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第十二章 成長家族――理想と目標の共有…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  「三極家族」は人類最古の共同体
 池田 東京牧口記念会館にお迎えしたとき(一九九四年)、総裁は、「青少年のみならず、幼い子どもまでが何のために、またいかにして生き、何をなすべきかわからないでいる」とロシアの現状を嘆いておられましたが、それは日本はもちろん、先進諸国に共通する問題であることは論を待たないでしょう。
 産業化以前の伝統的家族は、産業革命が進行するにつれ、夫婦と子どもを単位とする核家族、いわゆる「近代家族」に移行していく。核家族こそ、時代に合った必然的な家族像である――これまで、大方の人々がこう信じ込んできました。
 リハーノフ はじめに、あなたの言われる「核家族」について、少し確認をしておきたいと思います。
 私たちは、母、父、子どもたちで構成される家庭を「三要素家族」と呼びます。言い換えれば「三極家族」です。これは、私の考えるところ、「現代的」家族構成ではなく、その「伝統的」もしくは「自然な」家族構成です。
 池田 ええ。古来、一切の家族制度の“核”になってきたわけですから。ところが、欧米では、「核家族」が崩壊の危機にあるというより、すでに崩壊したという声もあります。
 貴国やアメリカにおける離婚率の高さや、“スウェーデンの子どもの半数がいわゆる「未婚の母」から生まれている”“ドイツ人口の半数が独身である”といったデータが、それをはっきりと物語っています。日本でも、核家族の「核分裂」が、一人暮らしの増加や、共有時間の減少という形で進んでいます。
 こうした事態への対応として、一つは、「昔の父は偉かった」などと、懐古的に、伝統的家族の価値観を復活させるべきだという主張があります。しかし、家族崩壊の現場を知れば知るほど、問題はそんなに単純ではありません。
 一方で、家族否定論が欧米を中心に出ています。実際、アメリカでは、友人同士が共同生活する新しい家族形態がふえているようです。
 リハーノフ 「三極家族」という「伝統的」もしくは、「自然な」家族のあり方は、近代化とか、ましてや民主主義によってもたらされたものではありません。それどころか、先ほど指摘されたように、原始社会という人類発展の深みで生まれたものです。
 この「三要素」がダーウィニズム(進化論)の観点から見て、いつ形成されたかということについて、歴史的に確かな立証はなされていません。私個人は、神の創造による人間の起源、つまり(キリスト教神話に出てくる)アダムとイブから始まったことを信じています。
 そうだとすると、家族は初めからつねに存在していたことになり、その考えを宗教が支えてきたわけです。
 池田 当然でしょう。私どもの宗祖も、「三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず」として、中国古代の理想的な王とされた三皇(伏羲、神農、黄帝)以前は、「父をしらず」、すなわち、「三極家族」が構成されておらず、人間は獣と同じであったと述べられています。
 すなわち、家族は、人類最古の共同体であり、人間が集団生活をしていく上での秩序の基であると位置づけています。
 もとより、大乗仏教は小乗仏教と違い、人間生活を戒律によって“外”から律していくいき方はとりませんから、たとえばカトリックのような厳格な結婚観をもっているわけではありませんが……。
2  伝統的家族観の価値と限界を見つめて
 リハーノフ おっしゃるとおり、カトリックでは、結婚は生涯一度限りのものとされています。宗教は、およそいつの時代も、結婚の守り手という立場を貫いています。
 「近代化」と「民主化」に関して言えば、それらは人類に多様な自由をあたえて、人類を解放したと言えるでしょう。その自由とは、三極に代わる「多極家族」であったり、同性結婚(ホモセクシャリズム)、不倫(三極の崩壊)などです。または、日本の一つの傾向として、あなたが挙げられた一人暮らしなどもそうでしょう。
 この「近代化」が示しているのは、虚像の進歩です。その下で、架空の脅威となっているのが、三極家族です。その理由は、この家族形態が父親を長としており、父親は悪者との虚構の断定の上に立っています。
 私はどういう場合も、単純な評価、一方的評価には反対です。残念ながら、知識を蓄え、社会的可能性を手にした男女は、家族の絆を強めるのではなく、大量の家庭崩壊を助長しました。家庭の不運な崩壊には、たんに個人的な原因によるものもあります。
 しかし、それらが社会の一般的傾向として粉飾され、社会の新局面のように扱われるのは嘆かわしい限りです。もちろん、数が多い場合には、これは傾向であり、社会状況の指標であると言うべきかもしれませんが、それでもまだ伝統とは言えないでしょう。
 家族とは、愛と喜びのみではなく、責任でもあります。その責任を果たすとき、愛と喜びを確認することができるのだと思います。技術的に優位に立ち、情緒を伸ばす代わりに、お金をふやすことに腐心している国民の間に広がるエゴイズムは、人間関係の疎外感を生み、家族を破壊しています。
 しかし、そのような社会が、技術なり経済なりで成功をおさめた鍵が、困難な課題の克服に挑もうという意志であり、また個人の成功の鍵も同様の挑戦の姿勢にあるとすれば、なぜ人々は、同じ努力を家庭で払おうとしないのでしょうか。ほかの困難に比べれば、家庭の問題は、決して克服できないものではないはずです。
 池田 そこに、自由とわがままをはきちがえる現代人の大きな錯覚があるように思われます。
 リハーノフ 先ほどの父親像に戻りますが、父親が一家の長であることは、偉大な恵みです。厳しくも温かい、そして家族を風雨から守る父親。奥さんの肩越しに隠れずに、つねに家族を率いていく勇気ある長を、封建制や後進性の象徴ととらえるべきではありません。家庭と社会の礎と言うべきでしょう。
 池田 あなたのいらだちは、よくわかります。日本でも、戦後の民主主義は、思うような人間教育、人格形成の実をあげませんでした。そのため、従来、時代遅れと退けられてきた伝統的な家族観や共同体意識の見直しが、叫ばれているからです。
 私は、そうした指摘は、半分は正しいと思っています。しかし、子どもたち、とくに従来、“良家”とされてきたような家庭の子どもたちの間に頻発する問題行動が示しているように、過去を振り返るだけではどうしようもない、ある種の“揺らぎ”、あるいは“生きにくさ”が、現在の家族というものの根本を脅かしています。
 前章の「演劇的家庭論」といい、この章のテーマといい、そうした現代の文明病ともいうべき家族の袋小路に、どう突破口を見つけていくかというのが、私の問題提起なのです。
3  「荒波」のなかの「浮き」としての家族
 リハーノフ たしかに、三極家族の問題は単純ではありません。その点では、あなたと同感です。ただし、アダムとイブの昔から存在した「自然な」家族構成が、いちばん無理なく、将来性があると思うのです。
 ところで私は、この聖書に描かれたカップルの罪こそが、キリスト教のバネであり、人類の道徳ではないかと思っています。
 考えてみれば、主なる神は、彼らにエデンの園、つまり天国に暮らすことを勧めました。そこには何でもそろっていました。そこに住む条件は一つ、罪を犯してはならないというものでした。しかし、イブは禁断のリンゴをもいで、アダムに与える。そこで主は、二人をエデンの園から人間の苦しみの世界に追放してしまいます。
 アダムとイブは、その罪のおかげで、苦しむ人間となり、その罪が人類を存続させているのです。罪がなかったなら、子どもは生まれず、つまりは人類は誕生せず、依然としてアダムとイブのたった二人のままだったことになります。そして、人間存在の要件としての家族も存在しなかったことになります。
 それと同様、家族も試練を乗り越えていかねばなりません。家族のあり方を問う困難と試練があるからといって、家族そのものがいつかもろくも崩壊してしまうと考えるべきではありません。
 池田 私の恩師は、創価学会の永遠の三指針として、「一家和楽の信心」「各人が幸福をつかむ信心」「難を乗り越える信心」を遺しました。
 いかにして和楽の家庭を築いていくかは、信仰の根本にかかわる問題です。ゆえに、私は、あなたと同様に、家族関係を全否定するという発想は、人類の文明史への挑戦であり、下手をすると、人間であることそのものの否定につながりかねない、と受けとめています。
 人間関係を「縁起」としてとらえる東洋的価値観から見れば、人間とは単独ではなく、関係性を重視しないといけないからです。
 その上で、懐古でも全否定でもない、新しい家族像の創造――これが、二十一世紀に向けて、人類の課題であると思います。
 専門的な分析は、社会学者、心理学者にゆだねるとして、ここでは家族の危機に対して親のとるべき態度を、「家族と社会のかかわり」「親と子のかかわり」という二点から考えておきたい。
 「家族と社会のかかわり」でいえば、「家族」とは、生きていくのがたいへんな「社会」という荒波に対して、ほっと一息つける「浮き」のような存在と考えられます。
 しかし、これまでもふれてきましたように、現代の日本では、人間の価値を能力や偏差値だけで決めつけていく社会の傾向が、家庭にも影を落とすようになってしまった。「いい会社」を頂点にしたピラミッド型の社会を肯定し、そのための教育システムに駆り立てる親たちの支配に、子どもたちは憩うべき場を失ってしまっている。
 一見、従順な「いい子」でも、内面は、ストレスに苦しみ、それが時に、反社会的、反動的な行動のマグマとなって噴きだすのです。
 それでは、子どもを追い込まないために、親はどうあるべきか――。
 リハーノフ とても悲しむべき事態ですね。ロシアでも同じようなことが起こりつつあります。「トゥソフカ」という低俗な概念が登場しました。これは、一種のパーティーとか何かのお祝いをすることです。参加者は前もって選ばれた人たちに限られます。社会的地位とか、政治的、民族的な枠とかです。しだいに身内とよそ者を立て分け始めたのです。
 学校も、イギリスやアメリカ的なエリート小学校、カレッジ(専科大学)、総合大学に似せ、「縁故関係のある」エリートを育成する学校が誕生しました。
 そこでは、かわいいわが子の「幸せを願う」両親にとって、よい縁故を持つことが「走るためのムチ」になっています。
 ただし、このようなことはなにも今日に始まったことではありません。仲間内の人々と結婚しなければならなかったスヴェトラーナ・スターリナ・アリルエヴァ(スターリンの娘)の運命は周知のことです。同じように、旧ソ連共産党の政治局や中央委員会のメンバーの子どもたちは選別され、地位を得ていきました。
 エリート教育は、たとえどのような名前で呼ばれたとしても、所詮、私利私欲のために不自然な関係を強制することにほかなりません。ゴールズワージーの三部作『フォーサイト家物語』や、トルストイの『アンナ・カレーニナ』などは、このことを雄弁に物語っています。
 時に、人類の歴史すべてが、富と愛、権力と人間性のせめぎあいなのかと思えてくることもあります。人類は、このテーマで十分すぎるほどの教訓を得てきました。しかし、世界の文化という偉大な殿堂を築きながら、なおも相変わらず、永遠の過ちを繰り返し続けています。
4  ともに向上をめざす「成長家族」に
 池田 その悪循環を断ち切らねばなりません。二つ目の「親と子のかかわり」から言えば、社会の支配的な価値観とは違う「哲学」を家族が共有することでしょう。
 日本では、第二次世界大戦での敗戦、そしてバブル崩壊にいたるまで、価値観の崩壊、激動のなかで、親たちは自信を失い、子どもたちは、そうした両親、社会を前にして、不信と不安をつのらせてきました。
 大切なことは、そうした社会の毀誉褒貶とは別の次元で、いつの世にも変わらぬ「人間として」生きる意味を問い続ける共同作業を行うことではないでしょうか。
 たとえば「まじめな人が損をする社会」であれば、「あなたは、最後までまじめな人の味方になれ」と教える。「認識せずに評価する付和雷同の社会」であれば、「透徹した眼を磨け。信念に生きよ」と教える。
 親と社会との接点が「会社」という単線のみでは、これはできません。より普遍性と永遠性に根ざした理想や目的が必要になる。ここに私たちのSGIの運動の一つの意味がある、と思っているのです。そのために大切なのは、「親自身が向上しようと努力する」ことではないでしょうか。
 トルストイは言っています。
 「すべて養育は、結局自身が善良な生活を送ることに帰着する。すなわち、自ら働き、自らを養育するということに帰着するのである」(『国民教育論』、『世界教育宝典』昇曙夢訳、玉川大学出版部)と。
 「親の背を見て子は育つ」という言い方が日本にあります。「子どものため」と見下し、行動のベクトル(方向性)を向かいあわすのではなく、子どもと同じく「成長」の方向へ、ベクトルを開いていく。
 ここに、幼児期の「保護者」と「被保護者」の関係を脱皮した、成熟した家族関係を築くカギがある。私はこのことを、「成長家族」という表現で、繰り返し訴えてきました。
 さて、今、私は家族を“荒波のなかの浮き”と表現しました。しかし、親が寝たきりになったり、いい子が突然非行に走ったり――「家族をもつゆえの苦しみ」もまた、万人が逃れられないものです。絶大な権力があっても、巨万の富があっても。
 家族とは、一切の虚飾を取り払った「人間としての生きざま」をいやおうなしに問うてくる。そうとらえることから、新しい家族像の創造を始めるべきではないかと思っております。
 リハーノフ 同感です。新しい家庭像はぜひ必要であり、同時にむずかしい課題です。トルストイは、「幸福な家庭はどれもみな似たりよったりだが、不幸な家庭は不幸なさまがひとつひとつ違っている」(『アンナ・カレーニナ』、『世界文学全集』37、木村彰一訳、筑摩書房)と言っていますが、変化した現代社会では、幸福な家庭もそれぞれに違ってきています。
 たとえば、ある家庭に芸術に秀でた子どもがいたとします。わが国では、そのような場合、親は喜び、その子の才能を「開花」させようとして、躍起になってコンクールへの出場、入賞、そして海外公演へと子どもを押しだす――そんな家庭を私はたくさん知っています。
 ただ、悲しいことに、早期に伸びた才能の多くは、早々に枯れてしまうことも見てきました。非凡な才能を持った子どもは、早死にしてしまうか、成長とともに平凡になっていく場合が多い。何かが彼らの中で消え、死に絶えてしまうのでしょう。そう、これが幸福な家庭の一例です。つまり、幸福と不幸のどんでん返しです。
 では、富や成功はどうでしょうか。同じようなどんでん返しはないでしょうか。
 私は、かねてより、本物の才能は試練にあって堅固になると思っています。そして、豊かさや安逸のなかではなく、貧しさや労苦のなかで、善良さ、思いやりを養うことができると考えてきました。
 若い時に困難を経験していない人は、かわいそうです。彼は人生にそれほど価値を見いだせないのです。なぜなら、幼くしてすべてが与えられてしまい、ほとんど何もみずからの手で達成したものを持たないからです。
 これは極論ととられるかもしれません。現実には、完全に理想的な状況も、完全に行き詰まった状況もほとんどないのですから。それでもやはり、傾向性については述べておく必要があると思ったのです。
5  師弟に生きる家族は幸福
 池田 極論どころか、まさに正論であり大賛成です。恩師も、荒海で知られる日本の玄界灘で育った鯛は、身が引き締まっておいしいことに寄せて、若いころの苦労は、買ってでもせよ、と強調してやみませんでした。
 ここで、もう一点、社会に開かれた創造的な成長家族を築くために、人格の錬磨という面で、「師弟」の重要性について、再度、考えておきたいと思います。
 よく知られるように、ナポレオン戦争で荒廃したデンマークの復興に貢献したのは、グルントヴィとコルの師弟です。二人は、“民衆の大学”と呼ばれる「国民高等学校」という開かれた学びの場を通して、民衆教育を普及させました。
 グルントヴィの理念と闘志を受け継ごうと精進したからこそ、コルは、自身を向上させることができたのです。また、師よりも三十歳以上も若い後継の弟子がいたからこそ、デンマークの民衆教育は花開き、国土を蘇生させる原動力となったのです。
 牧口先生は、その著『創価教育学体系』の緒言でこの二人に言及され、コルの姿を愛弟子の戸田先生の闘争と二重写しにしておられます。すなわち『創価教育学体系』は、戸田青年の全力の献身によって完成したと感謝されています。戸田先生もまた、すべてをささげて牧口先生を守り、その偉大さを証明しぬかれたのです。
 師弟――この道に生きぬくところにこそ、「人間」としての最高の自己完成があります。「人間」としての最高の誇りがあります。こう考えると、「どういう家庭をめざすのか」「どんな子に育てるのか」という目的観を共有するとともに、共通の師の下で、悔いない人生を歩んでいることが、どれほどか充実した家庭を築きゆく土台となることであろう、と信じてやみません。
 あなたはこの点、どのようにお考えでしょうか。
 リハーノフ このテーマは、本対談ですでにふれましたね。付け加えて申し上げるとすれば、残念ながら子どもの心身の成長に完璧な教育環境を備えている家庭は少ないと言えます。多くの家庭生活は、寝て、食べて、しゃべってという日常の繰り返しです。それだけで十分だと言う人もいます。
 しかし、より本質的には、家庭は子どもにとって、精神的価値の源です。ところが、そうでない場合もある。そこで教師は、大局的に見れば、一種の補足的役割を担っていると考えます。家庭であたえきれない部分をおぎなってくれる人です。もちろん、教師がしっかりしている場合の話ですが。
 私は教師にたいへん恵まれました。戦時下で、私たちの先生アポリナリヤ・ニコラエヴナ・チェプリャシナは、文字どおり私たちを救ってくれました。物理的に救ってくれたこともありました。どの家もお父さんが戦いに出ていってしまい、父親の欠けた家庭が私たち子どもにあたえられなかったことを、彼女はすべてをおぎなってくれたと言えます。
 池田 さん、あなたのおっしゃる先生というのは、精神の師匠のことで、学校の教師とは異質のものだと私は理解しています。
 牧口氏のような運動の指導者は、戸田城聖氏のような、またあなたのような弟子を持たねばなりません。大きな運動と多くの同志を率いていく精神的師匠という存在で、学校の教師とは、まったく別です。ここでは、弟子が師匠の精神的理想を社会に伝えるという、まったく別の一歩が踏み出されていくのですから。
 創価学会の運動は、社会の幸福をめざす上での新しい運動形態とも言えるのではないでしょうか。そして、創価学会が代々卓越した精神性を持つ指導者を得たことを、私は心からたたえたいと思います。
 数百万の人々をたんに魅了しただけでなく、その人々が、隣人を救い、手をたずさえ、弱い立場の人々を助けようとの熱い願いを長年にわたって保ち続けられるように、励まし支えておられる指導者に恵まれたことを。

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