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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 傷ついた心を癒す“励ましの社会…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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2  大人の悪い手本が子どもの残酷性の源に
 リハーノフ どの悲劇をとっても、ほとんどが親子関係に端を発しています。親の子どもに対する、また自分自身に対するほんのささいな過ちも、その家庭の歴史となって残っていくものです。
 たいていの場合、子どもの残酷性の源は、親にあります。子どもは、良いことも悪いことも、大人のまねをして育っていきます。たとえ、大人の見せた悪い手本が、ほんのわずかなものだったとしても、安心はできません。悪い手本とよい手本が、同じ比率で、子どもに伝わるとは限らないからです。一粒の悪でも、子どもの中で巨大にふくれあがるのには十分です。そして、ある日突然、肥大化した悪が周囲を驚かせたりします。
 この不意の落とし穴はまた、文学の永遠のテーマでもありますね。この解けない謎を解こうとして、なんと数多くの名作が誕生したことでしょうか。
 池田 ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』
 などはその書名からして、すぐに思い起こされます。姉と弟が、愛と憎しみが交錯するなか、悪魔的な力に吸引されるように破局へと誘われていく様は、古典的な悲劇を思わせるような彫琢された人間群像を、鮮やかに抽出しています。
 もう一つ忘れられないのが、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』です。その冒頭は、両親と姉たちに囲まれて、何一つ不自由のない良家の男の子が、年長の悪友のたくらみにはまって、悪の道へ引きこまれていくシーンで始まります。弱味をにぎった悪友から金を強要され、両親に隠れて持ち出そうとする秘密、その秘密を抱き続ける戦慄――。ヘッセは続けます。
 「ぼくが歩み入ったとき、父がぼくのぬれた靴のことにこだわったのは、ぼくにとって好都合だった。そのために話がそれた。父はそれよりもっと悪いほうのことに、気がつかなかった。そしてぼくは内心、小言をあのもうひとつのことに関係させながら、それをがまんすることができたのである。同時に、ある妙に新らしい感情が、心のなかにきらめいた。さかばり(逆針)をいくつもふくんだ、たちの悪い、しんらつな感情である。つまり、ぼくは父に対して優越感をいだいたのだ。ぼくはほんの一瞬、父の無知に対して、一種のけいべつを感じた。(中略)それはいやな、うとましい気持だった。しかし強いうえに、深い魅力をもっていた。そしてぼくを、あらゆるほかの想念よりもかたく、ぼくのひみつ、ぼくの罪過にしばりつけてしまった」(実吉捷郎訳、岩波文庫)子どもたちの世界にも、いかに悪が深く根を張り、暗い闇の境域が広がっているかということが、強い説得力をもって迫ってきます。
 フロイトならきっと、“エディプス・コンプレックス”論の素材として、メスを振るうことでしょう。
 リハーノフ フロイトが必ずしも間違っているわけではありません。無意識は時に、故意の否定的行為の背景となっている場合があります。
 池田 前章にて、私は、フロイトならびにフロイディズム(フロイト学説)のあり方について、少々注文をつけました。それは、フロイディズムには、無意識の世界を重視するあまり、意識の働きを軽視する傾向、すなわち、理性や意志力を働かせるのは徒労であり、物事は、それ以前のどろどろした得体の知れない力によって、ほとんど決定されてしまっているかのような考え方を生む傾向があるのではないか、ということです。
 とはいえ、私は、無意識の広大な世界を発見し、計り知れない影響をあたえたフロイトの功績を、軽視するつもりはありません。
 われわれのテーマに即して言えば、子どもといえども、生まれつき、天使のように純粋無垢なわけでは決してなく、それぞれが、とくに両親との性愛的関係にまつわる「過去」を背負っていることを解明しました。子どもを、“神聖視”する、いわゆる「子ども神話」のベールをはぎとったことの画期的意義は、否定しようがないでしょう。
 仏教では、その「過去」を、出生以前にまでさかのぼり、三世にわたる「宿業論」として展開しています。ともあれ、親子関係といっても、「子ども神話」を絵に描いたような、愛情につつまれたものはむしろまれです。現実には、たがいにさまざまな宿業を背負っているとしか言いようのない、愛憎のドラマが繰り返されています。
 リハーノフ マーク・トウェインが、おもしろいことを言っています。「おじいさんよ! おばあさんよ! 孫を愛しなさい。なぜなら、孫だけが、あなた方の子どもに対して復讐することができるからだ」と。(笑い)
 池田 痛烈な皮肉ですね。『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いていた時代ではなく、暗く、悲観的な人生観におちいっていた、文豪の晩年の言葉でしょう。
 リハーノフ 冗談はともかく、復讐心というものは、往々にして説明のつかない意識下の性質を帯びているようです。これが残酷性の、もう一つの背景です。
 池田 そうですね。さらに言えば、仏教の「宿業論」は、「無意識」や「集合的無意識」の深みをふまえたうえで、どう善性を掘り起こしていくかに焦点を当てているのです。
3  虐待され捨てられる子どもたち
 リハーノフ ここでもう一点、子どもたちの正常な成長のために、ぜひ直視しなければならない、ある特殊な状況が存在します。譬えるならば、“残酷性”という名のコウモリが、そのかたい羽を広げて、暗い、人目のない隠れた場所で、人の心を支配しているかのような状況です。
 その典型が、また最悪の形が、家庭内の子どもに対する性的虐待です。そのほとんどのケースは、義父によるものです。このような性的攻撃は、あたかも母親が自分の安心の場を持つことの――それもかなり疑わしいものなのですが――、まがりなりにも家庭を持つことの代償として、子どもたちに加えられます。
 ロシアでは、このような犯罪的児童虐待が、ますますふえています。その背景には、家庭の崩壊を恐れるあまり、こうした問題が、隠されたままになっているからなのです。
 ここ数年のロシアで特筆すべきは、暴力と犯罪のいまだかつてない増加です。わが国を表面的にしか知らない人々は、民主主義の兆候を歓迎したりしていますが、はっきり言って、ロシアは、偽りの民主主義です。
 犯罪で、いちばん取りざたされるのが、実業家を狙ったビジネスマン殺しです。
 もっとも、殺されたほうも、どこかで汚いことに手を染めていたり、みずから犯罪とか、汚職構造の一翼を担っていたりすることも、多いようなのですが。
 池田 ペレストロイカで脚光を浴びた、ルイバコフの名著『アルバート街の子供たち』で、主人公が、流刑地で自問する言葉は印象的です。
 「そもそも道徳とはなんなのだろうか?レーニンは、プロレタリアートの利益にかなうものが、道徳的なのだと述べている。しかし、プロレタリアも人間であり、プロレタリアのモラルも人間のモラルであることには変わりない。雪のなかの子供を見捨てることは、非人間的な行為であり、つまり非倫理的な行為ということになる。他人の生命を犠牲にして、自分の生命を救うことも、非倫理的なことなのだ」(長島七穂訳、みすず書房)と。
 たとえば、「雪のなかの子どもを見捨てる」という、だれが見ても非人間的行為であっても、プロレタリアート(労働者階級)の利益になるものなら、それが「善」であるとされてきた。こんな極論というか不条理が、大手を振ってまかり通ってきたのですから、それを強制していた力(暴力)が取り除かれてしまえば、価値観は混乱し、収拾のつかない混乱を招いてしまうでしょう。
 リハーノフ ええ。ところが、子どもの人身売買など、民主主義どころか野蛮としか言いようのない事件には、だれも真剣に取り組もうとはしません。
 そのような子どもたちは、ほとんど行方不明のままになってしまいます。また数多くの子どもが、家庭や施設から逃げ出して浮浪児になっています。さらには捨て子の数が、一九九四年に十一万五千人増加し、一九九五年にはさらに十万人近くふえました。この数字は、戦時中の状態に匹敵するものです。
 池田 先日も、ある外電が報じていました。ロシア人にとって、捨て子(ベスプリゾールニキー)は、一九一七年のボルシェビキ革命から続く、国内戦争時の社会の大混乱を連想させる現象であったが、一九九一年のソ連崩壊で到来した経済危機で、ぼろぼろの洋服を着せられた子どもたちがどこでも見られるようになったため、この言葉にきわめて現代的な意味をもたらした――と。
 総裁のご心痛、ご苦労は察するにあまりあります。
4  絶望感と精神の空白をどう埋めていくか
 リハーノフ 浮浪児の数は、二百万人以上にものぼるのです。私は、このような社会崩壊の原因を、ぜひとも究明しなくてはならないと思っております。経済的混乱が背景にあるのは言うまでもありません。
 ただ私が真に憂えるのは、今、野ざらしで愛情を知らずに育っている無数の子どもたちが大きくなったとき、彼らが、自分たちの生存の権利を主張して街頭に繰り出したときのことです。その時こそ、ロシアが想像を絶する最悪の事態を迎えてしまうのではないかと。
 少し本題からそれてしまいましたが、傷ついた子どもの心、その絶望感と精神の空白をどう埋めていくべきかについて、語りあいたいと思います。
 義理の父に性的虐待を受けた、ある少女の場合です。その父親は、彼女を言いくるめたのか、誘惑したのか、それとも脅したのか、いずれにしても、少女のほうはだれにもそれを打ち明けようとはせず、お母さんにも何も言えないでいました。もっと悪いことに、お母さんは知っていて、苦しみ、泣いていたのですが、家庭内のもめごとを警察に訴えることができなかったのです。そうなれば、夫は法律で裁かれることになり、つまりは自分の身にもふりかかると考えたからです。
 池田 日本では、この種の問題は、アメリカなどに比べると、格段に数が少ないようにも見えます。しかし、最近では、児童相談所などを通じて、徐々に実態が知られるようになり、社会的注目を集めつつあるようです。
 リハーノフ そうですか。いずれにせよ、大人たちが自分の気休めに、この少女のために何をしてあげようと、彼女の心は癒されることはありません。たとえ、彼女の秘密はかたく守られ、世の中に彼女の苦い真実を知る人はだれ一人いないとしても、彼女の心にあいた巨大な虚無感を埋めるためには、限りない善良な幸福感が、果てしなく注がれることが必要です。
 このような少女の多くは、精神的な回復ができずに、将来の家庭を築く力を永遠に失ってしまいます。精神的な埋め合わせには、相当のパワーと影響力が存在しなくてはならないからです。だから彼女たちは、いくら手を差しのべても、長い間、倫理的な障害を背負って生きていかざるをえません。
 たとえば、ロシアのある調査結果によると、このような少女たちは、早い時期から非行に走るケースが多く、または、うつ症状、閉鎖性、人嫌いにおちいっているケースもあります。
 池田 たしかに、そうした子どもには、不安、人間不信、抑うつ、罪悪感や自己への否定的評価などの悪影響が、顕著に見られるようです。
 当然でしょう。こうした忌まわしい出来事は、絶対にあってはならないし、人倫にもとる最悪の行為です。
 フランスの人類学者レヴィ=ストロースは、周知のように、近親婚などをタブーとすることをもって、「自然過程」と「文化過程」との接点、言葉を換えれば、動物と人間とを分かつ分水嶺であるとの、画期的な説を打ち立てました。
 こうしたタブーを忌避することは、文化的存在である人間のもっとも普遍的な習慣であり、制度であり、証とされています。いわば人類史とともに古い知恵なのです。そのタブーを犯す性的虐待などは、人類の文化史への反逆であり、否定であり、自殺行為にほかなりません。
5  苦しんだ人こそ、幸福になる権利がある
 リハーノフ そのとおりです。さらには、じつの娘への暴行――これはもう法精神医学の範疇です。この問題は、社会ではよく知られておらず、むしろこのような問題を恥として、耳を塞ごうとします。
 アメリカ人は、このような状況の打開策として、法廷の判断と、リハビリテーション(社会復帰療法)を組み合わせることに成功しているようです。裁判所は、該当の少女(または少年)を家族から引き離し、特別のリハビリセンターで回復訓練を行います。その後、あらためて裁判所の決定を受ける形で、通常、その子どもの苗字を変更して、重責に堪えうると判断されて選ばれた、新しい家庭に引き取ってもらうというものです。
 このような、有無を言わせぬプラグマティズム(実用主義)は、アメリカ人社会では十分、受け入れられるのでしょう。しかし、ロシアの伝統的な精神風土に照らしてみると、過去に、わが国で新しい教育法をいくつも試みたときがそうであったように、この米国式のアプローチ(取り組み方)も、ロシアに取り入れるとなると、どこかではきちがえられ、ゆがめられてしまい、純粋にロシア風の解釈がされかねません。
 池田 「ロシアふうの解釈」とは、どのような解釈ですか?
 リハーノフ それは、善意の思いつきも悪意にまみれてしまい、まったく逆の結果となるということです。善意で子どもの過去を隠そうとすればするほど、それだけ悪意のマスコミによって、恰好のスキャンダルネタとなってしまうのです。
 だからといって、手をこまぬいているわけにはいきません。現在のロシア政府が、このようなリハビリテーションを行える制度をつくるための資金を捻出することは、簡単とは思えませんが。
 ただ、何か行動を起こさねばと思うと心が痛みます。そして、わが愛するロシアが、いつまでも思索と助言に明け暮れているのにも疲れてしまったのです。第一、社会も政府も、だれもそういう言葉に真摯に耳をかたむけてはいないのですから。
 他の国々では、どういう状況なのでしょうか。日本はどうですか。こういう環境に置かれてしまった子どもを救うには、どんな方法があるとお考えですか?
 池田 事件が起きないようにすることが先決ですが、起きてしまった場合、やはり、対症療法と根本療法の両面から考えていかなければならないと思います。
 対症療法に関して言えば、日本は遅れており、ようやく緒についたばかりといっても過言ではありません。カウンセリング、リハビリテーション、すべてに知恵と経験を持ちあい、学びあっていくべきでしょう。
 それと同時に、私は、仏法者として、どうしても根本療法のほうに目を向けざるをえません。それは、傷を受け、罪悪感に苦しんでいる人を、どこまでも温かくつつみ、励ましていける社会でなければならない、ということです。
 「もっとも苦しんでいる人、もっとも悩んでいる人こそ、もっとも幸福になる権利がある」というのが、仏教の根本精神です。仏教に限らず、そこにスポットを当てていくのが、宗教の生命線ではないでしょうか。
 私どもの信奉する日蓮大聖人は、こう述べています。
 「今、法華経というのは一切衆生を仏にする秘術がある御経である。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が現れたのである。譬えば、竹の節を一つ破れば、他の節もそれにしたがって破れるようなものである」(御書一〇四六㌻、通解)と。
 「地獄界の一人」「餓鬼界の一人」とは、もっとも苦しみ、悩んでいる人々です。その「一人」にスポットを当て、救済していくところに、一切の人々の救済の可能性が開かれる、としているのです。
 事実、創価学会は、草創以来、「貧乏人と病人の集まり」などと、傲り高ぶる人から蔑視されてきました。しかし、私どもの宗祖ご自身が、「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり」と、高貴な出自でないことを、むしろ誉れとしてきたのです。
 私どもは、その精神にのっとって、徹して無名の庶民の側に立ち、胸を張って戦ってきました。その“汗”と“涙”の集積が、今日の創価学会の揺るぎない礎となっているのです。
 私が、なぜ「母と子を救う」ことに、政治の本質を見たのかも、ご理解いただけると思います。このような思いやりに満ちた社会と文化こそ、傷ついた心、悩み苦しむ魂にとって、このうえない“癒しの水”となり、“励ましの風”になっていくと思います。

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