の立場から即座に救出されなければなりませんでした。
 池田 むごい話ですね。
 リハーノフ ただ、一般的に母親の虐待行動は、その輪郭がはっきりせず、不明瞭な形である場合が多いのです。
 あなたが述べられたように、子どもを不当に虐待したのち、その母親は、今度は自責の念に駆られ、良心の呵責に苦しむという場合が多いようです。こういった問題は、家庭内部の問題、プライベートな問題として扱われてしまいがちで、分析の対象にしにくい面があります。
 母性そのものは、決して幻想ではありません。母性の本質が慈愛であることに何らの疑問もないわけです。そのうえで、このしぜんの営みが変化にさらされているのも事実です。
4  文豪の人生を支えた「内なる母親」
 池田 ともかく、育児というものは、キリスト教の「聖母」像がイメージしているような、慈しみと愛情のたゆたう幸福そのものというようにはいかないようです。
 忍耐と悪戦苦闘を強いられる、たいへんな労作業であることを肝に銘じなければなりません。しかし、忍耐強く、辛抱強く努力した分、必ずよりよい教育へと実を結んでいきます。
 とりわけ、戦後の日本では、高度経済成長を支える“モーレツ社員”がもてはやされるなか、子育てへの夫の無関心が許されるかのような風潮があっただけに、深刻な反省があることは事実です。
 さて、あなたもご存じのように、トルストイは、一歳半のときに、実の母親を亡くしています。また、彼のもとには、母親の肖像すら残っていなかったようです。つまりトルストイは、母親に関する記憶を、まったく持っていなかったのです。
 しかし、だからこそ、「母なるもの」に対するトルストイの憧憬は強かった。その探究がトルストイの創作を貫いていると指摘する研究者もいます。
 晩年、トルストイは母について次のように述懐しています。
 「彼女は私に、いかにも高い、清らかな、精神的存在として想像されていたので、私の生涯の第二期にあたり、襲いかかるいろんな誘惑とたたかう場合に、私はしばしば、母の霊に祈って助けをこうたものであるが、この祈りはつねに多くの助けをもたらしてくれた」(『幼年・少年・青年』〈『トルストイ全集』1、中村白葉訳〉所収、河出書房新社)
 人類史に輝く大文学者、大ヒューマニストの偉大な人生を支えたのは、彼の「内なる母親」だったのであります。
 トルストイに限らず、人生のさまざまな試練に出あったとき、「母」によって、生きぬく力があたえられたという経験がある人は多いのではないでしょうか。
 リハーノフ おっしゃるとおりです。
 両親、なかんずく母親の愛情とは、不足せず、余らずという中庸が肝心なのではないでしょうか。そしてその中庸がどこにあるかを選択するのは、社会ではなく、各家庭であり、親たち自身です。
 私は、自分の母親に叩かれたことがありません。もしかすると、軽くたしなめられたことはあったのかもしれませんが、私は覚えていません。もっとも恐ろしいのは、子どもが両親から受けた仕打ちを、とくに母親からの仕打ちを記憶している場合です。
 ここでは、後で仕返しをするとか、しないという問題もありますが、それはさておいても、もっとも深刻なことは、悪の記憶は遺伝するということです。自分が母親からそうされたように、同じことを自分の子どもにしてもよいではないかという具合に、悪は世代から世代に伝わってしまいます。
 善も遺伝の可能性を有しています。体罰等で自尊心を傷つけられたことのない人間は、他の人を叩いたりしないものです。そのような「行動パターン」を持ち合わせていないからです。
 ただし、一定の条件下においた場合、善人を悪人に変身させるほうが、その逆、つまり、悪人を善人に変えるよりも、ずっとたやすいということを一言付け加えておく必要があります。
5  「子どもは自分のもの」とする傲慢さ
 池田 それは、人生万般にわたって言えることです。
 私は、かつて青年たちに、「破壊は一瞬、建設は死闘」という一節を贈りました。営々として積み上げてきたものも、一瞬の油断、ちょっとした過失で無に帰してしまうということを、十分に心していかなければなりません。
 女性の場合も「盲愛」という本能的な衝動に身をゆだねてしまうのは、ある意味では簡単とも言えます。
 しかし、母性の愛が「盲愛」となり、その暗黒面が表れるのは、母親の「エゴ」によるのだという自覚だけは忘れてはならない。母親が意識する、しないにかかわらず、子どもを「自分のもの」のように思ってしまえば、子どもの自立や成長はどこかで阻害されてしまう。
 「子どもは授かりもの」――これは私の母の口ぐせでした。素朴ですが、この言葉には、生命そのものへの慈しみや、大いなる自然への畏敬の心すら感じられます。
 ところが今や、「子どもは授かりもの」から、「つくる」か「つくらない」かの対象になってしまった観があります。そこから、「子どもは自分のものだから、どうしようと勝手だ」という傲慢さが生じかねないと、私は思うのです。
 リハーノフ その傲慢さは、近代人に共通する特徴ではないでしょうか。ご存じのとおり、母性というテーマを取り上げること自体が、フェミニズムの発達とともにむずかしくなってきています。
 ロシア正教をはじめとするキリスト教では、人間の生命は、誕生の時点ではなく、受胎の瞬間から始まるとされています。長い人類史を通じて、人々は、中絶も避妊も知らずに生きてきました。
 むろん、この新しい方法によって、女性がより自由になり、「産むか産まないか」という選択ができるようになったことに異論を挟むつもりはありません。
 古来、子どもは神様からの授かりものであり、母はその天からの贈り物を、厳粛に感謝をもって受け入れてきました。しかし今は、女性が選択し、決断をします。時には夫と相談をしながら、望まれる赤ちゃんとそうでない場合を積極的に分けることができるようになりました。
 池田 よくわかります。
 リハーノフ しかし現実は、人々が考えている以上に、忌まわしい悪事が多発しております。その結果、受胎した場合などにおいては、この分野での医療の進歩を認めざるをえないと思います。とくに女性が未成年の場合はなおさらです。
 今は、たとえば十三歳の少女が子どもを産んでも、だれも驚かない時代です。大統領も「特殊な状況にある場合」に、十六歳で婚姻を認めるという大統領令を出したくらいですから。
 この「特殊な状況」というのは、年少時の同棲のことです。わかりやすく国際法の言葉に置き換えれば、要するに児童の人権が基本的に侵されてしまっている状況とでも翻訳できると思います。
 十三歳で子どもを産んだ少女が、はたしてよき母になれるでしょうか? これが犯罪等にからむ例外的ケースではなく、むしろ一般的な傾向となってきていることをどうとらえるべきなのでしょう。
 母性はこの少女時代に、すでに揺らぎ始めていると言わざるをえません。そして、大人や女性たちが、それを暗黙のうちに了解しているのは、さらに驚くべきことです。
6  理想像を求めるより自身に生きぬくこと
 池田 日本でも、そうした傾向は、予想を超えるテンポで進んでいるようです。
 私は、正直言って、憂慮に耐えません。古いと言われようと何と言われようと、悪いことは悪いと言いきっていかなければならないと思います。
 たしかに、自由や権利は尊重されなければならないでしょう。私も、女性解放に異を唱えるつもりはまったくありません。
 しかし、母性の問題に限らず、自由と権利を正しく行使していくには、厳しい自己規律、場合によっては自己犠牲さえ辞さぬ、エゴイズムとは対極にある生き方を必要とすることを、決して忘失してはなりません。現代の日本の風潮などは、真実の自由や権利とは似て非なるものです。
 ここで、もう一つ、今日的な課題に立ち返ると、今のお母さんたちは、立派な母親になろうとするあまり、その役割の重さに耐えられなくなってきているという事実もあるのではないでしょうか。自分の「理想の母親像」と「実際の自分」とのギャップに苦しんでいる人が多いように思えてなりません。
 「立派な母親」になろうとする努力は、もちろん大事でしょう。しかし、母の「人間として」の生き方こそが、子どもの人生にもっとも大きい影響をあたえるのだということを忘れてはならないと思います。
 私の友人でもある、日本の著名な映画監督・松山善三氏の『母』という映画を思い起こします。私はかつて、この映画を通して、スピーチしたことがあります。
 リハーノフ どのような内容ですか。
 池田 簡単に紹介しますと、ある日、農村で楽しく暮らしていた家族に、父の大けがという悲劇が襲う。母は、全身マヒで寝たきりとなってしまった夫を看病することに人生をささげることを決心し、子どもたちに宣言します。
 「おら、おまえらのお母ちゃをやめねばなんねえ」
 「今日から、お母ちゃは、お父ちゃの命ば守る……おまえらは、みんな仲よく助け合って、勝手にでかくなるんだ」(松山善三・藤本潔『母』ひくまの出版)と。
 この「母親放棄宣言」を受けた子どもたちは、しかし、懸命に生きぬく両親の姿を見て、おたがいに助けあい、立派な人間に成長していきます。
 「母親をやめる」と言いきった母親。これは、育児雑誌などで描かれる「立派な、よい母親」の像とはかけ離れているかもしれません。しかし、懸命に生きる母の背中が、子どもたちの生命に刻まれ、子どもたちを大きく育んでいったのです。
 現在の若き母親たちに大切なのは、理想の母親像を追い求め、背伸びをするよりも、今、自分のいる大地にしっかりと足を踏みしめ、自分自身に生きぬくことではないでしょうか。
 リハーノフ よい話ですね。母親が子どもを自分の所有物だとする感情については、フロイトの学説でずいぶん説明されているところです。ただ、どんな学説もオールマイティー(全能)ではありません。
 私の知っている家庭でも、母親が一人息子に支配性を示すケースが多くあります。こうした場合、母親の墓石が立つまで自立できない「マザーコンプレックス」現象が起こります。
 母親の権威にいったん従ってしまった息子は何事につけ、母親の世界からぬけ出せず、自立した人生を始めることができず、しっかりした自分の家庭を築くことができなくなります。秘められた家庭の問題は、つねに悲劇的です。子どもを支配するタイプの母親は、重く威圧的な存在です。
 その点、池田さん。あなたが例に採られた『母』という映画は、多くの示唆に富んでいます。困難な渦中、子どもたちにあのような言葉を発することができたお母さんは、おそらく、人間としての高い精神性をそなえていたにちがいありません。
 母以上に高貴な位はないのかもしれませんが、彼女は、母親という立場をしのぐ、もっと尊貴な位に達したのではないかとあえて申し上げたい。愛情と責任を自覚した人間として。
 池田 スタインベックの名作『怒りの葡萄』に出てくる母親像も強く印象に残りますね。何があろうと、どんな困難が待ち受けていようと、このたくましい母親は、どっしりと大地を踏まえ、大きく息を吸いながら、いつも明るく一家を励まし、支え続ける。
 次のような名セリフなど、深い哲学性の響きさえ伝えています。
 「女ってものは始めから終いまでが一つの流れなんだよ、川の流れみたいにね、小さな渦巻があったり、小さな滝があったりするけど、それでも、川はどんどん流れていくのさ。女はそういうふうにものを見るんだよ。あたしたちは死に絶えやしない。人間は続いていくんだよ――」(大橋健三郎訳、岩波書店)
 リハーノフ まさに庶民の大哲学者ですね。私やあなたの世代の人間にとって、母親というものは、高潔な存在です。
 ところが現代の女性たちにとって、この高潔さや純粋性は、母親の絶対条件にはまったくなっておらず、子どもを産むか産まないかという技術的な選択の権利と結びついているようです。
 ロシアでも、こうした母としての倫理観が、しだいに失われつつあります。低俗な雑誌などは、そうした傾向をさらに煽っており、嘆かわしいかぎりです。
7  母の笑顔は子どもたちの未来を照らす
 池田 ソ連崩壊にともなうロシア社会の混迷の様子は、しばしばお聞きしています。
 しかし、リハーノフさん。私は、根本のところでは楽観主義者です。現実がどうあれ、未来への希望を失わないかぎり、そこには必ず、「幸福の道」があり、「平和の道」があるものです。
 母性というものも、どんなに揺さぶられようとも、決して「死火山」ではなく、「休火山」であります。地中深く蓄えられたマグマが、やがて時を得て噴出してくるように、必ずやすさまじいエネルギーとなって盛り返してくるにちがいない。もちろん、座して待っているのではなく、そのために力を尽くしていかねばなりません。
 母は「太陽」です。そのほがらかな笑いは、すべての人々に安心をあたえ、心の闇を照らします。
 かつて私は、わが愛する同志の母たちに贈った詩のなかで、こう謳いました。
   母親は
   疲れていても
   叱っていても
   真剣な態度であっても
   その奥には
   いつも笑いがある
   安堵がある 安心がある(「高貴な笑役者に贈る――尊き母の詩」)
 トルストイも言っています。
 「お母さまの顔はただでも美しかったけれど、微笑によってそれはいっそうすばらしくなり、まるで周囲のもの全体が明るくなるようであった。生涯のつらく悲しいおりおりに、もしほんのちょっとでもあの笑顔を見ることができたら、私はおそらく悲しみとはどんなものであるかをすら知らなかったであろう」(前掲『幼年・少年・青年』)
 家族の中の、母の笑顔の光。生命の輝き――ささいなことかもしれませんが、それこそが、子どもたちの魂を照らし、未来を明るく輝かせていくのではないでしょうか。
 リハーノフ 母性も、父性同様、人間の資質が問われる問題であります。周囲の世界、社会、その社会の発展レベルから切り離して考えることはできません。この世界の一部分を構成している要素です。
 また子どもに影響をあたえるのは、母親と父親だけとは限りません。環境、遺伝、社会の経済状況、文化等々、すべてが子どもの成長にかかわってきます。
 とはいえ、人間はだれでも生まれたときは、真っ白なカンバスと同じです。そして、自然の法則を繰り返しながら、無意識の存在からしだいに何者かによって成長していくのです。自分の名前、家族、歴史を学びつつ。
 そのいたいけな子どもにとっての屋根は、母と父です。多くの場合、母親だけということもあります。だからこそ、人間のあらゆる知恵と賢明さをもって、母性を保護していくことが、いやまして重要になってきています。
 池田 話題は尽きませんが、偉大なる母へのエールをもって、対談を締めくくりたいと思います。
 児童基金の役割は、ますます重要になってくると思います。総裁のさらなるご活躍を祈っております。
 リハーノフ ありがとうございました。一年あまり、楽しく有意義な語らいをさせていただきました。池田会長の東奔西走をはるかに想い描きつつ、ふたたびお会いできる日を念じ、心待ちにしております。

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