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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 ティーンエイジャー――嵐と、花…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  子どもでも大人でもない時代
 リハーノフ この章では、長い人生でだれもが経験する、そして未知の行動に富んだ成長期について語りあってみたいと思います。
 かの「子どもの権利条約」では、十八歳までを児童と定めています。
 この法的な年齢の区分に口を挟むつもりはないのですが、零歳から十八歳までは、人間の運命のかなり大きな部分で、それを一様な一つの時期として扱うには、あまりにも変化に富みすぎていることを、強調したいと思います。
 幼児期――それは、一つの世界です。そして、小学校に入るまでの子ども時代、さらに少年少女時代、ついで青春時代と続きますが、この時期までで、およそ十六年間経ちます。場合によっては、それが二十歳から二十一歳までとされることもありますし、ある国では、二十五歳のところもあります。
 この歩き始めたばかりの人生のそれぞれの時期には、それ特有の問題と悩みがあるものです。ここでは、そのなかでも、ティーンエイジャーとも称される十代の少年少女時代について、まず考えたいと思います。
 池田 そうですね。身体の成長、変化もいちじるしく、感情の振幅も激しい。いちばんむずかしい年代であると同時に、一面、一生において、いちばん大事な時期でもあります。
 リハーノフ この時代は、ちょうど子どもでもなく、大人でもない時です。十三歳から十四歳で、ある程度の成熟期を迎え、もう子ども扱いされたくない、もう自分は大人だと思い始める時期です。ところが、大人であるには、人生経験が不足しています。経験は、年齢と一緒にしか蓄積されないからです。
 このころというのは、周囲の大人たち――お母さん、お父さん、おばあさん、おじいさん、先生など――や、そして、友だちとの間でも、つねに何らかのケンカとか仲違い、論争が絶えず、その一つ一つはささいなものでも、全体として、一種の対立関係が生じているものです。
 池田 それにともない、いろいろな悩みが生じてきます。家族のこと、友人のこと、異性のこと、自分の性格のこと、もちろん、勉学のこともあります。小説の登場人物に感情移入して、時間の過ぎるのも忘れて読みふけったりします。親の保護を離れて、精神的、肉体的冒険に心ときめかすのもこの時期です。
 ある時は、妙に背伸びをしてみたり、あるいは、劣等感にとりつかれます。自分だけの孤独な空間に閉じこもろうとしてみたり、さまざまな悩みにぶつかりながら、人格は磨かれ、形成されていきます。
 いわゆる自我の形成過程であり、絶対に素通りすることのできない時期です。この時期をどのように過ごしたかは、その後の人生に決定的ともいうべき影響をもたらします。
 ともかく、この時期は、感受性も鋭く、記憶力も旺盛です。この思春期の命に刻印されたことは、あたかも銅の銘板に刻まれた文字のように、いつまでも残ります。それに比べて、大人の場合は、氷に刻まれた文字のように、すぐ消えてしまいます。(笑い)
2  子どもへの無関心は無責任に通ずる
 リハーノフ そのとおりですね。
 ここでは親の責任も無視できません。子どもに接する親の態度が、気がつかないうちに変化してしまっていることが多いからです。
 子どもがまだ小さいうちは、親は子どもの言うことを注意深く聴いてあげるものです。しかし、子どもが成長して、外見が大人に近づいてくるにしたがって、わが子に対する興味がしだいに薄らいでしまいます。子どものほうも、自分がかかえている悩みを親に打ち明けようとしなくなります。両者の関係はいつの間にか疎遠になっていきます。
 こうして、両親と子どもの間に、目には見えない溝が生まれてくるのです。つまらない隠し事が生まれ、意見が合わなくなり、おたがいに理解できなくなって、親の世話がおせっかいに映ります。双方ともおたがいに対する関心が薄れ、ついには愛情も薄らいでしまうことさえあります。
 池田 無関心は、無責任に通じます。いつまでたっても子離れ、親離れができないのもよくありませんが、無関心はなお悪い。本当の愛情というものは、成長過程で子どもたちが発する多種多様なシグナルの細部に、注意深く目を配りながら、どうしたら自立の道を歩ませることができるか、千々に心をくだいていくことでしょう。
 そのような愛情を発信するためには、たいへんな自己規制と精神的エネルギーを必要とします。しかし、人間は往々にして、この困難に正面から立ち向かおうとせず、いわゆる“いい子”に育てたがる。“いい子”でありさえすればよいと思いがちです。思春期というものは、思いどおりに“いい子”の枠におさまるような、単純なものではありません。
 リハーノフ ええ。レフ・トルストイは『少年時代』という作品の中で、十三歳から十六歳くらいの人間の心理状態、倫理観を次のように描写しています。
 「ほんとに、私が自分の生涯におけるこの時期の描写をすすめればすすめるほど、それは私にとってますます苦しく、ますます困難なものになってゆく。ときには、この時期における思い出のあいだに、私の生涯のはじめをつねに明るく照らしだしてくれるような、真にあたたかい感情の瞬間を見いだすこともあるが、それはきわめてまれである。で、私はつい、この少年時代の荒野を少しでも早くかけぬけて、ふたたびあのほんとうにやさしい、高潔な友情が輝かしい光でこの年ごろの終わりを照らし、美と詩にみちた新しい青年時代に基礎を定める幸福な時代に到達したいと思ってしまう」(『幼年・少年・青年』〈『トルストイ全集』1、中村白葉訳〉所収、河出書房新社)
 池田 第二章でふれた『幼年時代』の描写と比較すると、思春期といわれる時代のマグマがたぎるようなエネルギーを、かいま見せていますね。
 リハーノフ 「荒野」とは、まことに的を射た表現です。それも刺のある植物におおわれている荒野と言えるかもしれません。
 池田 ルソーも同じように、荒々しいイメージで、思春期(とくに男の子)を描き出しています。
 「海鳴りが嵐に先立つのと同様に、この波瀾の革命は、生まれはじめた情念のざわめきによって予告される。にぶい音をたてる発酵が危険の接近を知らせる。気分の変化、ひんぱんな興奮、絶え間のない精神の動揺が、子どもをほとんど手に負えなくする。子どもは、これまで従順にしてきた声も耳に入らなくなる。まるで熱病にかかったライオンで、導き手に不満をもち、もう指導されたくはないと思うようになる」(『エミール』、『ルソー全集』6、樋口謹一訳、白水社)と。
 ルソーの「熱病にかかったライオン」も、荒れ狂う思春期のエネルギーというものを、よく形容しています。
3  新しい人間関係の広がりのなかで
 リハーノフ ルソーの言うように、十代の少年少女は、大人の助けなしで、自由と自立の世界に初めて飛び出そうと試みます。一度その試みを開始したら、振り出しに戻ることはできません。やり直したいと思うことがあっても、やり直しのきかない試みです。
 これは、第一に、新しい人間関係を持つことから始まります。まず自分より年上の友人、それから、同年齢の友人との付き合いというものです。これまで慣れ親しんでいた環境、たとえば、クラスの友だちとか家の近くの友だちという範囲を超えた、外の世界との交わりと言ってよいでしょう。
 池田 今までの、どちらかと言えばあたえられた人間関係から、一歩脱皮して、主体的に、そして能動的に、人間関係を広げていくわけですね。
 たしかに、それは、大人になっていくための第一歩です。不安と希望の交錯する未知の世界への“旅立ち”です。それがうまくできるように、いろいろな儀式=通過儀礼を考案してきたのも、人類の文化であり、知恵であったと言ってよい。
 また、そうした人間関係の広がりのなかで、真の友情も育まれるのです。年輩になって振り返ってみても、友情の名に値する友情のほとんどは、その時期に根を下ろしているものです。この時期ほど、よい友人が大切な時期もありません。
 リハーノフ ええ。十代の経験は、絶え間ない“発見”とも言えるでしょう。あらゆるものを、そして、人間を再発見していく時期です。
 それまで、揺るがない権威だった大人たちが、急に色あせて見え、少年少女たちは、大人の不誠実と見せかけ、ごまかしを見て取るようになります。そのかわり、それまで低い評価しかあたえてこなかった存在が、突如として、新しい光彩を放って生活に登場し、近しい友人になったり、そうでないとしても、気の許せる存在になっていきます。
 そういう新しい仲間が、決まって少年少女に要求するものとして、次のようなことがあります。
 一、両親とか教師たち大人がもっている権威を否定する。大人たちが話題にしようとしないテーマ、問題について、自分たちなりの価値観をもとうとする。タブーとされているテーマに関しては、わざと攻撃的に、怖いもの知らずを気取って語りあおうとする。そういう仲間内の話題は、皆を魅了するというより、どちらかというと拘束し、束縛する。
 一、危険で半ば犯罪的な考え方、行動をむりやり押しつける。ここでは、ある程度、あからさまに恐怖心が働いている。
 一、拘束力。一度、悪いことをやった新参者は、皆から次の悪事を働くようにうながされる。それを繰り返して、経験を積んでしまうと、道徳的な責任を直視することへの恐れと、仲間に対する変な責任感に縛られて抜けられなくなってしまう。
 以上のような分析は、ずいぶん簡略化したものです。あくまでも、ケース・バイ・ケースです。それぞれのケースに、それなりの原因と結果があり、偶然が働いていることもあります。何らかの出来事、家庭的事情などが、必ずと言っていいほど、背後に存在しているものです。
 重要な点は、倫理的分別がいちばんつきにくい十代の子どもたちにとっては、ほんのささいとも思われることが、よい意味でも、悪い意味でも、決定的に運命を左右してしまうということです。
4  思春期の嵐を乗り越える大変さ
 池田 前章で取り上げた、ヘッセの『デミアン』などは、その典型です。
 ヘッセの自画像ともいうべき“よい子”が、悪友によって危うく悪の道に引きずりこまれようとします。その時、デミアンという謎のような少年の助けで窮地を脱し、波瀾に満ちた自己探求の旅に出ていく青春小説です。
 幼年時代に別れを告げ、大人の世界へ脱皮しようとする思春期の魂が、どれほど巨大な、ある意味では凶暴とさえ言えるエネルギーを秘めているか――それは、陰湿ないじめや、すさまじい家庭内暴力、あるいは暴走族といった“常軌”を逸する行動となって噴出し、“常識”の世界の住人たちを驚かせることからも明らかです。どんなに、“よい子”に見えても、このエネルギーと決して無縁ではありません。
 現代社会は、こうした思春期のエネルギーを、どう受けとめ、善導していくかということを、あまりに軽視しすぎています。そのエネルギーが発する、さまざまな屈折したシグナルを見過ごしています。だからこそ、青少年の「常軌を逸した」行動を前にして、なすすべを知らない、といった事態が、しばしば起こるのです。
 リハーノフ まったくそのとおりです。世紀は急激に変貌していきます。どの時代にも共通しているのは、大人たちが、いつも、その時代の青少年がかかえている問題に追いつけないことです。
 時代の流れに応じて、子どもたちの反抗の仕方、羽目のはずし方は変わっていきます。
 一方、大人たちは、相変わらず古い間違いを繰り返しています。つまり、ルソーの時代もそうであったように、大人たちは、子どもたちを「放任」してしまうのです。
 たとえば、子どもたちには、遠い他人が親切に思えてくるようになります。一方、身近にいる大人たちは、子どもどころではないといった具合で、いつも忙しくしています。
 この時期を乗り越えるために、ティーンエイジャーたちは、かなりの内面的なエネルギーを消耗しなくてはなりません。
 十代という砂漠を無事に通過した者は、祝福されて青春の庭に入ることになります。十代の嵐、疑問、失敗から解放された喜びと、大人になった喜びにつつまれて。
 ところが、十代を過ぎても、その嵐から脱出できずに、そのまま非行まがいの経験を蓄積しながら、青春期まで引きずっていく場合があります。精神的にも、倫理的にもつまらない、価値のない人間になってしまうティーンエイジャーも、決して少なくありません。
 実際どれほど多くの人間の不幸が、十代の挫折感に、その遠因を発していることでしょうか。それを数えた人はいませんが、もし克明に事実を調査してみれば、おそらく驚愕すべき現実であることが、わかるにちがいありません。
5  すべてを“追い風”“こやし”に
 池田 はっきりした「挫折感」なら、まだ対応の仕方もあるでしょう。しかし、日本では今、さしたる挫折経験もないままに子ども時代を過ごし、成人してから自我の欠損に苦しんでいる“アダルト・チルドレン”という現象が、急速に関心を集めつつあります。
 この言葉は、本来は、アメリカで使われ始めたものです。アルコール依存症の親のもとで育てられた人が有する、精神的疾患を意味していました。
 日本では、もう少し拡大解釈されています。アルコールに限らず、ギャンブルや薬物、仕事などへの依存症の親のもとで、両親の保護や愛情を十分に受けられない
 機能不全の家庭に育った子どもが、長じてそのトラウマ(心的外傷)の後遺症に苦しんでいるケースをさします。すなわち、自我の発達が不十分なまま成人してしまったため、大人としての自我機能が十分に働かない――ゆえに“アダルト・チルドレン”と言われます。
 とくに、日本では、高度経済成長を支えてきた典型的な家庭像――父親が「企業戦士」(仕事依存症)で母親が良妻賢母という家庭では、往々にして、子どもを「成績」でしか評価しようとしない、かたよった価値観にとらわれがちです。そうした環境に育った子どもたちは、自分の主張や感情を殺して、“よい子”になろうとするあまり、周囲へ過剰適応をする。それにともなう親や教師への不信感、極端に低い自己評価、無力感などにおちいっていることが報告されています。
 こうした傾向も、社会全体が高度経済成長のレールの上を、しゃにむに突き進んでいるときは、あまり目立たなかったかもしれません。しかし、もはや“バブル経済”が破綻し、政治もあてどなく漂流し続けています。社会全体が目的を失った無力感、脱力感におおわれるなか、「アダルト・チルドレン症候群」と呼ばれるような現象が、一挙に顕在化してきました。その意味でも、子どもたちは、無責任な大人社会の歪みを、もっとも赤裸々に映しだしている“鏡”と言ってよいのです。
 リハーノフ ええ、そうですね。トルストイの時代には、経済、政治、社会情勢が青少年の生活におよぼす影響は、現在ほど攻撃性をもっていなかったと思われます。それでも、子どもの苦しみの深さを知ることができます。現代社会は、多くの付加的状況を生みだしました。そのなかで子どもたちは、テクノロジー化社会
 の犠牲になっています。しかも、家族全体を巻き込んで。
 池田 家族や家庭の問題は、次章で正面から取り上げることにしたいと思います。“アダルト・チルドレン”についてですが、長年、この問題にたずさわってきたあるカウンセラーは、さし迫った事態を打開するためのポイントを、「自分が、今ここにあることの『意味』」を発見し、自覚することに求めています。
 私は、ここに、宗教の重要な役割があると思っています。たとえば、すべての人々が、その人ならではのかけがえのない使命を有する――そのルーツである「地涌の菩薩」の出現が説かれるなど、宗教なかんずく大乗仏教、そのなかでも法華経は、ドラマ性にいろどられた壮大なる「意味」の体系と言ってよいからです。
 自分は、なぜ日本人に生まれてきたのか、なぜ男(女)に、なぜこのような境遇に、なぜこのような性格に生まれてきたのか等々、さまざまな「なぜ」に回答を与えています。そして、「すべて意味がある」と肯定的、前向きにとらえ、大きく息を吸い、無限の希望の人生を歩みゆくことをうながしています。私は、これを「大いなる肯定」と呼んでいます。
 こうした自覚に立つことができれば、「今ここにある自分」を嘆いたり、恨んだりはしません。すべてを“追い風”にし、また“こやし”にしながら、洋々たる未来を切り拓いていけるにちがいありません。
 かつて、トインビー博士にモットーを尋ねたところ、「さあ、仕事を続けよう」を意味するラテン語の「ラボレムス」をあげておられました。偉大な人
 ほど、こういう魂の若々しさを、いつまでも保持しているものです。また、若い人であればあるほど、魂からの訴えに対して、魂で応えてくれることを、私は、幾多の体験から知悉しているつもりです。
 かつて、私は高校生たちに、「未来に羽ばたく使命を自覚した時、才能の芽は急速に伸びることができる」と呼びかけました。若者たちにとって大切なのは、大いなる人生の目標を見いだすことではないでしょうか。
6  かけがえのない可能性を秘めた十代
 リハーノフ 育ちゆく少年を陰うつな日常から、一段と高みへと引き上げてくれるものは、唯一、希望のみです。ある日、どの子も皆、自分が醜いアヒルの子のように、醜い羽におおわれているのを見て身震いをします。やがて時が訪れ、力を蓄えて翼をはばたかせるとき、彼はすでにすばらしい白鳥に成長しているわけです。
 十代はあらゆるむずかしさをかかえながらもなお、重大な、否、偉大な行動を起こす可能性を秘めた年代でもあるのです。
 かのシェークスピアのロミオとジュリエットも、十四歳のティーンエイジャーですね。モンタギュー家とキャピュレット家の長老の不仲にはばまれた二人の愛の物語は、純愛を描いた悲劇の最高峰ともされています。これなどは、十代が危険な年頃だというだけではなく、十代こそ情熱を燃やし、崇高な目的に向かって、決意を固め得る年齢であることを、如実に示していると言えます。
 ですから、決して「十代イコール非行期」ではありません。言ってみれば、もろさと隣りあわせの、嵐吹き荒れる年齢なのです。と同時に、優れて高貴な行動を起こす可能性を秘めた年齢でもあります。
 「ヴンダーキント(神童)」(wunderkind)という言葉があります。もともとはドイツ語ですが、十代のもつ可能性をたたえる言葉として、今は他の言語でも使われています。
 人類の歴史を繙いてみると、十代に、天賦の才を開花させた天才たちの何と多いことでしょうか。なかにはモーツァルトのように、十代を待たずして、もっと幼い時期から天才ぶりを発揮した例もあります。科学の分野では、たとえば、化学者メンデレーエフがいます。彼は、十代のときに、化学の道を進もうと決意して、後に大化学者として、その道をきわめた人です。
 池田 だれもが、モーツァルトやメンデレーエフになれるわけではありません。それは当然です。しかし、若い人は、それぞれに、かけがえのない可能性の宝庫を内に秘めているのですから、社会がそれを閉塞させるようなことは、絶対にあってはなりません。マグマのような若いエネルギーが、いびつな形で噴出してくることは必定だからです。
 リハーノフ 現状はそのことを立証していますね。
 さまざまな欲求、自制のきかない衝動を内に秘めた、青少年たちの存在は、「青少年法廷」といった彼らのための特別な法体系を作ることを、各国に余儀なくしているほどです。たとえば、イタリアの検事たちが、少年少女に、十二歳から禁固刑を適用できるように法改正を求めているのは、驚くべきことです。
 かつて私は、すべての犯罪は、とくに青少年の犯罪は、社会的不公正や貧困に原因があるという、社会主義的な発想をもっていたことがあります。しかし、富と豊かさそのものが、大きな犯罪の原因となることも事実だとわかってきました。
 アメリカのテレビで、九一一番(日本の一一〇番に当たる)に通報することを勧めるある番組で、二人の少年について放映していました。この二人は、今はもうティーンエイジャーではありませんが、金持ちの家庭に育ち、父母を殺してしまいました。その理由は、たんに早く巨額の遺産を相続したかったのです。この正真正銘の「ドラ息子」たちは、その大金でさっそく、金製の「ローレックス」の時計をそれぞれ買っていました。
 まさに、豊かさイコール犯罪のない世界ではないし、豊かになれば、人間の欲や人をうらやむ気持ちが消えるわけでは決してないのです。
 池田 日本でも、どちらかと言えば、トルストイやルソーのような少年観をもって、若者の諸問題にアプローチしてきた人のなかからも、法的な保護の下での悪が看過できないとして、少年法の見直しの声があがるなど、憂うべき事態に立ちいたっています。
7  少年少女にとっての「信仰」の役割
 リハーノフ 人間の心は、精神は、別のところで鍛えられなければなりません。家庭の習慣、しつけが大事です。たんに甘やかすだけでは、ダメなのです。また、家庭も社会も、子どもに一方的に何かを与えるのではなく、子どもが、家族のため社会のために役立つべきだという風潮を、育てていくべきではないでしょうか。
 私はソビエト時代に育ちましたので、聖書もコーランも読んだことがなく、仏教のことも、ほとんど何も知らずにきました。今、年を重ねるにつれて、何か大切なものを失ってしまったような思いにかられることがあります。
 あなたは、不安に満ちた人間の世界と、聖なる言葉を結ぶことのできた優れた人格者であり、実践の方です。そのあなたにうかがいたいのですが、たんに子どもとか、大人にとってというのではなく、十代の少年少女たちの精神面にとって、信仰はどのような役割を果たすのでしょうか。
 池田 先に「すべて意味がある」と申し上げましたが、そう言われても、すぐさま、その自覚に立てるわけではありません。また、たとえ納得しても、その自覚を持続させ、深めていくことは、なかなか困難です。
 信仰には、第一に「祈り」がともないます。私たちが確認しあったように、健全なる「祈り」には、深い自己への内省があります。自己を生かしてくれるものへの感謝があり、他者への慈しみ、憐憫の情があります。謙虚ななかに勇気をつつみ込んだ明日への決意があります。
 この「祈り」を習慣化させていくことが、信仰のもつ、大きな役割なのです。ゆえに私どもは、朝夕の勤行の励行を重視しているのです。
 モンテーニュが、「習慣のなさないもの、もしくはなし得ないものは一つもない」(『エセー』、『モンテーニュ』1〈『世界古典文学全集』37、原二郎訳〉、筑摩書房)と言っているように、よい習慣――悪い習慣もそうですが――というものは、人格の形成に絶大な力をもっているからです。
 リハーノフ モンテーニュは、首尾一貫した教育理論体系を打ち立てており、それを超えるものはいまだ出ておりません。彼の理論は、きわめて科学的です。当時はまだ、生理学者イワン・パブロフの第一、第二信号系についての条件反射の理論は、打ち立てられていませんでした。
 しかし、モンテーニュは、習慣が繰り返されていくことによって、それが人の行動を形作り、将来の運命まで決定づけてしまうこともままあることを証明しました。
 池田 ええ。そして、第二に、信仰は、子どもたちに、よりよき触発の人間関係を育んでくれます。すなわち、よき先輩、友人による支えであり、切磋琢磨です。
 人間は弱いですから、独りで放っておかれると、どうしても精進を怠りがちです。したがって、弱っている時には励まし、惰性に流されている時はいさめ、傲慢になっている時は叱咤してくれる、真心の応援が欠かせません。そうした先輩、友人を、仏法では善知識と呼んでいます。
 とくに若い時代は、これぞと思う立派な人に出会った場合は、思いきって胸を借りるつもりでぶつかり、身も心も任せきってしまうことが、逆に自己の確立につながるという逆説的な真実が、人生には必ずあるものです。
 青少年は、だれよりも平和を願い、社会に貢献していくべきです。このことは十九歳のときに、恩師に師事し、昼夜を分かたず、文字どおり膝下に薫陶を受けてきた私が、何としても若い人たちに託し、継承していってほしい、人生の“黄金律”なのです。

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