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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 テレビ時代を生きる子らへの願い…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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2  いちばん大切なものは人間のふれあいから
 池田 さらに総裁は、そうした低俗番組に限らず、一般の教養番組や教育的効果をねらったものであっても、テレビなどマス・テクノロジーのおよぼす効果について、深く憂慮されています。
 その点には、私もまったく同感です。したがって、視聴覚教育などにテレビ等の器機を利用するのはよいが、それらに頼りすぎるのは考えものであり、
 危険であるとさえ思っております。
 なぜなら、教育でいちばん大切なものは、教師と生徒との直接的なふれあいのなかでしか育まれないからです。
 プラトンが、ある書簡で精妙に語っています。
 「それ(=肝心の事柄)は、ほかの学問のようには、言葉で表現されえないものであって、むしろ、(教える者と学ぶ者とが)生活を共同しながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、突発的に、学ぶ者の魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自体が、それみずからを養い育ててゆくという、そういう性質のもの」(「書簡集」長坂公一訳、『プラトンⅡ』〈『世界古典文学全集』15〉所収、筑摩書房)である――。
 そうした魂と魂との打ち合いによる人間教育の成果は、テレビ等の器機に期待できるはずもありません。
 総裁が警鐘を鳴らしておられるのも、マス・テクノロジーを通じて形成される擬似体験が、真の体験――生身の人間の“汗”と“体温”を通してしか身につかないいちばん大切なもの、プラトン言うところの「肝心の事柄」――をおおい隠し、生きることのすばらしさ、喜びや悲しみを鋭く感じとっていく現実感覚を磨滅させてしまうことですね。
 リハーノフ どんな機械も一方通行の働きしかしません。ということは、ともすれば、圧倒的な力をもつことになってしまうのです。
 テレビを見ながら、画面に向かって反対を唱えることも抵抗することもできない。あるいは、テレビに対して聞き返すことも論争することもできません。好むと好まざるとにかかわらず、こういった最新の通信手段は全体主義的なものであると、私は言いたいのです。
 ドイツに見られたようなファシスト軍事政権による長期的な支配であるとか、弾圧による人心の操作などと、これでは同じようなものです。
 毎日、金槌で釘を打っていけば、どんなに固い木でも釘を打ちつけることができる。同じように、一方的にネガティブ(否定的)な思想を繰り返し植えつけていくことによって、それが意識の一部となり、習慣となり、あきらめと従順さを植えつけてしまうのです。
 池田 そうした恐れと可能性は、たしかにあると思います。ともあれ、若者が無気力、無関心、無感動になっていると言われるような社会は、健全ではありません。悪化していく一方です。
 リハーノフ まったく同感です。あなたへの「トルストイ国際金メダル」の授賞のために日本を訪問した折、楽しい、貴重な思い出の数々を刻ませていただきました。一切を終え、まさにモスクワへ帰国のその当日(一九九五年三月二十日)、あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起きたことは忘れられません。
 池田 そうでしたね。人々を震撼させたのは、あの凄惨な事件を起こした若者たちが、人の生命を奪うことを、いとも簡単に考えていたことです。
 何とも、人間としてのリアリティー(現実感)が稀薄というか、欠落している点で、あなたのおっしゃる「すでにできあがった」世界そのものです。それは、幼少のころからテレビなどを通じて接してきたバーチャル・リアリティー(仮想現実)と、決して無関係ではないはずです。
 人間同士が殺し、殺されることの痛みや苦しみ、悲しみなどをまったく共有できない彼らは、生きた現実から遮断されたところで、想像力ならぬ空想力を膨らませているのです。その意味では、テレビ世代が生み落とした“申し子”なのかもしれません。
3  テレビを見て、体を動かさない子ども
 池田 そこで、テレビ時代の象徴的なことは、ひと時代前までは、青春時代の必読書といわれた名作ものの読書体験が、少なくなっていることです。
 言うまでもなく、古典に取り組むのは、気楽にブラウン管を前にするのとは違います。
 難解にあえて挑戦する勇気や努力、とぎすまされた意識の集中、再読三読をいとわぬ忍耐力……一つ一つが、人生の戦いそのものです。真実の充足感というものは、そうした苦しい戦いをくぐりぬけた末に得られるものとされてきました。
 「見ること」は刹那的であり、「読むこと」は永続性があります。
 リハーノフ かつて、私も訴えたことがあります。
 「悲しいことが一つある。図書館から人がいなくなっていることである。人々が大勢集まってくるのは、学生の試験期間中と入学試験の時だ。多くの賢明なる思想が、本棚で、受け取ってくれる人もなく、読まれずにほこりをかぶっているのだ」(前掲『若ものたちの告白』)と。
 この傾向は、近年、ますますひどいようです。
 池田 日本も同じです。利便と効率、快適さを追うことにもっぱらであった近代の技術文明は、易きにつこう、楽をしようという人間の劣性におもねり、困難や労苦を避けることばかりに目を向けてきました。
 その結果、「善く生きる」というソクラテス以来の命題は、「快く生きる」という快楽主義のなかへと矮小化され、ダイジェスト(要約)本の横行するなか、“読書百遍、意おのずから通ず”などという格言は、ほとんど死語と化しつつあります。
 リハーノフ おっしゃるように対話のない説教、これも大衆操作の武器の一つです。もしも聞き返すことも許されず、厳格に教義として唯一正しい思想として受け入れることを要求されるならば、人間は足枷をはめられた状態となってしまいます。そのような抑圧に対してどのように抵抗していけばいいのでしょうか。
 池田 しかし、だからこそ私は、小細工を弄さずに、その風潮に対して「テレビにはスイッチがある」と言いきっていかなければならないと思います。すべてはそこから始まり、そこに、マス・テクノロジーの弊害を克服しゆく王道があると思うからです。
 テレビを前に漫然と流されていくだけの気楽な受動性や怠惰と訣別していく意志力、主体性、能動性をみずから示し、人々、とくに若い人たちや子どもたちに求めていかなければなりません。
 仏典に「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心」とあります。その意志的、主体的、能動的な生き方のなかにしか、本当の意味での生の手応え、喜びや充足感は得られないのだということを、誠実に訴え続けていくことこそ、何十年か早くこの世に生を享けたわれわれの責務ではないでしょうか。
 リハーノフ ロシアに“自分自身が、自分の幸福のかじ屋である”という言葉があります。
 われわれは、子どもたちを信じ、それこそ率直にメッセージを送り続けていくべきです。
 ――成熟のもつエネルギーは大きなもので、それは、行動に責任をとること、人格を形成する仕事を意味する。事は、一歩から始まるのだ。小さな一歩から、しかし、意味のある一歩から。君よ、歩き出さなければいけない。出口に向かって。少年時代から、人生に向かって歩きだすのだ――と。
 池田 「幸福のかじ屋」の格言は、貴国の文豪ショーロホフ氏とお会いした折、氏が強調していた忘れ得ぬ一言です。
 私の恩師も「若いうちの苦労は、買ってでもせよ」「苦難を避けるな」と、青年を薫陶されました。
 青年は積極的に何かに貢献し、また強く正義の心をもって建設していくのが、そのすばらしき権利であり、特質です。
 リハーノフ まったく同感です。
 もう一点申し上げれば、子どものすばらしい資質の一つに、「旅へのあこがれ」があります。
 その旅は隣の森でも近所の川でもいいわけです。しかし、今や川には濁った汚い水が流れており、森も汚れている。一方、テレビでは青々とした波やまぶしい緑が映しだされる。つまり、ニセの世界はいつでも現実よりきれいで快適で、画面上の旅は現実より何千倍も魅力的というわけです。
 運動能力というのは、子どもが歩いたり、走ったりする動きそのものに、茂みを通りぬけてみたいとか、流れの急な川を泳いで渡ってみたいという欲求が加わって、「能力」となっていくものです。ところが、それよりもテレビの前に座ってからだを動かさず、「行動」が感覚的体験だけに限られてしまう場合のほうが、多くなっているようです。
 早い話が、心が刺激されて心臓の鼓動は激しくなるけれども、手足やからだは動いていないのです。
 ここからはもう純粋に医学の分野になりますが、そのような子どもはバランスのとれた健康な人間には成長しません。これはたんなる想像で言っているのではありません。世界的な技術という圧力によって、押しつぶされてしまうのです。
 日本は、子どもが手足を動かさず、頭も想像力を働かせる必要のないさまざまな新技術がどこよりも豊富にありますから、このような落差はとくに大きいのではないでしょうか。
 それとも私は間違っているでしょうか。行動と思考のバランスがとれるようなものが、日本ではすでに発見されたのでしょうか。
 池田 「発見」どころか「思考と行動」とのアンバランスは、すでに危機的なラインに近づきつつあるといっても、決して過言ではありません。
 ロシアなどは、かの広大な国土に、大自然の原風景がいたるところに存在しているでしょうが、日本には、自然が本当に少なくなりました。
 あっても、開発された人工の自然である場合が多く、トム・ソーヤーや、ハックルベリー・フィンの「冒険」などに胸躍らせることも、今は昔の夢物語にすぎません。伝統を否定し、利便と効率、快適さのみを追い続けてきたことのしっぺ返しを、いちばん強烈に受けているのは、おそらく日本でしょう。
 それを端的に示しているのが、子どもたちの基礎体力の低下です。
 一九九六年、文部省(=現・文部科学省)が発表した「体力・運動能力調査」によると、十代の青少年の測定値が、ほとんどの部門で十年前を下回るという結果が出ていました。都市化、核家族化、少子化、受験地獄など、多くの要因が考えられます。
 物質的繁栄とは裏腹に、人類が五百万年かけて作り上げてきた生きる力――噛む力、視る力、歩く力等が、等しなみに弱まっているおかしな時代、危機的な状況にあると指摘する学者もいます。
4  文明の危機を警告する「生きる力」の衰弱
 リハーノフ 進歩はしばしば退化と堕してしまうことがあります。
 たとえば、モスクワでは、学校生徒のほぼ四人に三人が、標準体重よりもかなり下回っています。これは、食事の摂取量が足りないために起こったものです。
 また、九〇パーセントの子どもが何らかの病気にかかっています。
 これはすべて、国の改革が行われている時期に起こっていることなのです。いったいだれのための改革なんでしょうか。わかりません。わかっているのは、この改革が子どものためのものではないということです。
 池田 もしかすると、こうした子どもたちの「生きる力」の衰弱は、現代文明の危機を知らせる“坑道のカナリア”であると言えるかもしれません。
 子どもたちの生きる力を、どうつちかっていくか。たとえば、卓越した教育者であった牧口会長は、“半日学び、半日働く”「半日学校制度」を提唱しました。
 この学習生活を半日とすることは、創価教育学で説く合理的な教育方法によれば可能だというのが、牧口会長の主張でした。そして残りの半日、子どもたちが自主的に生産や社会活動に汗を流すのです。いわば、“学び、働く”ことによって、全人的な、生きる力の旺盛な成長発達を図ろうとされたのです。
 それゆえ、当時のいたずらに知識を詰め込むだけの、子ども不在の教育制度を厳しく批判し、それに起因する子どもたちの「心身の不均衡」「運動神経の萎縮」といった弊害は、現実社会に積極的に参加し、実地の経験を積むなかで解消できると訴えたのです。
 どこまでも、子どもたちが心身ともに健全に育ち、幸福に生きぬく力、希望の社会を切り開いていく力を育んでいく教育を、私どもはめざしていかなければなりません。
 リハーノフ 同感です。私も同じように警鐘を乱打し、教育のあるべき責任と使命を訴えていかなければならないと思っています。

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