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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 わが家の家庭教育  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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2  父母の“優しさ”は、最大の栄養源
 リハーノフ ここで私がとくに申し上げたいのは、「優しさ」ということです。これも一つの愛情表現ですが、表面的なものではなく、貴重な得がたいものです。
 どこの家庭でも、子どもの病気という場面に出くわします。その病気が長引いたり、あるいは不治の病であったりした場合、親は激しく自分を責め、深い悲しみを味わうものです。病気のとき、子どもはとくに、母親の愛情を求め、父親に対してもまた、特別なつながりを感じます。
 親というのは、子どもにとって正義の砦であり、痛みを乗り越えるためのいちばんの支えです。病気のときは、いくつになっても子どもは子どもです。優しさと愛情を求めてやみません。とくに、ふだん厳しいお父さん、とても忙しいお父さんの場合、そんなお父さんが示してくれた優しさは、ひときわ子どもの心にしみるものです。
 池田 あなたの著書『けわしい坂』の中で、戦争に征き、あまり家にいない父親が、幼い息子がスキーで坂をすべることができるよう、激励するくだりは印象的ですね。
 「とうさんだって、ちいさいころは、あの坂をすべれなかったんだよ。おまえのようにね。それからすべれるようになった。ただね、だめだと思う気持ちに、勝ちさえすればいいんだ」(島原落穂訳、童心社)と。
 こうした「優しさ」は、病気のときに限らず、子どもの成長の最大の栄養源です。
 リハーノフ ええ。一方、お母さんは、ここでは別の役割を果たします。母親は、すべての苦しみを自分が引き受けようとするもので、お母さんの優しさというのはどちらかというと当たり前です。しかし、男親があたえる優しさは、貴重な治療薬とでも言うべきものです。
 もっとも、母親と父親とどちらの優しさが薬になるかなど、量ることはできませんが。また、家庭によってもさまざまでしょう。
 池田 かつて、貴国のチーホノフ首相(当時)とお会いした折、「ソ連の家庭で、第二次世界大戦のナチズムとの戦いで、父、夫、あるいは兄弟を失わなかった家庭は、おそらく一軒もありません。平和のありがたさを、ソ連国民は知っております」と語っておられたことが、今でも心に残っています。
 わが家も大戦中のたいへんな社会状況のなかで、兄たちは戦場に駆り出され、家業もまったく振るわない苦しい時期がありました。そのなかで、せめて体さえ人並みに健康であったらと、つらく、悔しい思いを味わいました。
 人間、健康でなければ一切が始まらない――このことを身をもって痛感した親として、子どもたちの健康を、何よりも優先して考えざるをえなかったのです。
 私に限らず、心身ともにすこやかな人間に育ってほしいというのは、親であれば当然の願いです。
 あなたは、児童文学者として、子どもたちのために優れた文学を生みだすだけでなく、国際児童基金協会の総裁として、具体的に、現実の上で、子どもたちを守るために行動しておられます。そうしたご自身の経験の上から、心身ともに健康な子どもたちを育むための家庭のあり方を、どのように考えますか。
 リハーノフ 家庭教育において「健康」というのは、一つの大きなテーマです。
 子どもは、周囲の環境すべてによって育まれていきます。第二次世界大戦の話をされましたが、当時、私とあなたはそれぞれ別々の戦線にいながら、「戦争」という環境に育てられました。民族・文化の大きな違いはあっても、そういう意味では同じように育っていったのではないでしょうか。
 私は幼いころから、大人には黙って、ひそかに天に向かって、父を救ってくださいとひたすらに祈ってきました。天はどうやら私の願いを聞いてくれたようでした。父は二度負傷しましたが、命はとりとめ、戦争から帰ってきました。
 負傷したときは、一度目も二度目も、西部戦線から東部へ列車で運ばれるときに私たちの住むキーロフ市を通り、二度ともキーロフ市内の病院に送られました。その病院には母が働いていました。戦争という非常事態にあって、私は二度も父と会い、話をし、抱きあうことができたのです。
 父と何を話したかは覚えていませんが、多分、くだらないことだったでしょう。戦争が終わったらどうなるかなどという話題は、皆、縁起が悪いと言って、人々の口にのぼることはありませんでした。父も回復すれば、また前線に戻らなければなりませんでした。それにしても父に会い、手でふれてくだらない話ができるというのは、このうえなく幸せなことでした。
 いつも学校が終わると、私は病院にいる母のところへ行きました。やはりだれかの父親であろう軍の男たちが、治療を受けていました。病院の匂いやうめき声、たばこの煙、こういったものから、教科書では得られない、生きた教育を受けたように思います。
 それは厳しい現実ではありましたが、有益なすばらしい教育でした。環境は時に、子どもに悪い影響をあたえることもあり、子どもをだめにしてしまう場合も多々あります。しかし、このテーマは、また別の機会にゆずることにしましょう。
3  母の温もりと言葉が、明日への活力に
 池田 そうした体験が、作品に昇華されているわけですね。
 話は変わりますが、家庭教育では子どもたちが幼いほど、父親よりも母親の存在のほうが大きな重みをもっているようです。「教育の父」ともたたえられるスイスのペスタロッチも、教育の重点を「心」に置き、家庭教育、なかんずく母親の役割を重んじています。
 じつは小学生のころ、担任の先生から作文を誉められたこともあって、子ども心にも、将来は文筆活動をと、夢見たものでした。恩師の戸田城聖先生に師事してから、恩師の経営する出版社で、少年雑誌の編集にたずさわったこともありますが、その折、山本伸一郎のペンネームで、ペスタロッチの伝記を書きました。
 彼は、六歳のときに他界した父親の分まで、一切を捨てて子どもたちに献身しぬいた母親の姿から、人間の優しい感情と信頼を学んだのであろう、と私は思っています。
 幼児の心の世界は、じつに純粋です。母親や周囲の大人たちの言動というものを、そのまま受け入れがちであり、その吸収力はすごいものがあります。そして、いったん心の中に刻まれた経験が、物事を理解する上での基準として銘記されていくのです。
 幼児の反応が、時として頑で、柔軟性に乏しいものとして大人の目に映るのは、そのためと言っていいでしょう。あるいはその基準に合わない出来事に遭遇し、不思議に思ったからこそ、幼児の口から「なぜ」という疑問が発せられるのだとも言えるでしょう。
 これは、ある教育学者が、かつて一人の幼児を一定期間、見守り、観察してきた体験から見いだした、幼児の心理です。その意味では、心の中に刻印された経験がどのようなものであるかに、親はもっと心を注ぐべきではないでしょうか。
 リハーノフ 子どもはもともと、胎児として母親の一部なわけですから、少なくとも最初は、母と子のつながりが強いものです。もちろん、その後いろいろ変わってくるものですが。
 女の子は、お母さんとのつながりが、とくに強いものです。しかし、男の子は、ロシアの言い回しにあるように、「切り取られたパンのひとかけら」のようなもので、親から離れてしまいます(笑い)。母と別居して、しかも私のように千キロも離れている場合は、まったく疎遠になってしまいます。
 母は今、私が子ども時代を過ごした町に住んでいて、私はモスクワ住まい。故郷に帰るたびに、十四歳年下の弟をうらやましく思います。弟は、すぐそばではないにしても、わりあい母の近くに住んでいるので、やはりつながりが強いのです。
 モスクワにいるときは、病で家から外に出ない母がどうしているだろうかと、いつも心配しています。私が電話をかけると元気になるようで、母はいつも必ず私や私の妻リリヤ、息子や孫がどうしているかと聞いてきます。モスクワのような恐ろしいところで、私たちがどんな暮らしをしているか、やっていけているのかと心配しているようです。
 このような心配の情は、年老いた愛情深い女性の知恵の表れだと思います。子どもがもう六十歳を超えても、相変わらず子どもとして気にかけているのです。
 池田 いくつになっても親は親、とは古今変わらぬ真理のようですね。
 先のペスタロッチの場合は、生ある者を生ある者自体として、つまり一個の人間として愛する思想の原点が、母親の温かい体温にあったと言えます。
 私の心の奥にも、母の温もりと言葉が今もって熱く息づいています。そして、時に激務に疲れた心身を癒し、明日への活力を沸き立たせてくれるのです。
 もとより市井の一庶民であった母親です。口癖も平凡なもので、「他人に迷惑をかけてはいけない」「ウソをつくな」の二つです。さらに少年期に入って、「自分で決意したことは、責任もってやりとげなさい」という一言が加わりました。
 おそらく、どこの家庭でも口にする言葉でしょう。しかし、人間としての自立を図っていく上で、絶対に欠かすことのできない人間性の側面だったと、私は実感しております。
 あなたはこの点、どのようにお感じでしょうか。また、家庭教育に関するご見解を、ご自身の体験を交えながら、お聞かせいただければと思います。
4  子どもの最大の教育環境は教師自身
 リハーノフ ではここで、家庭教育について少し話させていただきたいと思います。
 私の息子ドミートリーはもう三十八歳ですが、子どものころは病気がちでした。当時の生活は大変で、生活向上をめざしての戦いの日々でした。初めはキーロフ市に住み、私はジャーナリズムの世界に入り、後に「青年新聞」の編集に従事し、妻はテレビのアナウンサーでした。そのうち、一応私たちは、生活も安定していきました。
 そうこうするうちに私は、有力新聞の一つである「コムソモーリスカヤ・ガゼータ」の特派員としてノボシビルスクに転勤しました。妻はしばらくして、今度は地元のテレビの人気者になりました。
 息子の教育について言うならば、私たちは育てたというよりは、ただもう慈しんできたと言うべきでしょう。妻のほうが、やはり母親として息子と接する機会も多く、私はあまりありませんでした。とはいえ、妻が夜、仕事に出ると、私と息子はテレビの前で仲良く肩を抱きあいながら、彼女がスクリーンに登場するのを待っていました。
 池田 一九九五年、来日されたさいの、奥様の美しい笑顔は、今でも鮮やかに覚えております。当時のブラウン管での人気のほどがしのばれます。
 リハーノフ 妻への心のこもったメッセージ、ありがとうございます。妻も、来日したさいの会長ご夫妻との出会い、創価学園の生徒たちのすばらしい目の輝きや笑顔のことなど、今でも話の端々に出てきます。
 ところで、息子とのかかわりあいで、私が決定的な影響をあたえたという思い出は、三つか四つしかありません。
 息子が八年生のとき、転校をして友だちも先生も変わったときに、成績が落ちてしまいました。転校がプレッシャーになったようでした。どうもはっきりとした原因があるようでした。それは学校の先生が悪意で息子に接し、彼をスポイルしていた(傷つけていた)のでした。
 私は先生と会って、何とかわかってもらおうとし、息子の友だちとも接していきました。それでわかったのですが、じつは子どもたちが何も悪いことをしていないのに、子どもたちを支配してひざまずかせようというばかげた目標をかかげた頑固な教師と、子どもたちとの戦いがあったのです。ムチを振り回さずにはおれない症候群の一人です。
 私は絶対的に息子の味方をしました。先生がどれくらいの誠実さをもっているのか、観察していましたが、何ともひどいものでした。たとえば、息子は決してのみこみの悪くないほうですが、歴史の成績が思わしくありませんでした。
 一度、息子と二人で徹底的に試験準備をしたことがありました。一緒に三回授業のおさらいもしました。しかし、翌日、持って帰った成績は(五点満点の)三でした。それで原因は、狡猾な教師だとわかったのです。こうなったらもう、子どもに救いの手を差しのべるしかありません。
 私たちは、たいへんむずかしい決断をせざるをえませんでした。息子はもう(当時の最高学年の)十年生でしたが、――二年も彼はがまんしていたのです――転校をすることにしたのです。そうすると、奇跡のように息子は成績がよくなりました。
 そのころは、学校の卒業試験とモスクワ大学受験を控えており、受験合格にはオール五をとる必要があったので、目一杯勉強量をふやしました。家庭教師のもとに通い、四科目もの勉強をしなければなりませんでした。
 それでも、彼は、頑張りぬきました。あの時、自分に勝利した息子の姿は、今でも偉いと思います。
 池田 さぞ、ご苦労されたでしょう。先に、教育を草木を育てる作業に譬えましたが、肥料を与え、雑草を取り除くどころか、成長しようとする芽そのものをつんでしまう教師が、ロシアでも日本でもいるのは、困ったものです。
 そういった教師は、決して子どもたちと同じ目線に立とうとしない。頑な、歪んだ目線で見下すばかりです。その実、自分が見下されていることも気づかずに……。
 牧口会長は、“特殊学校”であった三笠小学校の校長をしていた折、弁当を持ってこられない児童のために、自分の給料を割いて、豆餅や食事を用意しました。用務員室にそっと置いて、自由に持っていけるようにしたのです。それは、子どもたちの気持ちを傷つけないように、との温かい配慮からでした。牧口会長自身、当時、八人の家族をかかえており、生活は決して豊かではありませんでした。
 牧口会長は語っています。「(教育者は)あなたの膝元に預かる、かわいい子どもたちを『どうすれば将来、もっとも幸福な生涯を送らせることができるか』という問題から入っていく」(『地理教授の方法及内容の研究』)ことが大切である、と。
 私ども創価学会の教育部では、この牧口会長の信念を受け継いで、“子どもにとって最大の教育環境は教師自身”をモットーに掲げております。
5  全情熱を注ぎ込んだ青春は、人生の宝
 リハーノフ 大切な視点ですね。
 私たちの孫イワンは、息子の場合と違って、恵まれた環境で育っています。もっともパパ、ママが本領発揮するのは、まだまだこれからだと思いますが。(笑い)
 イワンはだれに勧められるでもなく、自分で恐竜について調べだし、知識を習得しました。その次が天文学でした。今は六年生で十二歳ですが、天文学なら、ふつうの大学を出た大人よりよく知っています。これはとてもいいことだと、私は思っています。というのも、そこから自分の可能性を大きく開いていけるからです。
 そのような小さな火種は、どの子どもの中にもあるものですが、それをいかに自分で自己認識の大きな炎へと育てていけるかが重要です。
 池田 そうですか。じつはわが家の三男坊――といっても、すでに結婚し、創価学園の理事をしていますが――彼が小学校高学年のころ、兄(次男)に私の知人から贈られた天体望遠鏡で土星を見て、すっかり天文学に取りつかれてしまったのです。
 そうこうしているうちに、もっと本格的な望遠鏡がほしいと言いだし、どうせ飽きるのだからとしぶる妻に粘りに粘り、とうとう私まで味方に引き込んで、
 それを手に入れてしまったのです。
 それからの彼の天体観測への打ち込みぶりは、あきれるほどでした。中学に入ったころは、数十冊の天文学の専門書をそろえ、学校の勉強などそっちのけで、熱中していたものです。彗星が出たときなどは、冬の真夜中であろうと、自分で起き出していって、望遠鏡をのぞき込んでいました。
 おっしゃるとおり、三男坊にとって、天文学への打ち込みは、かけがえのない自己発見への旅だったようです。何でもよい、そうした無我夢中になって全情熱を注ぎ込む経験をもった青春は、人生の宝です。
 リハーノフ 初めてお聞きしました。ぜひ、イワンに“弟子入り”させたいですね。(笑い)

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