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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 テレビ時代を生きる子らへの願い…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  「できあがった」ものだけを受け取る危険性
 リハーノフ あなたは有名な思想家であり、哲学者であり、また詩人でもいらっしゃいますが、今や本や文学といったものが、テレビなどの他の影響力のあるものに追いやられているというふうには思いませんか。
 池田 そう思います。私たちが子どものころは、箱入りの世界名作全集が、宝物のように本棚を飾っていました。今は、テレビゲームや塾に席巻され、すっかり影が薄くなってしまっています。
 日本でも、この十年ほど、小中学生向けの名作全集は、あまり出版されず、寂しいかぎりです。やはり、古典や名作といわれる“歯ごたえ”のある書物に挑戦していこうという意欲が、若い人たちには大切と思います。
 読書に限らず、“労せずして”何かを手に入れようとする易きに流されがちな傾向は、現代の文明病とも言えますが……。
 リハーノフ 同感です。
 たとえば、大衆音楽が大音量でけたたましいほどに、いたるところで、家の中でさえ絶えず流れているという状況があります。まがいものの音楽は麻薬のようなもので、慣れてしまうと、静寂や鳥の鳴き声などのよさがわからなくなってしまうのではないでしょうか。
 同じことがテレビにも言えます。テレビは読書から人を遠ざけ、「すでにできあがった」作り話を見せてくれます。画面に何でも映しだされるのですから、人間はもう自分で考え出したり、想像したりする必要もなくなってしまうわけです。
 池田 そうですね。たしかに今の子どもたちは、少なからずそういう環境のなかで、初めから育っていくわけです。
 リハーノフ 人間としての成長過程にある子どものゆりかごのそばにテレビがあると、世界を画一化し、「すでにできあがった」現実を見せて、子どもの成長を止めてしまうのです。その結果、子どもはテレビという怪物の犠牲となってしまいます。
 このようなマス・テクノロジー(大衆技術)は、表面的には文明性をよそおいながら、実際には人間の人格を貧困にし、画一的な意識を植えつけています。さらには、子どもたちが周りの世界について想像力をたくましくしたり、洗練された美的感覚をもてるような環境を壊してしまっているのではないでしょうか。
 池田 「すでにできあがった」ものがもたらすいちばんの弊害は、おっしゃるとおり、それが子どもたちの精神の内発的な働きを弱めて、想像力の健全なる発達の芽をつみとってしまう点にあります。
 古い民話やおとぎ話などは、想像力を育むものですが、「あかずきんちゃん」にしても「白雪姫」にしても、必ずと言ってよいほど、殺しやいじめなどの残酷なシーンが出てきますね。
 前にもお話ししたとおり、日本で、一時、それが、子どもたちの感情を刺激して、すこやかな成長を妨げるので、その部分を削除したり、マイルドにあらためようというような論議がありました。
 何とも安直で、軽はずみな発想と言わざるをえません。
 リハーノフ そうですね。これは大切な問題です。
 池田 少しでも自身を振り返ってみればわかるように、いじめや悪への衝動は、もともと人間生命の働きのなかに、本然的に具わっているものです。それを完全に取り除いてしまうことなどできはしません。
 仏法ではそれを「本有」(本来ありのままに存在すること)と呼んでおります。大切なことは、自己の内面を陶冶することです。換言すれば、暴れ馬のような暗い衝動に引きずられず、どう自分をコントロールするか、ということです。
 ゆえに、仏典には「おのれ自らをととのえよ。――御者が良い馬をととのえるように」(『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波書店)といった言葉が、しばしば語られているのです。
 リハーノフ それが、とりもなおさず、子どもが成長していくということですからね。真の意味で大人になっていくという。
 池田 ええ。その点をはきちがえて、“消毒ずみ”のものさえ与えておけば、暗い衝動を根絶することが可能であるというのは、錯覚と言えましょう。
 子どもをそのように外発的に教育しようとすること、またそれが可能であるかのごとく思い込むことは、ある意味では、子どもへの残酷な仕打ちであり、度しがたい大人のエゴイズムであることに気がつかない場合が多いのです。
 リハーノフ さらに付け加えて言えば、そういった親や教師は、予防注射は痛いから子どもにやってはいけない、と言うでしょう。つまり原因と結果が逆になってしまっているのです。
 このような「無菌性」という特徴は、わが国の一九三〇年代から六〇年代の文学、また文化全般において顕著でした。
 児童文学にあってはとくにそうでした。しかし、私はいたるところで子どもと「真実」の言葉で話そうとしてきましたし、何も隠そうとはしませんでした。
 池田 そうした総裁の尊いご努力は、よく存じ上げています。
 リハーノフ そのことに対して、規範主義派の批評家から一度ならず批判を受けました。
 これまでにも私たちが話してきたように、文学であろうと教育であろうと、タブーのテーマというのはありません。どんなに苦しいことでも、恐ろしいことでも話していいのです。
 ただし、それは二つの条件があります。第一にそれは、子どもによく説明し、第二に、子どもたちに希望をあたえていかなくてはいけないということです。
 池田 よくわかります。にもかかわらず、エゴイズムをエゴイズムとして直視しようとしない大人の“後ろ姿”に、子どもたちは偽善や自己欺瞞を、じつに敏感に感じとっていくのです。
 現代の日本で大きな社会問題となっている、いじめや家庭内暴力は、そのような「すでにできあがった」“消毒ずみ”の、一見するところ恵まれた環境に育った“よい子”が暗い衝動への免疫機能をもたないため、思春期を迎えるころになると、突如として暴発してしまうケースが大半のようです。
 テレビの場合は、内発性よりも、外発的な働きに偏する傾向は、より顕著でしょう。
 テレビというメディアが、現代社会におよぼす絶大な影響を考えれば、「すでにできあがった」ものが、子どもたちの内発的にして、健全なる想像力や美意識の発達を、いかに損なっているか――どんなに警告してもしすぎることはないと思います。
 リハーノフ もしそうであるならば、文化は、文学は、どうやって技術文化の侵略に対抗できるのでしょうか。これもやはり「文化」の一部にはちがいないわけですが。
 どうやって子どもを守り、善と悪を区別し、そしていちばん大事な「節度」という感覚を育てていけばよいのでしょうか。
 池田 かれこれ四十年近く前のことですが、日本でも、テレビの普及にともない、そのもたらす悪影響が論議され始めるようになったころ、ある識者が「テレビにはスイッチがある」という、意表をついた小文をものしたことがあります。
 ――テレビの低俗番組の、とくに青少年への悪影響が憂慮されているが、低俗の度合いから言えば、映画や雑誌など、よりひどいものがたくさんある。にもかかわらず、テレビ番組が問題視される最大の理由は、スイッチ一つで茶の間でも簡単に見られ、身をまかしてしまえる受動的な気楽さにある。低俗番組がよくないのなら、早い話が見なければよい。すなわち「テレビにはスイッチがある」のである。みずからスイッチを切るだけの意志力、主体性、能動性を身につけようとせず、ブラウン管の前での受動的な気楽さにひたっていては、テレビ文明の圧倒的な力に抗しうるはずがない。
 ――たしか、そのような趣旨だったと記憶しております。
 リハーノフ よくわかります。
 池田 私は、これは本質論であり正論だと思います。たしかに、一面から見れば、これが極論、理想論であることは、十分に承知しております。
 意志力といったところで、人間は誘惑には弱いものです。ともすれば楽をしよう、易きにつこうとするのは、古今変わらざる人間の性向といってよいでしょう。
 とくに子どもたちの場合、そうした諸悪に対して無防備で、かつ免疫性もないわけですから、家庭や社会の環境面からの対応、配慮が必要なことは、指摘するまでもありません。ブラウン管に、暴力や低俗な場面がしばしば登場するようなケースには、何らかの対応が必要なことは当然です。
 リハーノフ 大人でさえ、テレビのスイッチを切る意志力がないのに、子どもはさらに好奇心が旺盛です。怖いけれども興味津々なのです。
2  いちばん大切なものは人間のふれあいから
 池田 さらに総裁は、そうした低俗番組に限らず、一般の教養番組や教育的効果をねらったものであっても、テレビなどマス・テクノロジーのおよぼす効果について、深く憂慮されています。
 その点には、私もまったく同感です。したがって、視聴覚教育などにテレビ等の器機を利用するのはよいが、それらに頼りすぎるのは考えものであり、
 危険であるとさえ思っております。
 なぜなら、教育でいちばん大切なものは、教師と生徒との直接的なふれあいのなかでしか育まれないからです。
 プラトンが、ある書簡で精妙に語っています。
 「それ(=肝心の事柄)は、ほかの学問のようには、言葉で表現されえないものであって、むしろ、(教える者と学ぶ者とが)生活を共同しながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、突発的に、学ぶ者の魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自体が、それみずからを養い育ててゆくという、そういう性質のもの」(「書簡集」長坂公一訳、『プラトンⅡ』〈『世界古典文学全集』15〉所収、筑摩書房)である――。
 そうした魂と魂との打ち合いによる人間教育の成果は、テレビ等の器機に期待できるはずもありません。
 総裁が警鐘を鳴らしておられるのも、マス・テクノロジーを通じて形成される擬似体験が、真の体験――生身の人間の“汗”と“体温”を通してしか身につかないいちばん大切なもの、プラトン言うところの「肝心の事柄」――をおおい隠し、生きることのすばらしさ、喜びや悲しみを鋭く感じとっていく現実感覚を磨滅させてしまうことですね。
 リハーノフ どんな機械も一方通行の働きしかしません。ということは、ともすれば、圧倒的な力をもつことになってしまうのです。
 テレビを見ながら、画面に向かって反対を唱えることも抵抗することもできない。あるいは、テレビに対して聞き返すことも論争することもできません。好むと好まざるとにかかわらず、こういった最新の通信手段は全体主義的なものであると、私は言いたいのです。
 ドイツに見られたようなファシスト軍事政権による長期的な支配であるとか、弾圧による人心の操作などと、これでは同じようなものです。
 毎日、金槌で釘を打っていけば、どんなに固い木でも釘を打ちつけることができる。同じように、一方的にネガティブ(否定的)な思想を繰り返し植えつけていくことによって、それが意識の一部となり、習慣となり、あきらめと従順さを植えつけてしまうのです。
 池田 そうした恐れと可能性は、たしかにあると思います。ともあれ、若者が無気力、無関心、無感動になっていると言われるような社会は、健全ではありません。悪化していく一方です。
 リハーノフ まったく同感です。あなたへの「トルストイ国際金メダル」の授賞のために日本を訪問した折、楽しい、貴重な思い出の数々を刻ませていただきました。一切を終え、まさにモスクワへ帰国のその当日(一九九五年三月二十日)、あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起きたことは忘れられません。
 池田 そうでしたね。人々を震撼させたのは、あの凄惨な事件を起こした若者たちが、人の生命を奪うことを、いとも簡単に考えていたことです。
 何とも、人間としてのリアリティー(現実感)が稀薄というか、欠落している点で、あなたのおっしゃる「すでにできあがった」世界そのものです。それは、幼少のころからテレビなどを通じて接してきたバーチャル・リアリティー(仮想現実)と、決して無関係ではないはずです。
 人間同士が殺し、殺されることの痛みや苦しみ、悲しみなどをまったく共有できない彼らは、生きた現実から遮断されたところで、想像力ならぬ空想力を膨らませているのです。その意味では、テレビ世代が生み落とした“申し子”なのかもしれません。
3  テレビを見て、体を動かさない子ども
 池田 そこで、テレビ時代の象徴的なことは、ひと時代前までは、青春時代の必読書といわれた名作ものの読書体験が、少なくなっていることです。
 言うまでもなく、古典に取り組むのは、気楽にブラウン管を前にするのとは違います。
 難解にあえて挑戦する勇気や努力、とぎすまされた意識の集中、再読三読をいとわぬ忍耐力……一つ一つが、人生の戦いそのものです。真実の充足感というものは、そうした苦しい戦いをくぐりぬけた末に得られるものとされてきました。
 「見ること」は刹那的であり、「読むこと」は永続性があります。
 リハーノフ かつて、私も訴えたことがあります。
 「悲しいことが一つある。図書館から人がいなくなっていることである。人々が大勢集まってくるのは、学生の試験期間中と入学試験の時だ。多くの賢明なる思想が、本棚で、受け取ってくれる人もなく、読まれずにほこりをかぶっているのだ」(前掲『若ものたちの告白』)と。
 この傾向は、近年、ますますひどいようです。
 池田 日本も同じです。利便と効率、快適さを追うことにもっぱらであった近代の技術文明は、易きにつこう、楽をしようという人間の劣性におもねり、困難や労苦を避けることばかりに目を向けてきました。
 その結果、「善く生きる」というソクラテス以来の命題は、「快く生きる」という快楽主義のなかへと矮小化され、ダイジェスト(要約)本の横行するなか、“読書百遍、意おのずから通ず”などという格言は、ほとんど死語と化しつつあります。
 リハーノフ おっしゃるように対話のない説教、これも大衆操作の武器の一つです。もしも聞き返すことも許されず、厳格に教義として唯一正しい思想として受け入れることを要求されるならば、人間は足枷をはめられた状態となってしまいます。そのような抑圧に対してどのように抵抗していけばいいのでしょうか。
 池田 しかし、だからこそ私は、小細工を弄さずに、その風潮に対して「テレビにはスイッチがある」と言いきっていかなければならないと思います。すべてはそこから始まり、そこに、マス・テクノロジーの弊害を克服しゆく王道があると思うからです。
 テレビを前に漫然と流されていくだけの気楽な受動性や怠惰と訣別していく意志力、主体性、能動性をみずから示し、人々、とくに若い人たちや子どもたちに求めていかなければなりません。
 仏典に「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心」とあります。その意志的、主体的、能動的な生き方のなかにしか、本当の意味での生の手応え、喜びや充足感は得られないのだということを、誠実に訴え続けていくことこそ、何十年か早くこの世に生を享けたわれわれの責務ではないでしょうか。
 リハーノフ ロシアに“自分自身が、自分の幸福のかじ屋である”という言葉があります。
 われわれは、子どもたちを信じ、それこそ率直にメッセージを送り続けていくべきです。
 ――成熟のもつエネルギーは大きなもので、それは、行動に責任をとること、人格を形成する仕事を意味する。事は、一歩から始まるのだ。小さな一歩から、しかし、意味のある一歩から。君よ、歩き出さなければいけない。出口に向かって。少年時代から、人生に向かって歩きだすのだ――と。
 池田 「幸福のかじ屋」の格言は、貴国の文豪ショーロホフ氏とお会いした折、氏が強調していた忘れ得ぬ一言です。
 私の恩師も「若いうちの苦労は、買ってでもせよ」「苦難を避けるな」と、青年を薫陶されました。
 青年は積極的に何かに貢献し、また強く正義の心をもって建設していくのが、そのすばらしき権利であり、特質です。
 リハーノフ まったく同感です。
 もう一点申し上げれば、子どものすばらしい資質の一つに、「旅へのあこがれ」があります。
 その旅は隣の森でも近所の川でもいいわけです。しかし、今や川には濁った汚い水が流れており、森も汚れている。一方、テレビでは青々とした波やまぶしい緑が映しだされる。つまり、ニセの世界はいつでも現実よりきれいで快適で、画面上の旅は現実より何千倍も魅力的というわけです。
 運動能力というのは、子どもが歩いたり、走ったりする動きそのものに、茂みを通りぬけてみたいとか、流れの急な川を泳いで渡ってみたいという欲求が加わって、「能力」となっていくものです。ところが、それよりもテレビの前に座ってからだを動かさず、「行動」が感覚的体験だけに限られてしまう場合のほうが、多くなっているようです。
 早い話が、心が刺激されて心臓の鼓動は激しくなるけれども、手足やからだは動いていないのです。
 ここからはもう純粋に医学の分野になりますが、そのような子どもはバランスのとれた健康な人間には成長しません。これはたんなる想像で言っているのではありません。世界的な技術という圧力によって、押しつぶされてしまうのです。
 日本は、子どもが手足を動かさず、頭も想像力を働かせる必要のないさまざまな新技術がどこよりも豊富にありますから、このような落差はとくに大きいのではないでしょうか。
 それとも私は間違っているでしょうか。行動と思考のバランスがとれるようなものが、日本ではすでに発見されたのでしょうか。
 池田 「発見」どころか「思考と行動」とのアンバランスは、すでに危機的なラインに近づきつつあるといっても、決して過言ではありません。
 ロシアなどは、かの広大な国土に、大自然の原風景がいたるところに存在しているでしょうが、日本には、自然が本当に少なくなりました。
 あっても、開発された人工の自然である場合が多く、トム・ソーヤーや、ハックルベリー・フィンの「冒険」などに胸躍らせることも、今は昔の夢物語にすぎません。伝統を否定し、利便と効率、快適さのみを追い続けてきたことのしっぺ返しを、いちばん強烈に受けているのは、おそらく日本でしょう。
 それを端的に示しているのが、子どもたちの基礎体力の低下です。
 一九九六年、文部省(=現・文部科学省)が発表した「体力・運動能力調査」によると、十代の青少年の測定値が、ほとんどの部門で十年前を下回るという結果が出ていました。都市化、核家族化、少子化、受験地獄など、多くの要因が考えられます。
 物質的繁栄とは裏腹に、人類が五百万年かけて作り上げてきた生きる力――噛む力、視る力、歩く力等が、等しなみに弱まっているおかしな時代、危機的な状況にあると指摘する学者もいます。
4  文明の危機を警告する「生きる力」の衰弱
 リハーノフ 進歩はしばしば退化と堕してしまうことがあります。
 たとえば、モスクワでは、学校生徒のほぼ四人に三人が、標準体重よりもかなり下回っています。これは、食事の摂取量が足りないために起こったものです。
 また、九〇パーセントの子どもが何らかの病気にかかっています。
 これはすべて、国の改革が行われている時期に起こっていることなのです。いったいだれのための改革なんでしょうか。わかりません。わかっているのは、この改革が子どものためのものではないということです。
 池田 もしかすると、こうした子どもたちの「生きる力」の衰弱は、現代文明の危機を知らせる“坑道のカナリア”であると言えるかもしれません。
 子どもたちの生きる力を、どうつちかっていくか。たとえば、卓越した教育者であった牧口会長は、“半日学び、半日働く”「半日学校制度」を提唱しました。
 この学習生活を半日とすることは、創価教育学で説く合理的な教育方法によれば可能だというのが、牧口会長の主張でした。そして残りの半日、子どもたちが自主的に生産や社会活動に汗を流すのです。いわば、“学び、働く”ことによって、全人的な、生きる力の旺盛な成長発達を図ろうとされたのです。
 それゆえ、当時のいたずらに知識を詰め込むだけの、子ども不在の教育制度を厳しく批判し、それに起因する子どもたちの「心身の不均衡」「運動神経の萎縮」といった弊害は、現実社会に積極的に参加し、実地の経験を積むなかで解消できると訴えたのです。
 どこまでも、子どもたちが心身ともに健全に育ち、幸福に生きぬく力、希望の社会を切り開いていく力を育んでいく教育を、私どもはめざしていかなければなりません。
 リハーノフ 同感です。私も同じように警鐘を乱打し、教育のあるべき責任と使命を訴えていかなければならないと思っています。

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