Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三章 教育と文化の花開かせる“祈り”…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

前後
6  人間教育の基本に「祈り」の復権を
 池田 では、どうすればよいのでしょうか。古きよき時代に帰れ、といくら呼号しても、叶わぬ夢でしょう。また、そうした復古主義が、さして生産的とも思えません。
 唐突に聞こえるかもしれませんが、私は、ここでは「祈り」ということを、文化のかたち、様式の根底に復権させることから始めてはどうか、と提案したいと思います。
 「祈る」ということは、言葉以前の、またあらゆる価値観の相違を超えた、人間であることの原初的な行為のかたちであり、美しさではないか、と信ずるからです。
 ちなみに、総裁は日本語の漢字についてふれられましたが、「躾」という漢字は“身体”の“美しさ”、つまり、行為のかたちを意味しています。
 そして、現代は、何よりも「祈り」を忘れた時代であり、そこから、現代人の迷妄、傲慢さや思い上がりも生じているようにも思います。
 リハーノフ 社会主義が失敗したいちばんの原因も、その傲慢さ、思い上がりにあると思います。
 池田 自分が、すべてを思いどおりになしうるのではなく、有限な自己を超え、自己をつつみ、生かしめている“永遠なるもの”“大いなるもの”への感謝、そして敬虔なる「祈り」こそ、古来、人間を人間たらしめ、文化を文化たらしめてきた基調音と言ってよい。
 身近に例をとれば、あなたの作品『けわしい坂』で、戦争中、赤貧洗うがごとき生活に追いうちをかけるように、泥棒に家じゅうを荒らされたとき、主人公の少年に「おばあちゃん」が語るすばらしいセリフがあります。
 「背広はまたかせげばいいんだよ!」
 「肝心なことは、(=父さんが)生きていてくれること。背広はまたつくればいいんだよ。一着だって二着だってつくれるよ。たいしたことじゃないじゃないか。そのならず者たちは、ひどい目に会うがいい。神さまがこらしめてくださるよ。神さまは、なんでも見ておいでだよ!」(島原落穂訳、童心社)リハーノフ『けわしい坂』は、子どもの生きていく人生の道に、どんなけわしい坂があるか、そのけわしい坂を乗り越えようとして、自分の弱点を乗り越えることを覚える。それがどんなに大切なことかを描いたものです。その中で、「おばあちゃん」は「父さん」とならんで、重要なキャスト(登場人物)を構成しています。
 池田 まさに「祈り」を背景にしなければ、ありえない言葉です。トルストイの理想主義、透徹した児童観、教育観も、人間を人間たらしめる祈りを根底にした宗教的信念に裏打ちされていたにちがいないと思うのですが、どうお考えですか。
 リハーノフ ご存じのとおりトルストイは晩年、教会から破門されていますが、彼は、本当の信仰者であったと思います。トルストイの偉大なる著作やエネルギッシュな教育活動は、本質的に見て彼が子どものころからやめることのなかった人間のためのたゆまぬ祈り、そのものであったと言えるでしょう。
 アナーキスト(無政府主義者)を除いたあらゆる派閥のロシア・インテリゲンチアにとって、トルストイは世代を超えて、到達不可能な頂でありました。
 この偉大なる賢人は、文学工場とも呼べるほどの仕事ぶりで、九十巻もの本を著しています。
 それはどれも、人間の心に宿る“神”を求めて苦しみぬいた祈りであり、人間そのもの、人間の心、人間の行動、愛情、清らかさ、それらすべてを含めた祈りなのです。
 池田 よくわかります。フランスの作家シャルル・ペギーの「教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」という言葉を想い起こすならば、「祈り」こそ、広く人間教育という営みの基本のところに据えられるべきであり、そこに、民族固有の文化の差異を止揚した人類文化、地球文明構築への第一歩が開けていくと思うのです。

1
6